唐古・鍵遺跡史跡公園でまず目に付いたのは、中国風の楼閣。唐古・鍵遺跡から発掘された土器に描かれていた楼閣の絵を元に、この公園を築造するに当たって復元したようです。の看板。池の中に復元楼閣が設置されている。この土器は、弥生時代中期後半と判定され、1万数千の土器の破片からこの中国風楼閣の絵が2個の破片から見つかった。この発見は、2003年のことです。土器に描かれた建物の絵は、西日本では40数個発掘されているが、唐古・鍵遺跡からは40数個の内、15個が発見され、地位の高い人が住まいしていただろうこの楼閣の絵。橿原考古学研究所によると、唐古の集落で弥生人が土器に絵を描いていたのだろうとの見解だけど、九州や南朝鮮半島から持ち込んだとも考えられる。もし、唐古の地でこの土器を作ったとすると、唐古・鍵遺跡にこの楼閣の柱跡が発見されても不思議ではない。のように、福岡県や岡山県や愛知県から当時の弥生人がこの唐古・鍵地域に集まって来て共同生活をしていた。
唐古・鍵地域にいつ頃から弥生人が住み着いたのだろう。のところから2,400年前の人骨が発見された。この復顔を見ていると渡来系の顔立ち。人骨が木棺に入れられていたことから、この時代に重要な役目を果たした人のようです。紀元前5世紀頃、畿内で水田式稲作が始まった時期で、唐古・鍵地域でも水田式稲作が始まり、それを指導した人物ではないか。
の場所は、現在唐古池と言われていますが、この池は江戸時代に農作のために造構された溜池で、この公園を構築するに当たって、唐古池にするための工事で、水田が発見された。そして、2,200年前にはの地に大型建物、多分大型の倉庫を構築している。このような木材は、の辺りに生えていた広葉樹、ケヤキなどを使い、木を切ったり削ったりする石包丁は、耳成山からの流紋岩を用いた。この頃には大集落の様相が出来てきて、のように多重環濠が巡らされた。この大集落の範囲は、約42万㎡に及んだ。甲子園球場の10倍もの広さでした。
水田式稲作が始まって、地方から人が集まりだした。紀元前200年頃には、のように東海からも人が移動してきていた。のちに、尾張氏になった人達だろうか。そして、の土器を作った吉備の人達、のちの吉備氏や三輪氏が紀元1世紀頃にこの地に。この頃になると大集落になり、初瀬川や寺川からの洪水をふせぐため、のように環濠が構築された。
祭事用の大きな土器やのような大壺をのせる台のどきなどが作られ、神々に祈りを捧げた祭りが行われた。その場で大集落の政も。で発見された大きなヒスイ勾玉を持っているリーダー、大王が存在するようになり、の地に祭事で使われる鳴り物の楽器、銅鐸を作る専門職人も存在するようになった。また、鋭い刃物や弓矢などに使うサヌカイトの原石や欠片ががら発掘されている。二上山の北側の亀の瀬でサヌカイトが採れる。唐古・鍵地域から亀の瀬まぜ12㎞、原石を運んでいたのでしょう。この二上山のサヌカイトは、の環濠に使用した大溝にも利用されていた。
4世紀になると、ヤマト王権も崇神天皇の時代を迎え、この唐古・鍵地域の人材がヤマト王権に吸収されていく。そして、古墳時代に移っていく中で、唐古・鍵地域の大集落の人口減となり、集落の機能がなくなっていった。唐古・鍵地域の人達は、ヤマト王権の基地である三輪山の麓に集結していく。
の場所は、現在唐古池と言われていますが、この池は江戸時代に農作のために造構された溜池で、この公園を構築するに当たって、唐古池にするための工事で、水田が発見された。そして、2,200年前にはの地に大型建物、多分大型の倉庫を構築している。このような木材は、の辺りに生えていた広葉樹、ケヤキなどを使い、木を切ったり削ったりする石包丁は、耳成山からの流紋岩を用いた。この頃には大集落の様相が出来てきて、のように多重環濠が巡らされた。この大集落の範囲は、約42万㎡に及んだ。甲子園球場の10倍もの広さでした。
水田式稲作が始まって、地方から人が集まりだした。紀元前200年頃には、のように東海からも人が移動してきていた。のちに、尾張氏になった人達だろうか。そして、の土器を作った吉備の人達、のちの吉備氏や三輪氏が紀元1世紀頃にこの地に。この頃になると大集落になり、初瀬川や寺川からの洪水をふせぐため、のように環濠が構築された。
祭事用の大きな土器やのような大壺をのせる台のどきなどが作られ、神々に祈りを捧げた祭りが行われた。その場で大集落の政も。で発見された大きなヒスイ勾玉を持っているリーダー、大王が存在するようになり、の地に祭事で使われる鳴り物の楽器、銅鐸を作る専門職人も存在するようになった。また、鋭い刃物や弓矢などに使うサヌカイトの原石や欠片ががら発掘されている。二上山の北側の亀の瀬でサヌカイトが採れる。唐古・鍵地域から亀の瀬まぜ12㎞、原石を運んでいたのでしょう。この二上山のサヌカイトは、の環濠に使用した大溝にも利用されていた。
3世紀頃になると矢尻や農具がサヌカイトから鉄器に変わっていき、大王が所有したであろうの地から、勾玉を入れる鉄製の宝石箱も発掘されている。また、この頃になると大王の古墳が登場してきます。唐古・鍵遺跡でも古墳があったようで、戦国時代の武将でこの地域を支配していた唐古南氏の屋敷跡、から子持ち勾玉が出土している。邪馬台国の卑弥呼が亡くなった3世紀後半に、纏向地域周辺、三輪山の麓で、初期ヤマト王権が誕生する。この頃は、ヤマト王権の連合政権も三輪系または吉備系が中心だった。纏向地域もそうだが、この唐古・鍵地域も三輪系&吉備系の集落だったと思われる。これらの人々は、まだまだ自然の神々を崇拝していた。祭事用の大壺や器台の他に鳴り物として銅鐸が必要で、その当時の権威の象徴としてこれらの祭具が各地域に広まっていった。ヤマト王権の権威が全国に広がっていく過程で、銅鐸の需要が増え、唐古・鍵地域に製造に携わる人々が、その生産をする専属職人となった。
4世紀になると、ヤマト王権も崇神天皇の時代を迎え、この唐古・鍵地域の人材がヤマト王権に吸収されていく。そして、古墳時代に移っていく中で、唐古・鍵地域の大集落の人口減となり、集落の機能がなくなっていった。唐古・鍵地域の人達は、ヤマト王権の基地である三輪山の麓に集結していく。
隠された古代史を探索する会
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