対馬・壱岐 島めぐりの旅 14 椎根の石屋根倉庫
こちらは、小茂田浜神社にひっそりと置かれていた砲弾。日露のころのものだろうか。
それとも第2次大戦のころの?
なんの説明書きもなく、「珍しいのが掘ったら出てきた。とりあえずここに飾っとく?」といった感じでたたずむこの砲弾。
戦のさなかならば、これが落ちて爆発すれば周囲のさまざまなものを吹き飛ばす恐ろしき兵器。
いまは、ただの赤さびの浮いた鉄の塊。
できれば、博物館や美術館に飾られている甲冑や刀のごとき遺物のままでいて欲しいものだ。
なんてことを考えつつ次に向かったのは。
椎根の石屋根倉庫である。
対馬で産出される板状の石で屋根を葺いた、高床式の対馬伝統建築。
その板状の石は、いままでの記事でも石英斑岩の石垣の上に置かれた状態でなんどかご紹介してきたが、この地区には現役の倉庫が集中して残っているのだ。
この地区、当初の予定ではバスの車窓からの見学であったのが、素晴らしい安全運転で我らを送迎してくださるドライバーさん、ガイドのKさん、クラブツーリズムの添乗員さん、そしていつも5分前には集合を完了しているツアー参加者の皆様の協業により、和多都美神社につづいて、降りて観光がかなった。
ありがたい。
石屋根は、本州で言えば分厚い漆喰の壁でつくられた蔵に相当する建物だろう。
屋根にけっして軽いと言えない石をつかったのは、何よりも火事から防ぐためだそうな。
たしかに、先日関東大震災の記録映像を検証したドキュメンタリーをみたが、地震により発生した小規模の火事が、火の粉を風でとばし、その火の粉が地震で屋根瓦がずれた付近の民家の屋根板に到達し、そこでまた火事が起こり、火事が燎原の火のごとくひろがり、周囲一帯が焼け野原になっていた。
対馬ではほとんど地震はないが、冬には北西から乾いた風が襲ってくる。火事が広がれば逃げる先は海か山しかない。
さらに山がちの島では耕作地はすくないから、火事で食料が燃えてしまえば、本州のごとく近隣の街に買い出しにいくなんてこともできにくい。
でももし地震や強風でくずれても、屋根すべてが堅牢な石でできているならば、火の粉が降ってきても中の食料や家財は守られる。
その一心で積まれたのがこの石屋根なのだろう。
わたしのへぼ写真のせいで見えずらいが、雨どい部分も板石である。
軒や天井は松材が使われているそうな。
木というものは縦方向の圧力には強いが、横方向の圧力には弱く、折れやすいと聞いたことがある。
板石は一枚だけでも瓦や萱にくらべれば遥かに重いだろうし、石屋根倉庫の屋根はそれが複数枚のせられているから、この軒にかかる圧力は相当なものではないだろうか。
代わりに、屋根の下にすっくと伸びる柱は、これで「大丈夫なのか?」といぶかってしまうほど細かった。
ガイドのKさん曰く、この石屋根を葺く際には集落総出で石を引き上げたそうな。
かやぶき屋根とおなじく、ひとつの作業を定期的に共同でやることで共同体の結束力もより強固になるメリットもあったろう。
しかし過疎化がすすんだ現在の対馬では、その人数を集めることもままならず、なによりお金がかかるので、上の写真のように石屋根を瓦に葺き替えるお宅が増えているそうな。
たしかに、集落全体を見渡せば、石屋根から瓦に葺きかえされた倉庫がおおい。
おそらく十数年後に再訪すれば、もっと少なくなっているだろう。
それを惜しむのは、ここに実際に暮らしているわけではない旅人の傲慢なのかもしれない。
ちなみに、この石屋根倉庫。鍵は、ながい特殊な錠前を使っているとのこと。
上の写真は受け手の部分をとったものなのだが、ガイドのKさんが説明してくださったその錠前の形状を、絵やメモで残していなかったので、ここにどのようにかけるのかは忘れた。
残念。
代わりといってはなんだけれど、石屋根の代わりに葺かれた瓦の、袖瓦の先をご紹介。
お分かりいただけるだろうか?打ち出の小槌ですよ!
出雲大社の近辺でこの部分に大黒様の顔が彫られたものをみたことがあったが、ここでは打ち出の小槌を掘っている。
千木の先には小さいながら鯱までかけてあったから、この倉庫は相当大事なものをしまっているのかもしれない。
な~んて勝手な妄想までしてしまった。