3人でダベンジャーズ ~ふかづめ不在回~
2024年。ルカ・グァダニーノ監督。ゼンデイヤ、ジョシュ・オコナー、マイク・ファイスト。
テニスする。略してテニする。
そして栄光を手にする。
はーいどうもやろうねー。
なんか令和つまんねーんだよね。
令和入ってから調子悪ィわ~、すべてが。
おれが令和不適合者なだけなのかもしらんが、なんか令和ってしょうもなくね。
令和の流行り、価値観、社会情勢など、なんか全てにおいてあんま好きじゃないわ。令和の髪型とか。Z世代とか。SNSとか。映画も。多様性も。
令和、飽きた。
総じて「うるせえ」ってことが増えたよね。ポリコレうるせえ。凡人どもの承認欲求うるせえ。「炎上」という概念自体うるせえし、つまんねえ。
やめた。合わねえわ。
ちゅこって、平成続けまァす。
平成は31年までで、今は令和6年だけど、知ったこっちゃあるか。おれの中では今現在、平成37年でちゅん。
みたいなポリスィを持つ人間も、令和にはいないよね。
正味、Show Me、なんで令和の子たちって、みんな同じ顔してるの。ファッションによる画一化? 韓流による没個性化? わかんねーけど、皆おんなじ、コピペしたような、初期アバターみたいな、一昔前で言うところの量産型? みたいな顔して、街角ですぐテックトック撮って。
何してますのん、あれ。スマホカメラの前で、ちょけたダンス踊って。なんか無性にど突きたい。「米食え!」と言いながらど突きたい。たぶん米を食ってないんだと思う。米を食ってないから、すぐ街角でちょけたダンス踊ってテックトックを撮るんだと思う。
でも、ど突いたら逮捕されるから、ど突かない。遠目から「栄養失調か」と叫ぶことしか、おれにはできないんだ。
ひどいことを言って、すまないと思う。
でも、すむと思う。
令和の楽しい生き方を、誰かおれに教えてほしいとおもう!
今日は、まあ、こんな感じですね。最大の手抜きとしての前書き。
先月ようやく冬用の毛布を出しました。ぬくくて、たいへんよいと思った。
そんなわけで本日は『チャレンジャーズ』です。今日はふかづめ不在なので、あいつらに任す。
◆久闊を叙す ~リユニオン鼎談~◆
カモォ~ン、おまえたち~~。
キャサリン・キャサリン・ランデブーよ!
どう思う!? おまえたち~。
約4年ぶりの登場だから、その間にシネトゥの読者になった人々は「誰リン・誰リン・ナンダブー」って思ってるかもしれないけど、そう思ってるならそう思っとけ!
踏んづけてやるんだからこの誇り高きヒールで!!!
キャサリン・キャサリン・ランデブー
すべてが謎に包まれた妖しき女。血の気が多い。
誇り高きヒールで読者を踏んづけてはならないぜ、キャサリン。
初めまして in the case of 初めまして。インタビュアー純だよ。
オレたちはふかづめのイマジナリーフレンドっていうか、ふかづめの別人格を擬人化したような存在なんだ。『インサイド・ヘッド』(15年) みたいなもんだと思ってもらえればいいさ。
でも、今日はオレたちだけか…。
ワチュゴナドゥーする?
インタビュアー純
ジャーナリズムの塊。インタビュー以外に取り柄なし。
うん! 元気っちゃあ元気です!
みなさん、息災ですね! 元気100パーセント坊ちゃんこと、元気100パーセント坊ちゃんです。
今日はふかづめさんが息災じゃないということで、息災の僕たち3人で『チャレンジャーズ』の評をしたためて参りますよ。これもまたチャレンジ。ある意味、僕たちこそがチャレンジャーズ。
そういう読みも、可能です。
元気100パーセント坊ちゃん
虫をよく殺す。名前と裏腹に元気キャラではない。
お久しブリトニー・スピアーズ。ご無沙汰だったわね。純、坊ちゃん。
久しぶり過ぎて、このノリっていうか、オレたちの設定を知ってる読者がどれだけいるのか知れたものじゃない。
再登場までに4年も空いたのは、ふかづめが僕たちの設定を持て余したからだというよ。
もともとオレたちは、ふかづめの抑圧された人格の分身として擬人化された存在で、キャサリンは『なりふり構わず感情のままに映画を語りたい激情型のふかづめ』、坊ちゃんは『知識人として読者に尊敬されたい知性派のふかづめ』、そしてオレは『果たして自分はホントに映画が好きなのかを己に問う虚無主義のふかづめ』として、あいつの自我を因数分解することで、ふかづめという“個”が映画批評に対峙しうる可能性を探るための批評実験のために生み出された仮初の人格なんだ。
あ、そんな込み入った思惑があったの?
いや。いまオレがそれっぽくこじつけた理屈に過ぎねーよ。
それっぽくこじつけた理屈に過ぎないものを次また発表したら死なすわよ。
でも、4年前までは重宝されてたよね、僕たち。記事に取り上げたくても、なんとなくふかづめの興が乗らずに『書くの面倒臭ぇなー』って時は、だいたい僕たちが請け負ったよね、その評。ふかづめ的にはキャラを一個乗せるだけで途端に書きやすくなったんだと思う。
あんまりそういうこと言わない方がいいんじゃね? メタみたいになるから。
でも今はメタを楽しむ時代よ。テレビ番組だって、ここぞとばかりに裏側ばかり披歴してるじゃない。製作事情とか。
ああ、わかる。あれ嫌いなんだよね。芸人さんがスベったあとに『今んとこカットで!』なんつって手をハサミにしておどける姿を笑いに変えて放送したりしてるけど、本来なら本当にカットすべきなんだよ。スベってるんだから。撮り直せばいいだけじゃん。
それで言うと『スベる』とか『イジる』みたいな業界用語が“テレビの公用語”として当たり前のように使われてること自体がすでにメタなんですよ。カンペ出してるADさんを見せたり、プロデューサーやスポンサーが云々みたいな話で笑いをとったり。それって視聴者は見なくていい、知らなくていい裏側じゃないですか、本来。でも、そうした裏事情を開陳すること、いわば“テレビの構造”を種明かしすることで表現の幅が広がり、メディアとしての形態が多様化する。と同時に、それってテレビを切り売りする身振りにほかならないわけですよ。
自分自身に余命宣告してるようなもんか~。
あんた達、ずいぶん楽しそうだけど、これ以上テレビの話をしたら死なすわよ。すぐ死なすわよ。今日は3人で『チャレンジャーズ』を批評する日なの。そういう日なの。心を改める者は私にかしずきなさい。
死にたくないので心を改めてキャサリンにかしずきます。
オレも坊ちゃんと同じで、死にたくないから心を改めてキャサリンにかしずきます。
よろしい。ではめいめい一人ずつ、順番に批評していくから。まずは一番ヘボの純。次に私が中堅を務め、最後は坊ちゃんに託すとするわね。
合点承知の助。
なんくるイェッサー!
◆一番手はヘボの純◆
てなこって、一番手はヘボのオレなんだって。
どうも。インタビュアー純です。
インタビュアーと名のつく通り、インタビュイー(インタビューを受ける側)あってのインタビュアー、ララあってのキキ、ナンシーあってのシド、ヤン坊あってのマー坊、徹平あってのウエンツ、相手あってのオレっつーこって、こういう形での一人語りは不慣れなうえ、実はオレって映画とか全然詳しくないし、正味あんま興味もねーから、この章ではあらすじ紹介だけして終わろかなって思ってる。ま、このあとキャサリンと坊ちゃんが控えてるし、映画に暗いオレでもできる唯一の仕事、つまりあらすじ紹介をやってくことだけがオレの生きる道だよね。
『チャレンジャーズ』はテニスを題材にしたスポーツ映画なんだけどさ、ただ勝ち負けを競うだけの中身じゃなくて、1人の女と2人の男の三角関係を描いた、愛憎三等分する嫉妬と打算と裏切りのラブゲームなんだ。
主演はゼンデイヤ。役者であり歌手でもあるんだってね。
名前がいいよね、ゼンデイヤって。正拳突きするときの掛け声みたいで。「せいや!」とか「ソイヤ!」の最上級。「ゼンデイヤ!」つって。
あと、昭和のロボットアニメっぽくもあるよね。『装甲超人ゼンデイヤ』みたいな。
そいで、あらすじだけどさ、この装甲超人ゼンデイヤは将来を嘱望されながらも怪我で引退を余儀なくされた元テニスプレーヤーで、現役時代に知り合ったジョシュ・オコナーとマイク・ファイストとはただならぬ仲。ジョシュとマイクはジュニア大会でダブルスを組む運命共同体だった。テニス・アカデミーのルームメイトでもあった。
ジョシュは自信家で女好きの軽薄な奴だったが、裏表のない性格はプレーにもよく出ており、ラケットの裏で打つこととかもあまりしなかったんだ。顔がブルース・スプリングスティーンに少しだけ似ていたよ。
一方のマイクは物静かな頭脳派といった正反対の男で、ことテニスにおいては相手のミスを待つタイプだし、恋愛においても好機を待つタイプだったんだ。若い頃のジョン・ボン・ジョヴィに似ていたよ。
そんな2人が同時に一目惚れしたのがゼンデイヤ。さんざ2人の男心を弄んだ彼女は「次のシングル戦で勝った方と付き合ったげる」といって両者を焚きつけ、結果、ジョシュが勝った。2人の友情に亀裂が入った。
その後、ゼンデイヤが怪我して「インタイヤ!」とかいって引退し、大喧嘩の末にジョシュとも別れ、その心の傷を埋めてくれたのはあなた、とか言ってマイクに乗り換えゴールイン。爾来、プロの世界でスランプに陥った夫マイクを支える専属コーチとして辣腕をふるうゼンデイヤは、ある大会の決勝でマイクとジョシュがぶつかっちまったので、夫に内緒でジョシュに接触、負けてほしいと八百長を依頼する…。
と、まあ、こういった筋なんだけどさ。
すげえ、おもしろかったよ。『チャレンジャーズ』はおもしろの131分だったよ。
具体的に、どこが何故、どういう風におもしろかったかについてはオレにはよくわかんねーから、後続に託すわ。
◆これじゃまるで私たち、蜘蛛の巣にかかった蝶ちょみたいね◆
カモォ~ン、おまえたち~~。
キャサリン・キャサリン・ランデブーよ~。
三軍の純があらすじ紹介してくれたから、私は喋りたいことを思う存分喋ることができると、そういう土壌が築かれたわけよね~~!?
ありがとう三軍。私は三軍が遺してくれたレガシーを忘れない。
この映画、本当におもしろかったわよ。
ジョシュとマイクは正反対の性格で、その2人に対して気があるんだかないんだか、実にファジーな素振りで彼らを挑発するゼンデイヤのコケティッシュ。当然2人は彼女をものにしたいという情欲に駆られ、その情欲を動力源に切磋琢磨するんだけど、そもそもデンゼイヤの目的ってなにかしら?
単に「私にふさわしい男はどちらかしらオーディション」という目的で2人をいがみ合わせたのかしら。これは違うと私はthinkする。
じゃあ「私を奪い合うことで互いを高め合う男たちがどこまで上り詰めることができるのか」を見届ける壮大な実験? あるいは「自分に惚れた男を最高級のブランド品に仕立て上げることで、ハイブランドを身につける私、というものの価値を高める」ための承認欲求の謀略?
このへんが程よくボカされてるあたりが本作の品だと思うわぁ。
いずれにせよ、魔性の女が男たちを狂わせる、いわゆるところの“ファムファタールもの”に映るんだけど、ラストシーンでギャッと驚くのよね。
しかも驚きのベクトルが「そうだったのか!」って驚きじゃなくて「そうじゃなかったのか!」って驚き。つまり私たちは2時間まるまる“ファムファタールもの”として本作を楽しんでいたけど、まるっきり見当違いの勘違い、ファムファタールものどころかBL沙汰だったんじゃん、ってことに気づくのよ。ラストのラストで。
いわばゼンデイヤwith男たち、という構図じゃなくて、むしろ男たちwithゼンデイヤだったという。見方、逆だったのかよ! みたいな。まるで逆さ絵を、逆さ絵と知らずに「ほっほーん。なかなか乙な絵ですね」なんて感心しながらこの2時間を過ごしていた私に「あなた、ずっとルカ・グァダニーノの掌の上よ」と私は言いたい。
でも、こんなの卑怯いよね~。誰だって引っかかってしまうんだから~。主演も主役も主人公もゼンデイヤで、時系列も行ったり来たりするし。
これじゃまるで私たち、蜘蛛の巣にかかった蝶ちょじゃないのさ~~!
◆アパートの鍵貸しまーす◆
「これじゃまるで私たち、蜘蛛の巣にかかった蝶ちょじゃないのさ」から、どう話を繋げばいいのかわからないけど元気だけは100パーセントの坊ちゃんです。よろしくお願いします。
前章でキャサリンが言ったことを映画好きの人たち向けにギュッと要約すると、これって結局『アパートの鍵貸します』(60年) なんですよ。
保険会社に勤める、昇進欲だけは一丁前の平社員のジャック・レモンは、上司に気に入られるべく自分のアパートの一室を愛人との密会用に貸し出している。その噂を聞きつけた人事部長が「俺にも一晩、部屋を貸してくれ」と言ってきたので、喜んでアパートの鍵を貸したまではよかったが、その愛人というのが自分が片思いしているエレベーターガールのシャーリー・マクレーンだったので非常にやきもきする…という、言わずと知れたビリー・ワイルダーの代表作であります。
本作に置き換えると平社員がマイクで、人事部長がジョシュで、エレガーがゼンデイヤということになって、舞台が保険会社からテニス界に変わっとるわけですけど、なかでも『チャレンジャーズ』の特徴はその多角的な視座。ひとりの蠱惑的な女が男たちを惑わせる女性映画、とも取れるし、女なんて男同士のブロマンスの添え物という風にも取れる。この辺はおそらくロベール・アンリコの『冒険者たち』(67年) から影響を受けたものではないかと思います。違ったらごめんなさいね。
『アパートの鍵貸します』。
最後に、本作のおもしろさの決定打となった映像表現に触れずしてこの評を終えることはできな~~い!
なんというか、もう…目新しい映像技術がミルフィーユさながらに多層化されていて、注意深く見分すれば、そのひとつひとつは、ああ、リバースショットだ、ダッチアングルだ、ってわかるんですけど、そうした映画技法の数々がユニークな組み合せで同時多発的かつ重畳的に連発されるもんですから「見たことない技ッ!」って脳が錯覚するんですよ。
技術と技術を掛け合わせて“技法”と成し、技法と技法をさらに掛け合わせて“表現”と成す、まさにモダンテクニックで作り上げた映画なんです。
※モダンテクニック…芸術制作において偶発性を重視した(創造力や技術力を必要としない)美術表現のこと。主に紙と絵具を用いた、貼り絵、引っ掻き、霧吹き、吹き流し、擦り出しなど。
こんな感じのやつね。幼稚園や小学校でも習う、まさに美術の「び」。
弁証法的映像技法。
いわんや、ここに音楽、それもEDMまで絡ませて、画面と音楽を同期させつつ、ズンズンズンズン盛り上げていきますの。試合シーンの、テニスボールの視感ショットとかね。
離れ業と飛び道具の…、まあ、はっきりと奇手ではあります。カメラワークもいちいち洒落てますしね。
いかにもふかづめさんが嫌いそうな映画だなと思って、どうでした? ってLINEしてみたんですけど、意外や意外、「悪くねーんでね」って返ってきました。でも、ふかづめさん、ロクに撮れてないペダンチックなだけの作品って嫌うじゃないですか、つって返信してみたら「でもおもしろかったんだから仕方ねーんでね。撮れてないわけじゃないし。それに、おれって本来“こっち側”なのよ。こういうのが好きなのよ。リンチとかタランティーノとか。グイッとこう、こっち側」つったはりましたわ。
なにをわけのわからないことを言ってるんでしょうか、あの人は。
二枚舌がすごい。アマプラのウォッチパーティで見たグァダニーノの前作『ボーンズ アンド オール』(22年) の評からは逃げたくせにね。
まあ、なんにせよお勧めの一本です。
いや!? 勧めはしないかも。
わざわざ勧めることはしませんね、ぼかあ。相手の方から「この映画、気になってるんですけど実際のところ、どうなん」と訊かれたら「お勧めよ」と答えますが、何も訊いてこない相手に対して、わざわざこちらから「最近映画見てる? あ、見てる? 『チャレンジャーズ』見た? あ、見てない? お勧めよ」とは言わないかなぁ。
見るべくして見ればいいし、見ずしてよい人は見ぬままでいい。
椎名林檎のファンにあえて矢井田瞳もいいんだよとは熱弁しない、みたいな。むしろ熱弁しない方がいいかもね、みたいな。そんなMy sweet darlin'なマインドが僕の心を駆け巡っているんだ。
ダリダリン!
追記
どうも皆さん、ふかづめです。
昨夜、キャサリンと純と坊ちゃんから「我々だけで書きましたよー! 評ー!」つって、「うひょー!」つって、上記の原稿が送られてきて「なんて酷い映画評なんだ」と思いながら読みました。
と、こんなことを言うと「ほんだら、ふかづめ。おまえが批評したらええやんけ。最初からおまえが書いたらよかったんとちゃうんけええええええ」と怒髪天を衝く読者がいるかもしらんが、なんかねぇ、毎作そうなんだけど、ルカ・グァダニーノって(作品の是非に関わらず)批評する気が起きないのよ。書かなくていいか、ってなるのよ。口を挟みにくい作家性というか、おれがダラダラ語ったところで多分なにも伝わらんし、むしろ言葉を尽くせば尽くすほどグァダニーノの映画から遠ざかることにもなるだろうし、もっといえば今最高に発展途上で、声変わりとか成長痛とか思春期とかあって不安定な作家だから、今「こうじゃ!」ってことが断言しにくい作家のひとりで。
今後さらに大化けするポテンサルを秘めてるだけに、おれは語るよりも見極めたい。わかるけ。愛されるより愛したいみたいな。語るよりも見極めたい。
だから今回はあの3人に批評を任せたわけなんだけど、まあ、あの批評を書いてるのも結局おれだからね。
でも、うまいこと書きましたよ。我ながらうまくやったと思うわ。我ながら、っていうか、あいつらが。なんてことのない内容を丁度いい浅さでまとめたと思う。
グァダニーノの次作はリブート版『スカーフェイス』(公開未定)だってな! デ・パルマのオリジナルには並々ならぬ愛着があるので、すごい楽しみだ。そこで見極めて、今度こそグァダニーノを真剣に語るわ。
今回はお絵かきしたから、それで許して。
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