深川の田巻屋本店です。「深川江戸資料館通り」にあります。創業大正13年の老舗です。
本来は着物屋だけど、今は雑貨屋です。
今日(今年?)の暖簾は「ちのいたま」です。
歩道も店舗です。
深川は松尾芭蕉が暮らした場所です。
私の目当ては、蕎麦屋です。
田巻屋の向かいです。
創業大正6年の老舗です。
今月の予定です。元より営業日は少ないです。
しかも、よく臨時で休みます。カレンダーの予定はアテになりません。
深川の田巻屋本店です。「深川江戸資料館通り」にあります。創業大正13年の老舗です。
本来は着物屋だけど、今は雑貨屋です。
今日(今年?)の暖簾は「ちのいたま」です。
歩道も店舗です。
深川は松尾芭蕉が暮らした場所です。
私の目当ては、蕎麦屋です。
田巻屋の向かいです。
創業大正6年の老舗です。
今月の予定です。元より営業日は少ないです。
しかも、よく臨時で休みます。カレンダーの予定はアテになりません。
江戸川区を走っていたら遭遇しました。在る、ことは知って聞いていましたが、探したことはありません。出遭ったら、それはそれで嬉しいです。
周辺を眺めます。正面の中空は、「首都高中央環状線」です。左の坂は、「清新町出口」です。
そこに、地上に出ている「地下鉄東西線」が被ります。
中央の黒い塊が「旧葛西海岸堤防」の一部です。史跡として残したものでしょう。ここが昔の海岸線です。
海側を見ます。左に在る大きな団地が、「清新町」です。首都高の出口の名称はここから来たものです。埋立地です。ずっと南下して、清新町も「ロッテ葛西ゴルフ場」も「首都高湾岸線」も、あの広い「葛西臨海公園」も越えて、約2.5km先まで行かないと海に出られません。
ずいぶん埋め立てたものですねえ。
霊巌寺の正月風景です。松平定信の墓が在ります。
この界隈に相撲部屋が散在しています。
錣山部屋です。いつも門松は出しません。
こんなことを始めたんですね。親方が変われば部屋が変わります。現在の親方は、元小結豊真将です。部屋頭は小結阿炎です。1度優勝したけど、後輩に追い越されています。
大嶽部屋に門松は有りません。喪中でしょうか?
ここは横綱通りです。
高田川部屋です。
そして、深川稲荷神社です。
深川七福神の一社です。
そこに有る昭和の大横綱大鵬の名前です。
中村部屋です。元関脇嘉風が師匠です。
元陸奥部屋でした。昨年転居したので、今年が中村部屋になって初めての正月です。十両に嘉陽と友風の関取が居ます。これから期待できる部屋です。
時津風部屋はいつもこうです。角松はありません。
双葉山ゆかりの名門部屋です。時津風一門のトップですが、最近低迷しています。部屋頭の正代が大関復帰しそうにないし。
でも、勝手口は正月風景です。
もうすぐ初場所です。琴櫻と豊昇龍の横綱取りの場所です。豊昇龍が優勝して、琴櫻が13勝以上で準優勝したら、同時昇進もあります。一人横綱の照ノ富士の体はもう限界です。新しい横綱が欲しい相撲協会です。
待ったをかける力士が多士済々です。伊勢ヶ濱部屋に、熱海富士に尊富士。当然、照ノ富士が居ます。二所ノ関部屋には、近いうちの横綱と言われている大の里。
荒汐部屋には、横綱にはなれないけど、次の大関候補の若元春と若隆景が場所を盛り上げます。体を大きくして横綱を目指してもらいたいです。
さあ、初場所が楽しみです。
小名木川の上から眺める、隅田川に架かる清洲橋です。この橋の風景が「ケルンの眺め」と言われています。
小名木川に架かる萬年橋です。葛飾北斎は萬年橋の下に富士山を描きました。
萬年橋の坂を下った所に稲荷神社が存ります。芭蕉稲荷神社です。艶やかに幟が靡きます。正月風景です。ここに松尾芭蕉が暮らしていました。芭蕉庵史跡です。
芭蕉が暮らした家の跡が稲荷神社になっています。
狭いです。
正月休みの西濃運輸の出荷場前です。壮観です。
左側の施設が建て変わりました。こうして並ぶ初めての正月です。
正月ならではの風景です。
次はこちら側の建て替えでしょうか?
労働環境が厳しい職場です。骨休みしてください。
明けましておめでとうございます。昨年入院した私から、皆様のご健勝をお祈りします。そして、ウクライナに、ギザに、世界に平和の到来を祈念します。 例によって寝正月です。正月風景が無いので、年末風景を報告します。アメ横です。
カニの有名店です。ここからいくら迄値切れるか勝負です。
マグロが売り切れです。例年より財布のよう紐が緩いように思います。
例によってTVの撮影に遭遇です。
YVで一度はご覧になったっと思います。チョコレートの叩き売りです。外国人にも有名です。
説明抜きでお送りします。
円安もあって、外国人に人気らしいです。
インフルもコロナもマイコプラズマ肺炎も関係ありません。「押すな押すな」の混雑です。
ガード下に逃げます。
ガード横は相変わらずです。
良いお年を。
浅草寺です。
すき焼きの浅草今半です。
乙女稲荷社の鳥居の新調が間に合いました。やっぱり背が低くなりました。座らないと社殿が鳥居に入りません。
谷中の寺町です。
こちらは寺町のホテルです。
幼稚園も。
庭の掃除中です。準備の仕上げです。
上野駅です。
立石仲見世商店街。
梅の花ですね。下町だから、商店街組合が活動しているから、こういった結び方が伝承されているのでしょうね。
一方相撲部屋。伊勢ヶ濱部屋は、例年のお飾りは出したが、室内は大掃除中です。
こちら、荒汐部屋は、大掃除の真っ最中です。
後援会等の行事で忙しいのでしょう。
根津教会です。
キリスト教なので。
皆さん良いお年を!
何処に居るのか分かりません。下町で迷っています。
物干しにいっぱいの干し柿です。下町らしい光景です。
突き当たりは寂れた商店街でした。右に曲がります。
あっ! そこに「千代の湯」です。久しぶりです。さっきの角を左に曲がったら出逢えませんでした。路地散策の楽しさです。
見上げる看板です。何年ぶりだろう? よくぞ営業を続けて頂きました。
年末年始の営業スケジュールです。
お約束のコインランドリー併設です。注意書きが有ります。コインランドリーではペットは洗えません。・・・注意するくらいだから、洗う人が居たのでしょうね。ホントに?
お湯の説明板が有ります。・・・読めません。
2階以上が共同住宅のようです。もう、この形態じゃないと、銭湯経営は難しいみたいです。
あ、ここにもお湯の説明板が有ります。・・・隠れた部分があって、よく分かりません。銭湯は常連客が多いので、もう皆んな知っているでしょうね。
再び看板を見上げて退出します。
角を曲がったら、こちらも寂れた商店街でした。
そこから千代の湯の煙突が見ました。
ここに、廃業した店舗です。
下町らしい光景です。何屋だったのだろう?
反対側へ行きます。角から見る、三度目の看板です。
次はいつ遭えるだろうか?
何度かトイレを使っただけで、中まで入った事はありません。今日の目的地です。坂の上に老人ホームが在ったりして、広大な公園は有事の際の避難場所でもあります。
これは、幾つか有る災害時対応施設の一部です。「防災パーゴラ」です。災害時に、屋根にテントを張ります。「パーゴラ」との名称を初めて知りました。そして、このような施設とアイデアを初めて知りました。
「まちのうつりかわり」の説明です。ここにも下瀬氏が開発した火薬の説明が有りました。日露戦争に使われて、世界の注目を集めた、との記載も有ります(司馬遼太郎氏は小説を書くに当たって念入りに調査した、と聞いています。「坂の上の雲」でもその行動に裏付けられた描写になっています)。
また、海軍火薬製造所が移転した後、昭和19年に東京外語大学が一橋から移転して来て、平成12年に府中市に移転した旨も記載されています。更に、東京外語大学の府中市移転に際して、キャンパス跡地を「防災公園」とした旨も記載されています。
ちょっと変わったベンチです。これは時々各所の公園で見ます。
名残りの紅葉です。真ん中は、今は枯れていますが、谷川です。上の公園と繋がっています。
広大な公園です。ここと上と、全てが東京外語大学の敷地だったのでしょうか?
周辺は、私がよく行く下町です。
もう商店街の名残りしかありません。
角を曲がると、これが商店街のメイン通りの端っこです。ソメイヨシノ発祥の地の「染井商店街」に続きます。
「西ヶ原銀座商栄会」です。
その角っこに、「西谷戸新道」の表示があります。
栄えた商店街を彷彿とさせます。昭和は遠くなりにけり、です。
別用があって通り掛かりました。坂の下り口に説明板が有ります。何度も通った路です。いつもは下り坂に向かう勢いで素通りしていました。
読みます。「下瀬坂 この坂名は、明治32年(1899)、ここに設けられた「海軍下瀬火薬製造所」に由来します。戦前に製造所は舞鶴(京都府)へ移転し、跡地は東京外語大学のキャンパスとなりました(現在は移転)。このあたりは、江戸時代に幕府の御薬園があり、谷田川の水源となる湧水もありました。」
この説明が、長年何かのきっかけの度に思い出していた記憶にジャストミートしました。ちょうど今、NHKで「坂の上の雲」が再放送されています。小説を読んだのは30歳代の初めでした。色々なシーンが記憶に残っていますが、「下瀬火薬」も印象深く残っています。
「バルチック艦隊との戦いで使用された日本海軍の砲弾は、諸外国のそれのように、鋼板を貫通して内部で爆発させるのではなく、甲板で破裂して高温の炎を発し、一面を焼き払って兵を焼死させ、戦闘能力を奪うことを目的としていました。その敏感さたるや、海面に当たっても爆発して高熱を発する」と記憶しています。凄いな、と思いました。酷いな、とも思いました。財力に乏しい開花期の日本が発明した弾薬です。 ここが、その火薬を発明した場所だったのです。記憶が現地と繋がりました。
引き返して周辺を探索します。今日の目的にも叶うと思いました。広場が在ります。初めて踏み入れます。敷地が土じゃない公園です!
「西ヶ原みんなの公園」です。
ここに、「東京外語大学西ヶ原キャンパ跡地」の石碑が有ります。つまり、この界隈が「海軍下瀬火薬製造所」の在った場所です。
向かいには、「武蔵野学院」が在ります。下瀬火薬製造所が在った場所は、その道路のこちら側だと思います。
坂に向かいます。この辺りも製造所の敷地だったのではないでしょうか?
現在は「飛鳥晴山苑」という老人ホームです。
隣は「高齢者あんしんセンター」です。「下瀬の小径」との表示が有ります。後で知ったのですが、この先にエレベーターがあって、下の公園(西ヶ原みんなの公園)と繋がっています。構造的に、下が公園の中心地です。
高齢者あんしんセンターの前を坂に向かいます。
下瀬坂を、スピードに乗って下りました。
坂の下は広い公園です。
広大な「西ヶ原みんなの公園」です。時々、トイレを使います。
この話、続きます。
いつものとおり静寂の場所です。東京大学農学部のキャンパスです。
今日のメニューです。最近メニュー編成が変わりました。料理の種類が少なくなっています。
まあ良い。この庭の風景が好きです。
東門脇の銀杏が散り残っています。黄葉が鮮やかです。
庭に降ります。
ここは寮の跡地です。
綺麗に下草が刈られていました。とても歩きやすいです。
敷地の向こうは、東京大学野球部のグラウンドです。
建物を眺めます。
蔦が素敵です。これを観に来ました。
隣の大木に絡みついた蔦はまだです。2週間くらい後に再度訪問しましょう。
東門です。インターホンを押すと、レストランから開けてもらえます。
扉の先は「異人坂」です。
本郷三丁目の交差点です。信号待ちなどの時、とにかく目立ちました。私が知っている限り、もう20年以上シャッターが降りたままでした。むしろそれが当たり前でした。
それが、どや焼きを売っているではないですか!? びっくりです。
「丹波やながわ」の看板が有ります。創業明治25年の老舗らしいですが、私は知りません。丹波だったら、名産の黒豆の餡子でしょうか?・・・胃もたれしそうだな。
「兼康祐悦という口中医師が、乳香散という歯磨粉を売り出した。大変評判になり、客が多数集まり祭りのように賑わった。(御府内別歩による) 享保15年大火があり、防災上から町奉行(大岡越前守)は三丁目から江戸城にかけての家は塗屋・土蔵造りを奨励し、屋根は茅葺を禁じて瓦で葺くことを許した。江戸の街並みは本郷迄瓦葺が続き、それからの中仙(中山)道は板や茅葺きの家が続いた。 その境目の大きな土蔵のある『かねやす』は目だっていた。『本郷もかねやすまでは江戸の内』と古川柳にも歌われた由縁であろう。
柴神明前の兼康との間に元祖争いが起きた。時の町奉行は、本郷は仮名で芝は漢字で、と粋な判決を行った。それ以来本郷は仮名で『かねやす』と書くようになった。」 -郷土愛をはぐくむ文化財 - 文京区教育委員会 昭和61年3月
こんな由緒ある「かねやす」に店を出した「丹波やながわ」は天晴れです。1等地です!
従前のかねやすです。ずっとテナント募集していたんですね。(2017年8月)
根津神社西参道へ行きます。
おっ! 鳥居が朱色になっています。
鳥居の上部を銅板で葺いています。思わず声を掛けます。「正月に間に合ったね」忙しいのに、手を止めずに答えてくれます。「はい」「以前より鳥居が低くない?」「そうですか?気のせいだと思いますよ」気が散るのでしょう、素っ気ないです。
乙女稲荷社が艶やかです。
池は落ち葉で真っ黄色です。
乙女稲荷社は七五三参りのようです。遅いお参りを今でも見かけたます。子供や両親及び祖父母のスケジュール合わせが大変ですね。
透かし塀に冬日が注ぎます。
陽が射しても寒い東京です。
根津神社の舞殿です。銀杏がすっかり落葉しています。日当たりが良い場所です。
ちょっと覗く楼門の向こうは、名残の黄葉です。
いつものアングルです。
楼門です。
舞殿から見る手水舎。
唐門です。
唐門と手水舎。
楼門と名残の黄葉です。
落葉した銀杏です。
本格的な冬が来ました。