近年、社会を震撼させるような凶悪犯罪が次々と報じられ、その動機はしばしば不可解なものとして語られる。しかし、その不可解さの中には、現代を生きる私たちが逃れがたい「観念」に囚われている構図が、微妙な形で投影されてはいないだろうか。私たち一人ひとりが「理想」や「幸福」という名の、誰かが用意した光り輝く未来図に縛られ、それを達成できない苦痛の中であえいでいる。犯行に及んだ者たちは、他人から見ればいびつな行為によって、そうした理想の象徴そのものを壊し、“白紙”へと戻ろうとしているように見えるのだ。
もともと私たちは「何もない」状態でこの世界に生まれる。そこに日々積み重なる経験が、やがて自分だけの世界観を練り上げる。その世界観は、多くの場合、「こうあるべき」「これが幸せだ」「こうなれなかったら負けだ」という固定観念で裏打ちされ、やがて自身を苦しめる鉄鎖へと変じる。決して手が届かない理想を掲げて走り続け、それに届かぬ自分を責め立てる。心の中で育まれた理想像は、光輝くはずの未来が裏返ったとき、薄暗い洞窟の中で自分を嘲笑する幻影に変わる。そして、その幻影は、まるで私たちが絶対に抜け出せない迷路のように、行く手を阻み続ける。
この追いつめられた心理状態は、いわば社会全体が産み落とした病理かもしれない。ロスジェネ世代や、それ以外のどの時代を生きた人々であれ、理想に届かない苦痛は共通するものだ。それは、華々しい成功を収める若者や、文化的な栄光を象徴する存在、美や富や権力といった「社会が崇める価値」をまとった人々を前にしたとき、なおさら鮮明になる。「自分はそこに届かない」「どんな努力も報われない」——そうした恨みや羨望が、いつしか純化して「理想そのもの」を破壊しようとする衝動へ転じることは想像に難くない。成功や幸福、その象徴たる対象を消し去れば、理想に翻弄される苦しみから解放されるのではないか。そう信じて、行き場のない怒りを、まるで刃物で一気に断ち切るように突きつける。
三島由紀夫の『金閣寺』は、その暗い欲望を鋭く描き出した先駆的な作品だ。金閣は美の極地として存在する。その存在は崇高さ故に、青年の心を締め付け、凌駕し、消せない影を落とす。彼は、眩い美を焼くことで、自分を縛る理想から逃れようと試みる。「美」に固着した観念を破壊し、すべてを瓦礫の上に還せば、もう一度一から始め直せると信じたのかもしれない。同様に、現代の加害者たちも、社会が絶対視する「幸せ」や「成功」を体現する人々を傷つけることで、理想に縛られた自らの内面から解放されようとする、悲痛な叫びを上げているのだろう。
だが、そこには悲劇的なアイロニーがある。いかに理想を消し去り、象徴を壊したところで、現実が「白紙」に戻ることはない。むしろ罪を犯し、社会から隔絶されることで、さらに厳しい拘束が加わる。鉄格子の向こう側で、彼らは初めて知るだろう。「理想」を焼き尽くしても、心の解放など訪れはしない。それは、ただ理想という名の観念を、より重い現実の鎖に置き換えただけなのだ。
私たちがこの社会に生きる限り、理想や観念、そしてそれに縛られる苦しみはなくならないのかもしれない。それでも、観念を破壊するのではなく、観念を解きほぐし、緩やかに受け止める道は残されているはずだ。実現不可能な理想を絶対視せず、互いの苦しみを想像し、分かち合うことで、“白紙”に戻らずとも、生きているいまここで、新たな地平を切り開くことができるかもしれない。理想を破壊するよりも、理想という観念に囚われ続けてきた自分自身を、そっと許すこと。それこそが、私たちが真に辿り着くべき、穏やかな再生への道なのだ。