先月末、朝日新聞は「ガザの乳児3人が寒さで死亡」と伝えました。また、しばらく前には、「ガザ全域を飢餓が覆い、子どもが次々に餓死している」と伝えていました。いずれも緊急の対応が必要なのに、停戦の話は一向に実現せず、私は最近、停戦の話がでるたびに、それが国際世論を惑わすためのイスラエルとアメリカによる引き伸ばし作戦のような気がしています。停戦、停戦と言って多くの人々に期待を持たせ、その間に、ガザやヨルダン川西岸地区のパレスチナ人殲滅・追い出しを進めようとしているように思います。ほんとうは、停戦する気がないのではないかと疑っているのです。
それは、イスラエルの国会が、国連パレスチナ難民救済事業機関 (UNRWA)の国内活動・接触禁止法案を可決していることに示されているように思います。
また、見逃せないのは、国際刑事裁判所(ICC)が、イスラエルのネタニヤフ首相やガラント前国防相らに、ガザにおける戦争犯罪などで逮捕状を発行したことに、イスラエルはもちろんですが、イスラエルを支援するアメリカも反発して、アメリカ下院がICCへの制裁法案を可決し、上院でも超党派で制裁法案を可決する動きが本格化しつつあるという事実にもあらわれているように思います。
先日、朝日新聞でも、その件が取り上げられていました。こうしたイスラエルやアメリカの動きに関し、ICCの赤根所長は、”制裁の対象が、ICCの限定された職員だけでなく、複数の検察官や裁判官、赤根所長に拡大されたり、ICCそのものが対象になれば、アメリカの銀行だけでなく、欧州にある銀行もでICCとの取引が停止される可能性があり、そうなれば、職員への給与も払えず、ICCの活動の機能停止に追い込まれる”と懸念を示したといいます。
国際刑事裁判所(ICC)は、国際連合全権外交使節会議において採択された国際刑事裁判所ローマ規程(ローマ規程または、ICC規程)に基づき、オランダのハーグに設置された国際裁判所です。そのICCの判断を無視したり、自らの方針と異なるからということで制裁を科したりすることは、民主主義の否定だと思います。
だから私は、イスラエルやアメリカは武力主義の国であり、法や道義・道徳ではなく、力で自らの主張を通そうとする国だと思うのです。
赤根所長は、イスラエルやアメリカの対応を踏まえ、”国際社会で『法の支配』がないがしろにされ、『力による支配』が横行すれば、戦争犯罪の被害者たちは報われない”と訴えたことが伝えられています。
その通りだと思いますが、「力による支配」は、今に始まったことではなく、欧米諸国による植民地支配以来、途絶えることなく続いてきたように思います。覇権大国アメリカが、有志連合などを組織して、戦争をくり返してきたことも、「力による支配」を意味していると思います。
下記は、「報道されない中東の真実」国枝昌樹(朝日新聞出版)から、「第一章 シリア問題の過去・現在・未来」の「少年は拷問死か銃弾の犠牲か」と「政府側要員120人の殺害」と題する記事を抜萃したのですが、敵対するアサド政権を転覆するために、アメリカが、反政府勢力支援の一環で大量の武器を与えたこと、また、アサド政権側の情報を排除し、虚偽情報を国際社会に広めたことなどが、明らかにされていると思います。
こうした虚偽情報の拡散や反政府勢力に対する武器をはじめとする様々な支援で、今回、とうとうアサド政権が崩壊に至ったのではないかと思います
だから私は、先日、CNNが、”Palestinian Authority freezes Al Jazeera operations in the West Bank.(パレスチナ自治政府がヨルダン川西岸地区でのアルジャジーラの業務を凍結)”と報道したことも気になっています。まだ詳細はわかりませんが、アルジャジーラが、パレスチナにとって不利な情報を拡散したのではないかと思うのです。
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第一章 シリア問題の過去・現在・未来
少年は拷問死か銃弾の犠牲か
民衆蜂起を押し込めよう、デモ隊を規制しようとする治安警察軍と民衆側との衝突で犠牲者は増えるばかりだった。レバノンの日刊紙「デイリー・ニュース」は2011年5月9日付でレバノンの武器市場が異常な過熱状態であるという調査記事を報道した。同紙はシリア政府に対して批判的立場にある。
ベイルートの武器取扱業者によれば、シリア向けは異常だ。在庫武器を全部売っても注文が残り、いくつも仕入先に当たったが、どこでも在庫に余裕がない状態にある。2006年には一丁500~600ドルだったカラシニコフA-47は2011年4月には1200ドルに急騰し、5月に入ると1600ドルに達した。短銃身型A-47は4月以来20%値上がりして3750ドルなった。米軍が使用したM-16攻撃ライフル銃は1万5000ドルする。政府関係者と治安当局の情報ではレバノン北部の都市トリポリでは大量の武器が市場に搬入されているという。
その後も同紙はときどき同じような調査報道を行ない、シリアからの法外な注文で武器価格が継続的に高騰し続ける状態を報道した。トリポリは、シリアの反体制派グループのレバノンにおける拠点に発展して行く。
政府はデモ隊に紛れる武装集団と治安警察部隊との衝突で犠牲者が増えているとする姿勢をとり、5月に入ると武装集団と国民を分断するために、国民に向けて無許可の集会やデモの自粛を訴えて、本来ならば処罰されるべき行為を働いた者でも自首すれば放免されるとして懸命に広報するのだった。さらに、シリア国営TV局は英国のBBCアラビア語衛星放送局の番組に、現場から70キロ離れた自宅にいながら現場報告者と偽って電話でホムス市内での騒擾を治安当局が弾圧する模様を「実況報告」した若者の告白を詳細に放映した。
そのような中でハムザ・ハティーブ少年(13)の死亡事件が発生した。シリア政府に批判的なアルジャジーラなどの衛生TV局はこの事件を積極的に取り上げ、少年の拷問虐待死として大キャンペーンを張った。
2011年4月29日、ダラアの各所では金曜日のモスクでの祈りを終えると民衆はスローガンを叫びながら街路に出た。少年たちも加わっていた。デモ隊は治安当局と衝突した。その日少年は帰宅しなかった。それから3週間後の5月21日(当局側発表)、少年は死体となって帰宅した。少年の死体は動画に撮られユーチューブに掲載された。
アルジャジーラは言う。少年はひと月近く治安当局に捕らわれた揚げ句、5月24日(アルジャジーラ)になって帰宅した。その死体には激しい拷問の跡が残されていた。切り裂かれた跡、火傷。これらは電気ショックやむち打ちの跡だ。目は黒ずんでくぼみ、いくつかの弾痕があった。胸部も黒ずんで火傷の痕がある。首の骨は折れ、ペニスは切断されていた。従兄弟は言う。
「4月29日には皆が抗議に立ち上がるようだったので、皆と一緒に12キロの道のりを歩いて町まで行った。混乱が生じて、何がなんだかわからない状況の中でハムザが見えなくなってしまった」。現地の活動家は言う。「ハムザは悪名高い空軍情報局によって51人が捕まった中にいた。捕まったときには皆生きていたのに、今週になって13人が遺体で返却された。数日中には他の12人ほどが死体で返されるはずだ」。ハムザの従兄弟によれば、死体の返却後、治安当局はハムザの両親を外部には話さないように脅迫したという。
2011年5月31日、アサド大統領は死亡したハムザ少年の家族をダマスカスに招待して会見し、直接哀悼の意を表した。同日、国営TV放送はハムザ少年死亡事件解明委員会の発表を報道してこう述べた。
4月29日、守備隊施設を襲った群衆の中に武装グループが紛れ、双方の間での発砲により犠牲者が出た。犠牲者は病院に運ばれて検死が行われた。ハムザ少年の遺体もその中にあり、早速検死が行われたが、死体には何の拷問の跡も見られず、衝突の際に受けた3発の銃撃によって現場で死亡したものと断定された。それ以外に死体の損傷はなく、検死当局が所有する死体写真は、死体が病院に到着した際に撮影された。死体には身元を示すものが何もなかったために身元特定に時間を要し、死体の返却が遅れた。
この事件は政府による象徴的な拷問死事件として、国際社会で繰り返して取り上げられた。国連人権高等弁務官事務所(OHCHR)の報告書なども拷問致死事件として大きく取り扱う。だが、それらの文書は政府側の検死報告にはまったく言及しない。同年12月には米国ABC・TV局の著名なキャスターであったバーバラ・ウォルターズがアサド大統領にインタビューし、その中で政権による子どもの虐殺事例としてハムザ少年に事件に言及した。大統領が直ちに、少年の遺族に直接自分から哀悼の意を表したと応答すると、ウォルターズは意外だとの反応を示して、この問題には深入りすることなく次の話題にさっと移行してしまった。彼女には大統領の応答が予想外で、深入りすることの不利を悟ったのだろう。彼女は事件に対する政府側の対応について事前にスタッフから説明を受けていなかったようだ。
米国のファッション雑誌として有名なヴォーグ誌は2011年3月付紙面で「砂漠に咲くバラの花」と題するアスマ・アサド大統領夫人の記事を掲載した。まったく予期しなかったシリア情勢の展開で、ヴォーグ誌にはまことに悪いタイミングでの掲載になってしまった。記事を書いた記者はアラブの春を抑圧する独裁者の妻を美化することは何ごとかと批判されると、失地回復とばかり翌12年8月6日付のニューズウィーク誌で「シリアのいかさま大統領家庭──悪評嘖々(サクサク)の私のインタビュー:地獄のファースト・レディー、アサド夫人──」と題してヴォーグ紙で書いた記事とは正反対の内容を書いて自己弁護している。同じ対象について昨日はなめらかな筆致で称賛記事を書き、都合が悪くなると今日は力強く能弁に罵倒記事を書いて、物書きとしてまことに類まれな能力を披露している。その記事の中でハムザ少年事件にも言及してシリア政府の残虐さに言及するのだが、もとよりそんな記者は政府の検証報告があったことなど知らない、知ろうともしないで記事を書く。
政府側要員120人の殺害
2011年6月6日、トルコ国境に近いジスル・アッシュグ-ル町で1日のうち120人もの治安軍関係者が一方的に殺されるという政府にとっては驚愕の事件が起きた。トルコとの密輸で知る人ぞ知るこの町は1980年3月にも政府側によるムスリム同胞団取り締まりの際に、激しい戦闘が起きている。
今回の事件を政府側は深刻な事態と認識して態勢を十分に整えた上で反体制派武装グループの掃討に乗り出した。多くの町民は、政府の治安警察が来る前にこぞって町を去り、近隣の国境を越えてトルコ領内に避難した。
実はこの事件が起きる直前からトルコ領内ではシリア人難民を受け入れるキャンプが国境近くに開設され、トルコ側の動きは事件発生のタイミングと合いすぎるとして、一部シリア人関係者の間では事件とトルコ側との関係に疑念が持たれている。シリア政府は反体制派武装グループによる周到な計画の上での治安警察軍への攻撃であったと断定して、同町の平定作戦が終了すると外国メディアとダマスカスの外交団を現場に招待した。
これに対して反体制派側は、事件は軍離脱兵と政府軍との衝突であると主張するのだったが、2012年2月に筆者の照会に対し米国系メディアのシリア人記者は現場を視察した後、そこで撮影した何枚もの写真を示しながら、この事件はどう見てもかなり高度の組織的攻撃的だったと理解せざるを得ないと断定するのだった。この事件については、ごく短期間話題にされただけで、その後は反体制派も欧米諸国も忘れてしまったようだ。反体制派と欧米諸国の理解によれば、この時期、民衆蜂起はまだ平和的に行われていて、こんな事件は政府側の自作自演以外に起こるはずがない。
このころ、すでにアルジャジーラの報道姿勢が反体制派に極端に傾斜し、アルジャジーラが、どの町のどこそこでデモが行われていると報道すると、その時点ではそこには民衆の動きは何も見られなかったが1時間後にデモが起きるというような事例が何件も発生し、シリア政府は抗議を繰り返した。アルジャジーラ本部ではユーチューブやフェイスブックなどをモニターして、そこに掲載される画像とニュースを、その信憑性を確かめることなく定時ニュースで流し、またシリア国内にばらまいた携帯電話などを使って「現場目撃者」と称する市民からの怪しげな「現場報告」をそのまま取り上げるのだった。
2011年4月、アルジャジーラの一連の報道姿勢に抗議してベイルート支局長バッサン・ベン・ジャッドが辞職した。その後任となったアリ・ハシェム支局長は着任直後の4月にはカラシニコフ銃や旧ソ連製の携帯式対戦車砲で武装したレバノン人グループがシリア国内で武力活動をするために国境を越えてシリア国内に出入りしている事実を取材し、5月には映像とともに報道したが、アルジャジーラ本部では映像をすり替えたりして放映しなかった。その後も同支局長はレバノンの武装グループがシリアで活動している様子を報告するのだったが、本部の幹部は取材を不必要と指示する。アラブ世界で真のジャーナリズムが生まれたとして期待をもってBBCからアルジャジーラに移籍した同支局長であったが、やがてアルジャジーラは結局資金提供元のカタール首長の影響下にあり、報道の独立性はまったく確保されていないとして抗議の辞職をした。2011年と2012年にかけて、アルジャジーラの報道姿勢のあり方に幻滅して同TV局から辞職した有力な記者は13人余りに上った。