主はモーセを呼び、会見の天幕から彼にこう告げられた。
「イスラエルの子らに告げよ。あなたがたの中でだれかが主にささげ物を献げるときは、家畜の中から、牛か羊をそのささげ物として献げなければならない。(1~2)
献げものは主が命じられたものでなければならない。たとえ人が命を捧げようとも、それは神の御前には汚れているからである。神に受け入れられる献げものは、すべて従順によるものである。
主は、全焼のささげ物やいけにえを、主の御声に聞き従うことほどに喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。(Ⅰサムエル15:22)
そのささげ物が牛の全焼のささげ物である場合には、傷のない雄を献げなければならない。その人は自分が主の前に受け入れられるように、それを会見の天幕の入り口に連れて行き、
その全焼のささげ物の頭に手を置く。それがその人のための宥めとなり、彼は受け入れられる。(3~4)
主は傷の無いものを献げよと言われる。人には完全な信仰をささげることは不可能である。ただ、キリストのうちに在ってささげられる時、すべて完全無欠な献げものとなるのだ。
それは主が準備してくださった恵みであり、それは人の嘆きを宥めて、絶えざるお交わりに与らせる憐みの備えである。
そのときキリストの御手が私たちの上に置かれて、あがないを証してくださるのである。
その若い牛は主の前で屠り、祭司であるアロンの子らがその血を携えて行って、会見の天幕の入り口にある祭壇の側面にその血を振りかける。(5)
血は命であり、動物の血は人の罪の代価として身代わり支払う命である。神は聖であり罪を見過ごすことは出来ず、罪は命を支払うことによってのみあがなわれるからである。
初めに流された動物の血は、アダムの罪の身を覆うために神が準備してくださった、彼らの腰を覆う毛皮であった。
今私たちは、キリストが十字架で流してくださった聖なる血によって、過去、現在、未来のすべての罪をあがなわれている。キリストがただ一度十字架で完全な献ものとなって、人類の罪の代価を支払ってくださったのである。
キリストを信じたとき、キリストのうちに在って十字架で屠られ、キリストの復活によってよみがえらされ、新しくされたのである。この救いこそ、人類を唯一罪の滅びから救い出す神の備えである。
祭司であるアロンの子らは、その切り分けた各部と、頭と脂肪を祭壇の火の上の薪の上に整える。
内臓と足は水で洗う。祭司はこれらすべてを祭壇の上で焼いて煙にする。これは全焼のささげ物、主への食物のささげ物、芳ばしい香りである。(8~9)
イエスは十字架に渡される前夜に、弟子の足を一人ひとり洗われた。足には踏んできた世の記憶が刻まれている。イエスは足を洗われた者は全身がきよいと言われ、互いの足を洗い合うように命じられた。
主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。(ヨハネ13:14)
それは、罪を歩いた記憶を洗い合うことである。責め合う者ではなく、もう全身きよい者であることを互いに確認し合うのである。
それはサタンが罪を訴えて、キリストのあがないを揺さぶられないためであり、教会を守って互いにみことばに安息し、力を合わせ主のわざを成すためである。
人は誰も世を歩んで来た者であり、皆キリストの十字架の血潮によって洗われ聖くされ、ただ信仰によって神の子とされたのである。
汚れていた足を主の血潮に洗われた者が、その記憶のすべてを聖霊に焼き尽くされる時、神を喜ばせる香ばしい香りの献げものとされるだろう。