毬藻荘殺人事件
2005.10.17 Mon
INSPIRED BY 「霧越邸」&「彩紋家」
毬藻荘殺人事件
CLASSIC MURDEROUS SURVIVAL
────
S**大学推理小説研究会/会員紹介表
遠江ショウゴ ──三年生。会長。
春日町ふゆみ ──三年生。書記。ボランティア研究会と兼部。
御門台タケマル ──三年生。関西出身。
草薙ユタカ ──三年生。奇術研究会と兼部。
長沼リュウスイ ──二年生。次期会長。
柚木ユキト ──二年生。文芸部と兼部。
日吉みづき ──二年生。小柄。明朗快活。
桜橋キョウ ──一年生。臆病。新戦力。
古庄しいな ──一年生。仲良しコンビの片割れ。
狐ヶ崎 ──連続殺人犯。
伊豆ソウジ ──四年生。前会長。
入江岡リンタロウ──三年生。編集長。
清水まゆみ ──一年生。仲良しコンビの片割れ。
序章 明日にとどく
彼に恨みはない。
仲は良い。友達と言って差し支えないだろう。
だが、彼は自分に殺されなければいけない。自分は彼を殺さなければならない。
彼が殺される、あるいは自分が彼を殺すのに感情的な理由はない。彼でなくても、他の人間でもいい。自分が殺す相手に、彼が好都合だったというだけだ。自分は誰かを殺さなければならない。そのために、犠牲として選ばれたのが彼なのだ。
いや、犠牲というのであれば、彼のあとに殺される友人たちも、犠牲といわなければならないだろう。たった一人のために、たった一人の人間に想いを伝えるために、自分は幾人もの人間を殺害することに決めたのだ。
彼を呼び出すのは簡単だった。
余った栞や、この地方特有のビラやパンフレットを見せ、彼が興味を持ちそうな言葉で煽った。渓流釣りに絶好の穴場を見つけたので一緒に行こう、という文句に疑いを持つこともなく、彼はすぐさま誘いに乗ってきた。もっとも、彼は自分が殺されるなど考えてもいないだろう。
当然、無条件ではない。その穴場をこれ以上多くの者に教えたくはないので、自分と一緒に行くことも、どこへ行くかも誰にも報せない。不審がられないよう、近しい友人には一週間くらい旅行に出掛けていることにしておく。
この条件を飲めるのであれば、連れていってもいいと彼に伝えた。もし断るようであれば、別の人間を誘うだけのこと。他の友人だろうと、条件を飲めるのであれば構わない。
断られたり、勘繰られたりすることも想定したが、そんな心配は要らなかった。釣り好きの彼は一も二もなく条件を受け入れ、自分との旅行を承諾した。これまでの付き合いが良好だったので、当然のこととも言えるだろう。そのお陰で、このような辺鄙な場所へ二人きりで来れたのだ。
彼でなければいけない理由はない。重要なのは、ある程度の信頼を築いている知り合いを被害者にするということ。自分に対して警戒心を持っていない人間の中から、自分が殺す人間を選ぶということ。
つまり、彼に殺される理由があるとすれば、自分と仲の良い友達だったから、ということになる。自分と知り合わなければ、友達にならなければ、殺されることはなかっただろう。
今後の予定は既に立ててある。
だが、計画をいかに綿密に立てたところで、人間の心理までは把握出来ない。実際に殺された人間を間近にしたとき、奴等がどんな行動を取るのかは予想出来ないのだ。臨機応変な、柔軟性を持った計画を自分は練り上げたつもりだが、予定外の事態が起きることも、想定しておかなければならないだろう。
気掛かりなことが、ひとつあった。
殺す相手が一人ならば、気に掛けることもないことだ。しかし、最終的な目的地へ辿り着くには、数多くの犠牲者を伴わなければならないのだ。最初の段階で、始めの一歩で躓く訳にはいかない。
ほぼ計画通りの犯行を為せると確信はしている。しかしそれは、殺人を犯していない状況でのことだ。もし一人目を殺した時点で怖気づいてしまったら、延いては後の計画まで、全てが破綻してしまうこともあり得る。それだけは避けたい。避けなければならない。
そこで簡単なことに気がついた。
いきなり本番をやろうするから、動揺するのだ。それならば、事件を起こす前に練習を行なえばいい。人殺しの経験を得てから、計画を開始する。人殺しの練習台。それに選ばれたのが彼なのだ。
彼を殺すことによって、人を殺すための強さと、人を殺せる自信を手に入れる。そうすれば、自分の無様な振る舞いで計画を台無しにしてしまうことだけは避けられる。人を殺した衝撃で心神喪失等の状態にでもなったら、それこそ目も当てられない。
それと同時に。必ず最後まで計画を遂行しろと、自分を追い詰めることにもなる。逃げ道を用意してはいけない。行き着くところまで行くしかないのだ。
彼には悪いが、運が悪かったと諦めてもらうしかない。
自分の計画のために彼は殺され、死ななければならない。彼が殺されるのは必然なのだ。今後、予定している者たちも同様だ。
全ては自分自身のため、目的を果たすためだ。
覚悟はしている。被害者と決めた相手に抵抗され、逆に自分が殺される可能性も、皆無ではない。相手も必死なのだ。
目的が果たせず、自分が死んでしまうことには耐えられない。何としても避けたいところだ。だが、自分が相手を殺す以上、自分も相手に殺され得るという覚悟は必要だ。
上手く、行くだろうか。
背中に隠したロープを持つ手は汗に滲んでいる。先程まで聞こえていた、川のせせらぎも、野鳥の声も、今は聞こえない。
中肉中背の彼を殺せないようでは、今後の計画が心許ない。彼を殺し、強さと自信を手に入れる。それはきっと想いに繋がる。自分の希い望みを補強してくれるはず。そう考えると、彼の死は無駄死にではない。自分をれっきとした殺人犯にする礎となるのだから。
釣りを楽しむ彼の無防備な背中。背後に近寄っても、一向に不審がる様子はない。のんびりと浮きを眺めている。
もう一歩、彼に近づく。
そこで。
首にロープを巻きつける。抵抗されまいと懸命に引っ張った。
必死だった。ロープを外されないように。彼の力に負けないように。
苦痛に顔を歪めているだろう彼が、振り向こうとする。
だが。ここで臆してはいけない。後戻りは出来ない。殺すしかない。行け。殺せ。
逃げられるなど考えるな。自分は勝てると、上手く行くとだけ考えろ。弱気になるな。
激しく藻掻いていた彼の動きは次第に弱くなり、やがて止まる。
本当に死んだのだろうか。解らない。死んだ振りをしているのかもしれない。人を殺すのは初めての経験なのだ。動かないからといって、死んでいると判断するのは早計に過ぎる。
彼は微動だにしなかった。それでもロープを引き続けた。
何分経ったのだろう。十分か二十分かそれ以上か。
ロープを持つ手を恐る恐る緩め、彼に近寄る。
見るのも躊躇われるような酷い形相で、彼は事切れていた。
──やってしまった。ついに、殺してしまった。
これが、人を殺すということか……。
余り気分のいいものではない。当然だ。自分は人殺しによって快感を得るような、快楽殺人犯とは違う。目的のために、殺人という手段を採らなければならなかっただけのこと。いや、目的に達するのに、もっとも効果的な方法が、人を殺すということだったのだ。
結局──全ては殺人に帰結する。
今になって手が震えてきた。動悸が激しくなっている。自分の荒い息遣いのみが聞こえる。落ち着け。冷静になれ。自分は見事に人を殺したのだ。自分は人殺しなのだ。
これで、今後の計画に支障はない。狼狽したり取り乱したりしないはずだ。どんな状況に陥っても、冷静に対処することが出来ることだろう。
彼を殺した以上、自分は奴等を殺さなければいけない。目的を達成しなければならない。自分はもう進むしかないのだと思い込む。死んだ彼や、これから死ぬ奴等のためにも。
呼吸が収まり、川のせせらぎが再び聞こえ始める。
これで、終わりではない。ここからが重要なのだ。
彼の身体を切断する。
死体切断こそが、計画の中心となる。欠かすことの出来ない要素なのだ。
微動だにしない、彼の身体を見下ろす。
これが。目的への第一歩。
ここが。物語の最初の頁。
全ては。ここから始まる。
第一部 毬藻荘殺人事件
第一章 登場人物
*
女の子と男の子は、自分たちの背丈より高い芒を掻き分ける。
先を歩く女の子が芒を薙ぎ倒す。あとに続く男の子が、掻き分けられた芒を足で広げて踏み付ける。
「なんで、こんなところを……」
泣きそうな声で男の子が言う。女の子は甲高く大きな声を出した。
「近道だからに決まってるでしょ。それとも、迷子になるとでも思ってるの?」
女の子は一度振り返ったものの、男の子の返事を待つことなく先へ進む。男の子は、女の子に置いていかれないよう、何とか付いていこうとする。けれど繁茂する雑草に足下を掬われ、その場に転んでしまった。男の子が上げた小さい悲鳴に気づいたのか、先に行った女の子が戻ってくる。
「ちょっと、何してるの。ほら、立てる?」
女の子は男の子に右手を差し出す。男の子は何かぼそぼそと呟いていたが、何を言っているのか、女の子には聞き取れなかったようだ。女の子は男の子に構わず、倒れた男の子の手を引っ張って立たせる。
「もう、しっかりしてよね。いくつになったと思ってるの……」
まるでお姉さんであるかのように言う。口では注意しつつ、女の子は男の子のズボンに付いた土埃を払っている。男の子は、為されるままに、ごめんと言うだけだった。
「ちゃんと、大きな声で返事しなさいよ。男の子でしょ」
女の子の声は、周囲を覆う芒の中で大きく響く。
「行くよ、もう少しだから」
男の子の手を取って、女の子は歩き出す。男の子は急に手を摑まれ、躓かないように付いていくのが精一杯らしい。男の子が情けない悲鳴を上げる。男の子は女の子に無理やり引っ張られているようだ。
あっ、と男の子が声を上げた。左右を囲んでいた芒のアーチがようやく途切れる。女の子と男の子は、舗装のされていない狭い道へ飛び出す。
「ほら、言った通りでしょ?」
自分の知っている場所に出たのか、女の子は誇らしげに胸を反らす。男の子は芒の中を掻き分けたせいで、余計に時間が掛かったことを解っているのだろうが、口には出さずに頷いていた。
「じゃ、行こ……」
女の子が途中で口籠もる。視線の先には日傘を差した女性の姿があった。
「久能のおばさんだ……」
二人の許へと中年女性は近寄ってくる。
「あらまぁ」
中年女性は女の子の名前を呼んだ。
「そんなところから出てきて。服をこんなに汚しちゃって。まったく……」
女の子は顔を伏せる。女性に返事をしない。女の子が聞いていてもいなくても構わないのか、中年女性は女の子がそんなことをしたら駄目でしょうとか、せっかくのスカートなのにとか、芒の穂を掻き分けて出てきたことを咎めているようだった。
女の子はちらりと男の子を見るが、男の子はどうすることも出来ない。女の子の隣でおろおろと立ち尽くすだけである。
近所で喧しいと評判のある、久能のおばさん相手に何が出来るというのだろう。両親でさえ苦手にしているおばさんなのだ。ここは黙って話を聞いていた方がいい。男の子の顔は、そう思っているかのようだった。
女の子に話したいことを全部言ったのか、女性は矛先を男の子に向ける。
「あなたも男の子だったら、止めないと駄目でしょう。どうして一緒になってこんなことをするの。まったくもう。……あれ、あなた、どっちの方。……お兄さん、弟さん?」
思い出したように、女性は弟の名前を呼んだ。
「あなたはそっちだったわね。双子でもないのにどうしてそんなに似ているのかしら……」
男の子にはひとつ違いの兄弟がいる。自分では似ていると考えていないのだろう。女性の言うことに首を傾げた。
「僕は……」
男の子が何か言おうと口を開いた。そのときである。
「おばさん、さよなら」
女性のお喋りから逃れる隙を狙っていた様子の女の子が男の子の手を取り、二人は駆け出していく。
「ねえ、ちょっと……あなたたち……」
女性は何か呟いていたが、子供たちは颯爽と駆け抜ける。二人の姿はたちまち見えなくなってしまった。
* * *
毬藻荘を舞台とした連続殺人事件。
一連の事件を終え、山荘に残る人間はただ一人。生きている者はただ一人。
「殺人犯」はラウンジのソファに深く腰掛けた。
この山荘に訪れたメンバーを一人ずつ消していく。それが無理ならば、仕方がない。纏めて殺してしまえばいい。そのための道具は複数用意してあった。最終的な目的が果たせるのであれば、殺戮はどんな形でも構わない。殺すことが目的ではない。殺したあとで、目的へ繋げることが重要なのだ。
一人ずつ殺すことには拘らない。機会があれば複数の相手にも躊躇わない。迷いは即ち命取りになる。殺すのは一日に一人だけなどと、悠長に構えている余裕はない。
一晩で、全ての人間を殺すことが望ましい。無理だと思わなければ、出来ないこともないはずだ。時間は限られている。その中で確実に始末していかなければならない。
後戻りは出来ない。やるしかないのだ。
山荘に訪れる前から何度も自分に言い聞かせた。出来ないと思ったら終わりだ。必ず成功する。怖れるな。恐がるな。自分は願いに近づけるはずだ。
そう考えていた。そのように思っていた。
だがそれも、今となっては――終わったことだ。
心配は杞憂だった。絵空事だという考えが、頭のどこかにこびりついていた。
けれど。自分は山荘の人間を殺し尽くした。全員を殺したのだ。
とはいえ、全てが計画通りに行った訳ではない。偶然に任せたり、咄嗟の判断で計画を修正したり、現場の状況に対応出来るような行動を取った。
結果へ至る方法に多少の変更を余儀なくされた。けれど結果は変わらなかった。しかしそれは予測した通り。計画を固定しなかったからこそ、事件を為し遂げられたのだろう。
興味深かったのは、クローズド・サークルに置かれた奴等の行動だ。推理小説さながらに振る舞う奴もいれば、驚くような態度を取る奴もいた。事件を自分で解こうと考える奴や客室に閉じ籠もった奴もいた。
奴等の中にクローズド・サークルものの推理小説を読んだことのある人間も幾らかいたようだ。だがやはり、小説と現実は違う。事件の謎を解き、犯人を明らかにする探偵役など現われなかった。あるいは、いたのかもしれない探偵役を早々に殺してしまったのだろうか。犯人を指摘出来ない残りの登場人物たちは、自分に殺されるだけだった。
良く――ここまで出来たものだ。
成功すると信じてはいた。想いを届かせるために失敗は許されない。支えは常に自分の中にあった。
それでも。一連の事件を終えたことで、自分が安堵しているのは確かだった。人を殺す強さと自信。目的に向かう信念。あらゆる気持ちは、想いに繋がるはず。そう信じた結果だろう。
「殺人犯」の口許が緩む。
天候に関しては僥倖としか思えなかった。天気の崩れがあの日あのときでなければ、合宿は中止か延期になっていたはずだ。あれこそ天の意志というものだろう。天が、神が、自分を激励し、後押ししてくれていた。お前に失敗はない。だから怖れるな。計画は必ず成功する、と。
これではまるで――そう、狐ヶ崎だ。誰に捕まることもなく、殺人事件を繰り返す、名犯人の狐ヶ崎。
「殺人犯」は、かつて読んだ小説に登場した人物を思い出す。
……成程、狐ヶ崎か。自分は陳腐な「殺人犯」などではない。名犯人の「狐ヶ崎」なのだ。だからこそあれほどの連続殺人を行なえた。だからこそ自分は致命傷を負うこともなく生き残っている。
「殺人犯」いや、「狐ヶ崎」にはまだ仕事が残っている。この山荘には幾つもの死体が転がっているのだ。「狐ヶ崎」には死体を処理する必要があった。
だが、今すぐ行動を起こす気にはなれない。少し休息を取ってからだ。
「狐ヶ崎」はソファに背中をもたせ掛ける。腰を預けたまま足を伸ばし目蓋を閉じる。
そうして。「狐ヶ崎」の思考は回想へ沈む。
自身が犯した事件、毬藻荘での連続殺人に。
* * *
一
列車は北へ進む。
時間帯が早いせいか人は少ない。この車両にいる乗客は、十人にも満たなかった。もっとも、列車は便利とは縁遠い山奥を目指しているので、仮に昼時であっても然程混雑しなかっただろう。
「はい、どうぞぅ」
日吉みづきが声を上げた。甲高い声と左右で結んだ髪のせいか、高校生のような雰囲気を醸し出している。扇状に広げたカードを持つ左手の中指には、指輪が嵌まっていた。
「これに、しとこか」
みづきの差し出したカードから一枚を摑もうとするも、御門台タケマルはその手を引っ込めた。
「御門台先輩、一度取ろうとしたものを止めるなんて、男らしくないですよぅ。迷い箸は止めなさいぃ、ってお母さんに言われませんでしたかぁ」
「われ、何言うとんねん。トランプじゃろうが、勝負ごとには負けられへんのや。慎重になるのは当たり前じゃ」
御門台の台詞には、明らかな訛りが混ざっている。大阪弁と広島弁を合わせたような、彼独特の言葉遣いである。
「第一、いい歳した大学生が、何でババ抜きなんぞ、せなあかんのじゃ」
がっしりとした体格の御門台には、トランプで遊んでいる姿は余り似合っていない。
「だからぁ、ただのババ抜きじゃないですよぅ。ジョーカーを三枚入れてあるんですよぅ」
みづきはカードを持っていない方の手で、窓辺に置いてある二つのカードケースを示す。
ひとつは現在使っているカードのケースで、中身は入っていない。もう一方のケースには、ジョーカーを一枚だけ抜いた、残りのカードが収まっている。
「自分の持っているジョーカーが、必ずしもジョーカーになり得ないっていうところが、醍醐味なんじゃないですかぁ」
幼く見えても意外と言葉は知っているようである。
「ジョーカーを何枚増やしたところで、ババ抜きの何が変わるっちゅうねん」
「むぅ。そんなにババ抜きが嫌いなら、イギリスふうにオールドメイドと呼んでくださいよぅ」
みづきの説明を聞いているのかいないのか、御門台はどのカードを選ぶかに専念する。随分迷った末、一枚のカードを取り、げっ、と声を漏らす。咄嗟に手持ちのカードと混ぜ始めた。
「お前が何を引いたのかは解った。早くカードを広げてくれ」
隣に座っている草薙ユタカが、御門台を促す。
「甘いで草薙……それこそポーカーフェイスだと見抜けへんのか? わしがジョーカーを取ったと見せ掛けて、実は取ってもいないジョーカーを実は取って……」
御門台の言葉を余所に、草薙はカードを抜き取る。
「あ、われ、人の話は最後まで……って、何でそれを取るんや。どうして隣のを持っていかんのじゃ」
「いや、全然ポーカーフェイスになっていないし。それに自分から言ってるし」
草薙は揃ったカード二枚を椅子の上に伏せて置く。はい、と言ってカードを差し出す。けれど向かいに座っている古庄しいなの手は動かない。
「しいなちゃん、しいなちゃんの番だよぅ」
みづきに言われ、慌てて草薙のカードから一枚を取る。
「え、あ、はい。ごめんなさい……」
「うぅん、そんなにまゆみちゃんのことが心配なのかなぁ? 二人はいつでも一緒だもんねぇ」
「いえ、その、別に。わたしは、いつも……まゆみと一緒にいる訳では、ありません……」
頬を赤くして、俯き加減にしいなは答える。
「じゃあ、何を考えてぼうっとしていたのかなぁ?」
「それは、あの、はい」
恥ずかしがりながらも、しいなは正直に言う。
「……まゆみのことです」
「ほら、やっぱりぃ」
みづきの笑顔に釣られたように、しいながはにかむ。
「じゃ、これぇ」
しいなのカードをみづきが取り、ゲームは続いていく。
カードゲームに興じている彼女たちから通路を隔てた席には、これまた同年代の男女が座っている。
「……だからね、ミステリはミステリとして楽しめればいい」
遠江ショウゴが口を開く。背の高い、大柄な青年である。
「こんなトリックは無理だとか、こんな事件が起きる訳がないだとか、こんな人間がいるはずがないだとか。じゃあ何かい。実際に起こり得る事件を、現実的な捜査で解決するような作品を読みたいと思うのかい? それはもうミステリではなく、ドキュメンタリーやノンフィクションの類だよ」
「うぅん、確かにそうかもしれないけど……」
遠江の向かいに座る、春日町ふゆみが首を傾げた。
「いくら小説だからって、どうもこれは無理だろうってのも結構あるよ。荒唐無稽や前代未聞をやたらに強調しているようなものが。意外性だけを重視して、論理性に注意を払っていない作品は、私にはちょっと……」
「読めない、かい。自分の場合は、どれだけ意外な結末を持ってきてくれるかを、楽しみにしているんだけどね。現実的には不可能だろうが、どれだけ大掛かりな仕掛けだろうが、意外性があれば、自分は許せてしまう」
「物語の中に、それを許容出来る説得力があれば、ですよね」
遠江の隣に座る長沼リュウスイが、言葉を継ぎ足す。眼鏡を掛け、髪は肩まで届いている。遠江と並んでいるせいか、やや細めな印象を与えるが、二十歳前後の青年としては、標準体型と言って差し支えないだろう。
「SFだろうと、ファンタジーだろうと、現実的には無理な設定、世界だとしても、物語内の現実に沿っていればいい。僕たちにとっての現実が現実的であるように、小説内の人物にとっての現実は物語そのものである。それを読者が違和感なく受け入れることが出来るのであれば、ということでしょうか」
「自分は、そんなに難しいことを言っているつもりはないんだけどね……」
「殺人事件は実際の世界で起こることである。そのため、自身をその状況に置くことが容易い。人が死んでいる前で、犯人は誰だとか、トリックはどうだとか、そんなことを考えるのは酷く不自然に思える。こんな行動を取る人間がいるはずがないだろう、などと考えながら読むのは、ミステリをミステリとして楽しんでいない。遠江さんは、登場人物の行動が不自然ではないとの前提で、ミステリを読んで欲しい、と考えている訳ですね」
ふゆみは長沼の話し方を真似て言う。
「……そうだな、そういうことになるのかな。概ね二人が纏めてくれたことで、合っているよ。ミステリはミステリでいい。ノンフィクションに徹する必要はない。最低限のリアリティがあれば十分だよ」
「まあ確かに。嵐の山荘で、助けが来るまで全員が一ヶ所に固まっていたら、話が進みませんよ」
長沼は前髪を掻き分け、眼鏡の縁を押し上げる。
「そうだね、それはつまらないよね」
ふゆみも長沼に同意する。
「そもそもね、トリックを駆使した殺人や、同一犯による連続殺人自体、現実ではまずあり得ない。閉鎖状況での殺人事件を扱うのであれば、登場人物の行動の不自然さくらい、大目に見てもらいたいね。まあ、これはミステリ研のメンバーに改めて言うようなことではないだろうけど」
遠江は顔を横に向け、これまで黙っていた桜橋キョウに話し掛ける。
「途中から、話が別方向に進んでしまったけれど、参考にはなったかな」
「……はい、とても」
急に矛先を向けられた桜橋だが、話はきちんと聞いていたらしく、素直に頷いた。
「しかし、何だな……。ミステリ研に入っているのに、嵐の山荘パターンを敬遠しているとは。それじゃあ、あの名作が読めないじゃないか。そりゃあ、向き不向きはあるだろうけど、残念だな、次代を担う一年生が……」
「嵐の山荘ばかりがミステリじゃないでしょ。そんな偏ったミステリ観を、次代を担う一年生に押し付けてもね」
ふゆみは、隣に顔を向ける。
「桜橋君、この前、紹介した本、どうだった?」
「あの……まだ読んでないんです。すみません」
桜橋が頭を下げる。気の弱そうな外見のせいか、謝る仕草に余り違和感がない。
「春日町、君のことだから、また美形の探偵ばかりが出てくる作品を薦めたんじゃないのかい? ミステリを美形で読むのかい、君は」
「美形、美形って、私が顔を基準にミステリを選んでいるような言い方をしないでよ。そりゃあ、中年の刑事さんよりも若くて綺麗なお兄さんの活躍が読みたいのは当然のことでしょ。でもね……」
ふゆみは、顔を綻ばせる。
「しいなさんも、まゆみちゃんも、私のお薦めを喜んでくれたよ」
「……ああ、そうか。一年生の読書傾向が妙に偏っていたと思ったら、あれは君の影響だったのか」
桜橋は二人の言い合いに、どう対応して良いかが解らないようで、二人の顔を交互に見ているだけだった。
「気にしなくていいよ。しばらくすれば収まるから」
「そう……ですか……」
長沼に言われ、桜橋は相好を崩す。
「上級生の意見は、あくまで参考にすればいい。必ず読まないといけない、なんてことはない。読まされてミステリを読んだって、つまらないだろう? 同様に、本格を書きたいからといって本格を読むのは本末転倒だ。本格が好きだから、本格を書くんだろう? 君は自分が面白いと感じたものを順に読んでいけばいい。そうすれば書きたいものがそのうちに見つかる。まあ、今更僕が言うようなことではないと思うけどね」
ミステリ談義に花を咲かせている彼らの後方、空席を挟んだ位置に、柚木ユキトがぽつんと座り、文庫本に目を落としている。既に一冊を読み終え、二冊目に入っていた。
席の都合もあったが、柚木は最初から遠江と長沼の後ろの席に座っていた。けれど彼らの話し合いが次第に白熱してきたので、こちらの席へ移動してきたのだ。
この場にいる者は、柚木の性格を知っているので、あえて声を掛けていない。このような光景は、場所がボックスから電車に変わっただけで、彼らには見慣れたものであるからだ。彼らにとっては日常の、大学のボックス内と何ら変わらない風景だった。
―─以上九人の男女が、S**大学推理小説研究会春合宿の参加者である。
当然彼らは知る由もない。
これから毬藻荘で起こる惨劇を。
ただ一人、「狐ヶ崎」を除いては。
二
ホームに降り立った彼らを待ち受けていたのは、視界一面の雪景色だった。雪は風景に溶け込み、音もなく降り続いている。
「うわぁ。凄いなぁ」
みづきが驚きの声を上げるのは無理もない。S**大学が位置するS県内では一年を通して雪が降ることはなく、雪の降り積もった光景を目にすることなどないからだ。
「さすがは雪国、といったところでしょうか」
最後に列車から降りてきた長沼を確認して、遠江は改札へと向かう。
「バスは、ここからすぐ出ているのか?」
隣を歩く草薙に訊ねる。行先である山荘に泊まれるよう取り計らい、交通手段を調べたのは彼である。
「ああ、すぐそこだ。二時間に一本しか来ないが、時間はきちんと調べてある。あと二十分は余裕があるな。バス停には待合室もあるから、バスが遅れてきても凍える心配はない」
草薙が冗談めかして言う。引き受けた以上、きちんと仕事はこなすので、研究会での彼に対する評価は上々だった。
改札を抜けた辺りでは、小さい駅ながらも数軒の土産物屋が店を出していた。
声を上げて駆け寄ったのは、みづきである。その姿は大学生に見えない。ふたつに結った髪が揺れていた。
「全く……どっちが後輩なのか、解らないわね。バスに遅れないようにちゃんと見張っておかないと」
駆け出したみづきのあとを、ふゆみとしいなが追い掛ける。みづきは売場の中年女性に、これは何か、あれは何かと、一頻り訊ねているようだ。
「みづき、解ってると思うけど、お土産なら帰りにしなさいね」
ボランティア研究会の活動にも参加しているからではないだろうが、ふゆみは自分より年下の後輩たちに色々と世話を焼き、面倒を見る傾向があった。
「大丈夫ですよぅ、ふゆみ先輩。ちゃんと考えてますよぅ。今は、帰りに何を買おうか、眺めているだけですよぅ」
みづきが後ろを振り返る。
「しいなちゃんも、まゆみちゃんのお土産、何にするのか決めておけばぁ」
はぁ、と一応しいなは頷いてみせる。
「あんたたち、いいときに来たね」
みづきたちに、売場の女性が笑顔を向ける。品物を売りつけようというのではなく、単に話し好きな性格の持ち主であるようだ。そのせいか地声も大きい。
「いいとき、ですか?」
ふゆみが鸚鵡返しに聞き返す。
「ああ、ここは鄙びた田舎町だけど、そこそこの観光客が来るんだよ。登山とか、釣りとかにね。あんたたちみたいな団体のお客さんも、日に何組かやってくるよ。雪は毎日降ってるようなもんだけど、降るのは大抵昼間だけだね」
改札から出てきたのは、みづきたちの一行のみだったので、中年女性は団体の旅行者だと考えたのだろう。
「それが、二、三日前はかなりの大雪でね。そのときは昼夜構わず降り続けて。とてもじゃないが、店を出してなんかいられなかった。数日ずれただけでも、あんたたちは幸いだったね」
中年女性の言うことに、みづきは顔を綻ばす。
「うわぁ。吹雪の山荘ですかぁ。遠江先輩も残念だったねぇ」
ふゆみとしいなは苦笑を漏らすが、中年女性には意味が解らないようだ。
「そろそろ時間だ」
こちらへやってきた遠江がふゆみたちに声を掛ける。遠江の後ろには、御門台の姿もあった。どのようなものを売っているのか、多少は気になったのだろう。
「はぁい。それじゃぁ、また帰りに寄りますねぇ」
みづきが売場の女性に向かって挨拶をする。
「あれ……柚木君がいないみたいだけど」
歩きながら、ふゆみが口にした。
駅の出入口付近にメンバーは集まっている。そこには近辺案内図という看板が立ち、近くのホテルや旅館の場所が記されていた。
長沼は看板隣の柱にもたれ掛かって煙草を吸っている。草薙は荷物の前にしゃがみ、桜橋は所在なさそうに突っ立っていた。だが、その中に柚木の姿はない。
「ああ、さっきまでおったんやけどな。あいつは、先に待合室に行っとる。わしらも早く行かんと、乗り遅れてまうで」
御門台たちが戻ってくるのを見て、草薙が腰を上げた。長沼も煙草の火を消し、荷物を肩に掛ける。
「バス停はこっちだ」
と言う草薙を先頭に一向は進む。
「残念でしたねぇ、遠江会長ぅ」
みづきが楽しそうな顔で遠江に声を掛けるが、遠江は言われたことの意味が解らないようだ。
「二、三日前は、雪が酷かったって。さっきのおばさんが言ってたよ」
隣を歩くふゆみが、みづきの言葉を補強する。
「ふぅん、天候が芳しくないのは、天気予報で知っていたが、それほど酷かったのか……。だが、それは数日前のことだ。合宿が無事に行なえることは、喜びこそすれ、残念がることなんかないんだけどな……」
「だからぁ、あと何日か早く来れば、遠江会長の好きな吹雪の山荘になっていたんじゃないですかぁ」
みづきはどうしてこんなことが解らないのかというように言い放つ。
それを聞いて遠江は深くため息を吐いた。
「あのな、日吉。確かに自分は、クローズド・サークルものが好きだけど、それは小説の話だ。実際に旅行した先が、吹雪に見舞われるなんて状況を好んだりしないよ」
ええ、そうなんですかぁ、どうしてですかぁと言い続けるみづきの対応に困り、遠江はふゆみに助けを求めた。
このような的を外したみづきの発言は初めてではないが、まともに対応出来るのはふゆみか御門台くらいである。
その様子を見てしいなは苦笑する。隣を歩く桜橋に顔を向けるが反応はなかった。桜橋は消極的な性格もあり、余り口を開かない。しいなも自分から話し掛ける方ではなく、普段は一緒に入会した清水まゆみと過ごすことが多い。
まゆみはしいなと違い、社交的で活動的な性格である。けれど、どこか通じるものがあったのだろう。高校時代から、ふたりの付き合いは続いている。そのため、みづきから二人の仲をからかわれることが多々あった。そういうときに、きっぱり返事を出来るのがまゆみであり、途惑ってしまうのがしいなだった。
一年生同士、もう少し交流があってもいいだろう。しかし、ただ一人の男子である桜橋は自分から他人に話し掛けることが多いとはいえない。言うなれば、しいなと似たような性格をしている。なので、二人が一緒にいても会話は少なく、そこに第三者を挟んだときにのみ、会話が可能という状況になっていた。
一向がバス停に着くと、待合室に座る柚木が顔を上げた。けれどそれも一瞬で、彼はすぐに文庫本に顔を戻す。車中で読んでいた本とは、カバーが別のものだった。彼はミステリに限らずあらゆる種類の本が好きなので、文芸部にも所属していた。
「柚木、何冊目や、それ?」
荷物を足下に置き、御門台が声を掛ける。
柚木は文庫から目を離さずに、素っ気なく答える。
「三冊目」
三
雪は降り続く。
「あらかじめ聞いていたとはいえ、本当にこんな山奥とはね……」
ふゆみはハンカチを取り出して、額の汗を拭う。
駅前からバスに乗って四十分、麓でバスを降り、山道に入って二十分が経とうとしている。曲がりくねった山道は申し訳程度に舗装されているだけで、お世辞にも歩きやすいとはいえない。周囲は木々が生い茂り、昼間とは思えない程に薄暗い。更に春特有の湿った重い雪が、歩行を困難にしている。
「もうすぐだから、みんな頑張ってくれよ」
先頭を行く草薙が後ろを振り返る。
「本当? みづき、しいなさん、あと少しだって」
ふゆみがすぐ後ろを歩く二人に声を掛けるが、返事はない。しいなはもとより、車内では散々騒いでいたみづきも、声を出せないくらいに疲れているようだ。
「大丈夫か? 厳しかったらちゃんと言ってくれ」
その後ろを、遠江が女性陣を気遣って歩く。
「今回は仕方ないにしても、次回はまた、場所を考えないといけないか……」
遠江のあとを柚木が黙々と進む。彼も疲れているようだが、不平ひとつ言わずに進んでいく。
「それにしても、どうしてこんな山奥に……別荘なんて、建てたんでしょう……」
最後尾を歩く桜橋が掠れた声を出す。すぐ前を長沼と御門台が歩いている。
「なんや、知らんかったんか?」
桜橋の問いに、二人は不思議そうな顔をした。
「ああ、そういえば、自分は、この前ボックスにおらなんだな……」
「この別荘を立てた資産家というのが……かなりのミステリマニアらしくてね……。登呂さん、だったかな……が道楽で建てたものだそうだ。……ミステリに登場するような……山奥の山荘を、いつか作りたかったらしい……」
長沼が息を切らせながら言う。
「それを、草薙の親戚だか知り合いだかのつてで、わしらミステリ研の合宿に使わせてもらえることになったんや」
推理小説研究会のメンバーは、自分たちのサークルをミステリ研と略して呼ぶことがある。
「そう……ですか」
御門台は他の者に比べると、それほど疲れていないようだ。汗を掻いてはいるものの、普段と同じように話している。
「しかし思ぅたよりも、きつい山道やし……。ここは今回限りになるかもしれんな。ん、ようやく、到着かいな……」
先頭を歩く草薙を始め、他のメンバーも歩みを止めている。最後尾の桜橋も草薙たちに追いついた。どうやら坂道も、ここで終了らしい。
視界には谷川が広がり、そこに木製の吊り橋が渡されている。対岸は鬱蒼とした木々が立ち並び、その中に埋もれるように横長の建物が鎮座している。
「あれが、毬藻荘……」
桜橋が呟いた。
山道はここで終わり、木製の吊り橋へと続いている。
谷底までは、三十メートルくらいあるだろうか。谷の両側は垂直に切り立った崖になっており、底には川が流れる。急に開けた視界に対し、一行は押し黙っていた。川のせせらぎが、やけに大きく聞こえる。
「あ、あの、この橋を渡るんですか……?」
しいなが怯えたような声を出す。今回の合宿担当は草薙なので、自然と彼の言葉を待つ。
「ああ、そうだよ。見た目よりは頑丈だ。吊り橋も、山荘と同じく定期的に調べているそうだから、老朽化の心配はないとのことだ。雪に足を取られないよう、慎重に歩けば大丈夫だ」
草薙の説明に、そうですかと頷きはしたが、しいなにとっては気休めにもならないようだ。
「他に道はないの?」
しいなの様子を見て、ふゆみが助け船を出す。
「そこに、転倒防止用の柵があるだろう? 途中までそれに沿って山の中を進めば、対岸に出られるようだが、登山の経験者でも困難な山だそうだ。自殺行為になるようなことは止めてくれと、オーナーの登呂さんにくれぐれも念を押されている」
「……そうですか」
諦めたようにうな垂れるしいなとは反対に、みづきは嬉しそうな声出す。
「えぇ、どうしてぇ。しいなちゃん、小説みたいな景色じゃん。それに、あんな高いところを歩くなんて、滅多に出来ることじゃないよ。空の上を歩けるんだよぅ」
みづきの言葉を全て理解出来た訳でもないだろうが、しいなは覚悟を決めたようだった。
「そうだな、古庄には悪いが、我慢してもらうしかない。春日町、古庄を頼むよ」
皆を促し、遠江が先頭に立つ。
橋の長さは十五メートル程だろう。降り積もった雪を足で払いながら、遠江が進む。
「足を滑らせないように気をつけろよ」
以下、吊り橋の高さに動じない者から順に渡る形となり、ふゆみに見守られるようにして、最後にしいなが渡り終えた。傍らでふゆみが良く頑張ったねと、しいなを労っている。
吊り橋を渡り、崖に沿ってやや右手へ進んだところに山荘が佇む。彼らが数日を過ごすことになる、毬藻荘である。
屋根に雪が積もり、外観も白いので、山荘全体が、雪に覆われているかのようである。周囲に木々が立ち並び、裏手には林が広がる。その間から、光は細々と差し込むだけだった。
「ようやく到着だな」
玄関前に立ち、遠江がため息を吐く。山奥の山荘で合宿を行なうなど初めての試みだったので、何とか無事に目的地へ到着したことに安堵しているようである。
「あれは、何でしょうか?」
長沼が向かって左側を手で示す。山荘から二十メートル程離れたところに、小さな建物が建っていた。
「ああ、あれは離れだよ。中は母屋の客室と、ほぼ同じ造りになっている。一応鍵を預かってはいるが、部屋数は十分にある。使うことはないだろう」
草薙が説明する。世代の違う老齢の管理人との対応が無難に行なわれたのは、彼の手腕に依るところが大きい。
「とりあえず、みんな疲れているだろうから、各自部屋を決めたら少し休もう。確か部屋にはシャワーが備え付けてあるということだったな。そのあとで、今後の予定を決めることにしよう」
遠江の言葉に、全員が賛成した。
四
毬藻荘は東西に伸びた建物で、玄関は西端に設けられている。玄関ホールには人数分のスリッパが用意されていた。ホールの正面、方角にして北側に二階への階段があり、右手にラウンジ、その隣に食堂が位置する。どちらの部屋も廊下へ繋がる扉が北側に付いていた。ラウンジと食堂は互いに扉で繋がっており、行き来が可能である。食堂の東側はカウンターで仕切られ、その先が厨房になる。廊下へは、厨房からも出入りが出来るようになっていた。
玄関ホールを抜けると、すぐ右手に管理人室がある。部屋は東側に続き、隣の二部屋は空室である。その向こうに浴室、トイレが並び、東端が貯蔵室となっている。これらの部屋は廊下を挟んだ北側にあった。
二階へ上がると廊下が東側に伸びており、西から東へ十の客室が並ぶ。部屋の番号は階段に近い側から二〇一、二〇二、東端の二一〇まで順番に続く。内装は、どの部屋も同じで、扉は南側にある。扉にはドアスコープが付いているので、部屋の前に誰がいるかを確認出来る。
内開きの扉を開けると、すぐ右手がユニットバス、左手奥にベッドが固定され、正面にやや大きめの窓が見える。右手奥の壁側にクローゼット、テーブルが置かれ、壁に鏡が掛けてある。床は一面、カーペットが敷き詰められていた。
客室の窓から見えるのは、鬱蒼と茂った木々と一面の雪のみであり、どの部屋から外を見ても、似たり寄ったりの景色である。それもあってか、各自の部屋はすぐに決まった。西端の二〇一から順に、しいな、ふゆみ、みづき、一部屋空けて、御門台、遠江、長沼、柚木、桜橋、草薙、という部屋割りである。
部屋が決まったあとで、各自に鍵が配られた。部屋番号の記されたプラスティックのプレートと鍵が、キーホルダーで繋がれているものだ。
客室はオートロックではないので、部屋を空けるときに各自が施錠しなければならない。鍵を部屋に置き忘れて締め出されることはないが、万が一鍵をなくしてしまったときのために、合鍵が管理人室に保管されていた。
そこには、玄関の鍵や離れの鍵も一緒に置いてある。当然のことだが、使用されていない客室や離れの鍵はきちんと掛けられている。
五
「駿河さんが、見知らぬ二人組から渡された原稿……それが、『狐ヶ崎』の活躍する物語だった」
遠江はここで一旦言葉を区切り、煙草の灰を灰皿に落とした。
廊下からラウンジに入ると、正面に窓が見える。室内には、四角いテーブルが二つ、端をくっつけて横に並び、その周囲は三人掛けのソファで囲まれている。扉から見て右手の壁際に、アンテナの付いた大型テレビが設置されていた。背から伸びたコードは壁のコンセントに繋がっている。
遠江が座っている側のテーブルには、煙草の箱が二つとライターが載っていた。
「そういう経緯だったんですか、そこまで詳しくは知りませんでしたね」
長沼が感嘆の声を漏らす。
「ああ、ただ自分も伊豆さんから聞いた話だし、伊豆さんも上級生から聞いただけで、初代会長の駿河さんと直接の面識はないんだ。だから、どこまでが本当の話か解らない」
伊豆というのは、現在四年生の伊豆ソウジのことである。去年までは、彼がミステリ研の会長をしていた。四年生は卒業後の準備などで慌ただしいことが多く、余程の余裕がない限り、合宿には参加することがない。そのため春合宿は、実質的に一年生から三年生で行なわれていた。
「その二人と会ったのは駿河さんだけで、他の会員は誰も顔を合わせていないらしい。当時の会員たちも、原稿を持ってきた学生がいたというのは作り話で、『狐ヶ崎』の物語は駿河さんが書いた作品ではないかと疑ったそうだ」
「でも、自分で書いた作品をどうして隠す必要があるんです?」
桜橋が疑問を口にする。
「それは、どのような評価をされるかが、不安だったからじゃないのか。楽しんでもらえるのならともかく、つまらないと貶されたときに、これは自分の書いた作品ではないと逃れることが出来る。それに、初代の会長を務めた程の人物だ。自分の作品によって、ミステリ研の評判が落ちることだけは避けたかったんじゃないかな」
「そういうものでしょうか……」
長沼は納得が行かないような顔で、長い髪を掻き揚げる。
「結果的に好評でありながら、続きを書かなかったのは、やはりそれが自分の書いたものではなかったからでしょう。それに自分の作品を素晴らしい出来だから読めと、毎年後輩たちに配るのはどうかなと思います。会ったことのない駿河さんに、悪い印象を抱き兼ねませんね」
「まあ、駿河さんが書いたものにしろ、他の人間が書いたものにしろ、その原稿が優れていることは確かなんだ。そうでなければいくら伝統とはいえ、素人の作品を毎年新入生に配りはしないよ」
「いえ、あれはこれからも配るべきだと思います。ぼくと同じ大学生が、これほどのものを書いたんだって驚きと同時に、創作を志す者にとっての励みになります」
普段の大人しい口調ではなく、桜橋がはっきりと言う。何かの意見を述べたり主張したりすることは、彼にしては珍しい。
ラウンジには遠江、長沼、桜橋の三人が集まっていた。エアコンにより、室内は程好い温度に保たれている。
それぞれの部屋を決めたあと、約一時間後の三時を目安にラウンジに集まることにしたのだ。山荘への到着時間は余裕を持たせてあったので、今後の予定を決めるのに急ぐこともない。
三人が話しているのは、サークル内では『狐ヶ崎』シリーズと呼ばれる、素人学生が書いたとされる推理小説のことである。詳しいことが解らないのは、作品を書いた作者自身と接触を取った者が、当時の会長である駿河のみだったからだ。
『狐ヶ崎』シリーズは、連作短編集の形を採っている。探偵役の『狐ヶ崎』が頼りない助手役とコンビを組んで殺人事件を解決していく一話完結の物語である。しかし最終話に施された仕掛けにより、個々の物語で犯人と指摘された者たちの犯行が全て否定されてしまう。そして、『狐ヶ崎』がこれまでに解決した事件は、皆彼による偽の解決であることが明かされ、真犯人は自分であることを助手役だけに告げ、物語は幕となる。
いわゆる探偵が犯人のパターンである。この作品に駿河が固執したのは、内容はもとより、原稿を書いたのが自分と同じ大学生であったことが原因らしい。文章や構成に難はあるものの、作中で語られる内容は、これほどの作品が学生に書けるものだろうかと、駿河に深い感銘を与えた。
駿河が推理小説にのめり込んだ契機の作品の著者が、大学時代、推理小説研究会に所属していたことを知り、駿河は自分のサークルにも斬新な試みで世間をあっと言わせるような才能が入会してくれることを期待していたのである。
もちろん駿河は自分でも創作をしたり、推理小説についてのレクチャーを後輩に行なったりもした。けれど読書が好きな者はいたが、自ら書くことを好む会員は、推理小説研究会でありながらほとんどいなかった。
駿河が『狐ヶ崎』シリーズの作品を読んだときの驚きようといったらどれほどのものだっただろう。原稿を持ってきた二人組が、入会希望ではないと断っていたのにも拘かかわらず、駿河は再び訪れた二人に対して入会を強固に薦めた。駿河の執拗さに負けた彼らは、サークル内で読むことを前提として、『狐ヶ崎』が登場する原稿を渡してくれた次第である。
「最初は、駿河さんがこの作品は凄いからということで、会内の数人に読ませただけだった。それが他の会員たちにも好評で、当時のメンバーに廻し読みされた。駿河さんの作品だと思っている会員の一人が、新入会員にも読ませようと提案したそうだ。――当時はまだ、内輪向けの会誌しか作っていなかったので、新入生に活動内容を説明するときには、レクチャーや読書会用のレジュメを見せていたらしい。駿河さんも、素人学生が書いた小説をもっと多くの人に読んでもらいたいと考えていたらしく、その案に異論は出なかった。その後、入会届を出した学生には、『狐ヶ崎』の物語が渡されることになり、それが現在まで続いているという訳だ」
六
話が一段落着いたからか、長沼も自分の煙草をテーブルから取って口に銜える。合宿に参加したメンバーで、喫煙するのは遠江と長沼の二人だけである。
そこへちょうど、賑やかな声が聞こえてきた。ほどなくラウンジの扉が開き、みづきが顔を出す。ふゆみとしいなも一緒である。シャワーのあとに着替えたのだろう、彼女たちは先程と服装が変わっていた。そのあとに女性陣から少し遅れて御門台が入ってくる。
「しかし、凄いところやな。ここは」
御門台は遠江の隣へ腰を降ろす。
「わしが部屋を出たときに、ちょうどあん子らも出てきてな。ひとつの部屋に集まって話しとったようなんじゃけど」
御門台は、もう一方のテーブル側に腰掛けたみづきたちを示した。
「部屋におっても全く気づかんくてな。ボックスの外からでも聞こえる日吉の声が聞こえんちゅぅのは、かなり防音がしっかりしとるようやな」
「ちょっとぅ。変なこと言わないでくださいよぅ。それじゃあ、あたしがいっつもうるさくて騒がしいみたいじゃないですかぁ」
遠江たちとは反対側のソファから声を掛けるが、普通に話していても、みづきの声は大きい。この声が聞こえないとなれば、室内で叫び声を出しても、別室の者には聞こえないだろう。
「そういえば……そうだな。てっきり山奥だからこんなに静かなんだと思っていたが、防音設備か……」
遠江は、短くなった煙草を灰皿で揉み消す。
「自分の部屋がノックされているのならともかく、隣の部屋がノックされていても気づけへんかもしれんな。殺人犯には都合のええことこの上ないわ」
それを聞いて完全に冗談と受け取れる者と、不謹慎な物言いだと考えた者とで、笑いの質が異なっていた。
それは御門台の言うことが強ち冗談でもないことを皆解っていたからだろう。山奥の山荘。各部屋に施された遮音設備。ノックの音も聞こえず、悲鳴さえも聞こえない。もしそのような良からぬ考えを持つ者がいるのであれば、これほど絶好の舞台はない。
「だけど、ここは閉鎖された山荘じゃないだろう? 天気もここ数日は良好だ。クローズド・サークルじゃないんだ」
遠江が至極当然なことを言う。
「だけど、残念でしたよねぇ。遠江会長ぅ。吹雪の山荘にならなくてぇ」
みづきが、前に言ったようなことを口にする。
「日吉、それは二度目だ。さっき説明しただろう」
「あれ、あれれ。そうですねぇ。聞いたような気がしますぅ」
はにかんだ表情を、みづきは見せる。
「そういえば、結局入江岡は、何が理由で来れんかったんや? 今までは欠かさず合宿に参加してたやろ」
御門台が思い出したように言う。
入江岡リンタロウは三年生で、現在編集長を務めている。例会はもちろんのこと、これまでサークル内の行事を休んだことはなかった。入江岡にとって、サークル活動を欠席するのは、今回の合宿が初めてである。
「何か外せない用事があるそうだ。ただ、どうしても理由を教えてはくれなかったんだが」
遠江が答える。
「外せへん用事ねぇ……。案外、吊り橋が怖くて渡れへんちゅうのが理由やったりしてな」
春合宿の行先や予定などを纏めた栞は、毎回合宿担当によって作られる。その習慣に漏れず、今回の栞は草薙が作成した。それは合宿の参加不参加に拘らず、二週間程前、全会員に配られている。毬藻荘に行くには吊り橋を渡らなければならないことも、そこに記載されていた。
「まさか、そんなことで休んだりしないだろう」
「解らんで、あいつは結構プライド高いしな。来てはみたものの、やっぱり渡れませんでした、なんてのは許せへんのやろう」
などと、それぞれが取り止めのない話をしているうちに、草薙がラウンジへ降りてきた。
「あれ、もうみんな揃っているのか?」
「いや、柚木がまだや」
「まあ、いつものことと言えば、いつものことか」
草薙は遠江の向かいに腰掛け、腕時計を確かめる。まだ十五分程、時間が残っていた。
七
柚木がラウンジに現われたのは、三時ちょうどだった。
全員が揃ったところで、草薙により改めて連絡事項が伝えられた。
「……食料はあらかじめ用意されているのを、自由に使ってくれて構わないそうだ。冷蔵庫や貯蔵室に飲み物や食べ物は十分に用意されている。ただ、余り食べ過ぎないように。胃薬や頭痛薬、鎮痛剤など、最低限の薬は管理人室に置いてあったが……ま、大学生相手に言うことでもないだろう。体調管理は個人に任せる」
草薙はここで一度話を区切る。他に言うべきことがないか考えているようだ。
「あとは……何があったかな。離れのエアコンは故障中で、代わりにストーブが置いてあるそうだが、これは俺たちには関係ないか。ああ、さっき少し言ったけど、風呂は二十四時間いつでも入れるようになっているから、入浴は自由だ。けど、他に誰も入ってこないような時間帯であれば、出たあとにガスのスイッチは切っておくように」
草薙は遠江に顔を向ける。
「……と、これで合宿係の仕事は終わりだな。あとの仕切りは、会長と次期会長に任せる」
「ああ、ご苦労様。草薙、奇術研の方で忙しかったところを、悪かったな」
奇術研究会でも、合宿のようなものが行なわれていた。日程が重なっていたため、草薙は奇術研の方を早めに切り上げて、ミステリ研の合宿に参加しているのだ。
「いや、いちいち気にしなくていい。マジックよりもミステリを取っただけのことだ」
草薙と遠江は、他人が嫌がるようなことを自ら進んで行なう傾向があった。ミステリ研の運営は、実質この二人によって担われていると言っても過言ではない。
根本的には似たような性格の二人であるが、異なる箇所はある。遠江はどのような仕事であれ、最初から自分で係わろうとする意識を持っているが、草薙は他に立候補者がいない場合にのみ、自分がその仕事に携わろうとする。遠江が会長になり、草薙が役職に就かなかったのも、この点が理由として挙げられるだろう。
「では、今後の予定を確認しておく」
草薙に代わり、遠江が口を開く。
「今回の例会担当は一年生。初日が桜橋のレクチャー、二日目が古庄の読書会、三日目は三年生が担当の特別例会だが、こちらの内容は、まだ明かさないでおこう。場所は、そうだな、食堂を使うか。メモを取れる場所の方がいいだろう」
ミステリ研の合宿では、毎夜例会が行なわれる。通常例会とは違って時間制限がないため、担当者も会員たちも心行くまでの討論が可能となる。来年度の役職を決める参考にと、合宿での例会は基本的に一年生が担当していた。清水まゆみが参加していれば、彼女の担当する例会が三日目の夜に行なわれただろう。
「それと、前々からの懸案である、新入会員勧誘の件。これについては、桜橋のレクチャーが終わったあとに一人ずつ意見を聞くことにするので、各自考えを纏めておいて欲しい」
懸案というのは、ここ最近、推理小説研究会の入会者が減少していることである。ミステリを扱ったコミックの影響で、顔を見せる新入生は増加していた。しかし彼らはコミックのノベライズは読むものの、活字で書かれたミステリを読むのが苦手で、すぐにサークルを抜けてしまっていた。
映画やドラマのミステリ作品に興味を持って入会を考えた学生たちも、活字のミステリには取っ付きにくいのか、なかなか定着しなかった。コミックやドラマのミステリを軽んじる訳ではないが、活字のミステリに興味が持てないというのは、ミステリ研の会員たちにとって、切実な問題であった。
もともと人数の多いサークルではないが、この数年会員の減少が顕著である。入会希望者や見学者は毎年ある程度の人数が来るものの、最終的に入会する学生は少ない。去年も今年も、新入会員は三人だけだった。このままでは廃部となりそうな状況をどうやって打破するかが、ミステリ研に於いて由々しき問題となっていた。
「あとは、夕食の担当を決めないとな。さっき草薙が言った通り、材料は自由に使っていいそうだ。食事に対して希望は特になかったので、献立は担当者に任せることにする。そうだな、二、三人いれば大丈夫だろう」
これまでのホテルや旅館での合宿と違い、今回は自分たちで食事の支度をしなければならない。
「おれがやりますよ」
そう言って柚木が立ち上がる。会員たちは多少なりとも驚いているふうだった。
「料理、出来るんか?」
「まあ、人並みに。広いキッチンを、一度使ってみたかったんです」
柚木は自分のしたいと思う行動を迷わず敢行し、そのための発言なら躊躇うこともない。普段彼が口を開かないのは、話したいことや聞きたいことがないからである。柚木は、話すときは話すが話さないときは全く何も話さないという両極端な性質を持っていた。
「おい、どこ行くんや」
御門台が止めるのも、柚木がラウンジを出ていこうとしたからである。
「何を作るにしろ、ある程度の時間は必要でしょう。早めに作り始めるに越したことはない。そうだな、二時間、いや、三時間もらえれば十分だ。六時半には食堂に用意しておきますよ」
言うだけ言うと、柚木は振り返らずにラウンジを出ていってしまう。
「あ、ああ。それじゃ夕食は、六時半からということだな」
遠江にしても、柚木の突飛な振る舞いには未だ慣れていないらしく、発言が遅れた。
「とはいえ、さすがに一人でやらせる訳にもいかないだろう。誰か、手伝ってくれる者はいないか」
「じゃあ、あたしもやるぅ。たまにはご飯作りたいしぃ」
みづきが張り切って手を上げる。柚木のときと違い、皆の反応には不安の色が少なからず混ざっている。もっともみづきは、自分の発言に対する皆の反応に気づいていないようである。
「私も手伝うよ」
「はい、お願いしますぅ」
ふゆみの発言に安心したのは、みづきだけではないだろう。
「では、今日の夕食は、柚木、日吉、春日町に頼む。それじゃあ、あとは夕食まで自由時間だ」
そう言って、遠江はこの場を締め括った。
ふゆみとみづきに対し、わたしも手伝った方がいいでしょうかとしいなが訊いてきた。
「うん、大丈夫。みづきもいるし。さっきの口振りからすると、柚木君もかなりの腕前なんじゃないかな。しいなさんは休んでくれていいよ」
ふゆみが言ってみづきも同意を示したので、しいなは一礼するとラウンジを出ていった。おそらく自分の部屋に戻るのだろう。
しいなと話しているうちに、ラウンジに残っているのは自分たちを除けば遠江と草薙の二人になっていた。遠江は新しい煙草を取り出しているので、もうしばらくここに残るつもりかもしれない。
「じゃあ、私たちも行こうか。柚木君、誰も来なければ一人で先に作っていそうな感じだし」
ふゆみとみづきは、食堂へ繋がる扉を開けて厨房へと向かう。
「ふゆみ先輩、自炊は何日振りですかぁ」
「あ、あのね、みづき。毎日作るから、自炊って言うのよ」
ふゆみの表情が少し強張ったが、そんなことにみづきは気づかないようだ。
「それじゃあ、料理の腕には自信がありそうですねぇ。石垣の家では食事担当を任されていたって、聞いた覚えがありますよぅ」
「どうだろう、柚木君と同じで人並み程度かな。作ってたって言っても、家族相手だし、家庭料理くらいだよ」
何でもないことのように、ふゆみはさらりと流す。
ふゆみが高校生のとき、彼女の両親が離婚している。ふゆみは母親に引き取られることになり、石垣姓から春日町姓に変わった。両親の離婚は円満に行なわれたとは言えず、当時のふゆみに幾らかの影響を与えた。家庭内の不和によって精神的な失調に見舞われたふゆみは、高校へ通うことが困難な状況に陥った。それにより、ふゆみは止むなく留年することになったのだ。とはいえ、復学してからは以前の明るさを取り戻していた。
このことは特に他人に言うことではないが、仲の良いみづきだけには話してあった。自己紹介で自分から言わない限り、ふゆみが周囲より一年遅れて大学に入学したことは、誰にも解らない。早生れなので、同学年の学生たちと生まれ年は同じなのである。
「それじゃあ、今日はふゆみ先輩と柚木君にお料理の作り方を教えてもらいますねぇ」
ふゆみは頑張ってとみづきに声を掛ける。厨房へ続く扉を開けて、ふゆみは首を傾げた。
「あれ、おかしいな。柚木君がいない」
貯蔵室には段ボールやら発砲スチロールやらが、棚ごとに並べられていた。それらは扉に近い棚から乱雑に置かれている。食材を用意した人間は、置き場所や中身に注意を払わなかったようだ。
一箱ずつ蓋を開けて、柚木は中を確かめた。必要な食材を空いた段ボールへ詰め込んで、厨房へ向かう。野菜を入れた箱を片手で抱え、もう一方の手で扉を開けると、みづきとふゆみがいた。
「何?」
開口一番柚木は問う。
「夕食作り、手伝いに来たの。遠江君が、二、三人で頼むって言ったの、聞いてなかったの?」
柚木の質問にふゆみが答える。
「聞いていた。だがこれまでの例からすると、最初に決まらないときは、いつまで経っても決まらない。どのようなことであれ、最終的には遠江さんか、草薙さんがすることになる。だから、君たちが手伝いに来るとは思わなかった」
「そういえば……そうかな。でも、いつもあの二人に任せてる訳じゃないよ」
柚木は段ボールを流し台の横に置く。
「何を作るのぅ?」
先程の挙手からも解るが、みづきは誰に対しても別け隔てがない。相手が柚木だろうと、他の誰であろうと、態度や応対が変わることはない。それは上級生や下級生、年齢や性別が違う者に対しても同様だった。持ち前の人懐っこさのせいか、誰からも疎まれてはいないようである。
「冷蔵庫の中を見た。牛肉と卵の消費期限が近い。早めに処理した方がいい」
みづきが冷蔵庫の中を開ける。家庭用の冷蔵庫よりも、一廻りは大きい。
「S県と違って、こちらはかなり寒い。夜は大分冷えそうだ。体が暖まるように、ビーフシチューを作る。卵を使いたいから、プレーンオムレツも。それに野菜サラダだな。あとはフランスパンがあったから、それを焼く。メニューは一応こんな感じだ」
みづきとふゆみはすぐに反応出来なかった。
「何だ、他に作りたいものがあるのか? それなら言ってくれ。おれは別に何が何でもビーフシチューを作りたい訳じゃない」
柚木は敬語が使えないのではなく、他人と話すことに慣れていないのだ。そのため上級生を相手にすると、丁寧な口調のとき、上級生だと意識しない話し方のとき、それらふたつが混ざったような妙な言葉遣いを使うときと、話し方が度々異なる。柚木はボックス内で誰かと二人きりになっても気不味さを感じないのか、気にすることもないのか、余計な口を利くことはなかった。
これは柚木の性格によるもので、一緒にいる相手が嫌いだとか苦手だとかいう理由で避けているのではない。話し掛けられれば、ちゃんと言葉を返す。桜橋の場合は恥ずかしくて話せないということもあるが、柚木の場合は違う。必要があれば話すが、必要がなければ話さない。
実際、柚木は取っ付きにくい相手である。桜橋は大人しいとはいえ、他のメンバーが一緒にいれば柚木と話すことも可能だが、しいなは性格的に無理なようである。入会して一年が経とうとしているが、しいなは先輩である柚木とは未だ話したことがなかった。
「え、いや、色々考えてるんだなって思って。うん、いいんじゃないの」
柚木の発言に、ふゆみが少し遅れて答える。柚木は聞いているのかいないのか、流し下の収納を調べていた。収納扉の内側にある包丁差しに、三徳包丁、捌き包丁、ペティナイフなど、包丁一式が揃っている。収納には、フライパンや鍋など、大小数種類が仕舞われていた。柚木は必要とする調理道具を取り出し、流し台に並べていく。
「もしかして、食事は毎日作ってるの?」
「どうしてそんなことを。下宿生が自分で食事を作らなければ、食べるものがないだろう」
ふゆみの質問に対する、柚木の返事は素っ気ない。
「うぅ、何か、凄く上手そうぅ。料理上手な旦那さんなんて、あたしは嫌だなぁ」
みづきの言うことは、やはりどこか外れている。
ラウンジには遠江一人が残っていた。
灰になった煙草が灰皿に溜まっているが、遠江は新しい煙草に火を点ける。
今回の合宿は、遠江が会長として行なう最後の活動である。来年度からは、長沼が会長になりサークルを運営することになる。遠江は当初、従来と同じく近場のホテルか旅館で済ませる予定だった。草薙がどこからか見つけてきた山奥の山荘、毬藻荘にいきなり飛び付いた訳ではない。
草薙の説明はいかにも推理小説に登場しそうな山荘で、すぐにでも行ってみたい誘惑に駆られた。自分一人で訪れるのであれば問題ないが、ことはサークル合宿の行先である。自分の独断で、おいそれと頷くことは出来なかった。
食事のことや、山荘までの急な山道、S県とは掛け離れた気候での滞在、病人が出たときの対応、近場に店も何もない状況での合宿。考えないといけない問題は幾らでもあった。
中でも一番の障害は、推理小説に登場するような山荘だからといって、会員が全員喜ぶことはないと解っていたからだ。草薙にしてもそれは同じで、必ずしも毬藻荘で合宿を行なって欲しいという言い方ではなく、ここでいいなら手配をする、という感じだった。
当然と言えば当然のことだが、会員によって好みの推理小説は異なる。トリック、ロジック、キャラクターなど、推理小説のどこに重きを置いて読むかは個人の自由である。会長であるからといって、会員の読書傾向まで指図するつもりはない。
遠江自身は嵐の山荘もの、いわゆるクローズド・サークルと呼ばれる閉鎖空間での殺人事件を扱ったミステリを好んでいた。ところが、会内ではクローズド・サークルものは余り評判が良くない。遠江が薦めたときも、つまらなくはないが続けて読みたいと思う程のものではないという感想を数人から聞いた。遠江と反対に、クローズド・サークルものだから、敬遠して読まないという者もいるくらいだった。
推理小説研究会の中には他の部と掛け持ちをしている会員もいる。草薙は奇術研究会、ふゆみがボランティア研究会、柚木は文芸部にも所属していた。他のメンバーにはまだ知られていないが、桜橋も半年程前に文芸部へ入会している。本人曰く、自分の好きな小説が純文学なのか推理小説なのかがはっきりと摑めていないからということだ。あえて他の会員に言うことでもないので、会長だけには報告をしておきますと本人に直接言われたことがあった。他の会員にいちいち隠してくれというのが、臆病で内気な桜橋の性格を表わしている。
彼らにとってはミステリ研の活動が必ずしも一番な訳ではない。悔しい気持ちもあるが、それは仕方のないことだった。そのようなこともあり、自分一人が行きたいと考える場所を合宿の目的地に決めることに抵抗があったのだ。
最終的に会員の意見を取り入れて、毬藻荘を訪れる運びにはなったが、これは他の会員たちが山奥の山荘を希望したということではなく、この一年会長職を務めた遠江に対しての心遣いであるようだった。
かくして遠江会長による最後の宿泊場所は、この毬藻荘に決まった。半ば自分の嗜好によりこの山荘に決まったような感があるので、山荘へ着くまで本当に合宿の目的地を毬藻荘に決めた判断は正しかったのだろうか、と何度も自問した。
山道を歩いていたときなど女の子たちの様子を見て、やはり無難な場所にしておけば良かったと何度思っただろうか。けれど今更どうしようもない。どうにか無事に着くこと、それだけを考えていた。
毬藻荘に到着したことで、幾分気持ちは和らいだ。想像していた以上の建物だった。今までの宿泊場所は、代わり映えのしないホテルや旅館だったのだ。まるで小説の舞台のような山荘に、皆が多少なりとも驚嘆しているのは確かだろう。そんな様子を見て、遠江はようやく人心地がついた。
灰になった煙草を灰皿に押し付けたところで、ラウンジの扉が開いた。室内に入ってきたのは草薙である。
草薙は自分が中心になることは出来ないと考えている訳でもないだろうが、中心にいる人物を補佐することが多かった。それは推理小説研究会に限ったことではない。奇術研究会やゼミクラスにおける振る舞いや行動も似たようなものらしい。
今回の合宿でも、少なくない手助けを遠江は感謝していた。しかしそのようなことを面と向かって言うのは恥ずかしいのか、遠江はそれとなく助かったよと言っただけだった。
「早めに降りてきたっていうんじゃなくて、さっきからずっといたのか?」
草薙は灰皿の中身に気づいたようだ。
「ああ、たまにはのんびりしているのもいいだろう。何しろ、こんな景色はS県で見ることは出来ないからな。眺めているだけでも面白い」
釣られて草薙も窓の外を見る。
「面白い? 滅多に見られない光景ではあるが」
窓の外、雪は依然と降り続けている。
第二章 第一の被害者
*
風邪を引いたようだった。
男の子は布団で横になっている。朝食時は学校へ行くと言い張っていたが、母親に制止された。学校には連絡をしてあるそうだ。それを聞いて、男の子は大人しく部屋に戻っていった。
兄弟で使っている狭い部屋で、男の子はその日を過ごした。いつの間にか、男の子は眠っていたようだった。目が覚めたときは、夕方になっていた。今日の授業は、とっくに全部終わっている。
「ん……?」
男の子の前に、女の子がいた。両手で盆を抱え、その上に土鍋と蓮華が載っている。
「あ、起きた。ちょうど起こそうとしていたんだよ」
女の子は、土鍋を落とさないよう慎重に進む。部屋に二つある勉強机の片方に、盆を置いた。
「ええと、どうしてここに?」
「学校帰りに寄ったの」
女の子は椅子に腰掛ける。
「プリント、届けに来たの。おばさんに渡してあるから」
「ああ、そう……」
男の子は、寝呆けているらしい。
「でも、それは?」
「おかゆ。私が作ったんだよ。ま、ちょこっとはおばさんに手伝ってもらったけど」
女の子の言うことに、男の子は不思議そうな顔をする。
「夜ごはん、いつもこの時間なんだって? 結構早いね」
女の子は立ち上がる。
「それじゃ、私は帰るから。明日は学校来れるでしょ」
「ん、ああ、多分……」
襖を開けたまま、女の子は出ていった。おばさんおじゃましましたぁという声に続いて、玄関ドアの閉まる音が聞こえる。
「……何だったんだ? おかゆ?」
机の上にある湯気を立てる土鍋を、男の子はぼんやりと眺めている。
* * *
山奥の山荘。毬藻荘。
何も知らずに訪れたメンバー。
殺戮の舞台は整っている。
あとは、実行するだけだ。
計画に従い、ことを為す。
人数は、いや、彼らを人として扱うのは止そう。
奴等は殺されるための駒なのだ。人間ではない。
現在の駒は八つ。
全ての駒を取り除き、最後まで盤上に残るのは。
自分だけ。
遠い。目的地は見通せない程遥か遠くにある。
だが、辿り着かなければならない。
そこに自分の想いが、願いがあるのだから。
毬藻荘を舞台にした、一度限りの大量殺人ゲーム。
自分にとって、生涯を賭けた大仕事。
さあ、為し遂げてみせようか。
* * *
八
「明日、雪だるまでも作ろうかぁ」
曇った窓ガラスの前で、みづきとしいなが雪の降る様を眺めていた。みづきは子供のように水滴を指で拭い、絵のようなものを描いている。
「日吉さん、汚れますよ」
しいながハンカチを取り出し、みづきに渡す。
食堂には横に長いテーブルがあり、周囲を十四脚の椅子が囲んでいた。西側の壁、ちょうどラウンジに繋がる扉の上辺りに、時計が掛けられている。窓からは、吊り橋は見えない。これはラウンジの窓も同様で、どちらの部屋から見える景色も似たようなものである。真向いの雪景色と、崖の向こうに広がる山林が見えるだけだった。
時刻は六時二十五分。辺りに夕闇が迫りつつあった。
柚木は自分の発言通り、六時半までに食事の支度を終えていた。出来上がったあとは、ラウンジでくつろいでいた遠江と草薙にも手伝ってもらい、料理を食堂へ運んだ。あらかた並べ終わったころに、しいなが顔を出し、次いで長沼がやってきた。今し方、御門台が食堂へ降りてきたので、あとは桜橋を待つだけである。
「わしゃてっきり、柚木が作る言うたから、カレーかと思うとったんやが、これは意外なメニューやったな。それともこれは、春日町のレパートリーかいな」
みづきの名前が抜かれているが、忘れている訳ではないだろう。
「ううん、違うよ。メニューは柚木君が決めたの。それに、ほとんどは柚木君が一人で作ったようなもので、私たちは、本当に手伝いみたいなものだったよ」
「へぇ、そうなんか。早く味を見たいものやな」
御門台がちらりと柚木を振り返る。
「……桜橋にしては遅いな。いつもは集合時間に余裕を持ってくるんだが」
遠江が腕時計を見る。彼は他の会員が忘れてしまいそうな些細なことも覚えている。他人のことを極力理解しようと努める性格の持ち主である。
窓に落書きするのも飽きたのか、みづきが席に着き、しいなも隣に座る。みづきは早速スプーンを手に取り、今すぐにでも食事に取り掛かりたいふうだった。
「僕が呼んできましょう」
長沼が立ち上がったのは、夕食の予定時間を十分過ぎたころだった。
ああ、頼むよと遠江が声を掛ける。柚木と違い、長沼はええと頷いてからラウンジを出ていった。
「レジュメの最終チェックでもしているのか」
草薙が呟いた。
レクチャーにしろ読書会にしろ、担当者が作成したレジュメを基に例会は進められる。レジュメの見直しはするに越したことはない。もっともコピーは山荘へ来る前に済ませてあるだろうから、間違いを見つけた場合は手書きで修正するしかないだろう。
「みづき、もう少しだから我慢しなさい」
向かいの席から、ふゆみが声を掛ける。
「はぁい。しいなちゃん、これの三分一はあたしが作ったんだよぅ。美味しさの三分の一は、あたしの真心だよぅ」
みづきの言うことに、しいなはどう答えれば良いのか解らないようである。
突然に。勢い良く扉が開かれた。
階段を駈け降りてきたのか、長沼の呼吸は乱れている。
「ど、どうしたんや。階段を落ちでもしたんか?」
御門台はからかうように言ったが、長沼の蒼白な表情を見て二の句が継げなくなった。長沼は壁にもたれ、どうにか呼吸を整える。そして。切れ切れに、驚愕の事実を口にする。
「さ、桜橋君が……殺されています!」
水を打ったように、食堂内は静まり返った。
このような質の悪い冗談や悪戯を長沼がするはずはない。彼はいつも他人との距離を一歩置き、冷静で落ち着き払った人物である。討論や議論で熱く語ることはあっても、常に自分を律して我を忘れることはない。その長沼がこれほどまでに取り乱している様を目の当たりにして、言葉を返せる者はいなかった。
冗談でもなく悪戯でもない。長沼が伝えたことは紛れもない事実だ。そう思っているからこそ、誰も咄嗟に動くことが出来なかった。各々が頭の中で、長沼の言ったことを繰り返しているのだろう。そんなことが起きるはずはない。だが、長沼は嘘を吐くような人間ではない。それはつまり、本当に桜橋は殺されているのだ、と。
「わ、解った……様子を見てこよう」
最初に立ち上がったのは遠江だ。その声に草薙も席を立つ。どうしたら良いのか解らず、みづきがおろおろしているのを見て、しいなが宥めようとする。
「状況を確認してくる。日吉たちはここで待っているんだ。春日町、長沼を看てやってくれ」
遠江がラウンジを出て二階へ駈け上がる。その後ろを草薙が追う。
「この部屋、か……」
客室二〇九の前で、遠江が立ち止まる。勢い込んできたものの、やはり扉を開けるのに躊躇いがあるのだろう。じきに、柚木と御門台も部屋の前にやってきた。遠江の横に草薙、その後ろに柚木と御門台が並び、皆が遠江の行動を待った。
遠江はまなじりを決し、扉を開ける。
「さむぅっ……」
声を上げたのは御門台だった。部屋の窓が開け放たれている。頭上の壁に組み込まれたエアコンは、静かな音を立てて冷気を放出していた。
「な……」
部屋に入った遠江は呆然と立ち尽くす。
「う、嘘やろぅ……」
御門台が後退る。草薙と柚木は声もない。眼前の光景に目を奪われている。
長沼が、殺されていると発言したのも道理である。
ベッドに横たわる下半身。両足の間に挟まれた桜橋の頭部。枕元には、血に塗れた捌き包丁が突き刺さっている。その隣に置かれているのは、かつて上半身だったもの。首だけではなく、肩口から両腕までも斬り離された胴が俯せる。
それらは異常なまでに血で彩られていた。頭部も、胴も、下半身も、鮮血を撒き散らかされたかのように赤く染まっている。右腕、左腕であっただろう部分は、更に分断されて床に散らばり、それらに混ざって衣服が打ち捨てられている。カーペットには刃物で切られたような傷跡が複数残り、中には床まで抉れている箇所もあった。床上の分断された両腕にも、全てに生々しい血がべっとりと付着していた。
口数は少なくとも創作や評論に対し興味を抱き会内の新しい力となりつつあった桜橋。彼が自身のレクチャーを行なう日はもはや訪れることはない。
「ぐぅっ……」
御門台がくぐもった声を漏らし、ユニットバスへ駆け込む。我に返った草薙が、大丈夫かと声を掛けて御門台の許に近づく。死体を見下ろす遠江は悲鳴を上げることはなかったが、彼の手は細かく震えていた。柚木は後ろから、その姿をじっと見つめる。
御門台の嘔吐後、室内にはエアコンの稼動する音だけが、微かに響いていた。
九
食堂の時計は七時を過ぎた。
長沼はふゆみに差し出されたコップの水を飲み干して、かろうじて落ち着いたようだったが、そのまま押し黙ってしまった。みづきは目を赤く腫らし啜り泣いている。どうにか慰めようとするしいなの声は聞こえていないようだった。
食堂の扉が開く音に、ふゆみがはっとして顔を向ける。御門台だった。彼は無言で席に着く。
「ねえ、どう……だったの?」
御門台はかぶりを振っただけで、力なく椅子に腰掛けた。
「そんな、本当に……」
言ったきり、ふゆみは黙ってしまう。長沼を疑っていた訳ではない。だが、どこかでそんなことが起きるはずがないと願っていたのだろう。
再び扉が開く。
「不味いな……これは」
「悪い、俺がきちんと確認をしておくべきだった」
遠江と草薙が、深刻な顔をして入ってきた。
「ん、柚木はどうした。御門台、一緒に降りてきたんじゃないのか?」
柚木の席が空いていることに、遠江は目敏く気づく。
「さあ、トイレちゃうか」
御門台は気のない返答をする。
「あの、……他に何かあったんですか?」
二人の様子を訝しんだしいなが訊ねる。他というのは、桜橋のこと以外にという意味だろう。遠江が椅子に座り、草薙も隣の席に着く。
「ああ、それが……電話が通じない」
「え……?」
その返答に、しいなが声を飲む。
「とにかく警察に連絡するべきだと思い、草薙と管理人室へ行ってきたんだが、電話が掛けられなかった」
「どういうこと? 電話線が切られてたの?」
ふゆみが問う。
「いや、電話線自体がなくなっていた。一見しただけでは、電話に何も異常はないように見えた。実際に掛けてみるまで解らなかっただろう。別に、草薙のせいじゃない」
遠江は苦い顔で、草薙を一瞥する。
「いつそうなったのかは解らないが、電話線がなければ電話は使えない。そんなものは誰も持ち歩いていないだろう」
念のため遠江は、電話線を持っている者がいないかを訊いてみたが、案の定誰からの返答もない。
「そんな……」
遠江は懐から煙草の箱を取り出す。普段なら、周りの人間に了承を得てから煙草に火を点けるのだが、そのことを忘れているようだった。
「携帯電話も圏外だ」
草薙が言い放つ。
「じゃ、じゃあ、どうするの、これから……」
「心配するな、春日町。明日の朝、自分が警察を呼びに行く」
遠江は中学高校と陸上部に所属していた。この提案は、自分の持久力に少なからず自負を持っているからこそだろう。
「明日……ですか?」
しいなが不安そうな顔を見せる。
「ああ、今からじゃ無理だ」
答えたのは草薙である。
「麓から駅までのバスは、この時間走っていない。行くとなれば当然徒歩になる。それに、この寒さの中、何時間も歩くのは危険だ。いくら遠江が体力に自信を持っていても、かなり厳しい」
「そう……ですか……」
しいなは顔を伏せ黙ってしまう。
誰も何も話そうとしない。食堂にみづきの嗚咽だけが響く。明日警察が来るとはいえ、桜橋が死んだことに変わりはない。彼らは小説の中の出来事ではない現実の死に対し、掛ける言葉を持っていない。突然訪れた仲間の死に何を言えば良いのか、明確な答えを持つ者はいなかった。
三度扉が開く。
柚木が食堂へ入ってくる。
「厨房へ行ってきました。包丁差しになくなったものはない。料理を始める前に調理器具を調べたので、記憶は確かです」
突然の報告に皆は途惑う。しかし柚木は、自分が見てきたことを淡々と報告する。
「つまり、桜橋の部屋に残されていた包丁は、前もって犯人が用意したものでしょう。桜橋を、切断するために」
柚木の発言によって、食堂内の重苦しさが増す。警察がすぐには来られない状況で、彼は躊躇いもなく犯人のことを口にした。けれど柚木は自分が言った内容を気にする素振りもなく、席へ着く。だが、遠江もそのことを無視して話を進める訳にはいかないことを解っていたからだろう。柚木を咎めることはなかった。
「ちょっと待って」
ふゆみが声を上げる。
「ねえ、柚木君。今、切断って言ったよね。どういうこと? 桜橋君は殺されただけじゃなくて、その、包丁で……」
ふゆみは次の句を続けられなかった。けれど、言わんとしていることは皆に伝わっているのだろう。遠江は煙草を銜えたまま、長沼、御門台を順に見遣る。そしてふゆみに向き直るが、言うべきか言わざるべきか迷っているようだ。
「事実を伝えた方がいい。長沼や御門台でさえあの有様だ。彼女たちに桜橋の部屋を見に行かれたら、とてもじゃないが俺たちに介抱出来るとは思えない」
草薙が助け船を出す。それを受けて遠江はふゆみに向き直り、煙草を灰皿に捨てた。
「ああ、桜橋は……ばらばらにされていた」
桜橋の状態を知らないだろう女性たちに対し、遠江は説明する。直接的な言い廻しを避け気分が悪くならないような配慮を試みるも、ことが切断死体に関してである。どのように言ったところで、彼女たちに動揺を与えるだけだった。
みづきなど、一層大きな声を上げて泣き出してしまう。ふゆみは、しいなの手に負えないと判断したのだろう。席を立ってみづきの横にやってくる。みづきの細い身体をぎゅっと抱き締めた。
「……落ち着いて、みづき。大丈夫、きっと大丈夫……だから」
ふゆみの台詞に絶対の根拠がある訳ではないと、皆解っているのだろうが、誰もそれを口にしない。ふゆみに声を掛けられたからか、抱き締められた暖かみからか、みづきは次第に落ち着きを取り戻していった。
その様子を見て、遠江が大きく息を吐く。疾うに煙草は灰になっている。不意に気がついたのか、電話が使えないことと明日自分が警察を呼びに行くことを柚木に伝えた。柚木は驚くでもなく、そうですかとだけ言った。
「誰や、誰がやったんや……」
御門台が誰にともなく問い掛けるが、返事はない。苛立たし気に言葉を続ける。
「勘弁してぇな……。何でこんな目に遭わんといけんのや……。え、こん中におるんやろ。桜橋を切り刻んだ犯人が!」
張り詰めていた糸が切れたのか、御門台は目を剥いて喚き立てる。
「落ち着け、御門台。不安なのはみんな同じだ。そう声を……」
「遠江、お前さん随分冷静なんやな。こんな人が殺されたって状況で。それは自分が犯人やからちゃうんか? そやったら落ち着いてみんなに指示も出せるわな」
気色ばんだ御門台は、遠江が言い終わる前に口を出す。
「御門台! 止すんだ。それ以上は言うな」
草薙の厳しい声が飛ぶ。
「彼女たちが怯えている」
言われて、御門台はふゆみたちを見る。ふゆみの身体を摑むみづきの腕は震え、ふゆみとしいなにも狼狽の表情が浮かんでいる。
「あ……あぁ、すまん、かった……」
自分の失言を恥じたのだろう。女性たちの方を向いて、御門台は頭を下げる。そのままぐったりと顔を伏せた。
「遠江、気にするな。今のは勢いで言ってしまっただけだ。御門台だって、本当にお前が犯人だと思っている訳じゃない」
すっかり黙ってしまった遠江に、草薙が声を掛ける。何を思っているのか、遠江からの返事はなかった。 「遠江……?」
「離れだ……。そうだよ、真っ先に確認するべきだったんだ。もしそうなら、目も当てられない」
突然、遠江は立ち上がる。
「みんな、自分の部屋の鍵は掛けてから降りてきたか? もし、掛けたかどうかはっきりしない者がいたら、この場で言ってくれ」
遠江は唐突に質問を投げ掛ける。だが遠江の真剣な表情を見て取った会員たちは、それぞれに返答をする。その中に、鍵を掛け忘れたと言う者はいなかった。
「草薙……それと柚木、一緒に来てくれ……。確認したいことがある」
言うや否やラウンジを出る。草薙は遠江の行動におおよその予測がついているのだろう、余計なことを訊ねることなく遠江に付いていった。柚木も黙って続くが、彼の不言実行は、いつものことである。
「な、何よ……いきなり。何か一人で言ってたと思ったら、急に出ていって……」
困惑するふゆみに、長沼が顔を向ける。
「おそらく、外部犯が離れにいる可能性を望んだのでしょう。それがないと解っていても。……それにしても、さすがに遠江さんは優秀だ。仲が良いからと言って無条件で容疑者から外すようなことがない」
既に長沼は平静さを取り戻しているようだ。いつもながらの持って廻った言い方をする。
「どういうこと? 遠廻しに言わないで、はっきり言ってよ」
「遠江さんの様子を見る限り、離れを見に行くことは先程思いついたのでしょう。それでいて、すぐに草薙さんと柚木君を指名しました。草薙さんだけでもなく、柚木君だけでもない。二人を指名したんです」
「何? それがどうしたっていうの。離れに誰かが隠れていたら、一人じゃ危険だと思ったんでしょ。だから、二人を一緒に連れていった」
どこにもおかしいところなんかないでしょう、とふゆみは言う。
「離れに誰かが隠れている場合は、ですね。だが、離れはあらかじめ鍵が掛かっている。何者かが侵入するのは難しい。調べてみても離れには誰もいないということを、遠江さんが考えないはずはない。もし指名する相手が一人で、仮にその人物が犯人だった場合、遠江さんは犯人と二人きりになってしまう。そのとき犯人が行動を起こすのを防ぐために、草薙さんと柚木君の二人を連れていったのでしょう」
「何やそれは。遠江は、草薙と柚木を疑ごうとる、ちゅうことか?」
御門台が顔を上げる。先刻までの勢いはなく、声が弱々しくなっている。
「いえ、あの二人を選んだのは別の理由ですね。捜索をするのなら、全員で行なう方がいい。だが、ようやく冷静さを取り戻した僕たちを連れていくのは憚られた。比較的動揺が少ないように見える草薙さんと柚木君を連れていったのは、そのような理由からでしょう。こんなときでも、あの人は他人のことを気遣っているんですよ。とてもじゃないが真似出来ませんね」
何か思い当る節があるのだろう。遠江と同学年の二人は、わずかに安堵した表情を見せた。
「遠江さんにしても、内心は怖いはずです。それこそ、誰かどうにかしてくれと叫びたかったことでしょう。犯人がいるのなら名乗り出ろと。だが、それを露骨に見せることをしない。そんなことをしたら、僕らは疑心暗鬼に陥るだけです。遠江さんまでが取り乱したら、この場を収拾出来る人間はいません。このような状況で、落ち着いて判断し行動の出来る人間がいたことは、僕たちにとっての救いです」
「そやな、わしなんか、もう動く気すらないし。頑張っとるよな、あいつ」
御門台がぼそりと言う。
食堂は静寂を取り戻す。重苦しい雰囲気も多少は緩和されたようである。みづきもようやく泣き止んでいた。それを見てふゆみはみづきを抱えていた手を離す。空いている椅子を持ってきて、みづきの横に腰掛ける。
やがて、遠江たちが戻ってきた。遠江の頭は雪で少し白くなっている。彼は手に懐中電灯を持ったままだった。遠江が着席したのを見計らって、長沼が訊ねる。
「外部犯の可能性は消せましたか?」
十
一瞬驚いたような顔をした遠江だったが、すぐに納得の表情に変わる。
「さすが長沼だな。頭の回転が早い」
遠江は、離れには誰もいなかったこと、母屋の部屋を一通り調べてきたが誰も見つからなかったことを報告した。
「部屋って、わたしたちの、部屋も……ですか?」
しいながおどおどした声を出す。
「誰かを犯人だと疑った訳じゃない。あくまで、外部の人間が隠れていないかを調べるためだ。部屋の荷物に触れてはいない」
遠江は、しいなに優しく説明する。
「せやから、こんなに時間が掛かった訳か。離れだけなら、すぐに戻ってくるはずやったのにな」
時刻はまもなく八時になる。
「とりあえず、スペアキーは各自で持っていた方がいい。草薙」
先に話をしていたのだろう、草薙が持っている鍵を会員それぞれに渡していく。自室の合鍵を受け取った長沼が口を開いた。
「これで、外部犯の可能性は否定された訳ですね。要するに、犯人は僕ら八人の中にいる、と」
長沼は、あえて遠江が避けていた言葉を口にする。
「確かに、そう考えるしかなさそうだ……」
遠江の顔は苦渋に満ちていた。なかなか踏ん切りがつかないようだ。
「こんなときにまで他人を気遣う必要はない。お前が仲間だと思っていても、犯人に名乗り出る気はないだろう。それに仲間のことを考えるなら、犯人の検討はやはり必要だ」
席に戻った草薙が、あと一歩を進める言葉を掛ける。
「どうでしょう。警察が来るまで、僕らに出来ることをやっておくというのは」
このような状況に於いても皆が遠江の判断を仰ぐことが、彼の人間性を表わしていた。
「……解った。疲れているだろうが、みんなもう少しだけ付き合ってくれ」
ともあれ、切断の理由は避けて通れませんねと長沼が口火を切る。
「しっかしお前、急に活気づいてきてんな。さっきまで、茄子みたいに青ぅなってたいうのに」
長沼は、御門台の皮肉に動じることはなかった。
「あれは不意打ちでしたからね。もし発見者が僕ではなく、桜橋君のことを知らされた上で見に行ったのであれば、もう少し落ち着いて行動出来たと思います。まあ、冷静さを欠いていたのは事実ですからね。恥ずかしい姿を見せてしまったことは否定しませんよ」
「先程……」
これまで黙っていた柚木が口を開いた。
「遠江さんが桜橋のことを話していましたが、部屋についての説明が抜けていました」
何を言われたのか少しの間考えていたが、遠江はすぐに柚木の言うことを理解したようだ。
「悪い……。そこまで頭が回っていなかった。桜橋のことを伝えるだけで精一杯だったんだ」
遠江は改めて桜橋の部屋の窓が開け放たれていたことと冷房が点けっ放しであったこと、シャワーに使われた跡が残っていたことを皆に伝えた。
「ああ、成程……。寒気がしたのはそのせいですか。何か聞こえていたと思ったのは、エアコンの稼動音ですね」
得心が行ったのだろう、長沼は納得する。しかし柚木は浮かぬ顔のままである。遠江さんが気づいていないとは思えませんがと前置きして告げる。
「桜橋は服を着ていなかった。正確には桜橋の上半身が、ということです」
え、と遠江は声を上げる。彼だけではない、御門台も初めて聞いたような顔をしている。
「そういえば、床に上着が落ちていたな。血に塗れて解りにくかったが、あれは桜橋が着ていた服か」
「ええ、おそらくは」
草薙の言うことに、柚木が頷く。
これでこの場にいる全員が、桜橋の死について同じ情報を手にしたことになる。
「犯人は、どうして死体を切断したのか」
草薙が今一度繰り返す。桜橋が死体と表現されている。
「血の量から考えると、解体されたのは桜橋の部屋である可能性が高い。見たところ、ここには服を赤く染めている者はいないから、返り血に関しては相当気を遣ったんだろう。何かを羽織って犯行を行なったか……ああ、もしかしたら桜橋の着ていた服で血を防いだとも考えられるな。手や足に着いた血は、浴室で洗い流してしまえばいい。桜橋が使ったのか、犯人が使ったのかは解らないが、実際シャワーが使われていたみたいだったしな。だが、解体などという手間も時間も掛かる作業をどうして行なったのか……」
「あるいは、殺す作業と同時に切断したのかもしれません。桜橋君が生きたまま斬られたのか、死んだあとに斬られたのか……。それに関しては警察の調べを待つしかありませんが」
「まさか、そないなこと……」
長沼の言葉に、御門台は眉をひそめる。
「首を斬る、身体を切断する理由として多いのは、被害者の身元を隠すということでしょう。首がなければ本人かどうか解りませんし、手首がなければ指紋の確認が出来ません」
長沼が言っているのは、実在の事件からの知識ではなく、推理小説から得たものだろう。
「しかし桜橋君に於いて、それは当て嵌まりません。彼の身体は斬られただけで、部屋に残されていたんですから」
「そんなら、よっぽど犯人に恨まれてたちゅうことか。それであんなに……」
途中で部屋の状況を思い出してしまったのだろう。御門台は口を噤んだ。
「心理的にはあり得るかもしれません。けれどその場合、どうして下半身は無事だったのかという問題が出てきます。それほどまでに恨んでいるのなら、両足も細かく切断されている方が自然ではありませんか。何か、論理的な理由があるのではないでしょうか」
思い付きで言った程度のことだったらしく、御門台が反論することはなかった。
「論理的、とは?」
遠江が先を訊ねる。
「そうですね、こじつけのような理由ですが、ひとつの考えとして挙げておきましょう。桜橋君の上半身だけが斬られていたのは、犯人が彼の死因を隠したかったからではないでしょうか」
「死因を隠す?」
草薙が鸚鵡返しに聞き返す。
「ええ、首の切断は、扼殺、絞殺、あるいは頸動脈を切った跡を隠すため。同様に、手首を斬り取ったのは、動脈を切ったことを隠すために行なわれた。身体の上にわざと零したかのような血液も、目的は一緒でしょう」
「いや、しかし、どうして隠す必要がある?」
「つまり、殺害方法が犯人と直結してしまっている。この方法を使えたのが、あるいは使わないといけなかったのは、この人物しかいない、という。例えば、身体の大きい人間と小さい人間とでは、扼殺した場合の首に残る跡や刺殺した場合の刃物が刺さる角度などに違いが生じます。犯人はそれを怖れた」
成程なと、御門台が感嘆の声を漏らす。一方、反論を口にしたのは草薙である。
「さっき柚木が言ったように、犯人は包丁を用意していた。ということは、これが突発的な殺人ではなく、計画的な犯行ということだ。自分が犯人だと解ってしまうような方法を計画するだろうか。犯人に何らかの特徴があるのなら、むしろ痕跡を残さないように注意するのが普通なんじゃないのか?」
「そうですね。草薙さんの言うことはもっともです。僕自身も、これが切断の理由だと本気で考えている訳ではありません。冷たくされた部屋の状況と合わせて考える必要があるでしょう。つまり論理的理由というのは、首に残った跡を隠すために切断したが、それでは却って首に何かあるのではと疑われるかもしれない。なので首から注意を逸らすために上半身も切断した。このようなものです。理由もなしに人の身体を解体する人間がいるとは思えませんからね」
長沼は遠江に顔を向ける。
「要するに、あの状況は犯人にとって必要なことだった、という訳か……」
「ねえ、人の身体って……そんな簡単に斬り離せるものなの?」
ふゆみがもっともな疑問を口にする。
「……ある程度の時間は必要だろう。十分や二十分で出来るものとは思えない」
「犯人はご丁寧にも、上半身を切り刻んでいるんやしな」
「ひとつの部分に十分掛かったとしても、一時間以上は必要になりますね」
御門台に続き、長沼が言う。
「そうだな。……それくらいは掛かるだろう」
彼らの中に検死の経験を持つ者も、医学的知識を持つ者もいない。しかし解体作業に一時間掛かるという長沼の推量は、妥当なところだろう。
「どうです、各人の行動を確認してみませんか。要はアリバイ調査です」
十一
長沼の発言に御門台が顔をしかめ、しいなは不安そうな顔をした。
「アリバイのない人間が、必ずしも犯人という訳ではありません。それに自分が犯人でなければ、アリバイがないとしても躊躇うことはないでしょう」
「長沼の言う通りだ。桜橋の死を考えるなら、アリバイ確認は必要だ」
遠江は、煙草を出したのとは別のポケットからボールペンの挟まった手帳を取り出す。
「春日町、もし書けるようならメモを頼む」
ふゆみの文字は几帳面で読みやすい。この数年、研究会で何かを決めるときには、彼女が書記を行なっていた。
大丈夫、とふゆみは頷いた。遠江が手帳を隣の草薙に廻し草薙が更に隣に廻すといった具合にして手帳がふゆみの手に渡る。
「まず、桜橋の行動を確かめよう。夕食の担当を決めたあと、桜橋がラウンジを出ていったところを自分は見ている。そのあとの行動が解る者はいないか?」
「階段を上がるところを見掛けましたよ。解散して間もなくでしたから、三時半を少し過ぎたくらいでしょうか。もっとも、一緒に二階へ上がった訳ではないので、彼が自分の部屋に入るところは見ていませんが」
長沼が答える。
「そやな、わしが部屋に入ろうとしたときに、桜橋が階段を上がってきたような気がするわ。ラウンジを出たのはわしが最初やったから、そのくらいの時間やろう」
御門台が言った。
「他には、いないか」
遠江がもう一度訊くが、桜橋を見たという者はいなかった。
「そうか……。部屋に入ったところを見ていなくても、自分の部屋に戻ったと考えるのが自然だろう。この山荘の二階に、客室以外はないからな」
「桜橋君は被害者ですからね。ひねくれて考えることはないでしょう」
長沼が同意を示す。
「だとすると、桜橋が自室に戻ったのは三時四十分ころか。……最後に食堂へ降りてきたのは御門台だったな。あれが、確か六時二十分……」
ラウンジから二階へ上がるのに、ゆっくり歩いても五分は掛からない。一番端にある草薙の部屋に行くとしても、五分以内で到着するだろう。
「そやな、大体それくらいや」
御門台が頷いた。
「最終的に長沼が呼びに行き、発見されたのが六時四十分ごろか。だが、犯行を終えてすぐ、犯人が食堂へ降りてきた訳ではないだろう。返り血の処理など、後始末をする時間もある。それを考慮すると……犯行時刻は三時四十分から六時くらいまでの間と考えて、問題なさそうだな」
「ああ、短く見積もるのは危険だが、幅を持たせることに問題はないだろう。解体作業が一時間としても、それだけの時間があれば十分に可能だ」
草薙が補足する。
「この時間帯に、桜橋の姿を見掛けた者か、桜橋が誰かと話しているのを聞いた者はいないか。人の争う音とか、妙な物音とか、もし気がついた者がいれば言ってくれ」
遠江の問い掛けに、答える者はいなかった。
「解った。順に訊いていくから、思い出したことがあれば教えて欲しい」
遠江はしいなに向き直る。
「古庄、三時四十分から六時までの間、どこで何をしていた? もし何か気づいたことや気になることがあれば、些細なことでも何でもいい、一緒に言ってくれ」
サークルでは例会が終わったあとに、会員たちの感想を訊くことがある。その場合、一年生から順に発言していくので、その習慣が出たのだろう。
「あ、ええと、その……」
しいなは困惑の表情を浮かべている。
「古庄、君が犯人だと疑っている訳じゃない。それは解ってくれ。桜橋のためにも、自分たちは出来ることをしなければいけないんだ」
同じ学年である桜橋の名前を出されたからだろうか、しいなは遠江に顔を向けて質問に答える。
「わたしは……ラウンジでの話が終わったあと、春日町さんと日吉さんと少し話して、そのあと自分の部屋に戻りました。お二人は、食事の用意がありましたし」
「二階に上がる途中や、廊下で誰にも会わなかったか?」
「いえ、誰にも会っていません」
しいなは間違いがないようにひとつひとつ思い出して答えているようだ。
「部屋に戻ったのは……正確には解りませんが、四時にはなっていなかったと思います。そのあとは、山道で疲れていてベッドで休んでいました。ですから、物音とか足音とか、そういったものは聞いていません」
申し訳なさそうにしいなが言う。
「いや、歩く距離が長過ぎたと思う。もう少し考えるべきだった。すまない」
遠江が頭を下げるのを見て、いえ、大丈夫ですと慌ててしいなが答える。
「それでそのあとは、食堂に降りてきたのか?」
「そうですね……目が覚めたのは六時くらいで、急いで身支度して……そのあと、食堂に」
「古庄が食堂へ降りてきたのは、六時十分くらい……か? 料理を並べ終わったころだったと思うんだが」
「そうだな、十分を少し過ぎたくらいだろう」
隣の草薙が応じる。
「そうか……。他に何か、気づいたことや気になったことはないか?」
しいなはいいえと言って首を振る。
「解った。ありがとう」
遠江は視線をみづきに向ける。
「次は日吉、いや、夕食担当の三人は纏めて訊いた方がいいだろう」
ふゆみとみづきは同じ場所にいるが、柚木は彼女たちと反対側の席に座っているため、遠江は話す相手ごとに顔の向きを変える。
「春日町、日吉、柚木、三人はずっと厨房で一緒だったのか?」
「ええと……担当を決めたあと、しいなさんと少し話して、みづきと一緒に厨房へ行ったの。五分も話してなかったと思う。厨房に入ったときは四十五分になっていなかったよね」
うん、とみづきはふゆみに頷く。
「でも、厨房に柚木君がいなくて」
「いない?」
遠江が繰り返す。
「食材を取りに貯蔵室へ行っていたんです。時間は覚えていませんが、厨房に戻ったら春日町さんと日吉がいた」
顔を上げ、柚木が淡々と述べる。
「そのあと料理を始めたんだな。日吉が運ぶのを手伝ってくれと、ラウンジに言いに来たのがちょうど六時だったな。それまでは、三人一緒に厨房にいたのか?」
「ずっと一緒だった訳ではありません。しばらくして、おれは貯蔵室に行きました」
「貯蔵室? それは最初のときとは別に?」
みづきが恥ずかしそうに声を上げる。
「あの、あたしがちょっと失敗しちゃって……。それで、使えなくなった材料を柚木君が取りに行ってくれたんです」
少しの失敗で食材を再び取りに行くことはないだろう。柚木と長沼を除いた会員が、さもありなんという表情をした。
「ええ、そうです。いちいち時間を計っていませんが、十五分くらいで戻ってきた」
「十五分?」
廊下を挟んで厨房と貯蔵室は向かいに位置する。食材を持って戻るだけなら、五分もあれば十分である。少し時間が掛かり過ぎているのではないかと遠江は考えたのだろう。
「貯蔵室、行ってみれば解りますが、お世辞にも管理がいいとは言えない。ただ適当に野菜が放り込んであるという感じだ。だから、中には傷の付いたものが多い。それを選り分けていた時間でしょう」
「柚木が出ている間、二人は厨房に?」
ええ、とふゆみが応じる。
「解った……。あとは、厨房を出ることはなかったか?」
それ以降はずっと料理をしていましたと柚木は答えた。
「春日町、日吉の二人はどうだ。厨房を出ることはなかったか?」
「いや、少しだけ、厨房を出ていったけど……」
ふゆみとみづきが顔を見合わせる。
「それは、二人一緒にか? どこに行ったんだ?」
「え、いや、別々に……」
ふゆみは顔を伏せて小さな声で言う。
「トイレだから……」
「あ、いや、悪い」
何故か遠江は頭を下げる。
「先にいなくなったのは春日町さん、次にいなくなったのが日吉。二人とも、いないと思ったらすぐに戻ってきていたので、十分も消えていなかったでしょう」
柚木の表現はどこかおかしい。けれど皆、意図は解ったようである。
ふゆみとみづきにお互いが厨房を留守にした時間を訊くと、柚木の言う通り十分前後だろうとの答えが返ってきた。
遠江は長沼の方を向く。
「僕には、アリバイはありませんよ。先程言いましたが、階段で桜橋君が上がるところを見掛けました。僕が部屋に入るときには廊下に誰もいなかったので、桜橋君は自分の部屋に戻っていたのでしょう。僕が部屋に戻ったのは、三時四十五分くらいでしょうか。そのあとは、ヘッドホンで音楽を聞いていました。変な物音だとか足音がしても、気づいていなかったと思います」
そうか、と遠江は残念そうに唸る。
「ヘッドホンを外していたとしても、変わりはないでしょう。防音がしっかりしているようですからね。それで、食堂に行ったのは何時ころでしょうか。既に、食事の用意はされていました」
「長沼が来たのは、古庄のすぐあとだった。六時十分から十五分の間だろう」
草薙が言う。
「解った。次は……」
「わしも、アリバイなんて持ってへんで」
呼ばれる前に、御門台が返事をする。
「さっきも言うたが、最初に二階へ戻ったのはわしや。けど、わしは桜橋を待ち伏せたり、あいつの部屋に行ったりなんて、してへんで」
「御門台、疑うために調べているんじゃないんだ」
「部屋に戻ったのは、何時や? いちいち覚えてへんけど、桜橋より早いちゅうなら、三十五分くらいか。腹減って、あんま動く気もせんかったから、ベッドで横になっとった。別に眠っとった訳ちゃうが、何も妙な音は聞いてないわ。余りに静か過ぎるもんで、ウォークマンでも持ってくれば良かったなと思ったくらいやしな。ほんで、十分前には行こうと食堂に降りたんで、遠江が言うてたように、二十分くらいやな」
「解った。あとは、自分と草薙か」
遠江が草薙を促す。
「俺はラウンジで遠江と話したあと、二階に上がった。階段でも廊下でも、誰も見ていない。桜橋の隣の部屋だったが……すまない、何も気づかなかった」
草薙が詫びるのを、遠江が仕方ないと庇うように言う。
「俺も一休みしようと思ったんだが、寝つけなくてな。寝るのは諦めて、ラウンジに降りてきた。誰かいれば、ゲームでもやろうと思ってな」
電車内で使われたカードはみづきのものである。草薙は、自分でもカードを一式用意してきたようだ。
「ラウンジには遠江が残っていた。四時を過ぎたころだったかな。十分くらいか?」
そうだなそのくらいだ、と遠江が同意する。
「そのあと何回かゲームをして……いや、ゲームよりも、話をしていた時間の方が長かったな」
「ババ抜きは、二人でやっても面白くありませんよぅ」
ようやくいつもの調子に戻ってきたのだろう。目蓋をこすり、みづきが口を挟む。いや違うよ、と草薙は素気ない返答をする。
「日吉が呼びに来るまで、遠江とラウンジにいた。途中で部屋を出てはいない。だから俺にアリバイがない時間というのであれば、三時半ころから四時過ぎまでの……三十分弱か。これまでの証言から考えると、俺にアリバイのない時間は、そのまま遠江にアリバイがない時間となる訳だが」
遠江は嫌な顔をすることなく、草薙の言葉を受け止める。
「そうだな。自分は、みんながラウンジを出ていってからも一人で残っていた。雪を見ながらぼんやり煙草を吸っていると、草薙が降りてきた。だからラウンジに一人でいたというのは、自分が言っているだけに過ぎない。自分にも、その時間帯のアリバイはない。草薙が降りてきたあとは、草薙と同じだ。日吉が来るまで、二人でラウンジにいた」
十二
「にしても、犯人は良く白昼堂々あんなことが出来たもんやな。誰に見られるか解ったもんやないっちゅうのに」
御門台は独りごちる。厳密には白昼の出来事ではない。
「人を殺すような人間だ。時間なんて関係なかったんだろう」
「機会があったから、その時間に殺してしまったと? 犯人はそんな行き当たりばったりの人間ではないと思います。犯人なりの理由があったのではないでしょうか」
草薙の意見に、長沼は否定的である。
「また、理由かいな。犯人の行動が論理的なのは推理小説の中だけやろう」
「御門台さんは現実を生きているのに、行動が論理的ではなさそうですね」
「なんやと?」
喧嘩は止してくれと、遠江は双方を制する。そこで、ボールペンを持ったままじっとしてしているふゆみに気づく。
「春日町、どうした。具合でも悪いのか? 薬なら管理人室に用意してあったはず……」
違う、大丈夫とふゆみは首を振る。
「論理的って言葉が気になって。ちょっと考えてみたの。……覚えてる? 電車の中で話してたこと。登場人物の行動が不自然だって。だけど、どんなことが起ころうと、彼らは物語の現実に沿って行動している。だから小説内に於いて、それは自然な行動であるって」
「そんな話しとったんか。で、それが何なんや」
「だからね、小説内でリアリティがあっても、それはやっぱり小説なんだよ」
「意味解らへんぞ」
御門台の返事は投げ遣りである。
ふゆみが言ったことの意図を摑めないのは、御門台だけではなかっただろう。どういうことかと、遠江が説明を求める。
「あのね、実際に人を殺そうとする場合、すごく注意すると思う。誰かに見られたり、犯行がばれたりしないように。小説だと、館とか屋敷とかで事件が起こる場合、犯行は大抵夜中に行なわれる。そして、朝食の席に着いていない人間が殺されている」
「そりゃ、夜の方が人目に付かんからやろ。みんな眠ってるんやしな」
当然じゃないかというように、御門台が答える。
「そう、小説ではそういう理由が多い。けど、それは犯人の理由じゃなくて、作者側の理由なの。夜中に犯行を行なえば、誰かに見つかる怖れが少ない上に、明確なアリバイを持つ者もいない。作者は読者に、登場人物の全員を均等に疑わせることが出来る。最初の数ページに起こった事件だけで、犯人が特定されてしまうような小説を書く人はいない。それじゃミステリにならないからね」
ふゆみの言うことに興味を惹かれたのか、皆黙って耳を傾ける。
「作者の意図が介入する時点で、現実の犯人と小説の犯人とでは考えが違う。いえ、違いが生じる。いい、小説で犯人が真夜中に行動を起こすのは、その時点で自分が捕まらないこと、疑われないことを作者に保証されているから。犯人の正体は、解答編までは解らないようになってる。でも、現実は違う。夜中にやったからって、誰にも見つからない保証はない」
「だから夜になる前に行動を起こしても不思議じゃないと?」
遠江は納得が行かないようである。
「他の場合は解らない。だけど、今回の私たちの状況に於いては、夜中よりも夕方に行なう論理的な理由があった。見つからない確率で考えたら、と言った方がいいのかな」
長沼が微笑する。
「……成程。夕食担当が減る訳ですね」
「え、なんだ。気づいてるなら、長沼君が説明してよ。私、みんなに解りやすく話すのは苦手なの」
「いえいえ、それは春日町さんの考えです。僕は横取りなどしませんよ」
長沼は恭しく振る舞い、ふゆみに視線を向ける。
「だからね、真夜中にことを為そうとする場合、犯人は自分以外の七人に注意を払わないといけない。犯行を行なう前に見つかったのなら、犯行を先に伸ばすなり、別の機会にするなり、変更すればいい。もっとも注意しないといけないのは、犯行を終えて自分の部屋に戻るときだと思う」
ふゆみは一旦言葉を切る。どのように説明すれば解りやすいかを考えているようだ。
「この近くにコンビニはないし、山荘に自動販売機もない。夜中に喉が乾いたら冷蔵庫に飲み物を取りに行くかもしれない。お風呂はいつでも入れるって言ってたから夜中に入る人がいるかもしれない。眠れないからといって誰かの部屋を訪ねる人や、夜通し誰かと語り続けている人のことや、誰がいつどの部屋から出てくるかも、なんてこと考えたら切りがない。そんなの幾らだって理由は出てくるんだから」
「だが、ある程度の決心がついたから、あんなことをしたんだろう」
草薙が合いの手を入れる。
「うん、そこでさっき言った確率の話になるんだけど。夕方に犯行を行なった場合、夕食担当の三人に目撃されることは、まずない。食事を作るっていう人間が、二階に上がっていくことはないからね。六時半までに準備をするって柚木君が言ったけど、実際にはもっと早く出来上がっているだろうことは解る。だからある程度の余裕を持たせ、この時間までに犯行を行なえば夕食担当に見つかることはないと踏んで、犯行を夕方に行なった。目撃不可能な人間が三人っていうのは、妥当なとこじゃないかな。これ以上になると、お互いにアリバイを持つ人間が増えて、自分の首を絞めることになり兼ねないし。そこで、自分を目撃する可能性のある人間が七人の場合と四人の場合を考えたら、少ない方を選ぶのが自然でしょ。紙の上ではあり得ない理由かもしれないけど、犯人は実際に生きている人間なんだから、心理的な理由っていうのも十分あり得るでしょう?」
大きく頷いたのは、遠江である。全く考えもしなかったというような顔をしていた。長沼と柚木を除けば、大方のメンバーが多少は納得しているようだ。
「だからと言って、夕食担当の方が容疑者から外れるという訳ではありませんけどね」
え、とふゆみが声を上げた。長沼は遠江の方を向く。
「話が逸れてしまったようですね。アリバイを確かめたのですから、誰が犯人になり得るかの検討に戻りましょう」
遠江の手帳が、先程とは逆の順番で遠江に戻される。
「確認しよう。アリバイがないものは、日吉、長沼、御門台の三人。残りの者は一応アリバイを持っているが、完全ではない。それぞれが使えた空き時間は、自分と草薙が三十分程度、柚木が十五分、春日町と日吉が十分、ということだが……」
遠江が全員を見廻す。
「容疑者は三人に絞られる訳ですね。僕は自分が犯人でないことを知っていますから、残りは二人です」
「それはわしも同じや」
長沼の発言に、御門台がすぐさま言い返す。
「死体を解体する程の犯人が、アリバイを疎かにしたとは思えません。僕はむしろ、アリバイのある人間の方が怪しいと考えますよ」
「怪しい言うてもなぁ。お前かて、解体作業に一時間以上は掛かるちゅうたやないか。不本意やが、容疑者はわしら三人なんや」
「成程……考えることを放棄してしまえば、確かに先へは進めませんね」
長沼の台詞は『狐ヶ崎』のものであると、何人かは気づいたようだ。
「な、何を言うとんのや。無理なものは無理やろう。それとも、何か方法があるとでも言うんか?」
てっきり否定の言葉が返ってくると思っていたのだろう。御門台は長沼の返答に驚きの表情を隠せない。
「ありますよ。ここにいる全員のアリバイを崩すことが可能です」
十三
「な、なんやて?」
御門台が素っ頓狂な声を上げる。
「話ちゃんと聞いとったんか。三十分使える遠江と草薙はともかく、柚木は十五分、春日町と日吉に至っては、十分しかないんやぞ。たった十分で、殺して、首斬って、腕斬って、胴体斬って、そんなこと出来るかいな」
「だったら、十分間で出来ることをすればいい」
長沼は動じることなく、落ち着き払っている。何人かが驚きの声を上げた。
「……困難の分割か」
草薙が呟く。
「奇術では一般的な手法ですよね。なら、草薙さんも気がつかれたのではないですか」
奇術研究会にも所属している草薙に、長沼が訊ねる。草薙は、いや、と短く答えただけだったので長沼は話を続けた。
「順番は訊いていませんでしたね。夕食担当の方が厨房を出たのは、どのような順番でしたか?」
「え、時間は解らないけど。確か……柚木君が最初で、そのあとが私で、みづきが最後だった」
代表してふゆみが答える。そうですかどうも、と長沼は礼を述べた。
「つまり、こういう方法を採れば犯行は可能になります。まず、始めに柚木君が桜橋君の部屋に行き、彼を殺害して上着を打ち捨てる。十五分後、何食わぬ顔で厨房に戻ってきます。次に春日町さんが桜橋君の部屋へ行く。春日町さんは首を斬り、厨房に戻ります。次に日吉さん。彼女は腕を斬ります。以下、遠江さんと草薙さんにも同じことが言えます。短い時間で出来ないことであれば、その時間でやれることを行なえばいいのです」
室内は静まり返ったが、やがて遠江が発言する。
「それはつまり、犯人に共犯者がいる場合だな」
「ええ、共犯者の数が多い程、一人一人の負担が減る訳です」
ただし、と言って長沼は付け加える。
「共犯者を前提にすると、先程のアリバイ調査の信憑性が薄れます。当然、犯人に仲間がいるのであれば口裏を合わせることが可能ですからね。……もっとも、犯人が単独なのか共犯者がいるのかは、現時点ではまだ解りませんが」
「……しかしだな。共犯者がいるとすると、桜橋は一人だけではなく複数の人間に殺される理由があったということになる。あいつが、何人もの人間に恨まれるような性格をしていたとは思えない」
長沼はあっさり匙を投げる。
「そうですね、動機に関しては全く解りません。人を殺す動機なんて、犯人によって違うでしょう。経験のない僕には、何も言えませんね」
十四
「机上の空論ばかりだな」
これまで、ほとんど発言のなかった柚木が顔を上げる。
「出来るかもしれない出来ないと思うを繰り返して何になる? おれたちの中に、死斑や体温降下、死後硬直の度合いから死亡時刻を推定出来る人間はいません。当然だ。おれたちの通う大学は、カレッジであってユニバーシティじゃない。医学部なんてないんだ。さっきのアリバイ、それぞれの持ち時間は、解体に掛かった時間が解ってこそ犯人を絞る役に立つ」
「しかし柚木、医学的知識のない俺たちにその点はどうしようもない。ある程度の幅を持って、推測するしかないだろう」
草薙の言葉を柚木は簡単に切り返す。
「実際に試してみればいい。ここには死体も凶器もあるんだ」
何人かが驚きの声を上げ、食堂内が騒めく。
「桜橋の部屋。理由は知らないが、窓が開き冷房も点いて冷やされていた。窓は閉めてきたが、冷房は入ったままだ。桜橋の死後硬直は殺されてからそれほど進んでいないだろう。つまり今の桜橋の身体は、生きているときとほぼ同じ柔らかさだということだ。首は斬られてしまったが、下半身は手付かずのまま。臍の下辺りから斬れば、胴体がどれくらいの時間で斬り離されたかの目安になる。腕や手首は残っている部分を斬ればいい。その時間から逆算して――」
突然のことに、何が起こったのか皆すぐに理解出来なかった。体勢を崩し前のめりに突っ伏した柚木。前に置かれた食器が音を立てて倒れ、中身がテーブルに撒き散らかる。いつの間にか柚木の後ろにふゆみが右手を振り上げたまま立ち、柚木を睨み続けていた。
どうにか状況を摑んだ遠江が双方を取り成す。
「春日町、気持ちは解るがもう止せ。柚木もだ。口にして良いことと悪いことがある。そういうことは言うんじゃない」
テーブルから顔を上げた柚木が、ふゆみを見据える。ふゆみは赤く腫らした目を逸らさない。震える口から絞り出すように声を出した。
「あんた……今のこと、本気で言ったんじゃ、ないでしょうね」
「おれは、冗談は言いません」
ふゆみが再度腕を上げるのを見て、遠江が動く。
「止めろ、春日町! 日吉、古庄、春日町を止めてくれ」
遠江は柚木を制し、ふゆみから離そうとする。
「ふゆみ先輩、駄目ぇ!」
「春日町さん、落ち着いてください」
すぐに、みづきとしいなが立ち上がり、ふゆみの許へやってきて行動を抑える。
「大丈夫よ、もう。だから離して」
そう言って、ふゆみは自分の席に戻る。みづきとしいなもあとに倣う。
「限界だな……」
遠江は、みづきとふゆかに宥められるふゆみを見た。彼自身も疲れ切った表情をしている。
「話し合いは、もう終わろう」
食堂の時計は八時三十分を廻っていた。
窓の外、雪はいつの間にか止んでいる。
十五
桜橋の部屋に冷房が点いていた件の検討がないことに長沼は不満そうだったが、遠江に宥められ渋々了承した。
「ま、警察が来るまで、じっくりと考えさせてもらいます。実際の警察官と知恵競べが出来る機会など、滅多にありませんからね」
食事を摂りたいと言い出す者は誰もいなかったので、夕食に用意されたビーフシチューはラップで包んで冷蔵庫に入れられた。一通りテーブルを片付けてから、遠江が皆に提案する。
「全員一緒に同じ部屋で寝た方が安全じゃないか? ラウンジのソファをベッド代わりに使って。足りなければ、客室から毛布や掛け布団を持ってきて、それを床に敷けばいい。暖房の温度を上げれば寒いということはないだろう」
「無理や。犯人に共犯者がいるかもしれないってことを聞いてしまったんや。そんな簡単に疑いは消えへん。極端な話、わし以外の人間が全員犯人やったら、むざむざと殺されるだけや」
御門台がすぐさま返答する。
「わたしも……この状況で、みんなと一緒、は無理です」
しいなも御門台と同じ心境のようだ。震える身体を抑えて、遠江に頭を下げる。
「やれやれ、共犯説を出した僕のせいでしょうかね。言わずもがなですが、戸締まりをしっかりとして各自で注意を払うしかないですね」
長沼が肩を竦める仕草をした。
立て続けに反対され、遠江は不安そうな顔つきになる。やがて、意を決したように言う。
「解った、自分の部屋で寝るのはいいとしよう。だが念のため、明日食堂に降りる時間を決めておこう」
「そんなん、目ぇ覚めた奴から降りてくりゃいいんちゃうか?」
「違いますよ。犯人が二番目に降りてきたら、最初に降りてきた人が危ないと、遠江さんは言いたい訳です」
「ああ……そういうことかいな。廻りくどいやっちゃな」
御門台は、長沼の説明に対して絡む気力も減少しているようだ。受け入れはしたものの辛辣に言葉を吐き捨てる。
「早くに目が覚めても、一人では決して降りないで欲しい。客室の外へ、みんなが同じ時間に出る。食堂へは一緒に降りよう。そのあとは、そのまま食堂に残るかラウンジか、どちらか一ヶ所に固まっていてもらう。その間に、自分が警察を連れてくる」
こちらの提案に、反対する者はいなかった。
「時間は……そうだな、九時にしよう。九時になったら全員が廊下へ出る。それ以前は、ずっと部屋の中にいてくれ。飲み物が欲しければ、今から厨房へ行って取ってくればいい。くれぐれも部屋には鍵を掛けて、夜中に部屋から出ないように。頼む……」
最後の言葉には、会長としての威厳は微塵もない。ただ仲間たちに無事でいて欲しいという願いだけが込められていた。
第三章 第二の被害者
*
少年は、少女と向かい合わせで勉強をしていた。
あと二週間で、中学生になってから初めての中間試験がやってくる。出来るだけ早めに試験対策をしておいた方がいいと考えたのだろう。この数日は毎日机に向かい始めた。
少女が来たのは試験が始まる一週間程前だった。数学で解らない問題があるから教えて欲しいということらしい。少女は自分の教科書とノートを持ってやってきた。
少年の勉強机では教えにくかったので、折り畳み式の平テーブルを、ただでさえ狭い部屋に持ち込んだ。少年と少女は、そこでノートと教科書を開いている。
「うん、うん、成程ね。そういうことか。なんか算数から数学に変わって、いきなり難しくなった気がしちゃって。学なんて付くと、難しそうに思うじゃない?」
そうかな、と少年は言った。良く解らないという顔をしている。
「でも凄いよね。こんな問題解けるなんて」
少女は数学Ⅰの教科書をぱらぱらと捲る。
「いや、解けない方が珍しいんじゃないか」
少女が頬を膨らませた。
「それは、私の頭が悪いって遠廻しに言ってるの? って全然遠廻しじゃないじゃない。むしろ直接的ぃ」
少女一人がいるだけで、この家は途端に騒々しくなる。けれど息子が余り他人と話すような性格ではないので、母親はこの賑やかな少女の訪問を喜んだ。今日も、夕食を一緒に食べていくようしきりに誘っていた。
「なんだ、良く解らない。それが突っ込みって奴か? 漫才とかコントとか、見たことがないんだ」
少年は淡々と自分の勉強を進めている。
「ま、漫才? 誰が……」
少女は引き攣った笑みを浮かべている。決して何か面白いことがあって笑っている訳ではないだろう。
「むぅ。数学を教えてもらう代わりに、私が得意な現代文を教えてあげようと思ってたのにぃ……。そんなこと言うのなら、教えてあげない。ふぅんだ」
少女はそっぽを向いた。
少年は立ち上がり、勉強机から国語Ⅰの教科書を取り上げて言う。
「現代文は僕も得意だ」
* * *
初日で駒はひとつ減った。
上手く行くかどうかの不安は常にあった。
そこで糧になるのが経験である。
既に自分は人を殺したことがあるという事実。
これは他の何にも代えがたい、原動力になった。
初めての殺人を毬藻荘で行った場合、ことを成したあとで人事不省に陥り、被害者の部屋にいるところを誰かに見つけられたことも考えられる。人を殺したあとでそのまま部屋に残っていたら、言い逃れなど出来ない。それでは自分が犯人であると、皆に告白するようのものだ。自分はこんなところで、最初の殺人で躓く訳にはいかないのだ。
今でも忘れられない。初めて人を殺したときのことを。
殺しているときは夢中だった。何も考えられなかった。早く死んでくれることを願った。
切断するときも嫌だった。気持ち悪かった。吐き気がした。悍ましかった。
本当にこれが、さっきまで動いたり話したりしていた人間なのかと疑った。
生きているのと死んでいるのとで、これほどの違いがあると思わなかった。
滅多に人が訪れない場所を選んだのは正解だった。
目的が達せられれば、この死体が見つかったところで構うことはなかった。だから死体を丁寧に埋めることはしていない。余程物好きな人間が訪れて、あの辺りを徘徊でもしない限り見つかることはないだろう。
簡単に見つからない程度に隠しただけだ。けれど、あのときはこれが精一杯だった。
初めての人殺しで初めての解体作業で、涙が出て嗚咽して動揺して。それでもどうにか目的に向かって進むしかなかった。逃げる訳にはいかない。逃げてはいけないのだ。
その日は下宿に帰って、朝までずっと泣いていた。自分の目からこんなにも涙が流れるなど信じられなかった。しかし涙が止まることはなかった。
いつの間にか眠っていたらしく、気がついたときは夕方だった。震えは止まっていた。涙も乾いていた。何かが変わった。いや、変わったと思った。
事実、その経験があったから自分は前に進めたのだ。
人を殺して躊躇うこともない。人を解体して涙を流すこともない。
残りの駒は七つ。
大丈夫。やれるはずだ。自分は既に殺人者なのだ。生まれて初めて死体を見る人間や、人を殺したことのない人間とは違う。心構えが全く異なる。動揺や途惑いは自分にはもうない。だから。怖れるな。
* * *
十六
午前九時。
客室の扉が、ほぼ一斉に開けられる。
「おはようございます」
「ああ、おはよう」
挨拶を返しながら、遠江は廊下を見廻した。
「ふゆみ先輩、眠いですぅ」
「おはよ、みづき」
一晩経ったせいか、緊張状態は幾分緩和されているようだ。
「あやうく、寝過ごすとこやったわ」
少し遅れて御門台が顔を出す。
遠江は部屋から出てきた者を確認する。草薙、柚木、御門台、長沼、みづき、ふゆみ、と順に見て顔が強張る。
「古庄は……まだか?」
努めて平静を装う。
「……寝坊、したのかな」
答えるふゆみの態度もどこかぎくしゃくしている。
「ふゆみ先輩……」
みづきがふゆみの後ろに寄り添い、袖を摑んだ。
「古庄、時間だ。……起きているか?」
遠江が二〇一の客室を叩く。自然と皆、しいなの部屋の前へ集まり始めた。
「古庄、返事をしてくれ。古庄」
その叩き方は次第に強くなる。
「シャ……シャワー、浴びとるんかも、しれへん。眠気を覚ますには、熱い湯を浴びるんが、一番や」
説得力がないことを自分でも解っているのだろうが、御門台はわざと明るく言う。
遠江は扉の取っ手を摑み。驚きの声を上げた。
「え?」
扉は簡単に開いた。鍵が掛かっていないのだ。
「古庄、入るぞ」
後ろの人間を制して、遠江が中に入る。
客室に何も異常は認められない。昨日遠江が調べたときと同じバッグがベッドの横に置かれている。
「いない……」
遠江が廊下に声を掛ける。ふゆみとみづきが中へ入ってきた。その後ろに、御門台や長沼が続く。
「シャワーは? 調べたの?」
ふゆみに言われ、遠江ははっとした表情を見せる。ふゆみは咄嗟に動いてユニットバスの扉を開けた。シャワーが使われたのだろう、浴槽に濡れた髪の毛が残っている。他には特に変わったものは見当らない。
遠江は部屋の奥へ進んだ。窓には鍵が掛かっている。右手にあるテーブルの上には、この部屋の鍵が合鍵と共に置いてあった。
「どこにも隠れていないようですね」
クローゼットを開けて、長沼が告げる。中には昨日しいなが着ていたフード付きのコートが、ハンガーに掛けられていた。
「既に犯人がことを為したあとであるなら、一度使った部屋を、再度使用したのかもしれません」
長沼の言葉を聞いて、遠江は廊下へ出る。その後ろを長沼が付いていった。入れ替わる形で、草薙、柚木が部屋に入る。みづきは、廊下の壁に背を付けたままじっとしていた。
「遠江さん、大丈夫ですか。顔色が悪いですよ」
大丈夫だ、と遠江は言って、二〇九号、桜橋が使っていた部屋の前に立つ。長沼が、僕が開けましょうか? と言うのを振り切って遠江は自分で扉を開ける。
こちらの部屋も、昨夜と変わりはなかった。冷房が点いたままの冷たい部屋で、桜橋だったものがそのままの状態で残されている。意を決して、遠江はユニットバスに向かったが、そこも昨夜のままだった。トイレに饐えた匂いが残り、浴槽は所々が濡れている。
「昨日と、変わりないですか?」
後ろから長沼が覗き込む。昨日と変わった様子はないようだ、と遠江は頷いた。
二人が二〇九号を出ると、心配そうな顔で廊下に残っていた者たちがこちらを向く。それに対し、遠江は黙って首を振った。
そのあと全員で下へ降り、一階の部屋を全て捜索したが、収穫は得られなかった。何の発見もなく、重い足取りで彼らは食堂に移動した。
「昨夜、古庄はみんなで一緒に寝ることを酷く嫌がっていた。あれほど怯えていた彼女が、部屋の鍵を掛け忘れるはずがない」
遠江が苦しそうに口を開く。
「つうことは、何や? 誰かに連れ去られたとでも言うつもりか?」
御門台が食って掛かる。
「ちゃう、んなこと無理や。鍵が掛けてある部屋にどうやって入るんや。窓の鍵やって、ちゃんと掛かっとったやろうが」
「密室ですね……」
長沼が呟く。どことなく成り行きを楽しんでいる節がある。
「やられました。犯人が夕方に犯行を起こしたのは、こういう理由もあった訳ですか……」
「どういうことだ?」
遠江が聞き咎める。
「ええ、昨夜春日町さんが説明した目撃者の人数とは別に、犯人に利点が発生します。既に人が殺されている状況です。迂闊に廊下へ出て、自分が殺される訳にはいかない。みんなそう思っていたはずです。夜中に部屋を出るなと言われなくても、誰も出たりしません。鍵もしっかり掛けたでしょう。つまり、犯人は誰の姿を気にすることなく、古庄さんを連れ去ることが出来た訳ですよ」
長沼の言葉に、大小様々な驚きの声が上がる。
「そ、そんな……」
「待ってよ、しいなちゃんが連れ去られたって、どうして解るの? 恐くて、一人で先に帰っちゃったのかも、しれないでしょ」
女性二人の声は震えている。
「いや、それはないでしょう。古庄さんの着ていたコートが、クローゼットに残っていました。外へ出るのなら、当然着ていくはずです。荷物がベッド脇に置いてあることからしても、彼女が自分から部屋を出たとは思えません」
「だが、部屋に鍵が掛かっていたのなら、犯人はどうやって古庄を連れ出す?」
草薙が独白のように問い掛ける。
「それは、まだ解りません」
長沼はかぶりを振った。
「ねぇ、しいなちゃんも、その、もしかして、桜橋君みたいに……」
「あ、阿呆なこと言うなや! 人がそんなにばんばん死んで堪るかいな」
みづきの言うことを遮り、御門台が叫ぶ。
「離れは?」
自分でもあり得ないことを言っているのが解っているのだろう。ふゆみの声は、たどたどしくなっていく。
「あそこまでなら、コートを着なくても、大丈夫だって、思ったんじゃないのかな」
「しかし、離れの鍵はふたつとも管理人室に置いて……」
遠江は草薙の肩に手を置いて、彼の話を止めた。そしてふゆみの方を向く。
「解った。様子を見にいこう」
十七
一面の雪景色であるが、雪は降っていなかった。
しいなのことを心配しているのは、ふゆみとみづきだけではない。口に出さなくとも、皆しいなが無事でいることを望みたいのだろう。全員で離れの様子を見にいこうと述べた遠江に、反対の声は出なかった。
「雪が降ってのぅても、かなり冷えるな……」
御門台が言うのも無理はない。すぐにでも確かめたいという気持ちを彼らは多かれ少なかれ持っていた。母屋から離れは距離にして二十メートル程である。そのため、皆着のみ着のままで山荘から出てきていた。
周囲を吊り橋側から俯瞰した場合、母屋は東側、離れは西側に位置する。母屋と離れを直線で結び、その中心から南へ向かったところに吊り橋が掛かっている。当然、離れに行く途中で彼らの左手に吊り橋が見えることになる。
一番初めに気づいたのは誰だろうか。皆ほとんど同時に声を上げた。いや、それは声というよりも、悲鳴に近い。
「な、ちょっと、やだ……」
「あ、阿呆な、んなはずあるかい!」
「嫌ぁ!」
しかし確かめない訳にはいくまい。皆の足は吸い寄せられるように向きを変え、吊り橋へ近づく。その先に、しいなを見つけたからである。
誰も声を出さない。視界に映る光景から目を離すことが出来ない。寒さも忘れ、皆一様に立ち尽くす。
「はは……。夢ちゃうか……」
御門台が崩れ落ちる。
吊り橋には雪が降り積もっている。谷底からは水の流れる音。橋桁の上には足跡ひとつない白い道が続く。しかし、対岸近くで様子が変わった。
対岸に近い橋桁の雪はうっすらと赤く染まっている。その上に、肘の辺りで切断された細い左腕、膝の下で斬り離された右足が載っていた。赤色は対岸の雪にも降り注いでいる。
橋を挟んだすぐ向こう岸の地面、その雪上に見える、横を向いたしいなの頭部。やや左側に、首と両腕の繋がっていない胸部、すぐ右隣に重なるようにして、左の大腿部が転がる。頭部の周りに、身体のどこの部分だったか判断できないくらいに斬り取られた部位が散らばる。雪の上に放り出された捌き包丁が、微かに光を反射した。
恥ずかしがり屋でいつも友達の側に隠れるように付き添っていたしいな。彼女が親友と笑いながら話せる日はもう来ない。
「うえぇっ。ぅっく、ぅっく……」
みづきが声を上げてしゃくり泣く。
「なんでぇ……っぅう。どうして……っぅ。しいな……ちゃん……」
けれど慰めの言葉はない。何を言えば良いか、何が起こったのかを、咄嗟に判断出来た者はいないのだろう。皆、固まったように動かない。
「古庄……さん」
やがて、屈み込んでいた御門台がゆっくりと立ち上がる。目が虚ろで焦点が合っていない。ふらふらとした足取りで橋を渡り始める。橋桁の雪に、御門台の足跡が刻まれていく。
「……何だ?」
その音は確かに聞こえていた。何かを擦るような。何かが引き摺られるような。だが、どこから聞こえている音なのか発生源はどこなのか、遠江が気づいたときには手遅れだった。
「戻れ! 御門台!」
橋が緩み、軋む。桁を繋いでいたロープが切れていた。片側の支えを失った吊り橋は、重力に逆らうことなく渓流に落ちていく。
ほんのわずかの間の出来事だった。対岸の杭に繋がったロープが、切り立った断崖に垂れ下がる。外れることのなかった数枚の橋桁が、かろうじてロープにぶら下がっていた。
独特の言葉遣いを振り撒いて会内に笑顔を提供していた御門台。彼の姿はどこにも見えない。
十八
正午を過ぎていた。
吊り橋に向かうときはしいなの頭部に皆の注意がいってしまい誰も気づかなかったのだが、母屋から吊り橋にかけて雪の上に足跡のようなものが所々に残されていた。母屋に戻るときに、長沼が悔しい顔をしてそれを発見した。しかし既に彼らの足跡と混ざってしまい、どれが先に付いていた足跡なのか見分けがつかなくなっていた。
それでも残っていた痕跡を彼らは調べた。結果は芳しくなかった。その足跡の持ち主はわざと変わった歩き方をしたようで、爪先立ちしたり、踵で立ったり、後ろを向いたり、元の足跡を更に踏み付けて大きくしたり、逆に雪を被せて足跡を小さく見せたりと、様々な偽装を行なっていた。
それゆえ、この足跡が犯人のものであるのかあるいはこの山荘にいる誰かのものであるのかは判明しなかった。足跡についての検討を終え、彼らは山荘に引き返した。
食堂に戻っても、誰一人言葉を発しない。漫然と時間が過ぎていった。皆が押し黙っている間に、また雪が降り始めた。やがて長沼が、二日続けて食事抜きはつらいですねと言い出したことで、彼らの時間は動き出す。
「食欲がないのは解る。だが、何も食べないでいたら身体の方が先に参ってしまう。少しだけでも食事を摂った方がいい」
温め直した昨日の夕食を咀嚼するのは、男性陣だけである。遠江が努めて優しく言うが、女性二人の手は動かない。
彼女たちは桜橋の死体を見ていない。話で聞いただけである。しかし今朝は違う。自分たちの目で、しいなの首を確認したのだ。続けて、御門台が谷底へ落ちていく瞬間を目撃している。平静でいられるはずがない。食事を摂っている者の中にも、必ずしも平静な訳ではなく、わざと気丈に振る舞っている者はいるだろう。
食事の手を休め、柚木が立ち上がった。
「どうした?」
「厨房に。心配なら扉は開けたままにしておく」
柚木は遠江にそう返す。厨房へ繋がる扉を開けて中へ入る。冷蔵庫を開け、何かを取り出しているようだった。食堂の扉を後ろ手に閉めて、柚木は戻ってくる。
「所詮は気休め程度だ」
余計な一言と共に、紙パックの野菜ジュースをみづきとふゆみの前に置く。彼女たちの反応を見ることもなく、柚木は席に戻って食事を再開する。目の前に置かれたからか、固形物よりは摂りやすいと考えたのか、みづきとふゆみは紙パックに手を伸ばした。
彼らが毬藻荘を訪れて最初の食事だった。話し声は何もない。
吊り橋がなくなった今、遠江が警察を呼びに行くことは出来なくなった。彼らの中に、雪山登山の経験を持つ者はいない。橋を渡らずに麓へ降りることは不可能であり、電話も使えず、外界と連絡を取る方法もない。推理小説さながらの閉鎖空間に彼らは放り込まれていた。
「どう考えたらいい……。いや、何から考えればいいんだ……?」
黙々と進んだ食事が終わり、遠江は頭を抱える。
「僕が代わりましょうか?」
遠江は長沼の申し出を受けた。彼が他人に頼るのは珍しい。相当参っている様子である。
「古庄さんが見つかったのは、対岸……橋を渡ったすぐのところでした。桜橋君と同じく、身体を切断されていました。ただ、彼女の上半身はきちんと服を着ていたようです。腕や腿には衣服は付いていませんでした。どこの部分か解り兼ねるものもありましたが、首の周りに散らばっていたのは、彼女の身体の一部に間違いないでしょう」
みづきが身体を強張らせる。
「血を流さないような殺し方であれば、彼女の部屋でも犯行は可能です。その場合、犯人は鍵の掛かった部屋に侵入したことになりますが、どんな方法を使ったのかはまだ解りません」
まだ、という単語を長沼は強調して言った。
「部屋に入った犯人が古庄さんを生きたまま連れ出したのか、殺してから運びだしたのか。どちらにしても、残された包丁や血に染まった雪から考えて、解体作業は僕たちが見つけたあの場所で行なわれたようですね。当然、あんなところで解体するには、何かそれなりの理由があったのでしょうが」
「長沼、お前が気づいていないとは思わないが、その仮説には問題がある」
草薙の言う通り、誰かがその疑問を口にすることは予想していたのだろう。長沼は容易く肯定した。
「ええ、そうです。もし彼女が橋の向こうで解体されたのであれば、犯人の足跡がなければいけない。なのに、橋桁に積もった雪に足跡のようなものは何も残っていませんでした。僕は昨日、いや、今日ですね。朝の三時ころまで起きていましたが、その時間まで雪は降っていませんでした。誰か早起きした人や、気づいた人はいらっしゃいませんか?」
長沼は食堂にいる者を見廻した。
「私、今朝は早く目が覚めて……。もう一度寝ようと思ったけど、寝られなくて……。外を見たとき、雪は降ってなかった。あれは五時少し前くらい、だったと思う……」
ふゆみが言ったあとで、遠江も告げる。
「自分は、夜中に何度か目を覚ました。二時と、四時くらいだ。そのとき、窓を見たが雪は降っていなかった」
長沼は満足そうな顔をした。
「僕らが気づいていない時間帯に、都合良く雪が降り積もったとは考えにくいですからね。昨夜から今朝まで、雪は降っていないと考えて構わないでしょう。第一、雪がこの時間に降るなんていうことは、犯人にも誰にも予測出来ません。仮に解体作業が別の場所で行なわれたとしても、古庄さんの死体を橋の向こう側に置いてきた以上、足跡の問題を避けて通ることは出来ません。犯人は何らかの方法を用いて、橋の向こう側とこちら側を行き来したのです」
「その橋も、もうなくなってしまった……」
苦渋に満ちた顔で遠江が言う。
吊り橋を支えるロープは、両岸に打ち付けられた杭に幾重にも巻き付けて結ばれているはずだった。調べてみると杭に残ったロープには、刃物によって付けられた幾筋もの切り込みが残されていた。
「古庄さんの死体があんなところにあれば、誰かが見に行かざるを得ません。人が載ったら落ちてしまうようにロープが傷つけられていたのは、それを見越してのことでしょう」
「その方法は確実とは言えないんじゃないか。人が載ったら落ちる程度に切っておくといっても、かなり微妙だ。犯人がロープを切っている最中や、強風に煽られたときに橋が崩れてしまうこともあるだろう」
草薙が述べる。遠江の口数が少ないときは、草薙の発言が多くなる傾向がある。これまでの例会や、ボックスでもこのようなことは幾度かあった。
「古庄さんの死体を設置したあとであれば、切り込んでいるときに橋が落ちても、朝になって風に吹かれてなくなっていようとも構わなかったのです。その場合、当然足跡の問題は発生しません。足跡の付いた橋ごと落ちてしまったと僕らは考えるでしょうから。橋がかろうじて残っていたために、足跡の問題が浮上した訳です」
長沼は実に嬉しそうな表情を見せる。
「……成程成程。確かにミステリとは違う。犯人はトリックを見せつける気などなかった。どちらに転んでも良かった訳ですよ。状況に応じて柔軟に対応する方が、遥かに現実的な行動ですからね。上手く行けば誰かが橋から落ちるかもしれない、程度の考えだったのでしょう。たまたま、御門台さんが橋を渡りましたが、日吉さんや春日町さんが見に行くことも考えられました」
ふゆみは、びくりと身体を震わせる。
「被害者が女性なのですから、二人一緒にということもあります。いずれにしても遠江さんが警察を呼びに行くのには、あの橋を渡らなければいけません。かろうじて残っていた橋が、崩れることは決まっていたのです」
遠江は口を出さず、黙って聞いていた。
「たまたま、じゃない。しいなさんのあんな姿を見たら、駆け寄るのは御門台君だった」
ふゆみが顔を上げて長沼を見る。
「……古庄さん、のことですか。気づいていましたよ。だが、そんな感情的な理由で犯人が御門台さんを狙ったとは思えませんね。確実性がありません。そういう情報は伏せておいてこそ、犯人を特定するとき役に立つんです。何でもかんでも、みんなに提供する必要はありません」
「ちょっと待てよ、何を言っているんだ。御門台がどうしたんだ?」
遠江が問い掛ける。草薙も似たような、解らないという表情をしている。
「このように、知らない人間には使えない方法です。御門台さんが標的だったというのには賛成出来ません。密室や、足跡のない犯行をやってのけた犯人です。人の感情という、あやふやなものを利用したとは思えませんよ」
遠江の質問に対して長沼は、このような状況で言うのは何ですがと前置きしてから、古庄さんのことを気に掛けていたんじゃないですか、と関心がなさそうに言い捨てた。
「それよりも興味深いのは、犯人がひとつの殺人を次の殺人に利用していることです」
「どういう、ことだ?」
浮かない顔で遠江が訊く。
「桜橋君の死によって、犯人は夜中に僕たちが部屋から出ないよう楔を打ちました。同様に、古庄さんの死体を次の殺人の仕掛けとして用いました。しかし、御門台さんの件に関しては先程も言いましたが、運が良ければ死体がひとつ稼げる程度の考えだったのでしょう。そのため次の殺人への繋がりも、これまでのように首が斬り取られることもありませんでした」
「次の殺人……」
みづきは怯えた表情を見せる。
「どうして……そんな、普通に、話せるのよぅ。何人も、続けて……人が、死んだって、いう、のに……」
同学年の長沼にみづきは突っ掛かる。けれど長沼は歯牙にも掛けない。
「やれやれ、困りましたね。日吉さんのように慌てふためいたところで、何が変わるんですか? 泣けば犯人が犯行を止めてくれるとでも思っているんですか?」
「そ、それは……」
みづきが言葉を詰まらせる。
「いいですか、犯人が衝動的にことを起こしたのであれば、一人一人を問い詰めて自白に追い込むことも可能かもしれません。しかしこの事件の犯人はそうじゃない。冷静に判断し、行動し、殺人を犯しています。そのような犯人を相手にするのであれば、こちらも冷静に構えるほかないでしょう。感情だけで動いたら、おそらく犯人には勝てません」
そう言われたきり、みづきは顔を伏せて押し黙る。
第四章 第三の被害者
*
引っ越しの日だった。
生まれてから十数年を過ごした町ともお別れだった。
二度と戻ってくることが出来ない距離ではない。引っ越し先は同じ日本の中にある。
けれどやはりそこは遠い。少年にとって中学生にとって、簡単に行き来の出来る場所ではない。
ここにいるのは、おそらくこれが最後なのだろう。
少年が住んでいた家には、何も残っていない。
少女が度々遊びに来た部屋も、今はもうない。
家にあった全ての荷物は、先に運ばれている。
玄関前の乗用車は出発を待っていた。両親は車の中にいる。
家の前で少年と少女が話をしていた。
少女は感情的になっているが、少年は淡々と言葉を返した。少女が涙を流しても、少年は変わらなかった。無理なものは無理で、叶わないことは叶わない。そのようなことを言っている。
やがて。少女は持っていた紙袋を少年に押し付けた。ごめんなさい、という言葉を残して振り返ることもなく駆け出した。少年は声を掛けることもない。追い掛けもしなかった。
少年は家族の待つ車に乗り込んだ。いいのかと父親が訊いたが、仕方のないことだろう、と少年は言い放った。
少年は紙袋を開ける。中から出てきたのは野球チームの帽子だった。けれど少年には、それがどのチームの帽子か解らなかったようだ。一瞥すると紙袋に戻した。
乗用車が動き出す。
* * *
駒の数は減っている。
幾ら慣れや経験があっても、時間の制限はある。
一日にひとつの駒だけでは間に合わないのだ。ふたつ、みっつを同時に壊せるのであれば同時に壊し、一日で複数を壊せるのなら、それに越したことはない。
最悪の場合、正体がばれてしまっても構わない。見つかろうと気づかれようと、目撃者全員を消してしまえばいいのだ。日程的な限度が来たときは、全ての駒を一斉に片付るしかないだろう。方法は用意してある。
だが、そのことを考えるのまだ早い。一斉消去は、あくまで最後の手段なのだ。
要は状況に応じて臨機応変な行動を取ればいいということ。駒の動きを完全に制御出来ない以上、こちらも柔軟な対応を取るしかない。この駒にはこの方法で、などと固執すると自ら墓穴を掘ることになる。そのときどきに使える方法で、駒を減らしていくのが確実だ。最終的に全ての駒を消すことが出来るのなら、方法はどんなものでもいい。
小説ではないのだ。殺害方法に理由も論理も何も必要ない。このときこの駒にはこの方法が適している。そう思って行動を起こすだけ。
目的の場所に辿り着けるのであれば、方法など関係ない。
* * *
十九
「こちらから連絡を取ることが出来ない以上、誰かにこの状況を気づいてもらうしか、自分たちの助かる方法はない……」
ようやく遠江が口を開いた。
「ここの山荘を借りるとき、オーナーの登呂さんに俺たちメンバーの名前と連絡先を伝えてある。期限を過ぎても、鍵の返却がないようであれば、不審に思って調べに来てくれるだろうが……」
草薙は語尾を濁した。
「何か問題があるのか?」
「登呂さんは他に客が来ないからか、気に入ったのであれば、滞在期間を一日でも二日でも伸ばしてくれて構わないと言ってくれた。まあ、そのときは追加料金を取られるんだろうが、一日二日長引いただけでは、ここまで調べに来ないだろう。電話は緊急のとき以外掛けないとも言っていたしな。気が良すぎるのも考え物だな」
「そうか、山荘側からのアプローチは期待しない方がいいということか……」
遠江は肩を落としたが、すぐに顔を上げる。
「……春日町は、実家から通っていたよな。家の者に合宿のことは、どの程度伝えてきている?」
「う、うん。ミステリ研の合宿で、三日間泊まってくるって、だけ。場所の説明もほとんどしてない……」
「そうか……」
遠江の落ち込み出した表情を見て、ふゆみが続ける。
「でも、私のお母さん、心配性だから。三日経って私が帰ってこなければ、きっと私を探そうとしてくれると思う……」
「待てよ。あいつらがいるじゃないか」
遠江が急に大きな声を出す。
「入江岡と伊豆さんがいる。それに清水も。春日町の母親だって、娘を探すのなら真っ先にミステリ研の連中と連絡を取るはずだ。入江岡も伊豆さんも清水も、合宿の栞を持っているし、栞にはこの山荘の住所と連絡先が書いてある。異常を感じたら、すぐにこちらへ向かってくれるはずだ。特に入江岡は、合宿での例会結果を終わったらすぐに聞かせろと言っていたくらいだ。最終日にボックスで待っている可能性はある」
「じゃ、じゃあ、あと三日経てば……」
ふゆみが顔を綻ばせる。
「ああ、入江岡がきっと警察に報せてくれる。草薙、これもお前が合宿の栞を作ってくれたおかげだ」
「止せよ。状況自体は何も変わっていないんだ」
草薙が嗜める。
「解ってる。だが、希望が見えてきたのは事実だ。今晩、明日、明後日、この三日間を無事に過ごせば、警察に連絡が行き、動き出してくれるはずだ」
「……無事に過ごせれば、ですね」
長沼の言葉に、彼らは再び口を閉じる。
二十
それは誰もが思っていることだったろう。
もし救けが来ても、そのときまで生きていなければ意味がない。既に三人の仲間が殺されている。自分がいつどこで同じ目に遭うかもしれない。無事、明日を迎えられるかどうかも解らないのだ。
殺人を犯した人間が紛れ込んでいることは、無視出来ない事実である。それを長沼が口にしたことで、希望を持とうとしていた彼らは、現実を直視せざるを得ない。
それを緩和しようと、遠江はもっともらしく明るい口調で口を開いた。
「せっかくテレビがあるんだ。この地方特有の、何か面白い番組でもやっているんじゃないのか。柚木、点けてくれ」
テレビに一番近い席に座っていた柚木が腰を上げ、リモコンを手にする。電波の届きが悪いのか、放送局自体が少ないのか、チャンネルを廻しても、画面には砂嵐のような灰色が雑音と共に映っているだけだった。
柚木がチャンネルを変えていると、突然、雑音混じりに途切れ途切れの音声が聞こえ始めた。画面には鮮明ではないが、ぼんやりと映像が映っている。報道番組だろうか。スタジオにはスーツ姿の男性が見える。リポーターの女性と中継放送が繋がっているようだ。
『……発見された遺体には、頭部がなく……身元はまだ……』
その音声に、食堂にいた者たちははっとして顔を上げる。映像は歪み、揺れ、曲がり、細かく切れた音声のみが流れる。
『……遺体の……水に濡れ……学生手帳に……S**大学……文字が……』
「え? ねえ、今――」
みづきが声を上げると、遠江が透かさず制止する。
「日吉、黙っていろ! 柚木、大きくしてくれ」
柚木が音量を上げ、雑音の激しさが更に増す。
『……ポケット……滲んで……が、かろうじて……毬藻……合宿……』
何人かが驚いたように目を見張る。
『……遺体は……釣りに……A川の畔……発見さ……』
「まさか、そんな……」
長沼にしては珍しく、声を震わせる。
『……捜査員……調べ……』
それきり音声は止まり、画面は砂嵐に戻る。一向に映像が映る気配がなさそうなので、柚木は電源を切った。
「み、御門台、君……?」
ふゆみが呟く。
「お、驚いたが……。あれから四時間近くが経つ。川に流されて発見されることは……考えられる。そこの谷底を流れる川が……A川というのだろう」
遠江は草薙の方を向く。
「あの栞……。合宿の栞は、一人に一部ずつ渡したはず、だったな」
「ああ、再利用出来るものではないし、会員全員に配ったあと、残りは俺が始末した」
答える草薙の声も、心なしか震えている。
「御門台が流された直後に、伊豆さんや入江岡、あるいは清水が死体で発見される偶然など、とてもじゃないが起きないだろう。なら今のはやはり御門台、のことか……」
「ま、待ってよ! そうだったら、おかしいじゃない。だって……」
みづきは言葉を止める。自分の考えを信じることが出来ない程の取り乱しようだった。
「発見された遺体は、頭部がなかったって……。ねぇ、頭部って頭でしょう? どうして、どうして御門台先輩が、首を斬られているのよ! だって普通だったじゃない……そのまま……落ちたじゃない! それなのにどうして。ねぇ、何が起こったのよ!」
みづきは喚き散らす。
「それは……」
顔を向けられても遠江は答えることが出来ない。他の者も反応は似たようなもので、みづきの発言に対し愕然とした表情を見せる。
「くくっ……。面白い、面白いですよ……。犯人がここまでやってくれるとは……」
長沼が声を荒げた。興奮しているのか、いつもの冷静さを欠いている。
「な、長沼! 気を確かに持て」
「しっかりするのは遠江さん、あなたの方です。見知らぬ場所に泊まるというのに、近辺の地理も調べていないから、そんな呑気なことが言える」
長沼は振り返り、遠江を見据える。
「いいですか、A川というのは流れの途中で二つに別れます。その地点から名前が変わり、それぞれK川、T川と呼ばれる」
「な、んだって……」
会員たちに緊張が走る。
「この山荘の下を流れるのはK川なんです。解りやすくはっきり言いましょう。どういう訳か御門台さんは、K川の上流にあるA川の畔で発見された。これまでと同じく、首を斬られた状態で」
第五章 第四の被害者
*
兄の葬儀が行なわれた。
事故だったらしい。詳しいことは知らない。訊いても両親は教えてくれなかった。戻ってきたとき、兄の身体は灰色をした布のようなものに巻かれていた。
兄は布団の上に寝かされた。兄を居間に運び入れたのは中年の男性と若い女性だった。病院の人間だろうか。男は茶碗の水に筆を浸し、兄の唇を濡らした。男が何をしているのか解らなかった。
男たちが帰ると別の人間がやってきて、両親と話をしていた。何も手伝えることがなかったので自分の部屋に戻った。いや、何をすればいいかが解らなかった。人が死んだときに、何をどうすればいいのかが解らなかった。
人の死に触れるのは初めてだった。兄の死が初めての死だった。
翌日になると、居間には祭壇が用意され、兄は棺に移されていた。居間の襖が外されていた。壁には黒と白の幕が垂れ下っている。
家の中に親戚たちや、知らない人間が集まってきていた。学制服を着た中学生も混ざっている。皆黒い服だった。見える色は黒だけだった。
何人もの人間が居間に集まった。入り切れない者が廊下や外にもいたようだ。やがてお坊さんがやってきてお経を上げた。あれは何を言っているのだろう。
お経が終わると、親戚たちによって兄の棺が運ばれた。家の外で待っている霊柩車に入れられた。家の中にいた人間たちも外に出た。たくさんの人間が集まっていた。周囲は黒ばかりだ。
父親がマイクを通して訪れた人たちに挨拶をしていた。スピーカーからクラシックが流れていることに気がついた。兄の好きだった曲だ。
お坊さんはいつの間にかいなくなった。父親が挨拶をしたあと、道を埋めていた人間の大半が帰っていったようだ。そのあとにマイクロバスが何台かやってきて、家の前に停まった。
一時間近くバスに揺られていた。誰とも話さなかった。親戚にも従兄にも歳の近い人間はいなかった。それに何を話せばいいのだろう。何を話したって悲しくなるだけに決まっている。
ずっと窓の外を眺めていた。知っている風景がなくなり、窓から見えるのは知らない景色ばかりになった。火葬場は、知らない場所の緑がたくさんあるところに建てられていた。広い建物だった。駐車場も大きい。庭もあった。
遺体が焼かれるのは順番だった。死んだ人間は兄だけではないようだ。待合室は広く大きい部屋だった。ここにも黒い人がたくさんいた。兄の身体がじきに焼かれる。骨になったら、火葬場の人間が報せてくれるとのことだ。病院で薬を待っているときみたいだ。
しばらく時間が掛かるというので待合室を出た。母に、景色を見てくると言って席を立ったが、母は何も言わなかった。
どこへ行こうという当てはなかった。ただ適当に歩いた。空は青い。白い雲が流れる。周りは緑に囲まれている。そんな場所で兄は骨になるのだ。いや、灰になるのか。
砂利を踏む音が聞こえた。振り返るとそこに彼女が立っていた。もう会うこともないだろうと思っていた彼女がいた。彼女は黒いワンピースを着ている。
新幹線を乗り継いできたのか飛行機を使ったのか、兄の死を聞いてすぐにやってきたに違いない。しかしいつからいたのだろう。気づかなかった。お坊さんのお経も聞いていたのだろうか。
再会の挨拶はなかった。悲しそうに微笑んで彼女が近づいてきた。彼女の顔が目の前にあった。目が赤く腫れていた。突然彼女が縋り付いてきた。そして次の瞬間、彼女は泣いていた。子供のように声を上げて泣き喚いていた。
こんなところまで彼女が来くれて嬉しかった。離れていても想いは変わらない。自分の気持ちも彼女と同じだと感じた。もう彼女の泣いた顔を見たくない。悲しむ顔も見たくない。これからも彼女を守ってあげないといけない。そう思って彼女を強く抱き締めた。
* * *
閉鎖空間。クローズド・サークル。
外部との連絡は一切取れない状況になっている。
閉鎖状況が解除されるまで、駒が盤上から逃げ出すことは出来ない。駒が山荘に留まっている間が、まさしく殺人に打って付けなのだ。
これで少しは時間の余裕が生じた。
一日にふたつもみっつも駒を壊すのは、出来れば避けたいところだった。こちらも人間なのだ。慣れてきたといえ続けてはきついものがある。
奴等はこの日になったら救けが来るはずだ、だからそれまで頑張ろうなどと言っている。だが無駄だ。救けなど来ないと自分は知っている。
閉鎖状況がいつ解除されるかの予測はつかない。
確実なのは、そのとき全ての駒は消えているということだ。
* * *
二十一
信じられないという声が幾らか上がったので、長沼は自室へ戻り、すぐに地図を取ってきた。遠江に言うだけのことはあり、山荘周辺の地理を把握していたようだ。長沼がテーブルに広げた地図により、山荘のすぐ下を流れるのがK川、上流に位置するのがA川であると判明した。それにより、食堂内は更に重苦しい雰囲気に包まれる。
突然、緊張状態に追い込まれ、落ち着きを取り戻したころに次の事件が発生する。この山荘へ来て一晩しか経っていないというのに何度同じことが繰り返されただろう。慰める声は何もなかった。
「……もう、嫌」
みづきが立ち上がる。厨房に繋がる扉を開けて中に入っていく。
「おい、日吉、どこに」
遠江を無視し、厨房で何かを探しているようだった。
「日吉……」
跡を追おうとして席を立った遠江の動きが止まる。戻ってきたみづきは、手に包丁を持っていた。
「もう嫌ぁ! もうたくさん!」
みづきは金切り声を上げた。
「誰があんなことをしたのよ! 桜橋君もしいなちゃんも御門台先輩も、何で殺されなきゃならないのよ!」
「みづき! 落ち着いて……」
「日吉!」
みづきを止めようとふゆみが立ち上がる。遠江とふゆみの叫びが重なる。
「……こんなところに……人殺しなんかと、一緒にいられない!」
みづきは同学年の柚木に近づいた。
「離れの鍵、取ってきて。食べ物と飲み物も袋に詰めてきて」
柚木は座ったままみづきを見上げる。
「早く……! 取ってきてって言ってるでしょ!」
摑んだ包丁を柚木に向けるが、その手は震えている。
「柚木、行ってやれ」
草薙に言われ、柚木は席を立つ。みづきを一瞥して廊下へ出ていった。
「日吉、危険だ。単独行動は……」
みづきは遠江の言葉を遮る。
「何言ってるの? みんな殺されたのよ。ここにいる誰かに! そんな人と一緒にいたら、あたしもいつ殺されるか解らない。あたしは死にたくない! 殺されたくない!」
「みづき……」
遠江とふゆみは、テーブルを挟んでみづきと対峙している。みづきは手に持った包丁で、威嚇を続ける。
「遠江先輩、ライターを貸して」
訝しがる遠江に、みづきが癇癪を起こす。
「離れはストーブだって言ってたでしょ! だから貸してって言ってるの!」
「ま、待てよ、日吉。ストーブの燃料だって、いつまで持つか解らない。一人で離れに閉じ籠もったからって、どうなるんだ」
遠江はみづきを必死に宥めようとする。
「じゃあ、どうしろって言うの! ここで殺されるのを待てって言うの? あなたが犯人かもしれないのよ!」
遠江は返答出来なかった。唇を噛んでポケットからライターを取り出し、テーブルの上を滑らせる。扉が開いて柚木が戻ってきた。片手にビニール袋を持ち、もう片方に離れの鍵を持っている。
「袋に入れて。鍵も一緒に」
みづきはテーブルの上にあるライターを示す。柚木が黙ってライターと鍵を袋に入れるのを見ると、包丁を持っていない方の手でビニール袋を摑む。
「……誰も来ないで。近寄らないで」
祈るように言うと、みづきは廊下へ飛び出した。
「日吉!」
遠江が跡を追おうとする。
「待て、遠江。今は行かない方がいい」
草薙が制止の声を投げる。
「あの状況での説得は無理だ。逆にお前が刺されるぞ」
「だが……」
遠江は言葉を詰まらせた。
「日吉さんが言ったことも、強ち間違ってはいないでしょう。殺人犯が同じ屋根の下にいるという状況で、落ち着けと言う方が無理なのです。いつ同じようなことが起きるかもしれない。厨房の包丁は、処分するなりどこかに仕舞っておくなりした方がいいかもしれません」
長沼は離れのある西側の壁に顔を向ける。
「ただ、あれが彼女の演技だとしたら、危険なのはむしろ僕たちの方になりますね」
二十二
「みづき……」
ふゆみは手を組んで額に当てている。
「……犯人の目的は何なんだ?」
遠江が独りごちる。
「連続殺人なんて、そんなことに何の意味がある……?」
「それは犯人にしか解らないだろう。どんな動機で殺したかなど、考えても切りがない。ここにいる者は全員性格が違うんだ。憤りを感じる対象もそれぞれだろう」
草薙に言われて、遠江は唸る。
「共通点があるとすれば、俺たちが同じサークルに所属する人間だということくらいか」
「それは……そうだろう。ミステリ研の合宿なんだから」
そんなことは解っているのだろう。遠江は草薙の発言に残念そうな顔をして答えた。
「みづきは、みづきは大丈夫なの……?」
ふゆみが顔を上げた。
「ねえ、やっぱりみづきを止めた方が良かったんじゃないの……」
「しかし、それを拒んだのは日吉さんです。あのまま彼女を引き止めていたら、僕らの誰かが怪我を負った可能性があります。論理的に動く犯人を捕らえるよりも、感情的に動いている人間を抑える方が大変です」
長沼が言った。
「みづきは、そんな、そんなことは……」
「しない、とは言い切れないでしょう。例え犯人でなくても、自分が殺されるくらいなら相手を殺そうと考える人間はいます。彼女はその状態に近かった……」
「みづき……」
食堂が静けさを取り戻したかに思えた。
そのとき。
爆発音が轟き、山荘内に振動が伝わる。
「な、何?」
ふゆみがテーブルに手を付き、腰を浮かせる。
「離れの方ですね」
長沼が言い、はっとした顔で遠江が立ち上がる。遠江が駆け出し、すぐさま草薙が続く。そのあとを、残された三人が少し遅れて追い掛けた。
玄関を出たところで、遠江と草薙が立ち尽くしていた。
凄まじい炎と煙に離れは包まれている。雪に映える赤と白。衰えることなく燃え続ける赤色。降り掛かる白色。破裂音が響き炎の勢いが増す。
我に返って、遠江が山荘へと引き返した。廊下に設置されていた消火器を手にし、離れへ駆け出していく。
「遠江、戻れ! 危険だ」
引き止める草薙を無視し、遠江は離れに近づく。
「無理だ……もう、助からない……」
「日吉、大丈夫か! 日吉! 頑張れ……」
遠江はみづきの名前を大声で呼びながら消火活動を試みる。火の粉が音を立てて爆ぜる。そんなことは目に入らないというように、遠江は消火液を噴出させる。だが、依然として火力は衰えない。
「止めろ、遠江! 巻き込まれるぞ」
草薙が遠江の腕を引っ張り、彼をどうにか離れから移動させる。再び離れに破裂音が響く。
彼らは頽れる建物を、ただ眺めているだけだった。
焼け落ちた離れから、焼死体が見つかった。
ふゆみは確認なんか出来ないと言って一人母屋に引き返したが、誰も何も言わなかった。残った四人は雪の降る中、離れの残骸を捜索した。熱気が残り、周囲に異臭が立ち込める。
離れはそれほど大きい建物ではなかった。全焼した今となっては、玄関に立つだけで全体を見渡せる。辺りには瓦礫が散乱し、みづきが持ってきたものだろう、熱で溶けたペットボトルや、変形した缶詰が残っている。
玄関付近に焼け焦げた遺体が横たわっていた。頭部が身体から千切れかかり、かろうじて身体と繋がっているという具合だった。室内のストーブの下に、みづきが持ってきたものと思われる包丁が落ちていた。
「ぐぅっ……首が……」
見下ろして、遠江が呻き声を上げる。
「いや、これは意図したものではないでしょう」
長沼はしゃがんで、黒焦げの遺体に顔を近づける。
「それよりも、ここ。左手の中指に指輪のようなものを付けているようですが、誰か見覚えはありませんか」
遺体の状況から、外見だけでみづきであるかどうかの判断は難しかったのだ。
「それなら間違いなく日吉だ。電車の中でトランプをしたとき、指に嵌まっていた」
答えたのは草薙だった。
「そう、ですか。まさかこんな形で次の殺人に繋がるとは、思いもしませんでしたよ。犯人はつくづく運に守られているようです」
「運? 犯人が意図的に、爆弾か何かを用意しておいたんだろう」
「おそらく、ストーブに火を点けたら火薬が爆発するようになっていたのでしょう。火を点けようと屈んだときに、頭部に爆風を受けたようです。離れの燃え方からすると、爆弾は、ひとつだけではなくふたつみっつと仕掛けられていた可能性はあります。エアコンが故障しているのであれば、ストーブを点けるしかないでしょう。もしかしたら、灯油かガソリンが、離れの壁や周囲に染み込ませてあったのかもしれません」
「爆弾なんて、そんな簡単に手に入るものなのか?」
遠江の疑問に長沼が答える。
「爆弾を手に入れるのは難しくても、材料は手に入ります。インターネットで作り方が紹介されている時代です。入手経路から犯人に辿り着くのは難しいでしょう。まあ、そんなことは最初から期待していませんけどね」
「俺たちが調べたときに異常はなかったから、仕掛けられたのはそのあとか……」
草薙が言うのは、桜橋の遺体が発見されたあとに外部犯がいないかどうかを、遠江、柚木と調べに行ったときのことである。
「そうすると、初日の夜に仕掛けたのかもしれません。古庄さんを殺し、橋桁のロープを切り刻み、離れに爆弾を置いた。なかなかハードなことをしていますね」
「ふん、人を殺すような人間だ。今更どんなことをしようと驚かないさ」
草薙が無下に言い捨てる。
明るく元気で人懐っこく誰からも好かれていたみづき。彼女の無邪気な笑顔は二度と見られない。
「確認出来たのなら、母屋に戻ろう。春日町を一人にしておくのは心配だ」
遠江が皆を促した。
第六章 第五の被害者
*
家族が減った。
四人家族が三人家族になった。そう思っていた。四人から三人に減ったのだと。
けれど兄が死んでしばらく経つと、父も母も兄のことを話さなくなった。兄の部屋はそのまま残されている。それなのに。学校の連中も同じだった。兄が死んだことには触れないようにと気を遣ってくる。兄が死んだのは事実だ。それを避ける必要はないだろう。だが、所詮は他人だ。彼らが兄をどう思おうと関係がない。
家族が兄を想ってくれていればいい。兄は確かに生きていた。生まれて十数年、一緒に過ごして一緒に暮らしてきた。父と母の方が付き合いは長い。何しろ最初の子供だ。死んだことを信じたくないと思うのも当然かもしれない。
だけど。しかし。だからといって。兄のことを忘れたからって悲しみがなくなるのだろうか。つらくなくなるのだろうか。最初からそんな子供はいなかった。兄はいなかった。そう思えば、涙を流さずに済むのだろうか。
兄のことを話すと父と母が露骨に嫌な顔をするようになった。それでも兄との思い出を二人に聞かせた。効果はなかった。兄の部屋も荷物も持ち物も、全部残っているのに。どうして兄がいなかったように振る舞えるのか。頭の中でどう整合をつけているのだろう。兄はいなかった、ということが父と母の間では事実になっていった。
待てよ。待ってくれ。何だそれは。死んだ人間のことを生きている人間が忘れてどうするんだ。生きている者が死んだ者を覚えていなければ、それこそ死んだ者は最初からいないことになってしまう。まるで。兄のように。違う。兄は生きていた。一緒にいたんだ。ここにいた。いたはずだ。
家族が兄のことを忘れてしまって、誰が兄のことを覚えているんだ。だから忘れちゃいけない。忘れてはならない。絶対に覚えていないといけない。死ぬまで。ずっと。
* * *
駒は確実に数を減らしている。
残りの駒は少ない。もう半分は片付けたのだ。
この数になればもう心配することもない。残りの駒が少ないのだから、変な装飾に凝ることもない。
だがここで手を抜いてはいけない。これまで通り、落ち着いて着実に消していくのだ。そうすれば失敗はない。我を忘れて慌てて行動してしまうことが、一番危険なのだ。
幸い、まだ誰も犯人の正体に気づいていない。気づいたところで、あいつらの未来が変わる訳ではない。だが、殺し方が雑になることは避けるに越したことはない。複数を纏めて消そうとすると、どうしても方法が杜撰になってしまう。
大丈夫。残りは少ない。ひとつひとつ順に消していけ。
奴等が持っていないカードを、自分は持っているのだから。
* * *
二十三
「どうにか延焼は免れたようだな。森林に飛び火でもしたら、どうしようもなかった」
「いっそのこと、山火事にでもなった方が、早く救助が来てくれたかもしれませんね」
草薙の言うことに、長沼が素っ気なく返す。これまでと様子が違うことに草薙が怪訝そうな顔をした。
「犯人が爆弾を用意しているのなら、それぞれの部屋を調べてみるのはどうだ。昨日は荷物までは調べなかった。荷物の中に爆弾や凶器のようなものが隠してあるかもしれない」
遠江が提案するのに対して、長沼が感情のないような声で返す。
「正体が解ってしまうようなものを、犯人が所持しているとは思えません。隠し場所なら山荘の外、雪の中や土の中、林の中と幾らでもあります。密室だった古庄さんの部屋に侵入した犯人です。犯人がそれを他人の部屋に隠しておいたということも考えられます。所持品検査に効果はないでしょう。それにそんなことをしたら、犯人が他人の部屋に入る機会を堂々と与えてしまいます。そのときに妙な仕掛けやら、凶器をこっそり隠されることも考えられます。お薦めは出来ません」
そう言われ、遠江は押し黙ってしまう。
食堂の時計は六時を廻った。
彼らが毬藻荘を訪れて、丸一日以上が経過していた。火災現場を調べ終えた四人が戻ってきて、ふゆみに離れの状態を伝えたところである。遠江は言うか言うまいか迷っていたようだったが、昨夜の草薙の言葉を思い出したのか、調べてきたことをありのまま伝えた。
「そんな……。みづきまで……」
母屋に残ると言ったときに、ある程度の予想はしていたのだろう。しかし、事実を予想するのと実際に聞くのとでは衝撃の重みが違うようだ。みづきの死を報されて、ふゆみはそのまま啜り泣き始めた。
食堂のテーブルを囲む人数は、五人に減っていた。既に四人もの人間が命を落としているのだ。皆、疲れ切った表情でうな垂れている。昨夜はお互い隣や向かいの席に着いていた彼らだったが、今はそれぞれとの距離を取っていた。
「離れの爆発によって……解ったことがあります」
冴えない表情で長沼が発言する。
「犯人の目的は、僕たちを殺すことだけではないのでしょう」
「だけじゃ、ない?」
遠江が繰り返す。
「ええ、殺すこととは別に何か目的があるのではないかと思ったのです。犯人は爆弾を用意していました。殺すことのみが目的であれば、一人一人面倒な殺し方をする必要はありません。食事のときでも例会のときでも、みんなが集まったところで、爆発させればいいのです」
「犯人が、巻き込まれることを嫌ったのかもしれない」
遠江の言葉に、長沼は肩を竦める。
「あれだけ凝った殺人を繰り返す犯人が、遠隔操作の出来る爆弾を用意していないとは思えませんね。携帯電話は圏外ですが、山荘周辺に無線で電波を飛ばす程度は可能でしょう。それに普通の爆弾でも、自分が巻き込まれない方法は考えられます」
「それは、そうかもしれないが……」
長沼は遠江の言葉を聞いていないのか、そのまま話し続ける。
「犯人がいつまで犯行を続けるのかは解りません。これで終わりかもしれませんし、犯人一人になるまで続くのかもしれません。ただ、犯人の目的が殺人だけではない以上、僕らは、いや、僕は犯人に勝てません」
「何だって?」
驚いたのは遠江だけではないようだ。草薙は唖然とした表情を浮かべ、柚木とふゆみは顔を上げて長沼を凝視する。そして。長沼の吐き出した台詞に皆目を見張った。
「申し訳ありませんが、僕はここで退場させて頂きます」
二十四
「ちょっと、何……。何を言ってるのよ」
ふゆみが怯えたような声を出す。
「そのままの意味です。いいですか。もし僕が犯人を指摘してトリックを暴いても、そこで物語は終わらない。都合良く犯人が泣き崩れたり、自殺を試みたりはしないでしょう。そんなことをするのは、自分のトリックを読者に見せつけて終わりの、作者に都合の良い犯人だけです。現実はそこまで甘くない。正体がばれたのなら、残りの人間を殺そうとするだけだ。僕には犯人がここで犯行を止めるとは思えません。最後に残るのが犯人だけであるのなら、正体が解ったところで何も変わらない」
「待てよ長沼。犯人が一人なら、残りの四人で取り押さえればいい。多少の怪我は覚悟しないといけないかもしれないが――」
長沼は、遠江に最後まで言わせなかった。
「いつまで現状を維持出来ると考えているんですか? 四人もの人間が続けて殺されたんですよ。犯人を突き止めるのと、僕たち全員が殺されるのと、どちらが早いと思いますか?」
「そ、それは……」
遠江は反論しなかった。心の中でその可能性を完全に否定出来なかったのだろう。
「当然、今言ったことは僕の考えなので、他の可能性もあるでしょう。事件はこれで終わり、殺人は続かないかもしれません。そのときは僕を笑ってくれればいい。判断は各自に任せます。では僕の、最後の論理を聞いてください」
そう言って、長沼は恭しく立ち上がる。
「僕たちが犯人に勝とうとするのなら、方法はふたつしかありません。ひとつは犯人が持っている目的、犯人を動かしている殺人の動機そのものを打ち砕くこと。しかしこれは、草薙さんが言われたように、考えても切りがありません。人の数だけ動機は存在します。これは、トリックを暴くことよりも難しいでしょう」
長沼は長い髪を掻き上げる。
「ふたつめ。犯人を突き止め、かつ、殺すこと」
「え?」
ふゆみが小さな悲鳴を上げる。
「先程も言いましたが、犯人を指摘したところで意味はありません。右往左往するだけの僕らは、犯人に殺されるだけです。殺さなければ、殺されます。僕が犯人に勝てないと言った理由はここです。相手が殺人犯であろうと、僕は人を殺したくありません」
「な……なら、考えろよ。お前、御門台に言ったじゃないか。考えることを放棄するなって」
遠江はどうにか説得しようと必死だった。テーブルに手を付いて立ち上がる。
「考えましたよ。けれど残念ながら、現時点で僕には犯人の見当もつかない。情報が足りないのか、どこかで考え違いをしているのか、四人のうち一人を指摘することが出来ない」
長沼も表情を曇らせて懸命に言葉を返す。普段の丁寧な言葉遣いも乱れてきていた。
「僕自身が殺されることも考えました。残りの人間は犯人を除いて四人。次に僕が殺される確率は四分の一です。幾ら推理を重ねて真実に近づいたとしても、殺されてしまっては意味がない。不本意ですが、僕が真相を看破するよりも、犯人に殺される方が先だと、僕は考えています」
長沼は後ろのポケットから、灰色の替刃をゆっくりと取り出す。
「他人に抵抗する武器は持ちませんが、自分に向ける刃物だけは、持たせてもらいました。さながら、オッカムの剃刀とでも言いましょうか。このような状況に於いては、これがもっとも単純な理論です」
長沼は苦々しく自嘲する。
「な、長沼……?」
遠江はそのあとを続けられない。草薙は目を見開き、ふゆみは驚きの表情のまま、柚木は黙って、長沼を見つめる。
「仮令僕が死んだあとでも……犯人によって首を斬られ、おかしな装飾を施されることには耐えられない。僕の身体は、不可能犯罪の材料でもトリックの道具でもない。僕は人間だ。長沼リュウスイだ」
そう言った長沼の瞳から、涙が一筋流れた。長沼は服の袖で涙を拭う。
「……僕は犯人に勝てません。だが、負けもしない。僕の命は僕のものだ。犯人に殺されはしない。押し付けてしまって申し訳ありませんが、あなたたちにその証人となって頂きます」
長沼は手に持った替刃を皆に見えるように翳す。
「長沼っ!」
遠江が叫ぶ。
「近寄らないでください! これが僕の克己であり矜持です」
長沼は強い口調で言い放つ。これまでにない迫力に押されてか、誰も動くことが出来なかった。
「遠江さん。色々と教えて頂いたのに、会長職を継ぐことが出来なくて申し訳ありません。けれどあなたと一緒に活動が出来て楽しかった。ありがとうございます」
「長沼……」
長沼は草薙の方を向く。
「草薙さん。遠江さんが落ち着いて活動を行なうことが出来たのは、背後にあなたの支えがあったからです。これからも遠江さんを助けてあげてください」
草薙は何も答えない。ただ、長沼を見ているだけだった。
次に、長沼はふゆみに向き直る。
「春日町さん。これまでお世話になりました。何も知らなかった一年生のころ、サークルのことだけなく、学校のことも優しく丁寧に教えてくれたことは、今も感謝しています」
「そ、そんなこと、そんなことない……」
ふゆみの声は震えている。気を抜いたら、すぐにでも涙が零れそうだった。
そして。長沼は、一番離れた場所にいる柚木を見据える。
「柚木君。君とは同じ学年でありながら、ほとんど話すことがなかったね。しかし僕は、君に近いものを感じていた。君のことが好きだったよ。そうだな……犯人に勝てるとすれば、君かもしれない」
「……そうか」
柚木はぽつりと言った。
もう一度全員を見廻したあと、長沼は微笑した。壁を背にして後退る。
「では、お別れです。こちらを見ない方がいい」
そう言って長沼は。手に持った替刃を。首筋に当て。躊躇うことなく。掻き切る。
「長沼っ!」
「嫌ぁ!」
遠江が叫ぶ。草薙は動けない。ふゆみは声を上げ目を背ける。柚木は凝視したまま。
長沼の首から吹き出した鮮血が、壁をテレビを床を、赤く赤く染める。
「長沼! 長沼っ!」
遠江は長沼の許に駆け寄る。汚れることも厭わず、崩れ落ちた長沼を抱き抱える。遠江が長沼の血に塗れた。首筋を抑え、血の流れを止めようとするが効果はない。
「おい、長沼! 長沼! 返事しろよ! 目を開けろよ!」
遠江が叫ぶ。涙を流して叫び続ける。
「……どうしてだよ……何で。こんな……結末しか……なかったのかよ! 返事しろよ!」
遠江の言葉に答える声は何もなかった。
会内において判断力と洞察力では誰にも劣らず名探偵役を自任していた長沼。彼の冷徹な目が再び開くことはない。
二十五
時刻は九時に近い。
長沼を抱いたまま、遠江は嗚咽する。
草薙、ふゆみ、柚木の三人は、遠江の背中を黙って眺めているだけだった。
やがて柚木が立ち上がり、食堂を出ようとした。
「どこに行く?」
草薙の問いに柚木は即答する。
「部屋に戻る」
「だが……」
「どこにいても同じだ。殺されるときは殺されるだろう」
素気なく返事をすると、柚木は食堂を出ていった。
ふゆみは柚木の出ていった扉を恨めしそうな目で見たあとで、視線を草薙に戻した。
「……怖いか。仕方ないさ」
「ち、違う……。そういう訳じゃないけど、ただ……」
口では否定するが、ふゆみの声は震えていた。
「いいよ、行って。遠江は俺が看ておく。戸締まりはきちんとしておけよ」
「あ、う、うん……」
中身の籠もっていないような返事をして、ふゆみは食堂を逃げ出すように出る。無理もない。部屋に鍵を掛けたところで、何の安心も出来ないのだ。
「遠江。いつまでそうしているつもりだ」
草薙は、部屋の隅で蹲る遠江に声を掛ける。
「長沼の死は、お前のせいじゃない」
けれど遠江は泣き続けるばかりで答えない。今は遠江に何を言っても答えはないと思ったのだろう。
「俺も部屋に戻る。遠江、注意だけは怠るな」
それだけ言って、草薙は食堂を出ていく。
食堂には遠江一人が残った。
しばらく経って、遠江が不意に顔を上げた。
窓の外。雪はいつの間にか降り止んでいる。
第七章 第六の被害者
*
手紙が届いた。彼女からだった。
兄の葬式以来、彼女には会っていない。あの日彼女を抱いたとき、いや、あの日彼女が現われたとき、離れていても想いは通じると知った。同じ想いを抱いていることが解った。
だから無理に会う必要はなかった。機会があるときに会えるのなら、それで十分だ。それに金銭的な問題もあった。中学生だった当時はともかく、高校生になった今でも彼女の住む場所は遥かに遠い。それこそ兄が死んだときのように、両親と余程親しかった人間が亡くなるか、彼女自身が亡くなったときにしか、幼少時代を過ごした場所には戻れないだろう。けれど彼女がいない故郷には意味がない。そんなことを考える必要はない。
大丈夫。故郷での出来事は覚えている。彼女との思い出もちゃんと心の中にある。戻らなくても帰らなくても、想いはいつだって故郷に繋がる。思い出は甦る。
最初の手紙が着いたのは、兄の葬儀から数週間経った日のことだった。葬儀のときに抱きついてしまったこと、泣きじゃくってしまったこと、兄の面影を見てしまったから、などと懸命に弁解していた。そんな必要もないのに。彼女の文面を読んで微笑ましく思った。
その後、彼女からの手紙は一年に一通になった。当初は封筒だったのが、いつからか葉書に変わった。内容も簡潔で挨拶程度のものになった。だがそれも当然だろう。想いの全てを綴ったのでは便箋が封筒に入り切らない。それは互いが心の中で想っていればいい。言葉や文字で伝えることではない。
彼女から届いた五通目の手紙。長年住んだ町を離れると書いてあった。両親も近所の人も、この町にいる人はみんな優しくて親切だからいくつになっても甘えてしまう。頼ってしまう。そんなことではいつまで経っても独り立ち出来ない。だから、嫌いになった訳じゃない、嫌になった訳じゃない。だけど私はこの村を出ないといけない。全部を白紙に戻して、誰に頼ることなく、一人で生きていかなければならないと。
そして最後に。彼女が目指す県外の大学名が記されていた。そうか。成程。大学生か。大学生なら中学生とも高校生とも違うから、ある程度の自由が利くだろう。もしかしたら彼女とまた一緒に過ごせるかもしれない。思い出を新しく作れるかもしれない。
彼女の手紙を読んで、そう思った。
* * *
残りの駒はふたつ。
ひとつずつでも、ふたつ纏めてでも、どちらでも構わない。
殺人の邪魔をする余計な駒はもうないのだから。
絞殺でも扼殺でも、ことを起こす場所に気をつけさえすればいい。
この状況になっても、奴等は自分を疑っていない。犯人の正体に気づいていないのだ。
それももっとなことと言えばそれまでだが。奴等は密室殺人だ不可能犯罪だと騒いでいるだけで、真相に近づく気配もない。密室殺人に限らず、不可能犯罪など起こることはないというのに。
情報が不足しているだけなのだ。それに気づけば、密室も不可能も何もない。自然に解答が導かれる。知っている者からすれば、密室殺人のどこにも不可能はない。
与えられていない情報を訊ねることは難しい。井戸の中の蛙が、外の世界を知らないように、奴等は知らないことを訊ねようがない。想像力を働かせれば気づくかもしれないが、そんなことを考える前に駒は消えていくだろう。
自分を容疑者から外すために行なった密室殺人だが、奴等を疑心暗鬼に陥らせ、恐怖を煽ることは出来たようだ。やはり人の死に対する免疫が物を言っている。考えを纏めるためには、何よりも冷静でいることが必要なのだ。それが出来ない者たちを怖れることはない。
残りの駒を始末するのに、それほど苦労はないだろう。
* * *
二十六
午前九時。今朝も雪は降っていない。
互いの安全を確認したかったのか、遠江の指示を守る義務を感じていたのか、客室の扉が順に開かれた。
時刻は昨日とほぼ同じだが、開いた扉は三つだけだった。草薙、ふゆみ、柚木が廊下で顔を合わせる。昨日と違い挨拶はない。柚木以外の二人は服を着替えたようで、昨夜と服装が変わっていた。三人は自然と二〇五号、遠江の部屋の前に集まる。
「遠江、時間だ」
草薙が扉を叩く。
「止めましょう……。遠江さんが時間を守らないはずがない」
柚木が諦めた口調で言う。
「解った……」
草薙は、ふゆみに下がっていた方がいいと言って扉を開ける。鍵は掛かっていない。草薙に続いて、柚木も部屋の中に入る。
予想していた光景だったのか、あるいは人が死ぬことに慣れてしまったせいなのか、彼らに驚きの声は上がらなかった。草薙と柚木の後ろから恐る恐る覗き込んだふゆみも、落胆の表情を浮かべただけである。
遠江はベッドの上で仰臥していた。左胸に捌き包丁が突き刺さり、微動だにしない。上着もズボンも赤く染まっている。長沼の血液と自身のそれが混ざってしまっているようだ。
「昨夜と同じ服……。着替える間もなく殺されたのか……」
草薙が、遠江の脈を取ったあとで身体を見渡す。
「包丁でひと突き……。他に、傷はないみたいだ」
「その包丁も、犯人が用意したもののようですね。厨房のものではない」
答える柚木も淡々としている。二人はまるで悲しむという感覚が麻痺してしまった人間のようだった。ふゆみだけが遠江の死に顔を見て、同じ部屋にはいられないらしく廊下へと出ていく。
自分よりも他人のために行動し心からの涙を流すことが出来た遠江。彼の落ち着いた話し声はもう聞こえない。
「しかしこれは……。長沼の勝ちだな」
遠江を見下ろして、柚木が言う。
「どういう、ことだ?」
「首を斬られていない」
言い捨てて柚木は廊下へ戻る。
廊下で待っていたふゆみが顔を向けたので、柚木は黙ってかぶりを振った。ふゆみは手で口を抑えて押し黙る。じきに草薙が部屋を出てきて扉を閉めた。
「昨夜、おれが部屋に戻ったあとは、どうしたんだ?」
柚木がどちらともなく訊ねる。
「わ、私も柚木君のすぐあとに二階に……」
自然と、二人の目が草薙に向く。
「俺は、遠江に忠告をしてから部屋に帰った。時間的には春日町が出ていってすぐだ。遠江一人を残しておくのは心配だったが、何を言っても動きそうになかった」
忸怩たるものがあるのだろうか。草薙は悔しそうな顔をした。
「……そう、ですか」
柚木が答える。それきり三人は押し黙り、その場に佇んだ。
しばらくして草薙が口を開いた。
「残りは三人。もう一人殺したら犯人の正体が解ってしまう。なら、この三人は助かるか」
からかうような口調だが、誰も笑わない。
「けりをつけましょう」
挑発するように柚木が言う。
「……そうだな」
わずかに柚木を見つめたあとで、草薙が頷いた。
「え、何?」
ふゆみ一人が途惑っている。
「しばらく時間を措こう。考えを整理したい」
「構いませんよ。おれも、調べることがある」
草薙の提案を、柚木は受け入れる。
「そうだな、十二時……いや、一時でどうだ」
「場所は?」
柚木がそう訊いたのは、昨夜の長沼を思い出したからだろうか。
「食堂は……止した方がいいな。ラウンジを使おう」
解ったとだけ言うと、柚木はすぐにこの場を離れる。自分の部屋に戻るのではなく、桜橋が使っていた部屋へと入っていった。
「どうしたの?」
ふゆみは意味が摑めないようである。
「聞いての通り、一時にラウンジに集合だ」
「集まって……何を、するの?」
ふゆみの問いに、草薙ははっきりと答えた。
「この事件の真相を、明らかにする」
二十七
ふゆみはベッドで仰向けになっている。
柚木が桜橋の部屋へ行ったのは、何か確かめたいことがあるからだろうと草薙は言った。その草薙も、考えを纏めておきたいからと部屋に帰った。
廊下に誰もいなくなり、ふゆみも自室へと戻った。扉と窓の鍵を掛け、扉の前にテーブルと荷物を積み重ねてバリケードを作る。頼りないが何もしないよりは増しだろう。クローゼットを置けばかなり安心出来るのだが、ふゆみの細い腕では動かすことは無理だった。そのように扉を塞いでから、ふゆみは熱いシャワーを浴びた。
初日は山荘まで歩いてきた疲れがあったせいか、バリケードを作ってすぐに眠り込んでしまった。だが、昨夜は違う。寝たり起きたりを繰り返していた。そのせいか、頭に靄が掛かったかように思考が滞っている。この状況で何も考えずに成り行きに身を任せているだけでは駄目だ。そんなことでは殺されてしまう。
ユニットバスから出て髪を乾かしたあと、ベッドで横になる。シャワーを浴びたことで、少しは頭がすっきりしてきたようだ。ふゆみは二人の遣り取りを思い出した。
けりをつけると柚木が言い、真相を明らかにすると草薙は言った。何を意味しているのかは明白だ。二人とも、ラウンジで犯人を指摘するのだろう。
しかしどういうことだろうか。ふゆみは自分が犯人ではないことを知っている。草薙か柚木のどちらかが、この毬藻荘で連続殺人を行なった犯人なのだ。それは間違いない。つまり、草薙は柚木を、柚木は草薙を、犯人と考えているのだろう。
――いや、違う。そうじゃない。ふゆみにとって草薙と柚木が容疑者であるのと同じく、彼らにとっては、ふゆみも容疑者に入るのだ。犯人が自分自身を指摘することはないだろうから、自分以外の人間を犯人に仕立てようとするに違いない。
え、それって。ここまで考えてふゆみは愕然とする。警察の捜査がない以上、この場にあるこの場で確かめられる材料のみで、犯人を推測するしかないだろう。もし自分が犯人だと指摘されてしまったら。二人がそれを信じてしまったら。事実に反していても、そのもっともらしい推論に、自分以外の二人が納得してしまったら。――自分が犯人にされてしまう。その場合、犯人と目した人間を、六人もの人間を続けて殺した犯人を、警察が来るまでそのままにしておくだろうか。
――駄目だ。駄目だ。それは。濡れ衣を着せられる訳にはいかない。私は違う。犯人じゃない。
それなら考えろ。考えるしかない。草薙か、柚木。どちらかが犯人なのだ。それを明らかにするしか突破口はない。どちらかが犯人。可能性は二分の一。
だけど。桜橋が死体となって発見されたとき、各人のアリバイを調べた。確実なアリバイのない時間は、草薙が三十分、柚木が十五分、ふゆみが十分である。切断に一時間以上掛かるというのなら、生き残った三人の誰も犯行を行なえないはずだ。これはどういうことだろう。
あれ。もしかして。桜橋は切断されてなどいないのか。桜橋の部屋を調べたのは、長沼、遠江、草薙に柚木。ふゆみは彼らの話を聞いただけで、桜橋の死体を見ていないのだ。桜橋の身体が斬り取られていないのなら、単に殺されていただけであるのなら、草薙にも柚木にも、十分犯行は可能だ。
しかしそれも違う。彼らが揃って嘘を吐く必要はないし、ふゆみが現場を見に行けばすぐにばれてしまうのだ。草薙が言ったように、桜橋の惨状を目にしてふゆみやみづきが気を失ってしまわないようにと、あの場で告げたことは事実なのだろう。それに、自ら命を絶った長沼の悔しそうな顔は忘れられない。その彼が事実を捩じ曲げて伝えたとは思えなかった。
結局何も解らない。思考は振り出しに戻る。
どうしてこう不可解なことばかり続くのか。桜橋を殺せた者はいないし、しいなは鍵の掛かっていた部屋から消え、御門台は考えられないようなところで発見され、みづきは離れへ逃げたところで爆発に巻き込まれ、遠江は戸締りを怠っていないだろう状況で殺された。しかも桜橋、しいな、御門台の三人は、首を斬り取られている。
――何かおかしい。引っ掛かる。そう、余りにも出来過ぎているのだ。始めから用意されていたかのような。まるで小説のプロットであるかのような。当初から全てが仕組んであったかのような。
「あっ!」
思わずふゆみは声を上げた。
最初に消去されてしまいこれまで考慮していなかった可能性。判断の材料から取り除かれていたその事実。犯人が最後に演出したいと考えるのはそこなのか。だから過剰なまでに装飾した犯行を繰り返した。
ふゆみは、ひとつの解答に辿り着く。
「でも、本当にそんなこと……」
そしてその考えが正しいのかどうかを検討していった。
二十八
草薙は自室のベッドに腰掛けている。
遠江の死体を確認したことで、ひとつの考えを思いついていた。あとはそれを組み立てていくだけだ。約束の時間まで三時間以上ある。どうにか纏めることは出来るだろう。
だが、その考えには明確な証拠といえるものがない。机上の空論と言われればそれまでだ。ふゆみはともかく、柚木を説き伏せることが出来るのか。
柚木か――。同じサークルでありながら、ほとんど話したことがない。男にしては小柄で、他人と余り口を利かない。読書は好きらしく文芸部にも所属しているという。草薙が知っているのはそれだけだ。柚木も自分なりに考えを整理しているらしいが、どの程度的を射ているのだろう。全く予測がつかない。
もっとも探偵役に相応しいと思ったのは長沼である。事件の度に出された彼の推論には、成程と思えるものもあった。長沼が生きていれば、真相を見抜けたのでないか。それとも長沼にはある程度の見当がついていたのではないだろうか。
犯人を指摘したところで勝つことは出来ない。だから自分は退場する。潔いのが長沼らしいといえば、あの行動は長沼らしいが、誰にとっても予想外の出来事だっただろう。
自殺を他殺に見せ掛ける、あるいは他殺を自殺に見せ掛けるといった方法もあるが、長沼のあれは間違いなく自殺である。何しろ目の前で起こった出来事なのだ。そのこと自体に考える問題はない。
気に掛かったのは、長沼が最後に柚木へ向けた一言。犯人に勝てるとすれば君かもしれない。本当に、長沼はそんなことを考えていたのだろうか。それは解らない。だが、遠江の死体を見たときの柚木の言葉や、廊下での挑発的な態度は、明らかに長沼を意識しての行動だろう。柚木は死んだ長沼の遺志を汲んだつもりでいるのか。
まあいい。どちらにしても真相はひとつしかない。誰が何を言おうと真実は変わらない。
その真実に向けて自分は行動するだけだ。
草薙は、思考を確かな形へと組み立てていく。
二十九
柚木は雪の積もった木々に囲まれている。
草薙、ふゆみと別れたあと、柚木はそのまま桜橋の部屋に向かった。
本来なら昨日、山荘を訪れた警察によって捜査が進められるはずだった。そのため、あの晩の話し合いでは、警察の捜査で判明するだろうことに関しては詳しく検討されなかった。桜橋の死体を改めて確かめた者もいないのだろう。桜橋の部屋は冷房が点きっ放しになっていた。このままでは警察が到着するまで動いているに違いない。
柚木は寒さに耐えながら桜橋の遺体を手に取って確かめた。切断された各部分を覆うように血は固まっている。触ったところで柚木の手が汚れることはなかった。
無論、遺体を触っただけで死亡推定時刻が明らかになるはずもない。それさえ解れば真相へ一直線で辿り着けるはずなのに。迂回路を通るのは面倒だが、一歩一歩近づいていくしかない。
「……本当に、余計なことを」
柚木は呟き桜橋の部屋を出た。自分の部屋に戻り防寒着を持ってくると、階段を降り一階へ向かう。目当てのものがどこにあるかは解らない。消火器が用意してあるのだから、きっとどこかに置いてあるはずだ。これだけ雪の降り積もる場所で、準備がないということはないだろう。
この山荘に倉庫や物置はない。あるとすれば管理人室か貯蔵室か。けれど貯蔵室で見掛けた覚えはないので、やはり管理人室だろうか。
管理人室へ向かおうとした柚木に、食堂の扉が目に入る。
「長沼……」
意識した訳ではない。自然に足が食堂へと向いた。
食堂には長沼の死体が横たわっていた。しかし、顔は綺麗に拭かれ身体は毛布に包まれていた。遠江さんがやったのか……。
少しの間、長沼の顔を見下ろした。柚木は食堂を出て管理人室へ向かう。時間は限られているのだ。柚木は管理人室の中を探し始める。
犯人がこの山荘にいる以上、不意に襲撃を受けるかもしれない。それは解っている。戦う力のない自分では、犯人と殴り合うことも揉み合うことも出来ない。犯人が素手であっても勝負にならないだろう。おれが犯人に勝てるはずがない。長沼は何をとち狂ってあんなことを言ったんだ。
常に危険はある。だが、見たこと聞いたことを頭の中で考えるだけでは、この事件は解決しない。実際に調べて確かめないことには論理も推理も立てることが出来ない。それなら動くしかない。部屋の中にいただけでは何も進まないのだ。
ようやく懐中電灯と大型のスコップを探し出した。除雪道具は他にもあったが、これで用は足りるだろう。柚木は防寒着を身に着けて外へ出る。
腕時計を見た。制限時間は残り三時間程度。間に合うだろうか。こうしている間にも、一人が殺されている可能性はある。だったら残った一人が犯人だ。犯人相手に真相を明らかにしてなんの意味があるだろう。それに必ずしも外に隠してあるとは限らない。部屋に置いてあるかもしれないし、全てを使い切ってしまったかもしれない。だったら。自分がしていること、しようとしていることは何なのか。
「くそっ」
どうしてこんな、気持ちだとか想いだとかいった余計なものがあるのだろう。これさえなければ、何も考えず機械のように動くことが出来るのに。知らず柚木の口から呻きが漏れる。
とにかく今は感情的に考えるな。長沼のように論理的に動け。そう、長沼のようにだ。――不意に、柚木の口許が緩む。そうだよ。何を考えていたんだ、おれは。長沼は論理的に考えて行動していたが、あいつは機械じゃない。ちゃんと感情を持った人間だったじゃないか。
何かを決心したかのように柚木の行動に迷いがなくなる。柚木は玄関を出て北の方向、山荘の裏側へ回る。そこからは各客室の窓が見渡せた。建物から幾らか離れた場所に木々が立ち並んでいる。
人数が減った今ならともかく、八人の目がある状況で軒下に隠しはしないだろう。それでも山荘の壁周辺に積もった雪を確かめて、柚木は山荘からやや東寄りの林へと向かった。
懐中電灯で木々の根元を照らす。この辺りなら、客室の窓から身を乗り出しでもしない限り、人の目に触れることはない。周囲は相変わらず薄暗いので、余程のことがなければ見つかることはないだろう。
柚木は足下の雪にスコップを突き立て土を掘り返していく。淡々と黙々とただひたすら。スコップで土を持ち上げて横に捨てる。ある程度掘ったら、場所を変えてスコップを突き立て土を掘り返す。その繰り返し。
途中で雪が降り始め、柚木の頭や肩を白くする。それでも柚木は意地を張った子供のように、同じ作業を繰り返した。
正午近くになったが依然手応えはない。柚木の細い腕で土を持ち上げるのが苦痛になってきた。
そのとき。土の中に白い固まりを見つけた。土に埋まり汚れている。それは、白い大きな袋だった。
柚木は袋を取り上げて逆様にする。中に入っていたものが地面に落ちた。足下に転がるのは、女性のものと思しき細い左腕。薬指に指輪が嵌まり、腕は変色している。隣には血の付着した鉄斧――。
「……これか」
どうにか最後の糸は残っていた。あとは論理を組み上げるだけだ。
* * *
ラウンジのソファに腰掛けた「狐ヶ崎」は目を開けた。
思考はここ数日間の回想から現実に戻る。
いつの間にか眠ってしまったらしい。夜中に行動することが多くなるのは予測出来た。なので計画を思い立ったときから、短時間の睡眠を繰り返して疲れが取れるよう、身体を調節してきていた。今も、眠ったのは三十分程度だろう。それでも、多少の疲れは取れたようである。
殺戮の舞台、毬藻荘に生存する人物は、「狐ヶ崎」ただ一人。
「狐ヶ崎」は最後の仕上げを行なうべく、腰を上げてラウンジをあとにする。
来たるべき、次の殺人に向かって。
――かくして。
毬藻荘殺人事件は幕を閉じる。
* * *
第二部 続・毬藻荘殺人事件
第一章 解答編
一 前哨戦
午後一時。三人はラウンジ前の廊下で顔を合わせた。
草薙が壁に背をもたせ掛けていたところに、ふゆみが降りてきて、そのあとに柚木が現われた。欠けた者は誰もいない。
扉を開けて草薙が入り、片手に紙袋を持った柚木が続く。柚木は服を着替えたらしく、朝とは別の服装をしていた。最後に入ったふゆみは扉の前で立ち止まってしまう。草薙が玄関に近い側のソファに、柚木が食堂との扉に近い側のソファに座っている。草薙と柚木は二つのテーブルを挟んで直線的に向かい合っていた。ふゆみはどちら側に座るべきか迷った素振りを見せたが、結局は二人から等分の距離を保てる廊下の扉に近いソファに腰を下ろした。
「さて、犯人は解ったのかな」
ふゆみが座ったのを確認して草薙が口を切る。
「……うん」
返事をしたのはふゆみだった。草薙と柚木は顔をふゆみへ向ける。その言葉は予想だにしなかったものなのか、草薙は憮然とした表情を見せた。
「春日町が?」
うん、とふゆみはもう一度頷いた。
「別に驚くようなことではないでしょう。次に自分が殺されるかもしれない状況なら、誰だって犯人のことを考える」
柚木が淡々と言う。
「……解った。まず、春日町の考えを聞こう」
草薙に促され、ふゆみは口を開く。
「大丈夫、三人で協力すればきっと助かる。無事にここから出ていける」
ふゆみはわずかに笑顔を覗かせた。
「だってこの事件の犯人は、私たち三人の中にいないんだから」
二 『クローズド・サーキット』
「何だって?」
本当に驚いたのだろう。訊ねる草薙の声は掠れていた。
「それは、既に死んだ人間の中に犯人がいるということか?」
草薙と違い、柚木の声はいつもと変わらない。ふゆみは首を横に振る。
「ううん、そうじゃない。私たちサークルのメンバーに犯人はいないよ」
「馬鹿な……。外部犯の可能性は真っ先に否定されたじゃないか。桜橋が見つかったあと、俺と、遠江、柚木で、母屋と離れの両方を調べた。どこにも怪しい人影はなかった。それは柚木だって認めている」
目を向けると柚木は黙って頷いた。草薙はふゆみに視線を戻す。
「それとも、あれは俺たちの狂言だったとでも?」
ふゆみは再度首を振る。
「ううん。それはあのとき、母屋にも離れにも犯人はいなかったっていうだけ。だって考えてみて。母屋の空いた部屋にしろ離れにしろ、そんなところに隠れてもすぐに見つかってしまうのは明らか。だから、犯人はそれ以外の場所に隠れていた」
「いやしかし。それ以外の場所といっても、この付近には他に建物なんかない。まさか雪の中に隠れていた訳でもあるまい」
草薙の否定をふゆみはさらりと返す。
「そうだよ、雪の中だよ。正確には山荘の裏手にある林の中。山荘からは見えない場所に、テントを立てるか大きな穴を掘るかして、犯人は隠れ家を作った。だって、林の中は探していないんだよね?」
ふゆみは二人を均等に眺める。
「あ、ああ……。確かに」
「私たちが山荘を訪れたとき、犯人は隠れ家にいたの。しばらくそこで待機して、誰がどの部屋にいるかを把握したあと、山荘裏手の軒下を通り西側を廻って玄関から中に入った。そうして桜橋君の部屋に行き、彼を手に掛けた」
「ま、待てよ。春日町。当然のように言うが、それには幾つか問題があるだろう」
草薙がふゆみを制する。
「テントにしろ穴の中にろ、隠れ家が作ってあったところまではいい。良しとしよう。林の中を隈なく探していない以上、可能性は消せない。だが、隠れ家にいる犯人に、どうして桜橋が部屋に戻ったなんてことが解る? いや、誰がどの部屋にいるのかを、どうして犯人が知っているんだ? それに、桜橋の部屋に鍵が掛かっていたら入ることは出来ない。スペアキーを使うにしても、管理人室に置いてあることは俺たち以外知りようがない。外部の人間に解るはずがないんだ」
草薙は次々と疑問を投げ掛ける。
「そして、厨房にはお前たち三人が、ラウンジには遠江が残っていた。そんな危険な状況で、犯人は山荘に入ってきたと言うのか? それは春日町が一昨日言った、見つかる確率が低いから夕方に行動を起こしたという考えと、正反対の行動じゃないのか?」
ふゆみは動じない。
「同じだよ。ラウンジの扉も厨房の扉も廊下側に付いてるから、扉が開け放してあっても、玄関ホールにいる人影は見えない。食事の用意をしている私たちも、ラウンジにいる遠江君にも、見つかることなく犯人は二階へ行くことが出来た」
「だから、どうして誰がどの部屋にいたかなんてことが解る?」
草薙は同じ質問を繰り返す。
「盗聴器を使ったの」
「え?」
「犯人はこの山荘全部の部屋に盗聴器を仕掛けている。もちろん、ちょっとやそっとでは気づかれないように細工して。だから犯人は、話し声や物音で、誰がどの部屋にいるかを把握出来た。特に客室は防音がしっかりしているから、別の部屋の物音と勘違いすることはない。部屋に一人でいれば話すことはないだろうけど、まるっきり音を立てないなんてことはない。荷物を片付ける音やベッドに腰掛ける音などで、部屋に人がいるかどうかは確かめられる」
草薙は何か言いたそうだが、声を出せないようだ。柚木は黙って耳を傾けている。
「……答えは目の前にあったのに。少なくとも、しいなさんが密室から消えた時点で気づけたはずなのに……」
ふゆみは悔しそうに下唇を噛む。
「一連の事件は、全てが過剰なまでに装飾されていた。桜橋君を殺すことの出来た人間はもういない。私たち三人には時間的に不可能なんだから。しいなさんは密室から消えて、足跡のない殺人なんていうおまけまで付いてる。御門台君は谷川に流されたはずなのに、何故か上流で見つかったし、みづきは爆弾で殺された。遠江君だって、鍵を掛けていたはずなのに……。そして、遠江君とみづき以外は首を斬られている」
ここでふゆみは顔を伏せる。小さな声で、長沼君の行動は犯人にとっても予想外、疑うことのない自殺だった、と言って悲しそうな表情を浮かべたが、すぐに顔を上げる。
「……おかしいでしょ。殺すだけなら何もこんな方法を取る必要はない。もっと簡単な方法は幾らだって考えられるはず。私たちを恐怖で煽るというよりも、まるで見せつけているような感じを受けたの。長沼君が言ってたよね。犯人には、殺すこととは別に何か目的があるのではないかって。それがおそらく過剰なまでに事件を演出すること」
「犯人は、それだけのために……?」
ふゆみが言おうとしていることに察しがついたのか、草薙は声を震わせた。
「多分、そう。幾ら不可思議な事件を起こしても、気づいてもらえなければ意味がない。犯人が私たちに望んだのは、人が殺されたことに怯える様じゃなくて、不可能犯罪によって人が殺されたことに恐怖する様。一般的な人たちなら、人が殺された場合、犯人探しは警察や専門家に任せる。だけど私たちはなまじ知識があるせいで、自分たちで犯人を見つけようとか、この謎を解いてやろう、などと考えてしまう。長沼君が、正にその通りだったね。途中までは……」
語尾は聞き取れないくらいに掻き消えた。
「殺すことが目的ではなく、殺される人間の反応が目的だったということか?」
しばらく発言のなかった柚木が問い、ふゆみが答える。
「……うん。犯人にとって推理小説研究会に入ってる私たちは打って付けの観客だった。事件に驚いたり検討したり互いを罵ったり、そんな私たちの反応を犯人は盗聴器で聞いて楽しんでいたんでしょう。きっと今も。そんな犯人が特別に注意を払うのは、もっとも驚きを与えたいと考えるのは――意外な犯人」
草薙も柚木も、微動だにしない。ふゆみを見つめ、黙って次の言葉を待つ。
「趣味が高じて犯人はミステリに取り憑かれていった。現実と小説の区別がつかなくなり、自分で不可能犯罪を演じたいと考えた。そのためだけに、連続殺人の舞台となる山荘を作り上げた……」
ふゆみは自身の推理によって導かれた解答を伝える。
「犯人は毬藻荘のオーナー。登呂さんなのよ」
愕然とした表情を見せて、まさかそんなことはないだろうと言い立てる草薙を、反論は彼女の推理を一通り聞いてからにしましょうと宥めて、柚木はふゆみに先の説明を求めた。
「オーナーなんだから、盗聴器なんていつでも仕掛けられるし、母屋も離れも全部屋の鍵を普通に持ってる。管理人室に入ってスペアキーを持っていくことなんかない。盗聴器で各自の居場所を確認している犯人は、誰にも見つからずに桜橋君の部屋へ行けた。このとき部屋に鍵が掛けてあってもなくても構わない。スペアを持っているんだからね。犯人は中に入って、桜橋君に襲いかかった……」
殺害された状況を想像したくないのか、ふゆみの話はたまに語尾が弱くなる。
「死因は解らない。絞殺なのか、刺殺なのか。私は現場を見ていないし、見たいとも思わないし。ともかく犯人は桜橋君を解体した。どのくらいの時間が掛かったのかはっきりしないけど、三時四十分から六時までの時間があれば十分なはず。解体後、し……遺体をベッドや床に並べて血を振り掛けた。言うのが酷く嫌だけど……首でも腕でも、切断されている部分から、流れ出る血を垂らしたんでしょう」
ふゆみは犯人を指摘してからも、名前を言わずに犯人で通している。
「桜橋君の部屋に入るときは玄関を通っていったけど、帰りに玄関を通るのは難しい。夕食作りを終えた担当が二階に来ることも、逆に御門台君やしいなさんが早めに降りることも考えられる。解体作業の終わった時間が、夕食時間に近づけば近づく程、犯人が玄関を通って山荘を出るのは難しくなる。犯人はなるべく誰にも見つからないような行動を取るだろう、ってのは一昨日言ったのと同じ。だから犯人は別の場所から外へ逃げ出した」
「……それで、窓が開いていたと?」
草薙がふゆみの顔を見る。
「そう、犯人は窓から逃げることをあらかじめ想定していた。壁に固定されているベッドの足にロープを引っ掛けて、窓から外へ出る。ロープは輪っかにしておいて、外に出てから結び目を解くか切るかして回収した。当然、盗聴器で誰がどの部屋にいるかを確認して、他の客室や一階の窓から見られることのないように注意を払って。夕食の時間、六時半ころにはまだ雪が降っていたから、足跡を気にする必要はない。まあ、軒下にいかにもな感じで残ってしまうのは不味いから、その辺には雪を被せるなり平らにするなりしておいたんだろうね」
一度言葉を切ってからふゆみは話を続ける。
「遺体を切断して血を撒き散らかしたのは、事件を過剰に演出するという目的があるけど、クーラーには別の理由があった。この雪国で、窓を開け放してクーラーまで入れておいたら、部屋の中は異常に寒くなる。つまり、部屋を冷やしたのは死体現象の進みを遅らせるため、警察が介入した場合に死亡推定時刻を誤魔化すため、という理由に私たちの意識を向かわせるためだった。そうすれば、窓が開いていたことを犯人が外に逃げたからだ、と疑われることはなくなる。……実際には、あの日そこまで検討はしなかったんだけどね」
そう言ってふゆみは柚木にちらりと目を向ける。
「部屋の寒さについての話し合いはなかった。けど、そのときは外部犯の可能性が否定された直後だった。そのせいもあって、誰も犯人が窓から逃げたとは考えなかった。結果的に、犯人が望んだ形に落ち着いたの。それと、桜橋君の部屋に鍵を掛けても密室殺人にはならないから鍵は掛けなかった。管理人室にスペアキーがある状況では、誰にでも桜橋君の部屋に入ることが出来るので密室殺人に何ら謎が伴わないし。部屋に鍵を掛けなかった理由は、そんなところじゃないかな」
しいなさんの事件、と言ってふゆみは続きを話し始める。
「桜橋君が見つかったあと、遠江君の提案でスペアキーを各自が持つことになった。翌朝、鍵を掛けたはずの部屋からしいなさんがいなくなり、橋の向こうで見つかった。ここで気づけたはずなのに……」
ふゆみはもう一度繰り返した。
「窓には鍵が掛かってる。当然窓から中へは入れない。なら扉から入るしかない。あれだけ怖がっていたしいなさんが、鍵を掛け忘れることなんてない。しいなさんじゃなくても、戸締まりはちゃんとしていたはず。でも、鍵はスペアと一緒にしいなさんが持っていた。だから中へ入れない、どうやって犯人が密室に侵入したのかが問題になった。……何も難しく考える必要はなかったの。窓から入れず、扉からも入れない。八方塞がりなようだけど、鍵を持っていれば何の不思議もない。スペアを余計に、いや、あっちの方がマスターか。要はもうひとつの鍵を持っている毬藻荘のオーナー、登呂さんがマスターキーを使って鍵を開けたというだけのこと」
例によって、しいなを殺した云々のくだりでは語調が弱くなっていた。
「しいなさんの事件に付いていたもうひとつの要素、足跡のない殺人。長沼君は、犯人はトリックを見せつける気などなかったって言ったけど、それは違う。足跡のない殺人は最初から予定に組み込まれていた」
ここで草薙が合いの手を入れた。
「犯人の目的が不可能犯罪の演出というであれば、足跡のない殺人はかなり魅力的だろう。だがそれを行なうには、犯人の作業中に雪が降らないということが前提になる。これから雪が降るか降らないかなんて、誰にも解らないだろう? もし遠江が目を覚ましたときに雪が降っていれば、犯人はその時間より前に吊り橋を渡ったというだけで、足跡がないことに何も問題は発生しない」
草薙は続けてふゆみに問う。
「それともうひとつ。夜中に雪が降っていないと解ったのは、春日町、お前を含めて遠江と長沼が窓の外を眺めた時間帯が違っていたからだ。起きているからといって外を見る訳でもないし、眠っていれば当然、雪が降ったか降らないかなど知りようがない。犯人は電話線を奪い吊り橋を落とすことで、外部との連絡手段を断っている。警察によって、あるいは気象台に問い合わせて降雪時間を知るといった方法を俺たちは採れない。足跡のない殺人を演出したところで、驚きようがない。犯人の目的と外れてくると思うんだが」
後ろの質問から先に答えるねと、ふゆみは言う。
「その場合、犯人はきちんとした足跡を残しておいたんじゃないかな。ああ、これは吊り橋じゃなくて、母屋から吊り橋にかけて残されていた足跡のこと。あれは靴のサイズや、形を隠すために変な歩き方をしてたでしょ。そうじゃなくて、母屋から吊り橋の前に行く足跡、またはその逆の吊り橋の前から母屋へ戻る足跡をはっきりした形で残しておく。自分の足跡を見つけられたところで、外部犯の可能性が考えられていないことを、犯人は知ってる。足跡に注目されても、誰かが予備の靴を用意していたとか他人の靴を穿いたとか、内部の人間に疑いは向くだろうから、犯人が足跡を残しておいても構わない。で、私たちは吊り橋の前まで続いた足跡がそこで消えて、しいなさんが橋の向こうにいるのを発見する。しいなさんが橋の向こうで解体されてる以上、犯人が橋を渡ったのは確実。それなのに足跡がない、という不可能状況が私たちの前に現われる」
ここまでふゆみが筋道を立てて推論するとは考えていなかったのだろう。草薙からぐうの音も出ない。
最初の質問についてと言って、ふゆみは話を続ける。
「犯人は、夜中に雪が降ることはまずないと踏んでいた。昨日は気づかなかったけど、ここの天候は三日続けてほぼ同じパターンになってる。大体お昼前から雪が降り始めて、午後八時か九時に雪が止む、っていう。多分今日も夜には止むんじゃないかな」
ふゆみは、それはどうだろうというような顔を見せた草薙の機先を制する。
「犯人はこの事件のために周到な準備をしている。数年あるいは十数年を準備に費やしてきたはず。これから話すことになるけど、逆に言えば犯人は、毬藻荘を訪れたばかりの私たちには無理な方法を犯行に用いている。山荘や離れ、吊り橋についてはもちろん、この辺りの地理や気候など、事件に関係する、関係するかもしれないあらゆることを熟知していた。天候については、過去何年もの空模様や温度の変化などから統計的に調べて予測を立てた。一応、天気予報なりどこかに訊ねるなりして、ある程度の確実性を得ていたんだろうね。ただし、絶対なんてことはやはりない。万が一ってことはあり得る。その場合、足跡のない殺人ではなく、別の装飾に変えていただけだと思う。演出する事件はこれとこれだけ、なんて決めたら自分の首を絞めるだけ。何種類もの不可能犯罪を用意しておいて、その場の状況や被害者にぴたりと合うものを選んだの」
ふゆみはようやく言葉を止める。
「結局、古庄はどこで殺されたんだ?」
試すような視線を向けた草薙に、ふゆみは簡単に答える。
「はっきりとは解らない。しいなさんの部屋に血痕は残っていなかったし、浴槽から血の匂いもしなかった。なら、もう一度桜橋君の部屋を使ったか、隠れ家まで彼女を連れていってそこを使ったか。ただ、これだけは言える。しいなさんが解体されたのは、橋の向こう側なんかじゃない。あれは、解体作業があそこで行なわれたように見せる、犯人の偽装工作だった。吊り橋の上に足跡がない殺人を演出するには、橋の向こう側で解体されたように見える遺体が必要だったの。解体された身体に、大量の血、凶器の包丁、と桜橋君のときと同じ状況を再現したことによって、あの場所が解体現場であると錯覚させられた」
柚木がふゆみを呆然と凝視していた。構わずふゆみは続ける。
「解体現場は殺害現場と同じ。わざわざ雪の中で解体する理由も見当らないし、殺したあとに続けて作業をする方が、遥かに効率的。犯人は向こう岸で解体されたと見せ掛けるだけでいい、実際にあそこで作業をする必要はない。犯人がしいなさんを解体したのには、桜橋君のときと同じで、まず装飾の意味合いがある。そしてもうひとつは、彼女の身体を軽くして運びやすくするためだった」
成程ねと柚木が唸った。
「まず、頭部は必要。腕や足は、見てすぐに女の子のものだって解るようにかな。犯人は自分が持てる限りの部分を袋か何かに詰めて持ち運んだ。全部を持っていったんじゃ、切断した意味がない。使わない部分は、作業のあとで林の土の中にでも埋めておいたんでしょう。とはいえ、向こう岸で解体されているのに足りない部分があると、疑問を持たれる怖れがある。それを防ぐために、右腕と左足が向こう岸近くの橋桁に載っていた。つまり、見当らない身体の一部は橋桁に載せてあったが、風に吹かれたかして谷底に落ちてしまった、そう思わせるように」
草薙は何も言わない。柚木も黙っている。
「他に必要なのは、凶器に見せる包丁と赤い液体。桜橋君のときと違って、しいなさんの身体は私たちが調べることは出来ない。だから別に本当の血を使う必要はなかった。もしかしたら本物なのかもしれないけど。……で、それら必要なものを持って、犯人は足跡のない殺人に取り掛かる。吊り橋を渡らずに向こう岸へ行く方法っていうのはひとつしかない。この事実も犯人が部外者というのと同様で、考える前に最初から消去されてしまっていた。推理小説で使われたらアンフェアだと罵られ兼ねない。だけど、現実の事件にアンフェアも何もない。実際に行なわれたことに文句を言ってもどうにもらならないよ。答えは凄く単純なこと。犯人は、山を越えて向こう岸へ渡ったの」
「は? な、何だって」
余りにも意外な方法だったからか草薙が頓狂な声を上げた。
「私たちが山荘へ来た日、吊り橋の前で休憩しているときに草薙君が言ったよね。山荘へ行くには、吊り橋を渡るか山を越えないといけない。登山経験者でもこの山を登るのは難しいと、登呂さんに聞いたって。ただね、登呂さんが言ったことは全てが本当なのか。確かに、経験者でもない私たちには自殺行為かもしれない。けれど経験者には可能なのではないか。登呂さんは山登りが困難であることを過剰に表現して、草薙君に伝えたんじゃないのか」
「馬鹿な。春日町、その考えは飛躍が大き過ぎる。登呂さんにそんな……」
ふゆみは草薙に皆まで言わせない。
「いい、さっきも言ったけどこの事件は何年も前から計画されている。過剰な演出を目的とするなら、何を行なうにも苦労を厭わなかった。山荘を建てようと考えたときから、登山の経験を積んでいた。あるいは、以前から山岳部とか登山関係の、そういう団体に属していたのかもしれない。それに、登るのはこの毬藻荘と対岸を結ぶこの雪山だけ。始めは難しくても何度か繰り返せば、少しずつ上手くなる。最短距離や疲れない道を模索し、その用意が完全に出来たところで、私たちの合宿を受け入れた。計画が万全に用意されていない状況でのお客は、改装中だとか補修中だとか、適当に理由を付けて断ればいいだけだから」
柚木が右手でこめかみを押さえているようだったが、ふゆみはそのまま続ける。
「犯人はしいなさんの身体を持って山を越える。向こう岸に置いてきたあとで、また山を越えて山荘側に戻ってくる。そして、ロープに切り込みを入れる作業に移る」
「吊り橋に関しても、犯人は十分に知っていた。橋が風で落ちることはなく、人が載ったときにだけ崩れるよう、綿密に計算した上でロープに傷を付けた。物理学? 力学っていうの? 私は詳しく知らないけど、物体に作用する力と運動を調べる研究。橋にどれくらいの重さが掛かったらロープの限界だとか、重さを分散させるためにはどのように設計したらいいだとか、そういうものを熟知していた。それにこの地域の風力や風向きに関する統計と合わせ、人が載ったときにだけ落ちるような橋にするには、どれくらいロープを傷つければいいかということも把握していた。別に犯人がこれら全てを理解している必要はないよ。専門家に訊いたっていうんでもね。専門家だって、ミステリマニアだからそういうことを訊くんだな程度にしか思わないだろうから」
もはや、草薙も柚木も声が出せなかった。
「で、橋に細工を施したあと、離れに爆弾を仕掛ける。足跡には気をつけて、山荘の裏側から廻ったんでしょうね。山越え、橋の細工、離れの爆弾、これらを行なった順番は解らないけど、時間は朝方まで目一杯使えるんだし、出来ないことはない。犯人畢生の大事業なんだから。妥協なんてしやしない。吊り橋と離れに、遠隔殺人の準備をしておいたから次の事件を急いで起こす必要もないし、隠れ家に戻って昼過ぎまでは休息を取ることが出来たんじゃないかな」
ふゆみは草薙と柚木が疲れた表情をしていることに気づいたようだ。
「長くなったけど、もうすぐ終わりだよ。あとは御門台君の事件だけだから」
一連の事件の中でもっとも不可解だったのは御門台君の事件、とふゆみは言う。
「これこそ、犯人が前もって準備をしておかないと出来ない不可能犯罪だった」
話が佳境に入ってきたからか、草薙はぐっと唇を噛んだ。ふゆみは草薙、柚木を一瞥して説明を再開する。
「そもそも谷川に流された人間が、首を斬られて上流で見つかるなんてことはあり得ない」
「自分で言いましたね、実際に行なわれたことに文句を言ってどうなると。起こったことをあり得ないというのは、さっきと逆の考えだ」
断定するふゆみに柚木が告げる。右手はこめかみから離されたようだ。
「御門台君の事件は、本当に起こったことなの?」
ふゆみは逆に聞き返す。けれど反応が返るのを待たず、解答を述べていく。
「私たちが実際に知っているのは、御門台君が橋の途中で……落ちたってことだけ。他の事件と違って、遺体を確認した人は誰もいない。生きているか死んでいるかも正確には解っていない。私たちはテレビの報道によって、御門台が首を斬られて上流のA川で発見されたことを知った。でも、そんな現象は起こらない。桜橋君としいなさんの状況が、共に首を斬られるという劇的な方法だった。だから、御門台君の事件も犯人が何らかの方法を用いて首を斬ったと考えてしまった。要するに、御門台君はA川で見つかってもいないし、首を斬られてもいない。あの放送は犯人によって作られたでたらめの報道だったのよ」
唖然とした表情で、草薙が聞き返す。
「ま、まさか。公共の電波が殺人犯の戯言を聞いたとでも言うのか?」
「公共の電波じゃないよ、あれは。この山荘のみ、私たちに見せるためだけに作られた映像だったの」
柚木も驚いているようだが、草薙と違い表情の変化に乏しい。
「簡単に説明すると、テレビっていうのは、放送局が映像と音声を電気信号に変えて送信アンテナから電波として空中へ放つ。それを受信アンテナが受信して、電気信号を映像と音声に戻してテレビ画面に映し出す。ケーブルテレビは名前の通り、放送局と家庭のテレビがケーブルで繋がれているから、アンテナは必要ない。どちらを使ったのか解らないけど、犯人は林の中にちょっとした送信施設を作っておいた。別に放送局だとか中継車だとか、そんな大規模なものは要らない。精々、送信アンテナにモニターテレビ、ビデオデッキとケーブルがあるくらいでしょ。そこを隠れ家と兼用しているのかもしれない」
「携帯電話が圏外なのに、電波が届くのか?」
柚木がふゆみに訊ねる。彼は携帯電話を使用したことがない。
「携帯が圏外なのは、この周囲に基地局っていう無線電波を中継する設備がないから。山の中でも基地局が近くにあれば、携帯は使える。それに今の時代、携帯のものによっては、端末と回線を使って、映像をテレビに伝達することも出来るの」
柚木は余り理解出来ていないような顔をしている。そこへ草薙の声が割って入る。
「柚木の質問はずれている。いや、そもそも春日町の言った、森の中に隠れた送信施設があるっていうのが酷く疑わしい。出来ることと出来ないことがあるだろう」
ふゆみは、うんそうだねと言ってあっさり頷く。
「実際にはそんな大掛かりなものじゃないと思う。ただ、仕組みとしてはそれと同じってだけ。今はもう取り外されているだろうけど、食堂のテレビから映像コードと音声コードが床下を通って山荘の外へと続いていた。もちろん特注のコードだよ。現実的に考えると山荘のすぐ裏手の壁辺りまで伸びていたんじゃないかな。そこで犯人は映像コードと音声コードをバッテリー式のビデオカメラに繋ぐ。八ミリとかデジタルとか、小さいのは幾らだってある。遠江君がテレビを点けてくれと言ったのを聞いて、犯人は用意しておいたテープを再生した。ビデオ画面だと不味いから、1チャンネルか2チャンネルで映像が映るように設定してあったんだろうね。他のチャンネルは最初から周波数を合わせていないのか、もともとこの山荘までは電波が届かないのかも。映像の内容が内容だけに、食堂にいる全員が見るだろうから、犯人がすぐ近く、山荘の壁の外にいても気づかれることはない」
ようやくふゆみが区切りをつける。
「まあ、放送局云々よりは幾分まともになったが……。それでも疑問は残る。第一、遠江がテレビを点けようと言い出すことは、誰にも予想出来ないだろう」
草薙の言うことにふゆみはさらりと返答する。
「さっきも言ったけど、犯人は何種類もの不可能犯罪を用意していた。誰かがテレビを見ようと言ったり点けたりした場合にのみ、あの映像を流した。偶然を利用すれば、そこに作為があっても見逃されてしまうから。休息を昼過ぎまで取って、犯人はそのあと待機した。当然、どれだけ待っても誰もテレビのことを言い出さないことだってある。だから、この時間までに動きがなかったら映像は流さない、と決めていたんじゃないかな。映像を使わない場合は、御門台君の事件には別の装飾が使われていたんだと思う」
「それは、そうかもしれないが……」
草薙はふゆみの言うことに納得が行った訳ではないようだ。
「草薙君は、鍵を借りるときに、私たちの名前と連絡先を登呂さんに教えてある。S**大学推理小説研究会の春合宿でって言って申し込んできたんでしょ。だったら、あの映像にS**大学という言葉を入れることは出来る」
「ああ、その通りだ。けどな、合宿の栞を作ったなんてことは教えていない。どうしてあの映像で栞のことに触れられたんだ?」
「それはね、ただの勘違いだよ」
ふゆみはあらかじめ、質問される内容を予想していたようである。
「もちろん、雑音混じりでぼやけた映像を流したのはわざと。電波の届きにくい山奥のテレビが鮮明だったら、どう考えても不自然だからね。犯人はS**大学の学生手帳を被害者が持っていたとすることで、その誰かが吊り橋から落ちた人物であると思い込ませようとした」
「橋から落ちた人物? 御門台のことじゃないのか」
「それは、映像を作ったときには解らない。草薙君が合宿の申し込みをしてすぐに映像を作ったとしても、誰が橋から落ちるかはその段階で知りようがない。だから、音声を途切れ途切れの雑音混じりにして、被害者の名前が報道されない不自然さを隠そうとした。被害者の名前を出さなければ、吊り橋から落ちたのが誰であっても利用出来るからね」
「ああ、そういうことか……」
草薙は頷いた。
「映像の中で栞という言葉は使われていない。春合宿の栞を被害者が持っていると考えてしまったのは、御門台君が見つかってもおかしくないような時間帯に映像が流れたことや、S県から幾らも離れたこんな場所で、御門台君が谷底に落ちたその日に何の関係もないS**大学の学生が見つかったという偶然は、まず起こり得ないことだから。そのために、私たちはリポーターのアナウンスを勝手に解釈してしまった。ゲシュタルトとか聴覚補完現象とか言うのかな。ええと、確かあれは……」
ふゆみは顔を少し上に向け、流れた映像と音声を思い出しているようだ。
「……まず、頭部がない、学生手帳、S**大学、という言葉で私たちは御門台君だと思い込んだ。真っ先に声を上げたのは私だったみたいだね。それで、ポケット、かろうじて、毬藻、合宿、という言葉から、ポケットに入っていた紙からはかろうじて毬藻荘春合宿の栞という文字が読み取れて、という意味のことをリポーターが言ったのではないかと考えてしまった。その結果、栞を被害者が持っていたことが私たちの事実となり、被害者が御門台君であると強調されることになったの」
「みづきの事件も、被害者は固定されていない。被害者が他の人になることも、爆弾に気づかれて未遂に終わることもあった。計画が幾つもあるんだから、未遂の場合は、また別の犯行を行なうだけ。長沼君の件は犯人の犯行とは直接的には関係がない。最後の遠江君の事件はしいなさんと同じ。もし鍵が掛かっていても犯人は部屋に入ることが出来る。遠江君は特に装飾をされていなかったけど、鍵が掛けてあったはずだから密室殺人にはなる。過度なことをしなかったのは、起こった事件を的確に説明してくれる長沼君や、落ち着いて考えていく遠江君がもういない……から、じゃないのかな」
ふゆみの長い説明は終わったらしい。二人の顔を交互に見る。
「証拠と言えるものはない。でも、これなら全ての事件に説明がつく。あとは、このまま助けが来るまで三人で固まっていれば大丈夫。もし犯人が来ても三対一なんだから、負けることはないよ」
「春日町さん、あなたの推理は現実に目を向けていない」
柚木がふゆみに顔を向け、はっきりした口調で告げる。
「あなたはまだどこかで、サークルのメンバーに犯人はいない、自分の仲間や友達が、こんなことをするはずがないと思っている。だから残り人数が三人しかいないという状況にあっても、おれや草薙さんを疑えなかった。そんなときに外部犯人説を少しでも考えてしまったら、メンバーの人間を犯人にしないためにも、そちらの仮説に飛び付いてしまう。あとはもう、外部犯を成立させるための論理に躍起になってしまった」
「そ、そんな、そんなことはない。私はちゃんと……」
ふゆみは抵抗を試みるが、声は震えている。
「春日町さん、今は子供が親を殺しても、親が子供を殺しても、大して驚きのない時代だ。友達だろうが仲間だろうが、殺すときは殺すだろう。過去にどれだけ仲良くしていようと、どれだけ思い出があろうともな」
言い放って、柚木は草薙に目を遣る。ふゆみも草薙の反応を窺う。
「春日町、途中で説明しようと思ったが、君が自説を本気で信じているようなので、最後まで言い出せなかった。……春日町の推理は成立しないんだ。登呂さんが犯人であるはずがない」
草薙の言葉に、ふゆみは目を見張る。
「な、何で、そんなことが、言えるのよ……」
「登呂さんが犯人ということはあり得ない。彼は今年で八十歳になろうかという、ご老人なんだ。春日町が言ったような行動を取ることは出来ない。雪の降る寒さを耐えての犯行など、身体的に無理なんだよ」
「え、そ、そんなまさか……」
柚木が口を挟む。
「そのことは、以前おれもボックスで耳にした。毬藻荘は高齢のミステリマニアが建てた山荘だと。草薙さんの言ったことは、本当だ」
ふゆみは声を出せなかった。先程までの自信に溢れた様子は消え、急に怯えたような表情に変わる。犯人は残った者の中にいないと信じていた度合いが大きいだけに、ふゆみの落胆は激しいのだろう。
「だが、安心しろ。事件はもう起こらない」
うな垂れたふゆみに、草薙が声を掛ける。
「犯人は、既に亡くなっている。これ以上の犯行を起こすことは出来ない」
三 『いらない人間SELECTION』
ふゆみに代わり、草薙が自身の解答を述べる。
「始めに言っておこう。この山荘では殺人事件などひとつも起きていない。全てはあいつらの連続自殺、偽装殺人だ」
「な、何を言ってるの?」
ふゆみは小さく悲鳴を上げた。
「いいか、生き残った俺たち三人、合宿に参加しなかったメンバーがそれを裏付けている。遠江が首を斬られなかったのは、共犯者が残っていなかっただけのこと」
「な、何それ。どうして、みんなが自殺なんてことを……。それに、なんで殺人に見せ掛ける必要が、あるのよ……」
ふゆみは恐々と草薙に言い掛ける。
「俺たち以外のメンバー、正確に言うと、遠江、御門台、長沼、日吉、桜橋、古庄、それに伊豆さん、入江岡と清水。あいつらには共通する目的があった。そのために連続殺人を偽装したんだ」
「偽装って、そんな、それじゃ……」
何やら色々と言いたいことがあるような様子のふゆみに、反論は草薙さんの推理を一通り聞いてからでもいいでしょうと言って、柚木は草薙に先の説明を求めた。
「春日町の登呂さん犯人説と動機は違うが、あいつらにも推理小説に出てくるような事件を再現する必要があったんだ。先に事件を振り返っておこう」
ふゆみと柚木に一度目を向けてから、草薙は話し始める。
「最初に起きた桜橋の事件、現在山荘に残っている俺たち三人にアリバイがある以上、犯人が死んだ人間の中にいるのは必然だ。いみじくも長沼の推理が真相だった。長沼があえて事実を語った理由は想像するしかないが、あいつの性格からして、読者への挑戦状みたいなものだったんじゃないか。犯人の正体を突き止められるものなら突き止めてみろと。このときはまだ、長沼も揺れていなかったんだろうし」
ん? とふゆみが不審な顔を向けたが、草薙は先を進める。
「桜橋は、アリバイのない御門台と長沼、古庄によって殺された。被害者が同意しているのだから、自殺幇助と言った方がいいかもしれない。遠江と日吉が手伝ったどうかは微妙だ。変な動きを見せるより、御門台、長沼、古庄に任せた方が疑われないで済む。実際、遠江と日吉にはアリバイがあった訳だしな。死体を切断したのは個人での犯行が無理だと示すためで、窓を開けたままにしたりクーラーを入れたり、死体が血に塗れていたのは推理小説的な装飾だ。本来なら、最後の遠江が殺されたあとで、生き残っている人間に犯人はいない。この連続殺人には犯人が存在しないという不可能状況が生じる予定だったんだろう」
古庄の事件、と言って草薙は話し始める。
「あれは、俺たち以外の五人による共同作業だった。古庄も犯人の一人なんだから、密室なんて存在しない。あいつらは死体を切断するための包丁と、ロープを切るための刃物、これが何かは解らないが、それと離れに仕掛ける爆弾を用意して吊り橋へ向かう。母屋から吊り橋に至る足跡が偽装されていたのは当たり前のことだ。五人もの足跡が吊り橋まで延々と続いていたら、どう考えても不自然過ぎる。おそらく、足のサイズが小さい者から順に歩き、後ろから付いていく者はそれぞれ前に残る足跡を潰し、一人の人間が歩いたように見せ掛けた。あれは犯人が足跡を特定されるのを怖れたのではなく、複数の人間が歩いたことを隠すために施されたんだ」
ああ、とふゆみが感嘆する。
「次に、あいつらは古庄を使って足跡のない殺人を行なう。雪が降っていようといまいと、この時間帯は降っていなかった、と口裏を合わせれば、間違いなく足跡のない殺人を見せつけることが可能だ。しかし、俺や春日町、柚木が証言したときに食い違うと不味い。だから長沼が、雪が降ったかどうかをみんなに訊ねたとき、春日町の言ったあとに遠江が口を開いたんだ。これで、先程俺が春日町に訊ねた降雪時間についての問題はなくなる」
「……そう、だね」
とふゆみは頷いた。
「それじゃあ、しいなさんは、橋の向こうで、実際に……?」
「そうだ、古庄が自分の足で向こう岸まで渡ったんだから、死体を持ち運ぶ苦労などない。古庄があの場所で解体されたのは、続けて足跡のない殺人の偽装を行なうからだった。古庄を解体し、凶器を残しておく。そこが現場なんだから、作為はなく古庄の血がそのまま雪に染み込んでいた。そして足跡の細工を行なっている途中で、斬り取った古庄の身体の幾つかを谷底に落としてしまった」
「え、どういうこと?」
「右腕と左足だけが対岸の橋桁に載せてあったが、本来は他の部分も吊り橋の上に、それぞれ距離を離して置かれるはずだったんだ。それなら、身体の一部が橋の上に点々と転がっているのに犯人の足跡がないことになり、足跡のない殺人の不可思議さが更に増すことになるからだ。だが、それは上手く行かなかったので、向こう岸の橋桁の上に置くのみに留めたのだろう」
柚木は相変わらず、説明の途中で口を挟むことが少ない。じっと草薙の話を聞いている。
「吊り橋に足跡がなかったのは、あれが四人の共同作業だったからだ。一人では時間的に厳しいものがあるだろう。まず、一人が向こう岸に近い橋桁に立ち、少し離れてもう一人が立つ、そこからまた少し離れてもう一人が立つ。最後の一人はこちら側、山荘側の雪の積もった場所に立つ。山荘側の人間が雪を掬って前にいる人間に渡す、その人間は更に前の人間に渡す。最終的に受け取った向こう岸近くにいる人間が、橋桁に雪を被せる。バケツリレーを雪で行なうようなものだな。先頭の人間は、橋桁に雪を載せながら、山荘側に向かって少しずつ後退る。その作業を繰り返せば、橋の上に足跡は残らない。積もった雪が橋桁に残っているように見えるだけだ」
「足跡の細工が終わったら、吊り橋を支えるロープを傷つけることと、離れに爆弾を仕掛ける作業が残っている。これは二人ずつに別れて行なったのかもしれないな。吊り橋のロープについて春日町は色々と言っていたが、そう複雑に考えることはないだろう。夜中、風に吹かれて落ちることのない程度に切りつけておく。足跡のない殺人さえ目撃させれば、あとはどうにでもなる。御門台が橋の半分まで行っても橋が崩れないようであれば、急に取り乱した振りをして、駆け出すなり足を強く踏み出すなり、橋に衝撃を与える行動を取ればいい。そうすれば、切り込まれているロープに影響が出ないことはないだろう」
草薙は少し間を措いて、再開する。
「唯一の連絡手段である吊り橋を落とすのと同時に第三の殺人が行なわれた、そう見せ掛けるのがあいつらの目的だった。御門台が首を斬られA川で発見されたのは、あいつらも予期していなかったイレギュラーな事件だ」
「ま、待ってよ。それはないって」
慌ててふゆみが声を上げる。
「だから私は、報道がでたらめだって考えたんだから……」
「春日町、あれは決して不可解な現象ではない。偶然が積み重なっただけなんだ。偶然を利用すればそこにある作為が見逃されしまうと、自分でも言っただろう」
「……だけど」
ふゆみは不満そうな表情を見せたが、草薙はそのまま説明を続ける。
「御門台が落ちた場所は水の少ない岩場だった。そこに鋭く尖った岩があり、御門台はちょうどそこに落ちた。ギロチンに向かって、自分から落ちていくようなものだ。報道では切断面に触れていなかったが、斬り口は酷いものだろう。吊り橋のどこまで歩いたところでロープが切れるかなど、御門台に予想出来たはずもない。尖った岩の上に落ちたのは、全くの偶然だったんだ」
ふゆみは動揺しているのか、すぐに言葉を返せなかった。
「……そ、そんなこと。で、でも、もし御門台君が落ちたのが岩場だったにしても、あとはもうそこに引っ掛かってしまうか、川に流されて下っていくだけ、のはずでしょ。ど、どうやったら、上流のA川に流されるっていうのよ」
落ち着きをなくしてきたふゆみと対照的に、草薙は平静な態度で話を進める。
「変に勘繰ることはない。事実をそのまま見ればいい。川の流れが逆流したんだ」
「まさか! そんな……」
先と違い、ふゆみは思わず声を上げた。
「海の満潮時に、海水が河口から上流へ逆流する現象は世界各地で起きているんだ。アマゾン川のポロロッカや銭塘江の海寧の潮などは良く知られている。日本ではこれらの現象を海嘯や川津波と呼ぶ。もちろん、逆流現象が起きるためは河口の形状や川の勾配、潮汐など諸々の条件が必要だが、日本での例も皆無ではない。ちょうどあのとき、正に御門台が落ちたあのときに、この逆流現象が起こっていた。まさしく奇跡的な偶然で……。頭部も流されているはずだが、岩場に落ちたときに身体とは別のところへ飛んでいったんだろう。だから、首と身体は一緒に発見されなかった」
「ぐ、偶然……。でも、そんな現象が本当に起きたのなら……」
ふゆみは、草薙の言うことに納得しつつある。
「遠江がテレビを点けようと言い出したのも、ちょうどニュースが放送されたのも、電波が途切れていたのも、運が悪いことに、いや、あいつらにとっては幸いなことに、単なる偶然だった。遠江は本当に川の名前を知らなかったんだろう。しかし目敏く川の名前に気づいた長沼がこれも犯人の仕業であると言い出したため、あたかも不可能殺人であるかのように俺たちは思い込まされてしまった」
柚木は表情に変化もなく、ただ黙って聞いている。
「この首斬りだけは、どう考えても人間には不可能だ。長沼自身に見当がついていたかは不明だが、咄嗟のことを事件に組み込んだ手際には、脱帽するしかない」
あとはもうそれほど難しいものはないだろうと言って、草薙は残りの事件を説明する。
「日吉は頃合を見計らって離れへ行き、自分で爆弾を爆発させた。癇癪を起こし取り乱したのは、一人で離れに閉じ籠もっても不自然にならない演技だろう」
「みづきが……?」
ふゆみは言ったきり黙ってしまう。
「予定では、次に遠江か長沼のどちらかが偽装殺人を施されるはずだった。しかし、長沼が突然それを拒んだ。どうして急に心変わりしたのかは推測するしかないが、日吉の死体を確認した辺りから長沼は何か様子がおかしかった。日吉の死に何かを感じたのかもしれない。長沼は死ぬ前、自分は不可能犯罪の材料ではない、トリックの道具ではないと叫んでいたが、あれは遠江に向けた言葉だったんだろう。あのとき真相を話してくれれば、遠江が死ぬことはなかったかもしれない。だが、偽装殺人は手伝わないがそのことをばらさないというのは、愚直な長沼らしい行動ではある……」
草薙はどこか遠くを見るような目つきをする。
「でも……。遠江君はみづきが爆発に巻き込まれたとき、自分のことは構わず火を消そうとしていた。長沼君のことだって懸命に説得して、助けられなかったのをあんなに悔やんで……。あれも……演技だったの?」
ふゆみは悲しそうな顔をして訊く。
「遠江自身、最初から死ぬ予定だったんだ。爆発に巻き込まれることを怖がる必要もない。長沼のことにしたって、次に殺されるのが自分だった、あるいは長沼と二人で特殊な殺され方をする予定だったのかもしれない。それが長沼の自殺で、自分に施されるはずの不可能犯罪が消えてしまい、どうしていいか解らなくなって長沼に縋り付いたんだろう」
「と……遠江君が、そんな、こと……」
「春日町。遠江にしてみれば、事件を最後まで遣り遂げる義務があった。既に死んだ四人に対しても、あいつは責任を感じていたんだよ。偽装殺人を最後まで遣り遂げなければいけないと。だが、それが出来なくなってしまった。最後に自殺する人間が一人残るのであれば、殺人に偽装して自殺をしたんだろうが、遠江はそんなことをしていない。……自分で胸を突いていた。長沼の自殺が原因だったのかどうかは、もう確かめようのないことだ……」
草薙による事件についての説明が一通り終わったところで、柚木が口を開いた。感情も何も籠もっていないような無愛想な話し方をする。
「それで結局、彼らの動機は何だと言う気ですか?」
柚木の問いにはっとした表情を見せて、ふゆみは草薙に向き直る。
「そ、そうよ。遠江君たちは、何が理由でそんなことを……」
「動機か、それは目の前にあった。俺たちも当然知っていることだ」
「え? 知ってることって、何?」
ふゆみは全く思い当ることがないようだ。
「ただ、それに対する度合いが違っていただけだ。普通、そこまで深く思い込むことはないだろうからな」
「な、何よ。はっきり、言ってよ……」
口を尖らせるふゆみに、草薙は動じることもない。
「本来、俺たちは合宿で何をするはずだった?」
突然の質問に、多少途惑いながらふゆみは答える。
「え、何って。合宿は一年生の例会が中心で、今回は桜橋君としいなさんが、例会を担当する予定だった。桜橋君がレクチャーで、しいなさんは読書会。それと私たちがする予定だった、特別例会……」
「初日の内容だ。桜橋のレクチャーのあと、何が行なわれる予定だった?」
「え、桜橋君のあとは……そう、新入会員をどうやって増やすかって、そのことについての話し合いが行なわれることになっていた。だけど、それがどう関係するの?」
「それこそが、この連続自殺、偽装殺人事件の目的だ。あいつらはミステリ研の会員を増やすため、S**大学推理小説研究会の知名度を上げるために、この事件を引き起こしたんだ」
「な、何を言ってるの?」
思わずふゆみは驚きの声を上げる。
「そ、そんな、馬鹿なこと……。そんな、ことのために……」
「そうだよ、俺たちにとっては馬鹿なことで、くだらないことだ。毎年の新入会員が少ないことや、このペースが続いたらあと数年で廃部になってしまうことも、仕方のないことだろう。無理やり入会させてどうなる話でもないしな。だけど、あいつらはそれが許せなかった。どうにかしてミステリ研を存続させたかったんだ……」
「で、でも、だからって……」
草薙はふゆみを見て話す。
「結局、会員を増やすのにもっとも有効なのは、S**大学推理小説研究会の名前を全国に広めることなんだ。知名度が上がれば、当然入会希望者も増える。その中に才能のある人間が紛れていることもあり得ない話ではない。うちのミステリ研から作家デビューした人間でもいれば、多少は勧誘に効果があったのかもしれないが、創作がそれほど盛んではないうちではなかなか難しい。これまでだっていなかったし、これからも厳しいだろう。それに廃部がもう目前に迫っている状況で、そんな悠長に待つことは出来なかった。何とか打開策を考えているところに、俺が今年の合宿を毬藻荘でやってみないかという話を遠江に持っていってしまった。それであいつらは事件を起こすことに決めたんだ……」
「だ、だから、どうして、そんな方法を採ろうなんて……考えたのよ」
「それは、あいつらが推理小説研究会に所属する人間だからだ」
「え? 何、それ」
ふゆみは、草薙の言っていることが理解出来ないようだ。
「山奥の閉じられた山荘での連続殺人事件。あたかも推理小説で扱われているような殺人事件に巻き込まれた推理小説研究会であってこそ、センセーショナルな話題になる。これにはメディアやマスコミがやたらと飛び付く。報道番組やワイドショーで毎日のように放送されるはずだ。S***大学の推理小説研究会は、ありとあらゆる人に知られるようになる。これが他のサークル、例えば文芸部やSF研究会の連中が殺人事件に遭ったとしても、ミステリ研程のインパクトはない。ミステリ研の連中にしたって、事件の場所が閉じられていないホテルや旅館の場合ではやはりインパクトが薄い。だから今回の合宿先、ミステリマニアが建てた山奥の山荘というのは、あいつらにとって絶好の舞台だったんだ」
「で、でも……さっきから言ってるのは、草薙君の想像でしょ。遠江君から聞いた訳じゃないよね?」
ふゆみは、どうしても信じられないようで、草薙に問い質す。
「当然だ、あいつらは俺たちのことを仲間だと思っていなかった。もしかしたら、同じサークルにいながら、正式な会員として見ていなかったかもしれない」
「な、何で、どうして。一年生のころから、みんな一緒にやってきたじゃない。そりゃあ、意見の食い違いとか、好みの小説のこととかで、言い争いもあったけど、ミステリが好きっていう共通点があったから、仲良くやってこられたんじゃない」
「違うよ、春日町。あいつらと俺たちでは、ミステリやミステリ研に対する想いに落差があった。そのため、計画を俺たちに打ち明けることをしなかった」
「なんで、私たちが仲間外れなの? みんな、同じサークルの一員でしょ」
「……兼部、ですか?」
唐突に柚木が口を開く。草薙は少し意外そうに柚木を見た。
「ああ、そうだ……。他の部と掛け持ちをしているからといって、ミステリ研の活動を疎かにしているとは言えない。けれどあいつらはそう思わなかった。ミステリ研の優先順位が一番でないと許せなかった。他の部と一緒に、片手間に出来る活動ではないと。同じサークルにいながら、あいつらは俺たちのことを異端だと考えていた」
草薙は腰を上げてソファに座り直す。
「そもそも、今回の合宿は参加メンバーからしておかしかった。いや、正確には参加しなかったメンバーが、というべきか。伊豆さんが来なかったのは、未だ就職活動中だという理由もあるが、合宿は三日間だけだ。それだけの日にちを就活に使わなかったからってどうなるものでもない。第一、そんなに一日一日を大切にする人であれば、もっと早い時期に内定をもらっていてもいいだろう。入江岡にしても変だ。あいつは、これまで例会を欠席したことも合宿に不参加だったこともない。それが推理小説に出てくるような山荘での合宿というイベントに飛び付かないのは不自然だ。結局、欠席理由は最後まで暈していたようだし。それに清水。清水が一人で行動するのは良くあるが、古庄が一人で行動するのを見たのは今回が初めてだ。例会にしてもボックスに来るときにしても、古庄はいつも清水と一緒だった。清水が来ないのなら古庄も来ない、ということは考えられた。だが、実際はどうだ。古庄は一人で合宿へ参加している。なら、そこに何か作為があると考えるのが自然だろう」
参加しなかったメンバーの理由は、と言って草薙は話を展開する。
「首尾よく事件が行なわれて、来年度早々に新入会員が入ってきたとき、役職に就いた人間が誰もいないという状況は不味い。活動が円滑に行なえなければ、幾ら会員が入ってきても、それではざるになってしまう。会長職を担っていた伊豆さんと、編集長の入江岡が残っていれば、例会のやり方や会誌の作り方、教室の取り方や合宿の行ない方など、最低限の活動内容は下級生へ伝えることが出来る。こんな目に遭った俺たちが、部に残る可能性は薄いだろうしな。清水が不参加だったのは、古庄の死を見届けるため、古庄の想いをずっと自分が覚えておくといったようなことじゃないのか。まあこれは逆で、清水に見届けてもらいたいから、古庄だけが参加したのかもしれない。そして、あいつらが作る連続殺人事件の観客、読者の立場として用意されたのが、俺たちだ。俺は奇術研、春日町はボランティア、柚木は文芸部にも所属しているしな。だが、これは適切な配置だったろう。あいつらの誰かが観客に廻った場合、真相を知っているだけに、山荘から戻って警察やマスコミ、大学の関係者から話を訊かれたとき、観客が知り得なかったことを話してしまう怖れがある。それを防ぐには、計画を知らない者、仲間ではない者、俺たちが観客であることが望ましかったんだ」
事件に対する草薙の説明は終わったようだ。ソファに肩をもたせ掛ける。ふゆみは、そんな、まさか、でも、と自問自答を繰り返す。そんな中、柚木が一人独白のように言う。
「ミステリを愛するがために行なわれた、推理小説研究会会員による偽装連続殺人事件……。さすがはサークル一の量産家ですね。もっともらしい話を作り上げる」
草薙はソファから身を乗り出した。
「どういう意味だ、柚木? 俺が嘘を並べ立てたとでも言うのか」
「嘘も何も、あなたの論理は成立しない」
草薙がふゆみに向けて言ったのと、同じ意味の言葉を柚木は吐いた。ふゆみははっとして柚木に向き直る。
「どういうことだ? 話を聞こう」
柚木は草薙の質問を切り返す。
「草薙さんの考えは、動機に拠り過ぎている。あなたが言う通りの動機が存在しなければ、起こり得ない事件になる」
「……だが柚木、生き残っている俺たち、合宿に不参加のメンバーから考えても、妥当なところじゃないのか。それとも他にぴたりと合う動機があるとでも?」
多少の躊躇いを見せる草薙に、柚木は言い立てる。
「あなたの示した解答自体が間違っているんです。殺された者たちに共通の動機など発生しない。その説が成立するためには、被害者全員の所属しているサークルが、ミステリ研ひとつだけという条件が必要になる。けれどそうじゃない。桜橋は兼部している」
「何?」
草薙が目を見開く。
「桜橋は半年程前、文芸部へやってきた。そこで会ったとき、あいつはおれに、どういう訳か自分が兼部していることを隠して欲しいと頼んできた。ミステリ研を途中で辞める気でいたのか、別のサークルにいるところを見られると気不味いと思ったのかは知らないが、桜橋はそう言ってきた。そして後日、あいつは万が一何かあったときに困るからと言って、遠江さんだけには兼部していることを伝えていた」
草薙は唇をわなわなと震わせ、柚木を凝視する。
「桜橋は兼部していたし、それを遠江さんも知っていた。だから、草薙さんの説が正しいのなら、桜橋はおれたちと同じ観客側であるはずだ。桜橋だけ例外ということはあり得ない。それを認めたら、ミステリ研のみを愛する者たちとの結びつきは途端に弱くなる」
「なら、桜橋の事件だけが、偽装ではなく本当の殺人だったと……」
どうにか反論しようとする草薙を、柚木は遮る。
「この事件が、被害者と加害者の協力によって綿密に計画された連続殺人であるのなら、最初の殺人にそんな不確定要素を置きはしない。桜橋がいつ部屋に戻るかも解らないし、部屋の鍵を閉められたら中に入ることも出来ない。桜橋の予測出来ない行動を基に、あとの連続殺人を計画的に行なうのは不可能です。草薙さんが言ったことは、全て空中楼閣だ」
「じゃ、じゃあ……」
ふゆみの表情に微かな希望が現われる。
「遠江さんも長沼も……殺されたみんなは、そんな倒錯した考えを持っていない。遠江さんの行動も演技ではない。春日町さんが感じた通りそのままだ。あれが遠江さんという人だ」
このような状況でありながら、ふゆみはわずかに笑顔を覗かせた。
そんなふゆみの表情を一瞥したあと、草薙は正面の柚木に顔を向ける。
「だが、外部犯と共犯者を否定してしまうと、最初の殺人を行なえた人間がいなくなってしまう。何度も言ったが、俺たち三人が桜橋を切断出来ないのは明白だ。犯人のいない連続殺人など、それこそあり得ないだろう」
「……そう、そこが犯人の拠り所だ。その仕掛けを解けば、あとは容易い」
二人を交互に一瞥し、力強い声で柚木は宣言する。
「草薙さん、あなたが犯人だ」
四 『きみにできるあらゆること』
柚木は横に置いていた紙袋を取り上げる。
「草薙さんも春日町さんも、事件を捻くれて考え過ぎだ。殺人事件を起こすための山荘を誰が建てますか、会員欲しさに連続殺人を起こすサークルが、どこにありますか。ミステリに取り憑かれているのは、あなたたちの方でしょう」
言いながら柚木は立ち上がる。紙袋に入っているものを取り出し、テーブルの上に放り出す。ふゆみは短く叫び、草薙は苦しそうな声を出した。
「な、何、これ。ゆ、ゆず、き君が……?」
ふゆみは急におどおどした素振りで柚木を見上げる。
「おれにそんな趣味はない。それよりも、怖がらすにきちんと見てください。それが、この事件を解く鍵だ」
テーブルの上に載せられたのは、肩口から斬り取られた左腕。女性のものらしく細い腕の薬指には指輪が嵌まっている。
「う、腕……? だ、誰の。み、みづき……? ち、違う。みづきは離れで……。じゃあ、しいなさん……? え、そんな」
ふゆみの表情が、恐怖から驚愕に変わる。
「……違う。しいなさんが指輪をしていたか、どうかは気づかなかったけど……。しいなさんの……左腕は、吊り橋の向こうに……」
「そうだ、それが解れば十分だ。これは、山荘裏手の林に入った辺り、そこの土の中に埋められていた。疑うのであれば、今から案内してもいい」
二人から反応が返ってこないので、柚木は続ける。
「仮にこれが古庄の左腕であるなら、橋桁に載っていた左腕は誰のものか。左腕がひとつ余ることになる。それにこれだけじゃない。周囲にはまだいくつかの布袋が埋められ、それぞれに斬り取られた身体の一部が入っていた。一人のものではないだろう」
柚木は左腕を取り上げ紙袋に戻す。それをソファの横に置き、自分は先程まで座っていたソファに腰を下ろした。
「な、ちょっと、どういうこと……。解らない……何が、どう……」
ふゆみは明らかに困惑した顔つきになっている。
「素人判断だが、切断部分は死後一週間と経っていない。おそらくここで、おれたちが来る前に、何人もの人たちが殺されたんだ」
「ここって……この、山荘で? 林の中とか、山の中じゃなくて?」
「バスを乗り継ぎ山道を延々と歩き、こんな辺鄙なところまできて、殺人を犯すような人がいるとは思えません。そんな人間がいたとしても、死体を見つからないように隠すことが目的のはず。なのに死体を山荘近くに埋めてしまったら、死体を掘り出してくれと言っているようなものだ。それこそ、山荘から離れた林の中か山の中にでも埋めてしまえばいい。それなのに、裏手の林に埋めてあったのはどういうことか。それは、山荘近くに死体を隠しておかないと、一連の事件が起こせない、犯人にとって不都合が生じるからだ」
……間もなく、最後の解答編が始まる。
「桜橋のばらばら死体、あの事件には、別の人間の死体が利用されていたんだ」
何、一体どういうことと訊ねるふゆみに構わず、柚木はゆっくりと話し始める。
「この左腕が入っていた布袋には、凶器として使われただろう鉄斧が入っていた」
「……斧? 凶器は、包丁じゃなかったの?」
柚木の言葉に、ふゆみは首を捻る。
「刺殺には使われたかもしれないが、首や身体を斬り落としたのは鉄斧だ。現場に捌き包丁がこれ見よがしに残してあったのは、死体切断に使われたのが包丁である、とおれたちに思い込ませるため。当然、斧を用いた方が、素早く作業を終えられる。桜橋を解体するのに、一時間も必要ないんだ」
「しかしな、柚木。使われたのが斧だとしても、桜橋はあれだけ細かく解体されていたんだ。そんな使い慣れないものを使ったら、余計に時間が掛かるだけじゃないのか。何度も言っているが、俺のアリバイがはっきりしないのは、わずか三十分程度だ」
草薙の口調は先程までと変わらない。
「全部を解体するのは厳しいでしょう。だが、首と胴体だけならそう無理なことでもない。斧の扱いは、確かに素人には難しい。だからあなたは、首を一撃で落とせるように、胴体を短時間で斬り離せるように、十分な練習を積んでから本番に挑んだ」
「れ、練習って、そんなの、どうやって……」
ふゆみは何かを言おうとしたようだが、傍らの紙袋を見て愕然とする。
「まさか、その、人たち……林に埋められている人たちは……斧を、使う練習のために……?」
それだけの理由ではないがな、と柚木は頷いた。
草薙は、柚木を見つめるだけで何も言わなかった。否定も肯定もしない。近くにいるのが怖くなったのか、ふゆみは徐々に後退りながら、柚木の近くのソファに腰を下ろす。
「柚木、お前の推理も最後まで聞いてやろう。お前がどんなことを考えたかを言ってみろ」
草薙に動揺はなく、泰然としている。
「それはどうも」
柚木も草薙と同様、平静な態度は崩れない。
「まず、桜橋が殺された日、あの日のあなたの行動について説明しましょう。山荘に着いたおれたちは、まず部屋割りを決めた。誰にも見つからず林の中に行く必要のあるあなたにとって、西端の客室が好都合だった。だが、幾ら合宿担当とはいえ部屋割りまで決めておくのは不自然だ。誰がどの部屋を使うかは自然に任せた。二階にあるのは客室と殺風景な廊下だけ。どの客室を選んでも、見える風景に変わりはないし、窓から身を乗り出しでもしなければ、東側の林は窺えない。しかし西端は古庄に取られ、隣に春日町さん、日吉が入ってしまった。出来るならその隣の二〇四を使いたかっただろうが、男性陣が皆東側の部屋に固まっているのに、自分だけ女性側の部屋を取るのは避けたんだろう。止むなくあなたは、東端の部屋に落ち着いた。もっとも、それだけであなたの計画がどう変わる訳でもない。誤差が十秒程生じるだけのこと」
柚木は右隣のふゆみを怪訝な顔で見る。彼女がこちら側に移動してきたことに、今頃気づいたようだ。顔を正面に戻し、柚木は続きを話す。
「部屋決めのあと、約一時間後にラウンジへ集合することになった。遠江さんの性格からして、休憩もなしに今後の予定を決めるとは考えにくい。それに山道を歩いてきたばかりだから、汗を流す時間は取ってくれるだろう。もし時間が短いようであれば、そこで口を出せばいい。部屋に荷物を置いたあなたはリュックサックのような袋を持ち、すぐに客室を出る。玄関から出て林へと向かう」
「え、すぐ? それに窓から出るんじゃないの? みんなが客室にいるんだから、誰かが廊下に出ていたり、ラウンジに降りたりするかも……」
ふゆみが柚木に訊ねる。草薙から距離を取ったせいか、少しずつ落ち着いてきたようだ。
「いや、時間を措いたら駄目なんだ。客室に戻ってすぐなら、間違いなく全員がシャワーを浴びている。シャワーが早いといっても、最低でも十分は掛かるだろう。この十分が、あなたにとって重要な時間だ。一連の事件全てが賭けられていると言っていい。逆にこれさえ乗り切れば、草薙さんは自分のアリバイを最初の段階で確保出来る」
「……でも、一階にお風呂があったでしょ。男子は解らないけど、私たち、女子が一緒に下のお風呂へ行こうって話をしていたら、どうするの?」
「春日町さん、それは今だから言えることだ。草薙さんがこの山荘の設備を一通り説明したのは、みんながラウンジに集まってからのこと。風呂の使い方だとか離れはストーブだとか、そういうことを説明したのはそのときだ」
あ、という形に口を開けたふゆみを、柚木は横に見る。
「山荘裏手の林までは、急げば五分と掛からない。それにおれが見つけたのは林の中に埋められていたが、最初の事件に必要な身体の部分だけは、もう少し山荘に近い雪の中に隠されていたかもしれない。草薙さん、あなたは全員がシャワーを浴びている十分の間に、用意しておいた別人の死体と鉄斧を取って客室に戻ってきた。斧はそれほど大型のものじゃなかった、リュックに入る大きさだろう」
「で、でも、リュック……の、中に死……人の身体が入って、るんでしょ。もし、帰りに誰かと会ったら……」
「ラウンジに人がいても、玄関ホールは覗けない。それはあなたが言った通りだ。もし、誰かに会ったら平然としていればいい。誰がリュックに死体を入れていると思う。このときは、まだ誰も死んでいないんだ。山荘に着いたら離れを確認しておいてくれとオーナーに頼まれたのを忘れていたとか、万が一のために吊り橋のチェックをしておいたとか、理由は何でも作れる。長年遠江さんの補佐的役割をしてきた人だ、そんな雑用をしたからといって、疑われることはない。それにこのときであれば、山道を登ってきて掻いた汗と死体を取りに走って掻いた汗との見分けはつかない」
柚木はソファに座り直し、草薙を見据える。
「しかしそんな保険はおそらく要らなかった。……あなたは誰にも見つからないと考えていた。運、というよりも、勢いがあなたを守っていた。殺人に限らない。何をするにしても、失敗や解れは、実行する人間の自信のなさや怖れから生まれる。あなたの目的が何かは解らないが、あなたはこの事件が成功すると、最後まで行なえるということに疑いを持たなかった。それはあなたを守るのと同時に強さにもなる。誰にも見つかることなしに、あなたは死体と斧を持ち運ぶことが出来ると疑わなかった。それゆえ、実際誰にも見られることがなかったんだろう」
くくっ、と草薙が含み笑いを漏らす。
「……面白い。続けてくれ」
「あなたが取ってきた死体は……推測するしかないが、二人分の細かく斬られた両腕と上半身。それぞれが別の袋に分けてあった。ひとつは、遠江さんや御門台さんのような体格のしっかりした人間の身体、もうひとつは、長沼や桜橋のような中肉中背の人間の身体」
「似たような……?」
ふゆみが小さく言ったが、自分でも察しがついたのだろう。そのまま口を噤んだ。
「女性の身体も用意しておければ万全だが、持てる量に限度があるし、胸部の問題もある。多分、最初の被害者は男性にすると決めていたのだろう。このときは夕食担当を誰が行なうかは知りようもないが、御門台さんや長沼は性格からいって手伝いそうにない。遠江さんと女性の誰かが行なうだろう。その程度の予測は出来る。だから、女性の遺体は持ってこなかった、と思うが……」
草薙からの返答はない。
「客室に死体を持ち込んだあとは、遠江さんが言った集合時刻までにシャワーを済ませればいい。そしてラウンジへ降りてくる。その後、あなたは何食わぬ顔でおれたちに、山荘の設備や使い方、連絡事項を伝えた。夕食担当、おれはあとから知った訳だが、おれに春日町さんと日吉が加わり、ラウンジに遠江さんが残っていた。最初の被害者を決めたのはこのときだ。女性を除いているのなら、桜橋か長沼か御門台さんだ。防音設備がしっかりしているこの山荘では、人がいる隣の部屋で死体を斬り落としていようと、誰に気づかれることもない。桜橋を選んだのは、部屋が隣で都合が良いと考えたのでしょう。相手を桜橋に決めたあなたは、二階に上がる前に管理人室で桜橋の部屋の合鍵を持ち、自室へと戻る。おそらく、このとき一緒に電話線も取り外しておいた」
そして最初の事件に取り掛かる、そう言って柚木は傍らの紙袋をちらと見る。
「桜橋の部屋に入ったあなたは、まず桜橋を殺す。長沼が言った通り、殺害方法は解らない。しかし、これまでの殺人や、後の古庄のときと違い、部屋に血痕が残っていても構わない。自分が返り血に気をつければ、方法は何でもいい」
これまでの殺人という文句にふゆみは首を傾げたが、柚木は先を進める。
「桜橋を殺したあと、解体作業を開始する。先に言った通り、あなたが斬り落としたのは桜橋の首と胴体のみだ。残りの部分は既に切断されていた。それを桜橋の死体と組み合せ、あなたは死体の装飾を始める。それが終わったら、使わなかった身体と両腕が残っている桜橋の上半身は、纏めて白い袋に入れて、窓から外へ投げ捨てる。出来るだけ林に近い方が安全だろう。桜橋の身体は見た目には全て揃っている。死体の足りない部分を探そうなどと言い出す者はいないだろうし、夜中に回収する予定でいたんだ。そして、部屋を出る前に忘れず冷房を入れておく。足が血に汚れないよう、窓だけは先に開けておいたのかもしれないが……。部屋に戻ることに関しては春日町さんがあの夜述べた通り、一階にいる者に見つかる怖れはない。客室の覗き穴から部屋の前に誰もいないことを確認し、素早く自分の部屋に戻ったんだ」
ようやく柚木は、最初の事件の解答を明らかにする。
「斬り落とされたばかりの死体と以前に斬り落とされた死体とを混ぜることで、あなたは自分のアリバイを確保した。三十分程度では、あれほど細かく死体を斬り離すことは出来ない、と。桜橋の上着が脱がされていたのも当然だ。既に死んでいる別人の身体は、細かく斬り離されている。服を着せることなど出来やしない」
柚木は、二人の説明では扱われなかった点を補足した。
「吊り橋を落としたのが翌日だったのも巧妙です。爆弾を用意してあるのだから、死体を取りに戻ったとき、吊り橋に仕掛けてくることも出来た。だが、桜橋が発見された時点では、翌日に警察が来て、死体を調べてくれるということをみんなに示す必要があった。好き好んで死体を、しかもついさっきまで生きて話をしていた桜橋の死体を、調べたい者などいるはずがないでしょう。けれど、最初の死体確認時に違和感を持たれることは避けなければいけない。そのため、桜橋の首を扉正面に向けて、誰も死体に触れることがないよう、大量の血液を死体に振り撒いた。状況が状況だけに、死体を手に取って確かめようとする者は、まず出ない。鮮血を撒き散らかしたのは、おれたちに死体を触らせない目的があるのと同時に、別の死体の変色を隠すためのものでもある。出来たばかりの桜橋の死体と数日前に殺された人間の死体では、死体現象の進度が異なる。見る人が見ればすぐに解るだろうが、死体を見慣れている者などうちの研究会にはいない。おれたちを騙すのには、それで十分だった」
草薙はもとより、ふゆみも口を挟むことなく柚木の話に耳を欹てている。
「血液素浸潤や腐敗網が見られるのは、個人差もあるが死後二日から四日にかけてのこと。けれどこの気候で雪の中に埋められていたのなら、死体現象は実際よりも遅く進む。別人の上半身と両腕は、上手く桜橋の身体と混ざり、一人の死体となった。桜橋の身体に下半身を残しておいたのは、下腹部から始まる腐敗性変色は隠しようがないからだ。死後一日以上経った死体では、腹部に変色が及んでいる。到底代用出来るものではない。あなたは、死体の変色を、血を撒き散らかすことで解決したんだ。……そしてもうひとつ、万が一誰かが死体に触れたときのために、窓を開けて冷房を入れておいた。部屋を寒くしたのは、桜橋の死体から体温を奪い、別人の死体との体温差を気づかれないようにするため。ミステリ的な装飾も幻想もない。桜橋の部屋にあったのは、自分の罪が見つからないようにと、犯人が残した醜い偽装工作の残骸だけだ」
柚木は草薙に言い放つ。
「あとはアリバイを作るため、一階に降りる。合鍵はこのとき管理人室に返しておいた。ラウンジにいた遠江さんがアリバイの証言者になったが、誰もラウンジにいなければ、厨房に来ておれたちの仕事を手伝えばいい。これで、草薙さんのアリバイが確保される……」
成程成程、と草薙が感心したように口を開く。
「その方法なら、確かに俺一人でも犯行が可能だ。しかしな柚木。そう都合良く、別人の死体など用意出来ると思うか。あいつらの身代わりに使うのであれば、大学生の死体を複数用意しなければならない。そんなものをどうやって用意する。あの山道、複数の人間の死体を持って登るのは無理だろう。だとしたら、生きている人間をこの山荘近くまで連れてきたことになるが、こんな辺鄙な山奥に連れてこられて不審に思わない人間がどこにいるというんだ。自分から殺されにきたとでも言うつもりか」
柚木の表情に変化はない。
「実際におれたちが来ているじゃないですか。不審に思うこともなく、こんな辺鄙な山奥の山荘に」
「……そ、それは、柚木君。私たちは、サークルの合宿としてきているからで……。普通、こんな、や――え? ってその、も、もしかして……」
ふゆみは途中で何かに気づいたように、表情を強張らせる。
「草薙さん、あなたは、奇術研究会の合宿を途中で終え、こちらの合宿へ参加したとのことだ。マジックよりミステリを取ったとも言っていた。奇術研究会の合宿場所というのは、おれたちミステリ研と同じ場所、この毬藻荘で行なわれたのではないですか?」
「草薙さん、あなたは、奇術研究会の方でも会長を補佐するような、そんな役割をしているのではないでしょうか。奇術研の合宿も、あなたが計画を立てて場所をここに決めた。奇術研というものがどんな活動をしているのかは知らないが、マジックの強化合宿とか、新しい手品の構想を練るのにぴったりの、自然に囲まれた凄く静かな山荘があるとか、そういったことを理由に挙げて誘ったのでしょうか。別に合宿でなくとも、都合がつく者同士、仲の良い数人で行く旅行といったものでも構わない。あなたが必要とする人間に声を掛け、仲間うちで行こうと誘えばいい」
柚木は草薙を一瞥するが、草薙からの反応は特にない。
「問題があるとすれば、その合宿は一週間程度行なう必要があり、それを承知してくれる参加者を集めなければいけなかったことだ。最悪、自分に都合の良い人間が集められないことも考えられるが、一連の事件のためにそこだけは譲れなかった。しかしこうして事件が行なわれたということは、奇術研の連中が、一週間の合宿を了承したということだろう。少なくともあなたは人に嫌われるような性格の持ち主ではない。そのような人の頼みで、春休みということもあり、一週間の合宿に付き合ってくれたのでしょう。あなたは、おれと違い協調性というものがある。それに他人と話すことにも慣れています。交渉次第で十分に可能だ。どんな台詞を使ったのかは、おれには見当がつきませんが」
「……で、でも、それって。奇術研とミステリ研が同じ場所に行くっていうのが、合宿前に誰かに知られちゃったら、どう考えても変だよ。春休みに同じ山荘へ行くっていうのは、おかしく思うよね?」
ふゆみが疑問を口にする。
「話が漏れるとしたら、双方の会員からです。だからそれは事前に確認しておいたはず。ミステリ研の連中に奇術研の知り合いがいないか、また奇術研の連中にミステリ研の知り合いがいないかどうかを。自分はどちらのサークルにも所属しているのだから、それとなく聞き出せばいい。授業かサークルで知り合うことがなければ、おそらく繋がりは発生しない。ユニバーシティであれば、なかなか大変な作業だが、うちのような文学部のみのカレッジであれば、指導教官やサークル顧問を頼ることなしに、自分で調べることも可能だ。その結果、双方に知り合いがいないと解ったから、奇術研の連中を利用することにしたんだ」
草薙は口を挟むことなく、楽しむかのように柚木の説明を聞いている。
「もし誰かに繋がりがあった場合、別の計画があったのか、他の場所で事件を起こしたのか、それはおれには解らない。……そして両方の合宿準備に取り掛かる。合宿の連絡は春休みになってから行なったんだろう。授業はないし、ボックスの場所も離れている。ミステリ研と奇術研の連中が遭遇することは、まずあり得ない。それに携帯電話を使えば、参加者が学校へ集まることもなく、旅行の計画を立てられます。そしてあなたは、奇術研究会の合宿担当として、メンバーの名前と共に毬藻荘での合宿をオーナーに申し込んだ。ただ、このとき奇術研、ミステリ研と、ふたつのサークルの合宿を同時に申し込むのは不味い。自分が両方のサークルに共通の会員であるとオーナーに解ってしまうし、変に疑いを持たれ兼ねない。だから、奇術研究会が合宿で一週間使用することにして申し込んだ。だが実際は、一週間の前半を奇術研、後半をミステリ研のメンバーで使用したんだ」
え、とふゆみが驚いて声を上げた。声こそ出さないが、これまで平静だった草薙も眉根に皺を寄せた。
「さっきも、あの……腕見て、一週間は経っていないって言ってけど、どうしてそう判断出来るの?」
「幾ら死体を雪の中に埋めておくとはいえ、死体現象を止めることは出来ない。そのために、奇術研の合宿からそう日が経たないうちに、ミステリ研の合宿を行なう必要がある。第一、奇術研の連中が参加してくれるのも、長くても一週間が限度だろう。それ以上の二週間や、三週間もの合宿に参加してくれる者はおそらくいない。しかし、自分が毬藻荘のオーナーを、奇術研の代表ミステリ研の代表として、二度訊ねるのは不審を抱かせるだけだ。かといって、遠江さんにでも申し込みを頼んだら、オーナーが世間話程度に、同じ大学の奇術研のことを話してしまうかもしれない」
柚木は少し間を空けて、話し始める。
「……それに、合宿終了後に鍵を返すのであれば、次の客が来るまでに清掃業者辺りを山荘へ寄越すだろう。奇術研が使用して、そのあとにミステリ研が使用するのであれば、その空いた期間に清掃やら設備の点検やらが行なわれるのは必然だ。それを避けるには、どちらかひとつの団体名で、両方の合宿を行なえる期間だけ山荘を借りなければいけなかった。だから草薙さんは、オーナーと奇術研の会員には奇術研究会が一週間の合宿を行なうと思わせ、おれたちには三泊四日の春合宿を申し込んできたと思わせる必要があったんだ。しかしその配慮のせいで、おれたちが来る三日前、この山荘に奇術研究会のメンバーが到着したという証拠が残ってしまった」
「証拠、だと?」
柚木の話を聞いてから、初めて草薙が声を荒げた。
「奇術研の連中かどうか定かではない。おれたちが知らないだけで、草薙さんが、奇術研、ミステリ研以外のサークルに所属していることも、何か大学以外の団体に所属していることも考えられます。なので草薙さんが連れてきた団体の……」
「柚木、そこはいい。続きを話せ」
苛立たった様子で、草薙が柚木を促す。
「証拠って、そんなものが……本当に?」
ふゆみも柚木の顔を見る。
「春日町さん、それはあなたも知っている。あの日、おれと一緒に夕食を作っただろう」
「え、うん、それは覚えているけど。それが一体……?」
「あのときおれは、貯蔵室で野菜の管理を見て、食材の扱いがぞんざいであると感じた。だから冷蔵庫の中を見ても、山荘を貸すだけであとのことには不親切なオーナーが用意させた材料なら、こんなものだろうと思って深く考えることもしなかった。だから、それらを早めに処理しようと夕食に出した」
「夕食って、ビーフシチューのこと? あと、サラダ……とフランスパン、それにオムレツも作ったんだったよね」
ふゆみが気づきそうにないので、柚木は自分で話すことにしたようだ。
「春日町さんにはあのときも言いましたが、牛肉と卵の消費期限が近過ぎるんだ。もともと、消費期限というものは製造日から五日間で期限を迎える食品に表示される。卵は何とか一週間は保つが、牛肉はものにもよるが三日から七日が限度だ。生物を用意するのであれば出来るだけ新鮮なものを揃えておいて欲しかったと、おれは調理しながら思っていたが、そうじゃなかった。加工日からすると、卵も肉も、用意されたのは三日前あるいは四日前。おそらく奇術研究会が訪れた日だ。だから、おれたちが夕食を作ろうとしたときには、鮮度が落ちていたんです」
柚木は、草薙が共に訪れた団体を奇術研究会と称して話すことにしたようだ。
「おれたちが山荘に着いた日の午前中、あるいは前日に食材が運ばれたのであれば、奇術研に対する食事の用意が全くないことになる。そんなことを、奇術研の合宿を決めた草薙さんがする訳にはいかなかった。機嫌を損ねて、奇術研の人たちに帰られることは不味いでしょう。つまり、おれたちが見たあの食材は、杜撰なオーナーが用意させたものではなく、ミステリ研より数日前に到着した、奇術研のために用意されたものだった」
「卵と牛肉……そういえば、そんなこと言っていたね」
とふゆみが呟く。草薙もはっとした顔で、小さく漏らした。
「冷蔵庫の中身、か……」
「草薙さんが気づいていたかどうかは知りません。だが、これは気づいてもどうしようもない。このような近くにコンビニもスーパーもない山奥の山荘では、食事に関してはオーナーに頼るしかない。おれたちが来る日に改めて食材を頼んでも良かったが、その場合、部外者が山荘に来る機会を増やすことになる。奇術研のときは、食材を持った業者が先に来ていようと、事件が起こっていないのだから不都合はない。しかしおれたちミステリ研が来る前というのは、奇術研のメンバーが殺されたあとだ。万が一という危険は避けたいだろう。それに、ひとつの団体で借りているのに、食材を二度頼むというのも不自然だ。量だけはたっぷり用意されていましたので」
少し間を取って、柚木は話し始める。
「かといって、生物全てを自分で用意するという訳にもいかない。奇術研、ミステリ研の団体でこの場所を訪れれば、あなたの姿は団体の中の一人に埋もれてしまうが、一人でいたら目立ってしまう。あなたは奇術研の合宿後に、一度S県に戻らなければならない。一人で行動するのは、そのときだけで済ませたかったのでしょう」
草薙は柚木を見据えて口を開く。柚木の話を聞き始めたときより、幾分表情が固くなっている。
「……柚木、仮にそこまではお前が言ったことが正しいとしよう。だが、やつらだって馬鹿じゃない。殺されるのを承知で山荘に来たのではないだろう。それに複数いる人間をそう簡単に殺すことが出来るのか。人を殺人鬼のように言うなよ」
「犯人と被害者の持っている情報に、違いがあったらどうですか。言い換えれば、合宿担当のあなただけはオーナーから聞いていたが、奇術研のメンバーには伝えていなかったことがあった。考えられるのは、合鍵の存在です」
草薙の抵抗に、柚木は反論を与える。
「あなたは奇術研のメンバーに、部屋の鍵はそれぞれに渡したものと、あとはオーナーが管理しているものしかないと伝える。合鍵の存在を知らない者たちには、合鍵のことを疑いようがない。しかし合鍵を隠し持っているあなたは、どの客室にも自由に侵入出来る。奇術研の連中に関して死体に装飾は要らない。ただ殺すだけでいい。客室に血痕を残さなければ、どんな方法でも構わない。安全なのは扼殺か絞殺、刺殺の場合は刃物で脅し、被害者を浴室に追い込んでから殺害したんだ。そこでなら血痕は洗い流すことが出来る。殺したあと部屋に鍵は掛けない。合鍵がない状況で密室にしたら、扉を蹴破って中を確かめられてしまう。そんな状況は、避けないといけません」
ですが、鍵を掛けて客室に閉じ籠もっているだろう人たちが殺されるのは、他の人から見れば犯人の入室経路が解らない以上、鍵が掛かっていないのに密室殺人が行なわれたという、奇妙な状況が現われます、と柚木は付け足す。
「そうして奇術研のメンバー、何人いたのかは解らないが、部屋数からして多くても十人いるかいないか程度でしょうか。全員を殺し終えたあなたは、死体を解体する。無論、桜橋の事件で使用するためだ。それらを袋に分けて雪の中に埋める。そのあと、被害者の客室を入念に調べて掃除を始める。特に、浴槽に血を流したのであれば厳重に洗い直し、匂いが残らないようにした。まあ、血痕については殺すときに十分注意を払っているでしょうから、その心配はなかったのかもしれませんが」
草薙は肩を竦める仕草をする。
「柚木、お前は大事なことを忘れている。奇術研と俺たちミステリ研が置かれている状況は違う。今は吊り橋が落ちたせいで外部との連絡を取れないが、奇術研の連中がここにいたときは吊り橋が掛かっていたはずだ。電話が使えないのなら、山道を降って外部に救けを求めるだろう。一人目が発見された時点で、ことは警察に知られる。警察が山荘を訪れている中、それ以上の犯行を続けるのは不可能じゃないのか」
「そ、そうだよ、柚木君。無理だよ……それは。人が死んでる……殺されてる、のを見つけたら、体力に自信のある人がいなくたって、必ず、誰か一人は、山を降りて報せにいくはず……」
ふゆみは不安そうに柚木を見る。
「勢いに乗っている草薙さんなら、一晩で全員を殺すこと、奇術研のメンバーが訪れた翌日、生きているのは草薙さん一人だけ、という状況を作るのも不可能ではないでしょう。そうすれば、死体を発見する人間も、警察に連絡する人間も現われません。多分、当初の予定では初日の夜から朝に掛けて、全員を殺すことになっていた。早めに殺した分、あとで休息はたっぷり取れます。しかし不幸なことに、いや、あなたにとっては幸いなことにでしょうか、図らずもこの毬藻荘は外界との連絡手段を閉ざされてしまった。あなたはその機に乗じて、殺人を三日または二日に振り分けた。殺す日が伸びれば、死体現象も自然と伸びる。桜橋の事件で、死体変色を誤魔化すのに利用しない手はない。もっとも、山荘に閉じこめられてしまったのですから、早めに殺したところであなたは山を降ることが出来ませんでした」
「と、閉じこめられたって、ど、どうして。吊り橋が……使えなくなったの?」
震えたような声でふゆみが言う。
「おれたちが閉じこめられたのは、吊り橋が落とされたからです。当然、この方法は先に訪れている奇術研には使えない。その方法を使ったら、草薙さんがS県に戻れないし、おれたちも山荘を訪れることが出来ない。奇術研の連中は、人為的に閉じこめられたのではありません」
「人為的じゃないって……。自然にって、こと?」
はっと何かに気づいたように、ふゆみは柚木を見上げる。
「え、もしかして……吹雪の山荘? 雪が酷くて、山を降りることが出来なくなったの?」
「そうだ。そのことについては、地元の者が証言している」
「え、地元? 柚木君、こっちに知り合いなんか、いたんだ。そんな話、いつしてたの?」
柚木は右手の人差し指でこめかみを押さえる。
「……思い出してください。話していたのは春日町さんと日吉、それに古庄だ。土産物屋の女性が言っていたでしょう。二、三日前、この辺りは大雪で商売どころではなかった、と」
「あっ! そうだ、言ってた。だから、みづきが遠江君をからかって……」
ふゆみはそのときの光景を思い出したようである。
「でも、何で柚木君が知ってるの? こっそり覗いてたの?」
柚木は、あれだけ大きな声で話していれば余程耳が遠くない限り聞こえますとふゆみに言い、草薙の反応を待った。
「吹雪の山荘、とはね。遠江のような物言いだな。しかし吹雪というのは自然現象だ。いつ治まるかの予想などつかない。ミステリ研の合宿日までに俺が山を降りられないことだってある。そんな不確定要素を計画に組み入れてどうする。ミステリ研の連中が山荘に来ないことになれば、奇術研のやつらを殺したことに意味がなくなる。まさか吹雪の治まる時間まで解っていた、というつもりはないだろうな」
草薙の言葉を、柚木は真正面から受ける。
「電話を壊さなかったのは……そのためです。電話を壊したり電話線を切ったりすると、あとから来たミステリ研の連中に言い訳が効かない。食材と同じく、新しい電話機と交換することは無理だ。電話を掛けさせないためには、電話線を取り外すという方法を使うしかなかった。それなら奇術研の連中に見つからないよう注意すれば、あなただけは電話を使える。電話を残したのは、天気予報や大雪警報などの状況を得るためと、吹雪が長引いたときに、外部と連絡を取る必要があったからだ。言うまでもないが、電話を利用するのは山荘の人間全てが部屋に戻っているときや、全員が殺されたあとのことです」
「外部って、警察じゃないよね?」
じゃあどこにと、ふゆみが問う。
「毬藻荘のオーナー、それに遠江さんだ。自分が管理する別荘で、しかも団体客が来ているときに山荘が吹雪に巻き込まれたのであれば、当然オーナーが連絡を取ってくるはず。ただ、オーナーからの電話を待つよりは、草薙さんが自分から電話を掛けた方が安全だ。吹雪いているが特別な心配はない、もし何かあれば連絡する、と。向こうから電話を掛けることだけはないように良く言っておく。この辺はあなたの手腕によるだろう」
あなたが言っていた、緊急事態にしかオーナーは山荘に連絡をしないというのが本当であれば、その点で心配は余りなかったのでしょう、と柚木は続ける。
「それに遠江さんとも連絡する手段を残しておく必要がある。集合時間や集合場所は事前に決めてあるとはいえ、こちらの天気が芳しくなく大雪警報まで出ているのを遠江さんが知ったのなら、まず合宿担当の草薙さんに連絡を取る。だが、そのときあなたはこの山荘にいる。遠江さんが幾らあなたの携帯電話に掛けたところで繋がらない。その不自然さを隠すため、あなたは遠江さんに、ミステリ研の合宿前に奇術研の合宿へ参加すると伝えておいたんだ。場所は違うが毬藻荘のように携帯電話の電波が届かないところだ。だから、何かあれば連絡は自分からすると。そうしておけば、遠江さんの連絡が奇術研との合宿中に掛かってきたとしても、事前に理由を聞いているので疑われることはない」
草薙は動揺することなく、柚木をじっと見ている。
「実際、吹雪は二日程で治まったようなので、遠江さんに電話を掛けることはなかったのでしょう。もし吹雪が長引いていた場合、天気予報が気になってオーナーに訊ねてみたが、毬藻荘周辺は大雪に覆われている、合宿の日にちを一日か二日遅らせた方が安全だとでも、遠江さんに提案すればいい。相手は自然災害なのだから文句も出ないだろうし、三日の予定が二日になったところで、山荘へ連れてきてしまえば、翌日に吊り橋が落とされるんだ。あとはどうにでもなる。おれたちが来たとき、既に電話線が取り外されていたのか、付け直してからまた外したのかは解らない。遠江さんも、見ただけでは解らなかったと言っていましたし」
柚木は長い説明に、ここで一度区切りをつける。
「……桜橋一人のために、八人の人間を殺すとは。随分な苦労をしたものだな」
八人という具体的な数字を草薙は口にした。
「しかし、その甲斐はあった。アリバイのために長沼は解答に至ることが出来なかったし、遠江さんもあのような状況でありながら、あなたのことを信用していた。あなたは誰に疑いを持たれることもなく、その後の殺人を続けていったんだ」
「あくまで俺が犯人だと言い張る気か。まあいい。話が途中だったな。残りの事件の説明を聞こうか」
草薙は幾らか冷静さを取り戻したようで、柚木に対する口調も落ち着いてきている。
「解りました。では、古庄の事件からいきましょう」
「桜橋のときと違い、スペアキーも古庄に渡してある。どうやったって、俺は鍵の掛かった古庄の部屋には入れない。まさか、合鍵はもう一組用意されていたなどとは言わないだろうな」
「そんな必要はありません。桜橋が発見されたあと、用心のためにと遠江さんがが言って、スペアキーが各自に配られました。そのとき既に、あなたの部屋のスペアキーと古庄の部屋のスペアキーが入れ替わっていたんです。桜橋の部屋の鍵を管理人室に返したときに、あなたはその細工をしておいたんだ」
「え、どういうこと。鍵を入れ替えるって、どうやって……?」
ふゆみが口を挟む。
「客室の鍵は、番号の付いたプレートが繋がっているもので、スペアキーも同じ作りだった。古庄の部屋の鍵には二〇一のプレートが、草薙さんの部屋の鍵には二一〇のプレートが付いている。鍵先の刻みを見てどの部屋の鍵かを判断することは難しい。古庄が、スペアキーを自分の部屋のものだと判断したのは、鍵に付いていたプレートが二〇一号だったからです。本物の二〇一のスペアキーは、二一〇のプレートを付けて草薙さんが持っていた」
「あ、そうか。それなら……」
一度は納得した趣だったが、ふゆみは何か引っ掛かりを覚えたようだ。
「でも、見分けがつかないってことは、しいなさんが自分の部屋を開けるとき、どっちの鍵を使うか解らないってことでしょ。最初に渡された鍵を使うか、偽物のスペアキーを使うか。それでスペアの方を使ったら、鍵は開かない。みんなに言って調べれば、草薙君がしいなさんのスペアキーを自分のものと交換したと、すぐに知られちゃうよ」
「それは別に構わない。そのときは古庄の殺される順番があとに廻されるだけのこと。いいですか、二人の鍵が入れ替わっていたというだけで、犯人として疑われることはあり得ません。遠江さんも長沼も、そんな単純に結論づけない。それに、もし疑われるのだとしたら、アリバイのない古庄の方だ。古庄が鍵を入れ替えて草薙さんを殺そうとした、と。鍵のすり替えが見つかった場合、この仕掛けはもう使えないから、別の方法を用いたことでしょう。けれど古庄は鍵のすり替えに気づかなかった。二分の一の確率で、彼女は最初に渡された自分の部屋の鍵を使った。そして草薙さんは、夜中に古庄の部屋に侵入した」
古庄の殺害された場所、解体された場所については、春日町さんが先に述べた通り、再度桜橋の部屋を利用したのでしょう、と柚木はふゆみに顔を向けて言う。
「草薙さんは、解体した古庄の身体と、吊り橋のロープを切り込む刃物、切断に使われたと見せる包丁、それに離れに仕掛ける爆弾など、必要な道具を持って山荘を出る。離れの鍵は管理人室にありますから、容易く持っていくことが出来ます。もしかしたら、離れへは一度客室に戻ってから行ったのかもしれませんが。ともかく、草薙さんは足跡を偽装しながら吊り橋へと向かう。母屋から吊り橋までの足跡に細工があったのは、単純に自分の足跡を隠すため。他人の靴を穿いたところで、慣れない靴の不自然さはどうしても出てしまう。だから、あえて自分の靴を穿き、それを隠すという方法を取ったんだ。古庄の身体を斬り取ったのは、持ち運びやすくするため、という春日町さんの推理は合っていました。残念ながらそのあとが違う」
そのあとが……? とふゆみは繰り返す。
「死体を解体したのは、同一犯の犯行であること、包丁が凶器に使われたことを印象づけるため。そして、古庄の身体を向こう岸に放り投げるためだ」
「な、投げる? そんな……」
ふゆみが頓狂な声を上げる。
「谷幅は十五メートル程度。決して無理な距離じゃない。雪は一面に積もっている。これを固めて投げれば、練習はいくらでも出来ます。それに、必ず向こう岸へ届けないといけないのは、古庄の首だけだ。あとの部分は代用品がある」
柚木は傍らの紙袋に目を向ける。
「古庄の身体だとはっきり言えるのは、首と、上着を着ていた上半身も、おそらく本人のものだろう。正確には、服を着ていたのは胸部です。腹部や腰部といった具合に、投げやすいサイズにしておいたのでしょうか。あとの部分は推測するしかありません。古庄の身体を投げたのか、別の女性の身体を投げたのか。谷底へ落ちてしまったものもあるだろう。全部を同じ場所に投げることが出来れば理想的だったが、さすがにそれは難しかったのでしょう。投げられた身体は、橋桁に残ったものや、向こう岸まで届いたもの、首の周囲に散らばったものと、ばらつきが出てしまった。しかしそれだけで疑惑を持たれるといったものでもない。血痕に関しては、本物か偽物かは解りません。雪に赤い液体を混ぜて、それを向こう岸に放ったのでしょう。そのようにして、あなたは吊り橋を渡らずに、向こう岸で解体されたように見える死体を作り上げた」
「長沼の言った通り、草薙さんには足跡のない殺人を見せつける気はなかった。同一犯であることを示すために古庄の身体を切断することや、夜中のうちに吊り橋のロープを傷つけることだけは決まっていた。翌朝見つけるのは、ロープが切れて落ちてしまった吊り橋と解体された古庄の死体、基本的にはこの状況になる予定だった。要は古庄が桜橋と同じ犯人に、同じ凶器で解体されたと示せれば、他にどんな要素が加わろうと構わなかったのです。だから古庄を殺したあとで、雪が降っていないことに気づいたあなたは、この状況をついでに利用しようと考えた。上手く行けば不可能犯罪が強調されて、更に恐怖心を煽ることになる。もちろん、雪が降っていれば足跡のない殺人の装飾など出来ません。しかし仮に朝までに雪が降り、足跡のない殺人という要素が消えてもどちらでも良かった。古庄が橋の向こうで解体されていることだけは示せます」
柚木は足跡の説明から橋の説明に移る。
「吊り橋についても同じことが言えます。夜中のうちに橋が落ちなければ、翌日に古庄を確認に行く人間か、警察に報せに行く遠江さんが吊り橋と共に落ちることになる。遅かれ早かれ、吊り橋は落ちることになっていた。荷重が掛かったらすぐにでも落ちてしまうくらいに、ロープは切り刻まれていたのでしょう。幸い、夜中に強風が吹くこともなかったのか単に耐えることが出来たのか、偶然にも、ロープに切り込みの入った吊り橋は、翌朝まで無事だった」
傍目には草薙の表情に変化はない。柚木の説明を黙って聞き続ける。
「結果、これらは見事に上手く行き、橋の向こう側で解体された古庄、足跡のない橋桁、吊り橋と共に落ちていく御門台さんと、これまでにないくらいの光景を印象付けることになりました。ロープに関しては、不確かな要素がありますから、こちら側の橋桁の裏に爆弾を用意しておいたことも考えられます。間違っても、誰かに山を降りられる訳にはいきませんし。ですが吊り橋が落ちた今となっては、確かめようがありません。そのあと、離れに爆弾を仕掛けて、窓から投げ捨てた桜橋の身体を回収します。懐中電灯の光が漏れないように、十分な注意を払って」
では御門台さんの事件に移りましょう、と柚木の説明は先に進む。
「橋の向こう側に古庄の死体を発見して、御門台さんが橋を渡る。どうして御門台さんが、ということは考えても仕方のないことでしょう。古庄の死体を向こう岸に置いておけば、必ず御門台さんが橋を渡るとは限りません。あのとき最初に動いたのが、たまたま御門台さんだったというだけだ。草薙さんの仕掛けた吊り橋に荷重が掛かり、御門台さんは吊り橋ごと谷底に落ちてしまった。御門台さんの事件は、これだけのことです」
「ま、待って。そ、それで終わりじゃないでしょ。御門台君の身体がA川で発見されたっていう、理解しにくい出来事が、起こったじゃない」
ふゆみは声を張り上げるが、柚木は平然としている。
「あれは御門台さんではない。誰か別の人間だ」
「えっ?」
ふゆみの声に掻き消されてしまったが、草薙も小さく声を上げたようだ。柚木を見る目が険しくなる。
「難しく考えることはありません。事実だけを見ればいい。御門台さんは首を斬られることもなく下流に流されたと考える方が自然だ。テレビ放送に作為があった、川が逆流していたなどと考える方に無理がある。報道番組に作為はないでしょう。あのときリポーターは、S**大学の学生手帳と毬藻荘春合宿の栞を持つ人間が、A川の畔で見つかったと言っただけです。御門台さんである必要はない」
「そ、それじゃあ、偶然、ってこと? 御門台君が橋から落ちたあとに、この付近でS**大学の学生が見つかった、っていう」
ふゆみは柚木の言うことをすんなり受け止めることが出来ないらしい。
「で、でも、合宿の栞を持ってたってことは、どうなるの? あれは一人一部しか配ってないんだから、伊豆さんや、入江岡君、まゆみちゃん、の誰かってことはないよね?」
「その可能性も、ない訳じゃない。合宿不参加の誰かが被害者であるのなら、殺されたのは合宿の栞が配られたあと、ここ二週間の間だろう。それが誰かを判断する材料は、ここにはありません。それに、毬藻荘、春合宿とリポーターは言っていたが、それが必ずしもおれたちが持っているものとは限らない。例えば、来年の春合宿を毬藻荘で行ないたい、などという走り書きをした紙を被害者が持っていただけかもしれない。S**大学の中で、毬藻荘のことを知っているのが、おれたちだけということもないだろうし。この件についての、明確な判断は出来ません」
……そう。と言ってふゆみは残念そうに目を伏せる。ただ、飛躍したものでいいのなら、考えはあります、と言って柚木は草薙に声を掛ける。
「草薙さん、A川で見つかった死体というのに、もしかしたら心当たりがあるのではないですか?」
「ど、どうしてそう考える?」
冷静を装おうとした草薙が言葉を詰まらせた。
「合宿の栞を一人に一部しか渡していないというのは、草薙さんの言葉でしかない。伊豆さんや、入江岡さん、あるいは清水のうち誰かが殺されたのではなく、あなたが合宿の栞を渡した別の誰かが殺されたのではないか、そう思っただけです。余ったものは処分したと言っていましたが、その中から一部を別の人間に渡していたのかもしれません。例えば来年度に入会を考えている学生に渡したとか、いつか毬藻荘で合宿を考えている学生に参考までにと渡したとか。……でも、奇術研とミステリ研にあれだけ注意を払う草薙さんが、そんな危険を増やすようなことをするはずはありません。見当違いでしょう、やはり」
草薙は目を逸らさないよう、柚木をじっと見ている。
「ただ、もしあなたが栞を一部誰かに配っていた場合、報道番組が流れたあとにそのことを告げても、何が変わるということもありません。合宿不参加メンバーが殺されたのかもしれない、の中に草薙さんの知り合いが殺されたのかもしれない、ということが混ざるだけです。もし草薙さんがそのことを故意に隠したとすれば、A川で発見された人物は草薙さんと深い関係のある人か、あるいは草薙さん自身が殺した人なのではないか、と考えたのです。けれど草薙さんが一部を別の誰かに配っていようとなかろうと、その判断はここでは出来ません。御門台さんとは関係のない事件ですから解く必要はない、いや、解くことは出来ないのでしょう」
柚木は何かを考えるように黙ったあと、再び口を開く。
「それに、もし草薙さんが犯人であるなら、手際が悪いとしか言いようがありません。いくら鄙びた地域だろうが、首を斬り落としていようが、身元を示す学生手帳に、合宿の栞まで残していたら、警察に身元を明らかにしてくれと頼んでいるようなものです。逆説的ですが、この事件に関しては、あなたが犯人ではないでしょう。警察が捜査に乗り出しているようですし、間もなく解決するはずです。毬藻、合宿の二文字から毬藻荘のオーナーを訊ねるかどうかは解りません。しかし警察がオーナーに連絡を取るようであれば、ことは人の死に関係しています。宿泊客たちの話も聞いておこうと考えるのも妥当なところでしょう。春日町さん、早ければ明日か明後日には、警察関係の人たちがこの山荘の様子を見に来てくれる可能性はあります」
柚木が最後の台詞をふゆみに向けて言うと、彼女は顔を綻ばせた。
互いを見ている二人は気づかない。声こそ出さないものの、膝に置いた草薙の右手は、爪が食い込む程に固く握り締められていた。
残りの事件に取り掛かります、そう言って柚木は草薙に向き直る。
「日吉は、あなたが事前に仕掛けておいた爆弾によって殺された。もちろん、日吉以外の人間が自棄を起こして離れに行くことも、誰も離れに行かないことも考えられる。運悪く引っ掛かったのが日吉だった、というだけの事件です」
長沼のことはもういいでしょう、二人の説明と同じです、と柚木は少しだけ顔を伏せた。
「最後の遠江さんについては、それほど難しくなかったのではないでしょうか。あの人の性格からして、こんな状況であっても、誰かが訪ねてくれば部屋の中に入れたような気もします。ですがあえて方法を推測するなら、西端の二〇一辺りに隠れて、扉を少し開けておく。遠江さんが二階へ上がってくる足音が聞こえたら、扉を閉じて覗き窓から様子を窺う。通り過ぎたあとに廊下へ出て、遠江さんが自室の扉を開けた隙に、あなたは部屋に侵入する。そして包丁でひと突き。といった具合でしょうか。食堂で行なったら、階段や二階の廊下に血痕が残る怖れがある。あなたは最後まで、万が一にも疑われるかもしれない要素は取り除いておきたかったのでしょう」
「遠江君が、首を……斬られていなかったのは?」
ふゆみが小さな声で言う。
「理由がないからです。桜橋、古庄のときは、身体を斬り離す必要があった。御門台さんは首など斬られていませんし、遠江さんの首を落とす理由は何もない。意味のない装飾や工作を、草薙さんは行なわなかった」
「そういう、こと……だったの」
柚木の長かった解答編もようやく終わりに近づいた。
草薙は口を利かず、ふゆみも黙っている。わずかばかりの間、ラウンジに静寂が訪れる。再び柚木が口を開く。そして、組み上げた論理が導いた事件の真相を明らかにする。
「草薙さん、あなたがこの山荘で行なったのは、連続殺人事件なんかじゃない。毬藻荘を舞台にした、連続連続殺人事件だったんだ」
第二章 解答編、その後
五 冷たい方程式
毬藻荘連続連続殺人事件――。
柚木が示した一連の解答に対して、草薙が口を開く。従来通りの低くしっかりした声である。
「いやいや、どうして。面白い。お前の仮説。長沼の買い被りかと思ったが、そうでもなかったようだ。俺が犯人か、一応筋は通っている」
「それは自白ですか」
口許を緩め楽しそうに話す草薙に、柚木は真剣な顔つきで訊ねる。
「いいか柚木、結局はお前の解答も、先に春日町や俺が話した推理と同じだ。もしかしたらそうだったかもしれない、という程度の可能性に過ぎない。まさか牛肉の消費期限が動かぬ証拠だと言うつもりはないだろう」
「……そうですね。あなたが犯人だと証明する明確な証拠は存在しない。残念ながら、おれはあなたを追い詰めることは出来なかった」
「ゆ……柚木君……」
顔を伏せる柚木を、心配そうにふゆみが見つめる。
「惜しかったな、柚木。しかし、それでも良く考えた方だろう」
草薙は不適に微笑む。
「ええ、おれ一人だったら、ここで終わっていたでしょう」
「何、だと?」
顔を上げた柚木に対し、草薙の相好が歪む。
「トリックを暴いたところで、犯人は泣き崩れたりしない。長沼が教えてくれましたよ。犯人を自白に追い込むには、推理を聞かせるだけでなく、その先を考えなければならない」
柚木はズボンのポケットから白い紙を取り出して、二人に見えるように翳す。
「あなたが作った合宿の栞です。当然、このようなものを残したくはなかったが、下手に怪しまれるのは避けたかったからでしょう。例年の慣習通り、合宿担当のあなたは栞を作るしかなかった。ここに、毬藻荘の連絡先が書いてあります。何か疑問点があれば、誰にしてもあなたに連絡を取るはずだ。直接オーナーに掛けられる心配はなかったのでしょう。もしかしたら、山荘の名前も電話番号もでたらめということも考えられますが、この地域にある吊り橋の向こう側の山荘、とでも言えば地元の人には通じるでしょう。問題はありません」
「な、何が、言いたい……」
草薙の焦燥を感じ出したような態度に介することもなく、柚木は取り出した紙をゆっくりとポケットに仕舞う。
「おれは、あなたが宿泊を申し込んだときに作為があったと考えています。一連の事件を起こすため、ミステリ研の名前では借りなかったと。あなたが犯人でないのなら、それを隠す必要はない。おれがオーナーから何を訊こうと、支障はないはずです」
「は……馬鹿な。電話も使えないのに、どうやって連絡を取る気だ」
「いえ、電話は使えるんです。これを繋げば」
柚木が紙袋の中から取り出したのは、何重かにして丸く巻かれた灰色のコード。それは、管理人室から消えたとされる電話線だった。
え、なんで、どうして、柚木君が、とふゆみは目を丸くしている。
「草薙さん、あなたは奇術研のメンバーがいたときには、電話を壊すことが出来なかった。それはさっき言った通りです。しかし、ミステリ研が山荘に着いてからなら、電話を壊しても構わなかったはずだ。それなのに、あなたは何故か電話線を取り外すという方法を採っていた。……それは、保険だったんじゃないんですか。万一、取り乱して自棄になった誰かによって、自分が深い傷を負ったとき、すぐに救助を呼べるように。これだけ残虐な犯行をしておきながら、あなたは自分が死ぬことを怖れた。計画が成功するかどうかよりも、第一に自分が死なないということが前提にあったんだ。だからあなたは電話を壊さなかった。あるいは、何らかの形であなたが殺したい人間を全て殺す前に警察がここを訪れた場合の、交渉用に連絡手段を残しておいた。まあ、こちらの可能性は薄いでしょうが」
草薙の柚木を見る顔は硬直し強張っている。
「いずれにしろ、電話で連絡を取るためには、電話線が無傷でどこかに保管されているはず。雪の中土の中では使うべきときすぐに取り出せない。かといって、他の者に見つかるような場所では駄目だ。結局のところ、客室の荷物の中に隠しておくのが、もっとも安全だ。あなたはラウンジに集合したあと、自分の考えた真相を話しておれたちを丸め込むつもりだったんだろう。上手く行くはずだと思い、気が緩んでいたのか、客室に鍵を掛けることなくラウンジへ降りていった。オートロックじゃないのが幸いでした。あなたがいなくなったのを自分の部屋から覗き窓で確認し、おれはあなたの部屋に入った。そして、荷物の中からこの」
柚木は電話線を握り締める。
「コードを見つけることが出来た。上手く行ったからいいものの、ほとんど賭けでした。あなたが肌身離さず持っていることも考えられましたし、鍵を閉められていたら、扉を蹴破るしかなかった。しかしそれはおれには難しい。物音を立てて草薙さんにばれたら、どうしようもなかった……」
柚木は、正面の草薙をじっと見据える。
「おれの運を使い切ったかもしれないが、綱渡りは成功した。どうですか、草薙さん?」
最初はくぐもった声を出していた草薙だったが、やがて箍が外れたかのように大声で笑い始めた。怯えた目で草薙を見るふゆみは、更に離れようとして柚木に近づく。
「はん、まさかな。ここまでお前がやってくれるとは、思わなかったよ……。頃合を見て、犯人自ら解答編を行なう、という趣向を用意していたんだがな……」
ふゆみが驚愕に目を見張った。草薙は依然と笑い続ける。
「……それは、予想していましたよ」
柚木の台詞に草薙の表情が固まる。
「あなたは、おれか春日町さんのどちらかを犯人に仕立てるのだろうと考えていました。けれどあなたの解答は、生き残った者に犯人はいないというものだった。しかし三人が無事に山を降りたとしても、自分が警察に捕まることは免れない。あなたはその前に、自分がやったことを誇示しておきたかったかったんだ。おれたちが安心したあとに、真相を告げれば、一度不安が取り除かれただけに、一層の恐怖を煽ることが出来る」
「全く、驚かせてくれる……。お前がここまでやってくれるとは……」
ふゆみは柚木と草薙を交互に見遣る。
「じゃ、じゃあ……本当に? 本当に、奇術研究会の人たちも……遠江君や、みづきたちも……」
「ああ、本当だ」
草薙が自ら、ふゆみの問いに答える。自白だった。
「そんな、無茶なこと……。人、一人殺すのだって……上手く行くかなんて、解らないのに。そんな、続けて、何人も、なんて……出来るはずがないよ……」
明らかになった真相を信じることが難しいのだろう。ふゆみは、詰まりながらも必死で否定の言葉を紡ぎ出す。
「春日町さん、確率はあくまで確率だ。成功する確率が十割でない以上、失敗は必ず存在する」
柚木が淡々と述べる。
「確率で考えたら、こんな事件を起こすのには並々でない困難を伴う。ここまで事件が続いたのは、運というよりも勢いだろう。一人目を上手く殺せた、それなら二人目も上手く殺せるはずだ。二人目が殺せたなら、三人目も殺せるはずだ、と。勢いは、今後も上手く行くという自信に繋がる。勢いがあるうちに続けて行なうのも、ひとつの方法じゃないのか」
「……そんな、そんな、こと、が」
事実を受け入れられないふゆみに、柚木は話の方向を曲げる。
「譬え話をしよう。重い病気を持った患者がいる。この病気を治すことの出来る医者は世界に二人しかいない」
いきなりのことに、ふゆみは途惑いを隠せない。
「解りやすいように、二人の医者がこれまでに受け持った患者の数を十人とする。一人は受け持った患者のうち、七人の手術を成功させ、もう一人は三人の手術を成功させた。春日町さん、あなたがこの患者だとして、どちらの医者に手術を頼みますか?」
「そ、そんなの、七人救けている方に、決まってるじゃない。七割か三割の、どっちを選ぶって、こと、なんだから」
「確率で考えた場合は、そうだ。しかし、七割の医者は最初の七人は成功させたが、残りの三人は失敗している。一方、三割の医者は最初の七人は失敗したが、最近三人の手術には成功している。こういう状況だとしたら、どうです。確率ではなく勢いで考えれば、三割の医者がこのまま勢いに乗って次の手術も成功するだろう、と考える患者もいるのではないですか」
ふゆみは何も言い返すことが出来なかった。突然聞こえた拍手の音に、ふゆみは顔を向ける。その音を立てたのは、草薙だった。
「なかなか上手い譬え話だ。大筋は間違っちゃいない。だが、勢いなどというものとは違う。俺の目的、ふゆみに対する想いが、この事件を成功させたんだ」
「柚木、お前はさっき、俺が傷を負ったときに救助を呼べるよう、電話線を残しておいたと言ったが、それは違う。あれは、もし御門台や長沼といった連中が、とち狂ってふゆみを傷つけてしまったときの用心だ。ふゆみだけは死なせる訳にはいかなかった。ふゆみが死んだら、俺のすることに意味がなくなる。その場合、事件は途中で頓挫してしまうが、仕方ない。医者を巻き込んででも、目的を優先させるつもりでいた」
ふゆみと柚木は怪訝そうな顔をする。
「な、何……いきなり。何を、言ってるの?」
「ふゆみ……?」
ふゆみは急に自分の名前を呼ばれたことを訝しんだようだが、柚木は咄嗟にそれが誰の名前なのか思い出せなかったふうである。
「ふゆみ、俺は君に想いを伝えるため、俺の想いを君に残すために、この事件を起こしたんだ。十五人だろうと何人だろうと、君のためなら何でも出来ると信じていた。必ず成功すると思っていたよ」
草薙はふゆみの顔を真っ直ぐに見据える。
「十五人……? A川の死体も、やはりあなたが」
柚木が人数の違いに気づく。草薙は顔をふゆみに向けたまま、目だけで柚木を見遣る。
「杜撰な犯行で、悪かったな……。お前の言った通りだ。学生手帳に栞まで残して……水辺だから良かったようなもの。あいつが昨日見つかったとは……恐ろしいものだな。……しかし天は俺を見捨てなかった、俺の想いがあらゆるものに打ち勝ったんだ」
草薙に平静さは欠片もなくなり、高揚した調子で話し続ける。
「ちょ、ちょっと、さっきから何を言ってるのよ……。わ、私がなんで、こんな、こんな事件に、関係あるのよ……」
ふゆみは恐怖のためか、声を震わせる。
「ふゆみ、君の気持ちは解る。全てを捨てて出ていった以上、村の人間にはもう頼れないだろう。だが俺は違う。俺は村を出ていってからも、いや、その前からずっと、俺は君のことを忘れたことなどなかった。俺はずっと君のことを想っていたよ。君だってそうだろう。あの日、君が兄さんの葬式へ訪れたときに、わざわざ俺に会うために来てくれたときに、俺は確信した。君も俺と同じ気持ちだと。だから、あのとき俺は誓ったんだ。どれだけ遠く離れていようと俺の想いは離れない。心はいつでも君と一緒だと」
「わ、解らない……。な、何を言ってるの? わ、私には、あなたが何を言っているのか、全然……解らない」
喚き立てるふゆみの様子に、しばし呆然としていた草薙だが、じきに得心が行ったような顔つきになる。
「成程……君が疑うのも当然だ。あの日から、もう六年も経つ。けれど俺はあの日の、君の温もりを覚えている。君のことをいつだって感じている。俺は君と会った日から、俺たちが小さかったときのことから、君と一緒だった日々を、取るに足らないような些細な出来事でも、俺は全て覚えている」
そう言って。幸せそうに微笑んだ。
草薙はもはやふゆみしか見えていないようだった。柚木の存在など忘れたかのように、ふゆみだけを見続ける。
「それなら証明しよう。俺がふゆみのことをどれだけ想っていたかを。いつだって君のことを考えていたことを。それを知れば、きっと君は、俺の想いを受け入れてくれるはずだ」
草薙は語り始める。男の子と女の子の物語。少年と少女の物語。そして彼と彼女の物語を。
六 しあわせの理由
二人は草薙の長い話を聞き続けた。
「君が残した最後の手紙、新しい住所も連絡先も、何も書かれていなかった。君が目指すと書いていた大学、それだけが俺のよすがだった。だけど、君が目標に向かって進む以上、俺は必ず、君に会えると信じていた」
ふゆみは話の途中で何度か口を出そうとしたが、草薙のこれまでと違う態度を怖れてか、結局何も口にすることが出来なかった。隣の柚木も何ら行動を起こすこともなく、草薙がふゆみに語る物語に耳を澄ましていた。
「そして俺は、再び君と出会った。奇跡なんていうものじゃない。俺と君は以前のように、また仲良く過ごせるはずだったんだ。零からやり直したいと、君は手紙に書いていた。そのため、俺と大学で会ったときは、多少ぎこちなかったが、仕方のないことだ。知っているのに知らないように、初めて会ったかのように、振る舞わなければいけなかったんだから。しかし俺は君の手紙を、君の書いた文字を知っている。君の書いたノートを見て、君がわざと俺を避けているのだと、俺には解ったんだ。別に俺を相手にそんなことをする必要もないが、俺も村の人間だった。君はおいそれと、俺を頼ることは出来なかったんだろう。君が先へ、未来へ向かって進んでいるのが解ったから、過去の話を持ち出す必要はなかった。それに俺には、俺たちには、二人で過ごした共通の思い出がある。君がそれを口に出さなくとも、想いは同じはずだ。そう、同じはずだったのに……」
草薙はここで一度話を切り、ふゆみの顔を改めて凝視する。
「だけど君は。ふゆみは。俺を見ていなかった。何かといえば遠江、遠江だ。あいつは、君が考えているような奴じゃない。遠江は君のことを何とも思っちゃいなかった。ただ同じ大学ただ同じサークルのメンバー、それだけだ。あいつと違って俺は昔からずっと、今だって君を想っている。君だけを想っている。言ってくれれば、俺はいつでも君の傍にいることが出来るのに。なのに君の目に、俺の姿は映っていなかった。君は、いつになっても俺を振り向いてくれなかった」
「く、草薙……君。む、無理だって、ちゃんと……言ったじゃない。わ、私は……他に、好きな……人が、いるから……。だから、ごめん……って」
ふゆみはびくびく身体を震わせながら、必死で声を搾り出す。
「そ、それに、あのときも……言ったけど、わ、私は……この大学に来てから、初めてあなたに、会ったの……。村がどうのこうの言われても、何のことか……全然解らない」
「そう、君は昔から強情で一途だった。自分の意見を途中で曲げたりしない。こんな状況でも意地を脹れるのは、相変わらず君らしい。その性格はちっとも変わっていない。君が言った目標、自立するという、自分独りで生きていけるようになるまでは、君は村のこともそれに関係することも、一切口を利かないだろう。だが、今ので解ったはずだ。俺の君に対する想いは、今も繋がっている」
草薙は、またしても声を出して笑う。
「結局、思い出というものは、ときが経てば消えてしまう。俺が覚えていたことも、ふゆみはほとんど忘れていただろう。いや、忘れようとしていたんだ。だから、改めて聞かされて、そんなに驚いたような顔をする。俺はどうしても君に伝えたかった。遠江なんかじゃない。君の中に、俺の気持ちを残しておきたかった」
ふゆみは、縋るように柚木の袖を引っ張る。柚木は一度ふゆみを見て、視線を草薙に向けた。
「草薙さん、こんな事件を起こしてまで、あなたは春日町さんに何を求める? おれと付き合わなければ殺すとでも言うつもりですか。……やれやれ、随分遠廻りな告白もあったものですね」
柚木はわざとらしく肩を竦めてみせる。草薙はその声で、この場に柚木がいることを思い出したようだ。
「茶化すなよ。柚木」
ぐっと柚木を睨み付ける。柚木は目を逸らさない。しばし互いは睨み合う。埒が明かないと考えたのか、先に草薙が目を離した。
「付き合おうが結婚しようが、そのようなことに意味はない。何をしようと何をやろうと、思い出さなければ全てが消え、なかったことになる。記憶も思い出もなくなれば、生きていたこと自体がなくなる。生まれたことすら消えてしまう。俺の兄がそうだった。俺に兄はいたはずだ。一緒に暮らしていたはずだった。なのに兄に関する記憶も思い出も、何も残っていない。残ったのは兄の名前だけだ。それ以外はみんな消えた。父も母もそうだ。俺の家族に始めから兄はいなかったことになっていた。そのとき解ったんだ。俺がふゆみに想いを伝えるのであれば、簡単に忘れられるようなものでは駄目だ。ふゆみがこの先ずっと、いつまで経っても俺のことを覚えているようなものでなければいけないと」
「だから彼女のために、彼女の記憶に残すために、こんなにもたくさんの人を殺したのか」
強い口調で柚木が言う。
「先走るな。俺の目的は……この先にある」
草薙はソファに座ったまま身体を屈ませる。テーブルの下かソファの下に隠しておいたのだろう、起き上がったその手に折り畳み式のナイフが握られていた。草薙は刃を起こし、切っ先を柚木とふゆみに向ける。
「ふゆみ、君は人を殺したことがあるかい?」
がらりと口調が変わり、優しそうな声で問い掛ける。
「あ、ある訳、ないじゃない。そ、そんなこと……」
ふゆみの答えに、草薙は満足そうな顔を見せる。
「……君に俺を殺させる。それが俺の求めるものだ」
「君が遠江や他の誰を見ようと、この先誰と暮らそうと、そいつらのことをずっと覚えていられる訳ではない。想いは消える。記憶とともになくなっていくんだ。しかし俺は違う。俺は、君が殺した初めての人間になる。初めて殺した人間の記憶など、そう簡単に消えることはない。それは俺が経験済みだ。他の奴等は何ともないが、あいつの、姿、声、匂い、流れる血の色も、首を斬り落とした感触も、全て俺の身体に染み付いている」
柚木の草薙を見る目つきが鋭くなる。
「君が俺を殺すことによって、俺の想いは君に届く。他の奴など関係ない。君のために十五人も殺した俺の、君のことをずっと愛していた俺の、君が初めて殺した俺の、この俺の記憶が、ふゆみの中で永遠に残る。……俺の想いは、とこしへに繋がるんだ」
「や……やだ……そ、そ……」
ふゆみは凝然と目を見開く。滑らかに話すことが出来ない。堪えていた涙が溢れ出して頬を流れる。
「ふゆみ、こっちへ来るんだ。長沼の自殺は予定外だったが、君も見ただろう。俺は君にナイフを渡す。あれと同じことをすればいい。首の、ここ、動脈を一気に切り裂くんだ」
草薙はナイフを持っていない方の手で、首筋を押さえる。
「……草薙さん、あなたが賢いのかそうでないのか、いまいち解らない」
柚木が呆れたように口を挟む。
「そんな話を聞かされて、はいそうですかと頷く人がどこにいます。あなたが話したことによって、あなたの目的とやらは叶わなくなったんだ」
「馬鹿はお前だ、柚木」
草薙はナイフを構えたまま立ち上がる。
「俺が、どうしてお前を最後まで生かしておいたと思う。別にお前の推理が聞きたかった訳じゃない。本来、真相は俺自身で伝えるつもりだった。お前の死体に合うような、小柄な男が見つからなかったことや、お前が殺されたところで連中に与える印象は弱いだろうという理由もあった。ただサークルにいるだけで、特別誰と仲が良いということもないからな」
草薙はふゆみを横目で見て、柚木に近づいていく。
「初日の夜にしても、桜橋の身体を切断して死亡推定時刻を逆算しましょう、だ。普通の人間が考える発想じゃない。他の誰もがそう感じたはずだ。しかし、改めて桜橋の死体を調べられていたら、俺の計画があそこで割れていた可能性はある。これについては、ふゆみに感謝したよ」
草薙はナイフを持ったまま柚木の前に立つ。ふゆみは慌ててソファから立ち上がり、逃げ出そうとした。だが、柚木が動かないのを見て、柚木が座るソファと食堂の扉との間で立ち竦んでしまう。
「……お前を残したのは、何の障害にもならないからだ。俺がここでナイフを奪われたとしても、相手がお前なら簡単に取り返せる。いや、貧弱で体力もないようなお前が相手なら、素手で十分だ。お前に出来るのは、ミステリを読むことくらい。俺の暴力に、抵抗する手段を持たない」
「……それは、認めるしかない」
柚木は、草薙の言葉をあっさり肯定する。
「お前に言われなくても、ふゆみが素直に従わないだろうということは解っていた。だから俺は、人質としてお前を残した。桜橋や古庄の身体を切断したのには、もうひとつ理由がある。それは、俺の言葉が脅しではない、無惨に殺すことを躊躇わない人間であると、ふゆみに教えるためだ」
「……え?」
ふゆみが声を上げたときには、草薙の身体が前に傾き、柚木が苦痛に喘いでいた。
柚木はソファから放り出されるように前のめり、左手で頬を押さえたままテーブルに俯せる。頬を押さえた指の間から鮮血が溢れ、テーブルにカーペットに赤い染みが広がる。
「ゆ、柚木君!」
草薙を気に掛ける間もなく、ふゆみは柚木に駆け寄る。
「ね、ねえ、ちょっと。だ、大丈夫? しっかりしてよ。ねえ!」
「安心しろ、ふゆみ。殺したら人質にならない」
草薙の持つナイフに、柚木の血が滴る。
「だが、ふゆみ。君の決断が遅くなればなる程、柚木の傷は深くなる。目が見えなくなるか、耳が聞こえなくなるか、あるいは一生口が利けなくなるかもしれない。しかしそれも、君の行動で決まる。逃げたところで、結末は変わらない」
草薙はふゆみに微笑む。柚木の血を避けるふうにして先程まで座っていたソファに戻り、ふゆみと柚木の様子を楽しそうに眺める。
「だ、大丈夫……ねぇ。柚木君!」
ふゆみは泣きながら声を張り上げる。柚木の顔はテーブルに載ったまま苦渋に歪む。
「だ、大丈夫な、訳が、……ないだろう」
左手を頬に当てたまま柚木はどうにか上体を起こし、ソファに座り直す。こわごわと左手を頬から放し、血塗れの手を見て。
――悲鳴を上げた。
「ゆ、……柚木君?」
ふゆみも草薙も何が起きたのか咄嗟に理解出来なかった。柚木は怖れ驚き腹の底から叫びを上げている。これまで話していた強気の口調はどこにもない。ただ、泣いて喚くのみだった。柚木はソファから落ち、悲鳴を上げて床を転がり廻る。
「は、柚木、偉そうなことを言っていた割に、自分の血を見ただけで、この様か。笑わせてくれる」
草薙はソファに深くもたれ掛かる。柚木の様子を見て、笑いが止まらないようだった。
「し、しっかり、してよ、ねぇ!」
柚木は散々転げ廻ったあと、自分が座っていたソファの背に後頭部を押し付け、床に横たわる。心配気に柚木へ近寄ったふゆみは、顔を上げた柚木を見てはっとする。
柚木の目に、光はまだ消えていない。
「ばれないよう、芝居をしてくれ」
小さく声を出す。ふゆみは状況を察したようで、柚木を励まし心配する声を掛け続ける。草薙からは、ソファに隠れて柚木の足しか見えない。
「春日町さん、あなたは名字が、変わった、のか……?」
ふゆみは、大丈夫大丈夫と声を出しながら、大きく頷いた。
「笑えない……人違いだ」
「や、やっぱり。……なら、そのことを、教えてあげれば……」
草薙に聞こえないよう、ふゆみは囁く。
「駄目だ。あの人が生かしているのはあなたではない。彼にとっての春日町ふゆみだ。あなたが本人でなければ、生かしておく理由は消える。目的が消え、自棄になった草薙さんは、春日町さんと、おれを、迷いなく殺すだろう……」
「……そ、そんな。じゃあ……言う通りにする、しか、ないの?」
涙に濡れた瞳に絶望の色が混じりつつあった。
「いや、方法はある」
柚木の返答に、ふゆみは大きく目を見張る。
「草薙さんのファンタジーを、打ち崩す」
さすがに草薙が怪しみ始める。
「何をこそこそしている。柚木、それくらいで動けなくなることはないだろう」
柚木はソファに手を掛けて立ち上がる。
「おれの話に合わせてくれ。最後は……あなた次第だ」
小声で言うと、柚木はソファに座り直す。左手は頬に当てたまま、草薙に向き直る。
「おれは、喧嘩もしたことがないんだ。自分の血が流れているのを見たら、驚きもする」
そう言う柚木の口調に怯えはない。ふゆみもまた、柚木の隣に腰を下ろした。
「草薙さん、最終的にはあなたの言った通りになるでしょう。嫌がりながらも、春日町さんはあなたを殺す。あなたは、目的に達することが出来る」
草薙は妙な顔をする。
「しかし、それには時間が掛かるだろう。春日町さんが決心を固めるのに、もう少し時間が必要だ。その間に、俺の目も耳も、使いものにならなくなるかもしれない」
「だから何だ。ひと思いに殺せと言うのか。馬鹿が。殺してしまったら、人質の意味がなくなるだろう」
「いや、そうじゃない」
柚木は否定する。
「おれが、こんな不条理な目に遭う理由を、はっきりさせたい。原因である、あなたと春日町のさんの思い出を、過去の出来事を、もう一度把握しておきたい」
「はん、傷つくのに、いちいち理由が必要か。だが柚木、さっき話したことが全てだ。付け加えることはない」
草薙はきっぱりと言い切る。
「全て、実際にあったことですか?」
「当たり前だ。あれは、俺とふゆみの思い出なんだからな」
「あとから付け足したり、夢を都合良く解釈したりしたことも……」
「くどいな」
草薙は声を荒げる。
「全て事実だ。俺がふゆみと経験した、過去の記憶だ。どこにも作為は入っちゃいない。いいだろう、それで」
「あとひとつだけ教えてください。あなたはお兄さんの名前を覚えていると言った。お兄さんは、何というんですか」
柚木の意図が摑めないようだったが、草薙は答えを返した。
「……マサアキだ。草薙マサアキ」
「解りました、ありがとうございます」
柚木は、ふゆみをちらりと見て繰り返す。
「そうですか、お兄さんは、マサアキさんと言うのですか」
「ふゆみ、早くしろ」
苛立たし気に、草薙が吐き捨てた。
「それとも、また柚木を刺して欲しいのか?」
ふゆみの救けを求めるような視線は、柚木に向いている。
そして。柚木が口を開く。
「助かりましたよ。あなたの記憶が、夢でも妄想でもなくて」
「何、だって?」
草薙の顔に微かな狼狽が浮かぶ。
「あなたの記憶は途中で食い違いを起こしている。つまりあなたがした話は、あなたと春日町さんの思い出ではない」
七 死者の代弁者
草薙は哀れむように柚木を見る。
「……柚木、助かりたいために必死だな。お前が何を考えているかは知らないが、全ては過去に起こったことだ。俺自身の記憶であることは、はっきりしている。覚え違いも勘違いもない。全ては過去に起こったことだ。それを今更、どう覆すと言うんだ」
「ええ、おれもあなたの頭がどのように矛盾を処理しているのか、見当がつきません。専門家じゃありませんから」
柚木は強気の姿勢を崩さない。
「おれの論理が間違っていた場合、おれがあなたに抵抗する手段はなくなる。おれは切り刻まれ、春日町さんはあなたを殺してしまうだろう。……最悪の結末だ。だから、これは負け犬の、最後の遠吠えだと思って聞いてください」
「……いいだろう。最後の望みを、自分の手で砕いてみろ」
草薙は再度ソファに座り直す。柚木は左手を頬に付けたまま、草薙を見据える。隣のふゆみは二人の様子を静かに窺う。
雪の降り続く山荘、そのラウンジで、最後の謎解きが始まる。
「草薙さん、さすがに創作を行なっているだけのことはある。あなたの話を聞いただけで、映像が浮かんでくる程だった。あなたは、寸分違わず覚えていたのでしょう。しかし、あなたの話は途中からおかしくなった。お兄さんが亡くなったあとと、それまでの話には変化が生じていた」
変化……? と草薙が呟く。
「お兄さんが亡くなる前の話では、男の子と女の子がきちんと映像に浮かんでいました。ところが、お兄さんが亡くなってからは女の子の映像しか浮かばなくなった。もっとも、このときは女の子ではなく中学生になっていますが。解りやすく言うと、あなたの記憶は途中で視点が切り替わっているんです。お兄さんの死を契機として、あなた自身の記憶と、お兄さんの思い出が混ざってしまったのではないでしょうか」
「ば、馬鹿な!」
柚木は構わず先へ進む。
「あなたは言っていた。両親もクラスメイトもみんな、お兄さんがいなかったことにした。お兄さんを忘れようとした。だから自分だけは忘れない、お兄さんとの思い出を覚えていると。食い違いが起こったのは、このときです。おそらく春日町さんに憧れていたあなたには、彼女と仲良くしているお兄さんが羨ましく映ったのでしょう。お兄さんが死んでしまい、周りの人間もお兄さんを消してしまったために、お兄さんと春日町さんの思い出を、自分のものにすることが出来た」
もちろん、あなたが意図した訳ではなく、お兄さんの死を悲しむ余りに、心が勝手に働いてしまったのでしょう、と柚木は付け足す。
「ば、ば、馬鹿な。馬鹿なことを言うな……。そんなことがある訳ないだろう。お前の言うことが本当なら、ど、どうして兄さんとふゆみが一緒だった記憶が、俺に残っているんだ。あれが兄さんの記憶なら、俺が知るはずないじゃないか。そ、それとも何か、俺は知らない間に兄さんの記憶を、脳に移されたとでも言うのか」
草薙は訥訥と反論を試みる。
「そんなSF的解釈は要らない。あなたは二人のすぐ近くにいた。同じ家にいれば、自然と二人の様子は目に入る。勉強部屋は兄弟で使っていたそうですから、そこにあなたもいたのではないですか」
「そ、そんなはずは、ない。あれは……俺だ。そ、そうだ、ふゆみと一緒に芒の中を通り抜けたとき、あのとき久能さんが、久能のおばさんが、俺のことを名前で呼んでいる。ちゃんとユタカと。間違いない、あれは俺だ。ふゆみと一緒にいたのは、俺なんだ」
草薙は懸命に記憶を辿り、必死で抗おうとしている。
「……その女性、あなた方兄弟は、そっくりで見分けがつかないと言っています。だとしたら、お兄さんとあなたを見間違えて、あなたの名前を呼んだのではないですか。そのときあなたは、二人のすぐ後ろにいた。だから、お兄さんと春日町さんの言動を知ることが出来た。いや、そのときだけじゃない。あなたが覚えている春日町さんとの思い出というのは、皆あなたが実際に近くで見聞きしたものなんだ」
今や形勢は逆転していた。柚木の一言一句に、草薙は右往左往している。
「あなたが話した幼少時代の思い出に、あなたと春日町さんのものは存在していない。全て、お兄さんと春日町さんの思い出だ」
「ち、違う。そうじゃ、ない……。俺は、俺は……。そ、そうだ、兄さんが死んだとき、葬式のとき、ふゆみが来てくれた。俺のために来てくれたんだ。ふゆみは、泣きながら俺の胸に飛び込んできた。俺もふゆみを強く抱き締めた。このとき、俺は解ったんだ。ふゆみも俺を愛してくれていると、これからも俺が、ふゆみを守っていかなければいけないと……」
淡々と柚木は切り返す。
「そのとき既に、お兄さんの思い出が混ざっていたのでしょう。あなたの言うことは牽強付会に過ぎる。お兄さんの葬式に訪れて、どうしてあなたに会いに来たことになる。泣いていたのだって、お兄さんが亡くなって悲しかったからだ。春日町さんは、あなたのことが好きであなたに会いに行った訳じゃない」
「ち、違う、違う……。それなら、どうして俺に抱きついたんだ。あれは、ふゆみから俺にに、抱きついてきたんだ……。す、好きでもない男に、そんな、ことはしないだろう。あれこそ、ふゆみが俺を愛している証拠だ……」
柚木は冷たく言い捨てる。
「さっきも言った。春日町さんは、あなたにお兄さんの面影を見たんだ。長年仲良くしていた、死んでしまったお兄さんを重ねて、思わずあなたに抱きついた。それだけだ」
草薙の顔は蒼白になっていた。かろうじてナイフを摑んでいるものの、その手は震えている。どうにか落ち着こうとゆっくり声を出した。
「……柚木、結局それも……ただの可能性、に過ぎないだろう。……確かめる術も、証拠もない」
「証拠が……必要ですか?」
柚木は視線を上げ、何かを考えているようだった。そのうちふゆみに向き直る。
「春日町さん、学割を使ったから、学生証は持ってきているだろう。取ってきてくれ」
訳が解らないという顔をして、うん……と曖昧に頷いたふゆみはラウンジを出ていく。草薙に当初の勢いはなく、ふゆみが出ていくのを横目で眺めただけだった。顔は柚木に向いたままである。
「何を……する気だ……」
「すぐに戻ってくるでしょう。先に話を進めましょう。明らかにおかしいのは、二人が試験勉強をしていたときのことだ。あなたの話では、春日町さんが数学Ⅰの教科書を持ってきたことになっている。それは、当然彼女の教科書でしょう。一方、あなたは自分の机から国語Ⅰの教科書を取り出している」
「それがどうした。ふゆみは数学が苦手だから……俺が、教えてやっただけのこと、だろう。国語の教科書を見せたのは……ふゆみが、現代文が得意だと言ったからだ。……どこに、おかしなことがある」
柚木はわずかに顔を上げる。時折、左目が苦痛に歪むが、決して草薙から目を離さない。
「科目は関係ない。重要なのは教科書の方だ。いいですか、春日町さんが持ってきたのは数学Ⅰの教科書、あなたが手に取ったのは国語Ⅰの教科書だ。これは両方共、中学一年生の教科書、ふたりは中学一年生だということになります」
「当然だろう、それは。中学に入って、初めての試験勉強なんだから」
「違うんですよ、草薙さん。あなたと春日町さんが、同じ学年ということはあり得ない」
草薙は目を丸くした。身体全体が小刻みに揺れ動いている。
「な、何を、言っているんだ。勘違いしているのは、お前の方だ。俺とふゆみは同じ年に大学へ入った、今だって同じ学年、三年だ。俺とふゆみは同い年なんだ。俺が中学一年なら、ふゆも中学一年だった。……どこも、おかしくはない」
「……高校を留年したのか、大学に入る前に浪人したのか、おれは知らない。はっきりしているのは、春日町さんが現役生ではないということ。それは、草薙さんと年齢の違いがあるということだ。要するに、春日町さんが一緒に勉強をしていた相手はあなたではなく、ひとつ年上のお兄さん。春日町さんにとっては同い年の、マサアキさんということです」
草薙は目の色を変えて、捲し立てる。
「そ、そんなことが、あるか! あ、あれは……俺だ。俺なんだ。……ま、待てよ。そ、そうだ、大学に入ってから、ふゆみと、干支の話をしたことがあった。あのとき、俺とふゆみの干支は、同じだった。だから、俺とふゆみは……」
「早生まれです。春日町さんは早生まれだったから、一学年下のあなたと、干支が同じなんです」
毅然とした態度で柚木は言い放つ。
「そ、そんな……」
草薙の手からナイフが落ちる。わなわなと震えるだけで、口から声を発することが出来ない。
そのとき扉が開いて、ふゆみが戻ってきた。手にはカードを持っている。ふゆみが隣に座ろうとするのを、柚木は右手を上げて制する。
「丁度いい。春日町さん、それを草薙さんに見せてあげてくれ」
そして。……最後は君の台詞だ、と続ける。
ふゆみは一度柚木を見て、草薙に向き直る。おずおずと草薙に近づいた。テーブルの上に学生証を置き、少し後ろへ下がる。
草薙は目の前に置かれたふゆみの学生証に目を落とす。しばらくそのままの体勢で、じっとして動かなかった。
ふゆみが柚木を振り返る。柚木はふゆみに合図を送る。ふゆみはまなじりを決する。赤く腫らした瞳で、草薙を見据えた。
「……く、草薙君。これまで言えなかったけど、はっきり言うね。私は、私がずっと好きだったのは……マサアキ君なの。あなたじゃ、ないの。私は、今でもマサアキ君のことが……」
それが最後だった。
草薙を支えていたもの、気持ちも想いも願いも祈りも夢も、全てが決壊した。
「ふゆみ……」
立ち上がり、泣きそうな顔でふゆみを見る。そこには、ただひとつの想いを胸に、殺人を犯した男の姿はない。状況に押し潰され、真実に耐えることの出来ない、悲傷に溢れた男がいるだけだった。
草薙は泣き叫びながらラウンジを飛び出す。ふゆみは緊張から解かれそのまま床にへたり込む。柚木はテーブルに手を付いて立ち上がる。
「どこに、行く気だ……。春日町さん、あなたはここにいるんだ」
吐き捨てて柚木は廊下へ出る。彼らしからぬ行動だった。草薙を見つけたところで、何をするという当てはないはずだ。だが、柚木は懸命に草薙の姿を捜した。
「どこだ、草薙さん……」
客室へ上がろうとしたとき、以前感じた振動が山荘を襲った。いや、前のものと違い、振動は長く続き、連続した爆発音が耳をつんざく。
「外か……」
柚木は足を玄関に向け、そのまま山荘の外へ出た。昨日、一昨日と同じく雪が降っている。山荘裏手の林、その開けた一角で爆発は続いていた。その音に向かって、柚木は歩いていく。
雪の中から火柱が上がる。赤い炎は薄闇を照らす。破裂音が続き、土が舞い雪が舞い煙が舞う。その中心で煽られ踊るような人影。その姿を柚木は、右目で捉える。
「くさ、なぎ……さん……」
やがて破裂音は止み、炎は勢いを落とし、降雪に包まれていく。
柚木は、少しずつ歩を進める。頭に雪を被り、肩に雪を載せ、一歩一歩近づいた。
雪が溶け焼け焦げた地面。そこには、今し方柚木と対峙していた青年の遺体が横たわる。
ただ一人の少女に対し幾星霜の慕情を重ね続けた草薙。彼の想いが少女に伝わることはない。
八 いまひとたびの生
「爆発、だよね。今の? 何が……あったの?」
ラウンジに戻った柚木は、それとなく草薙の最期を説明した。
「雪の中に隠しておいた爆弾だろう、それで……」
「そう……」
ふゆみは顔を伏せて感慨に耽っているかのようだった。頬には涙の跡が残っている。何かに気づいたのか、不意に顔を上げた。
「そうだ、柚木君。手当てをしないと。あんなに痛がってたし……大丈夫? 管理人室に、救急箱置いてあるよね」
「……いや、あれは芝居だ。出血が多かっただけで、傷はそれほど深くない。だから……」
「何をぐだぐだと言ってるの。取ってくるから、あなたはここで座って待ってる。いい?」
有無を言わせず、柚木はソファに座らされる。
「……何だったんだろうな、あれは」
柚木は独りごちる。
「長沼に取り憑かれていたかのような振る舞いだったな」
事件は全て終わったと思っているのだろう、ふゆみの表情は完全に晴れてはいないものの、ここ数日でなくした明るさを取り戻そうとしているかのようだ。救急箱を取ってきたふゆみに、柚木は為されるがままだった。手当てといっても、傷口を消毒してガーゼを貼る程度の処置である。
「どう、これで?」
ふゆみが柚木に訊ねる。
「ああ、痛みは変わらないが、気休めにはなるだろう」
「あ、あなたねぇ……。他に、何か言い方があるでしょう」
助かりましたよ、と言って柚木は立ち上がる。床を見廻して、草薙が落としたナイフを手に取る。振り返り、柚木はその刃をふゆみに向けた。
「まだ、全てが終わった訳じゃない」
予想外のことだったのか、ふゆみは力なくその場に崩れ落ちる。
「ゆ……柚木君、な、何言ってるの……? あなたまで、頭がおかしくなっちゃったの?」
「やれやれ、酷い言われ方ですね」
「もう……終わったでしょ。全部終わったんでしょ!」
ふゆみは声を強く出すが、柚木は怯むこともない。
「春日町さん、本当に終わったと思っているんですか。ミステリ研の者だけでも六人、奇術研の人たちを合わせると十四人。この一週間余りで十四人もの人が殺されたんです」
「だ、だから、何……。草薙君が、こんなこと、するなんて。誰も、気づかなかったし……。そんなこと言っても、どうしようも、ないじゃない」
「確かに、事件を起こしたのは草薙さんだ。目的よりも手段が先行してしまったのでしょう、あなたを春日町ふゆみだと明確にする前に、思い込みだけで行動を起こしてしまった。本人に確かめることもなく、自分の中だけで完結させた物語を、一方的に正しいと信じ込んだ」
淡々と感情を交えることなく、柚木は続ける。
「一番の原因は、あなたの筆跡です。草薙さんと春日町ふゆみを繋ぐ現実は、彼女からの手紙のみだった。名字に名前、そして同学年というのに加え、筆跡が駄目押しだ。あなたの文字を見た草薙さんは、間違いなくあなたは、自分の知る春日町ふゆみだと思い込んだ。逆に、筆跡が違えば、草薙さんに訝しがる理由を与えたかもしれない。まあ、今更言っても詮方ない。どう考えたって、悪いのは草薙さんで、責められるべきは草薙さんだ。しかし、あなたに全く責任がない、と言い切れるんですか」
ふゆみがびくりと肩を震わせる。
「あなたにとっては、迷惑以外の何物でもない。相手は自分のファンタジーを頑なに信じてしまっている人間だ。あなたが事前に人違いだと伝えていても、草薙さんの現実を翻すことは難しかったでしょう」
「な、何よ……。わ、私が、もっと詳しく草薙君に説明していれば、こんな事件は、起きなかったって言いたいの?」
「理由も動機も関係ない。方法も人数も関係ない。殺人に重いも軽いもない。家族がどうの社会がどうの環境がどうの、そんなものは一切関係がない。人を殺したのは、その人自身の責任だ」
柚木は強い口調で言い放つ。
「だ、だったら……」
ふゆみは途中で口籠もる。
「春日町さん、あなたに直接的な原因はない。しかし、あなたの名字が変わっていなかったら、名前がふゆみではなかったら、この大学に入っていなかったら、筆跡が異なっていたら、こんな事件は起きなかったとも考えられる……」
「わ、私に……どうしろって言うのよ! そんなこと、私には、どうしようもないじゃない!」
声を張り上げふゆみは叫ぶ。
「ええ、起きてしまったことはどうしようもない。あなたが選べるのはこれからのことだ。間接的とはいえ、あなたのために十四人、草薙さんを入れると十五人の人が命を落としている。春日町さん……あなたはこの先、十五人もの死を背負って生きていくことが出来るのですか?」
「……え?」
「無事に帰ったあとで、重荷に押し潰され耐えることが出来なくなり……自死を図ったら。あなたの家族や友人は、生還を喜んだ分、悲しみの度合いは深くなる。ここで死んでしまえば、下手に希望を与えることはなくなります」
冷たくなった柚木の目が、ふゆみを見下ろす。
「ナイフならここにある、包丁も余っている。草薙さんの荷物を探せば、薬のようなものが出てくるかもしれない。どうしますか、春日町さん。あなたはそれでも、生きていけますか? いや、生きていたいのですか?」
「わ、わ、私は……」
下を向き、ふゆみは押し黙る。ラウンジが静まる。柚木はふゆみの答えを待つ。
そうして。それから。
ふゆみは口を開く。自分の想いをふゆみは告げる。
「解らない。そんな先のことなんて……。つらくて痛くて苦しくて、どうしようもなく嫌になることがあるかもしれない。何もかも投げ出してしまうかもしれない。柚木君が言ったように、自殺を考えることだってあるかもしれない。だけど……」
ふゆみは顔を上げる。涙の滲む瞳に迷いはない。
「私は……生きていきたい。……人の死を背負うなんて、そんな立派なことは、私には出来ない。情けなくて恥ずかしい、自分の弱さを晒し続けていくだけかもしれない。だけど私は、私に出来ることは、生きていくことしかないの……。遠江君や、みづき、長沼君……みんなに対して私が出来るのは、一日でも一時間でも、みんなより多く、みんなの分も生きることなの。だから、私は……こんなところで死ぬ訳にはいかない! これからもずっと、生きていかなきゃいけないの!」
柚木はナイフを折り畳み、ポケットに仕舞う。
「……その言葉を聞きたかった。これでおれは、何の憂いもなく犯人になることが出来る」
ラウンジの時計は四時を廻っている。
「今から警察に連絡をすれば、夜までには来てくれるでしょう。一時的に橋を掛けなければいけないから、もう少し時間は掛かるだろうが、今日中にあなたは保護され、山を降りることが出来る。良かったな」
ふゆみは惚けた顔で柚木を見つめる。
「な、何を言うの? 犯人って、草薙君でしょ。どうして、柚木君が草薙君を庇う必要があるの?」
「何も庇うつもりはない。殺人事件には……犯人が必要なんだ。それもこんな、大量殺人事件であれば、尚更だ」
ど、どういうこと、とふゆみが説明を求める。
「草薙さんの死が、他殺か自殺かの判断が警察にはつかないだろう。検視をしたところで、何も変わらない。どれだけ仔細に事件の説明をしたとしても、この場にいなかった警察が、おれたちの話を受け入れるとは思えない。いいか、おれたちが草薙さんの犯行を信じたのは、草薙さんの自白があったからだ。物的証拠はひとつもない」
「……で、でも。そ、そうだ。草薙君が書いた毬藻荘の申込書、それが奇術研究会になっているのが証拠だって、柚木君がさっき言ったじゃない」
「あれは草薙さんには証拠となったが、警察に対しての効力はない。草薙さんは、この山荘を奇術研究会の連中と一緒に訪れたが、いくら鄙びた地域でもそこそこホテルや旅館もある。団体客だって、一日一組ということもないだろう。駅の人間が観光客を逐一覚えているとは限らない。奇術研と同じ日に、おれたちが到着していないと、誰が言える」
「でも、申込書には、奇術研の名前……しか、書いてない……」
ふゆみの声は弱々しくなり、消える。
「……そうだ、ミステリ研がここに来たことを証明するのは、おれたちの証言でしかない。警察にとっては、いつ来たかなんて解りようがないんだ。宿泊費を減らすため、オーナーには内緒でふたつのサークルが合同で合宿をしたとも考えられる。それに、草薙さんが起こした荒唐無稽な事件を受け入れるよりも、合同合宿の最中に一連の事件が行なわれたと考える方が自然だ。吊り橋が落とされた日にちも、調べようがないだろう」
「ま、待ってよ。栞、合宿の栞にはミステリ研の合宿日程が書いてあったし、そう、私はその前日まで実家にいたことは、お母さんが証言してくれるし、他の人だって……」
ふゆみは必死な様子で役に立ちそうな情報を思い出す。
「その場合、ミステリ研の到着日が明らかになるだけで、特に影響はない。殺人事件が続けて起きたことを前提に警察が考えたとしても、奇術研に混ざって合宿に参加していた者が、草薙さんであるという明確な証言は取れない。奇術研の連中は全て死んでいるんだ。当日参加したのが別の人間であると言っても、反論出来る者はいない。その辺の注意を草薙さんは怠ったりしていないだろう。だからこそ、ここまで計画が上手く行ったんだ。どちらにしろ、状況に然程の変化もない」
「そんな……」
落胆する様を、ふゆみは隠せない。
「このような状況で警察が来て、おれたちを疑わないはずがない。殺人事件が起きた山荘に生きている者がいるのなら、おそらくそれが犯人だ。おれか、あなたか、あるいは両方か。真相を話しても、生きている人間が罪を免れようと、もっともらしい真相をでっちあげたと取られるかもしれない。いや、その方が普通でしょう」
殺人事件には犯人が必要だ、と柚木はもう一度繰り返す。
「だが、おれが犯人になればそんな心配はない。春日町さんが警察に付き纏われることも、冤罪を着せられることもなくなる。あとはおれがあなたを人質に残したことにして、警察に自白すればいい」
「な……何を。そんな、してもいないことを、どうやって、自白するって、言うのよ」
「草薙さんのやった方法は、おれにも十分可能だ。動機にしても方法にしても、適当に流用し、それらしく作り上げる。犯人が明確でない事件においては、自白が重要視される。警察は、世間や社会に対して、犯人を捕まえたと報告する義務がある。実際、状況証拠だけで捕まった殺人犯もいました。別におれの自白を警察が疑い、犯人に辿り着けるなら、それに越したことはない。まあ、そのときおれは、極刑に処せられたあとでしょうが」
「……そ、そんな。どうして、そんなことを……」
ふゆみは絶句して、うな垂れる。
「連絡するのは早い方がいい。あなたを人質にするに当たって、多少の打ち合せが必要だろう。春日町さん……」
顔を上げたふゆみを見て、柚木は言葉を続けられなかった。
再び泣きだしてしまいそうな悲しい目をして、ふゆみは柚木を見据える。
「ねえ、柚木君。生きているのが、そんなにつらいの?」
柚木の顔がわずかな狼狽に歪む。
「……おれは、特別、生きたくもないし死にたくもない。生きたくないと思いながら、死ぬことも出来ない。傷つくのや痛いのは、苦手なんだ……。何か、生きる目的がある訳でも、したいことがある訳でもない。ただ何となく生きて、暮らしているだけだ。おれは……草薙さんに殺されても、構わなかった。むしろそっちを望んでいた……。だけど……おれは生き残ってしまった」
「じゃあ……じゃあどうして、さっき私を救けてくれたの……。草薙君から、守ってくれたのよ……」
ふゆみの肩は震えている。
「……それはきっと、長沼のせいだ。あいつがもし、ここにいたら。生きている人間を、春日町さんを救けるだろうと、思った。おれは、そう思ってしまった。だからあれは、おれじゃなく、長沼の行動だ。……おれに出来るのは、みんなのために、この事件の罪を……」
柚木が皆まで言う前に、ふゆみは立ち上がる。柚木の襟元を摑み、無理やり壁に押し付ける。
「……あんた、さっきから、何、自分勝手なことばかり言ってるの」
涙を流しながら、柚木を睨み付ける。
「何がみんなのため? 社会のため世間のためよ! 自分が全部の罪を被る? 犯人として自白する? 格好いいとでも思ってるの? 違うよね。自分でも解ってるよね。逃げてるだけだって。私には……散々、生きろ生きろとか言っておいて……自分は逃げてるだけじゃない! 嫌なことつらいことから……生きることから!」
ふゆみの柚木を摑む力が弱まる。
「……そんなこと、言わないでよ。……そんな、悲しいこと。私はあなたが犯人じゃないことを知ってる……知ってるんだよ! それなのに、あなたが捕まって、何にも気にせずに、暮らしていけると思うの……? 私を救けるのなら、最後まで救けてよ! 途中で逃げないでよ! 私一人に……みんなの死を……背負わせないでよ! 生きてよ……。あなたも、一緒に……生き続けてよ!」
泣き喚き、ふゆみは懸命に訴える。
「せっかく……助かったんだから……そんなこと言わないで。犯人じゃないなら……無実を明らかにする、方法は、きっとあるはず……。出来るでしょ……あなたなら。……長沼君がいない今……それは、柚木君にしか出来ないことでしょ。だから……現実から目を背けないで……」
ふゆみは膝を付き、その場にへたり込む。
ラウンジにふゆみの泣きじゃくる声だけが響く。
やがて。柚木が口を開く。
「……そうか、そういう考え方も、あるのか。そんなこと……おれ一人では、思いつかなかった……」
「……ゆ、柚木君?」
「……解った。何とか、善処して、みよう……」
「ほ、本当に……?」
頷く柚木を見て、ふゆみの顔に笑顔が浮かぶ。
「とりあえず……春日町さんを泣かした責任は……取らないと、いけないだろう」
柚木はズボンからハンカチを取り出し、ふゆみに差し出す。
「あ……ありがとう」
ふゆみは両膝を床に付けたまま、柚木に手を伸ばす。
終章 最后の頁
そのとき。
床に壁に天井に一斉に亀裂が走る。
山荘自体が悲鳴を上げているかのような轟音。
外部と繋がる入口から次々と白色が流れ込む。
衝撃に耐えられず山荘は呆気なく崩れ落ちる。
瞬く間に山荘は白い雪に覆われて。
全てが雪崩もろとも押し流される。
木々を薙ぎ倒し瓦礫を埋め尽くす。
事件の終幕と共に。
役割を終えたかのように。
毬藻荘はその姿を消した。
雪は降り続く。
全てを純白に包むように。
かつて山荘が建っていた場所には。
もはや何も残っていない。
そこに。
真っ白な雪が降る。
深深と降り続く。
白い白い白い雪が。
いつまでも、降り続ける。
いつまでも、降り続く。
白く白く白く。
闇を。世界を。
白く白く染めていく。
起筆2004年12月14日
脱稿2005年10月17日
執筆54日 原稿用紙367枚
作品に対する感想は読者の自由であり、本来作者が口を出すものではありません。けれど作品の意図が伝わらない責任は全て作者にあります。今回に限り、作者の意図として伝えておきたい最低限の事柄を記しておきます。
狐ヶ崎について。
本作のメイントリックは、犯人の独白と連続殺人の時系列が異なる、という叙述です。この手法を使うために、似たような事件がもうひとつ必要でした。連続連続殺人というのは、叙述を使うために付け足した要素です。
叙述トリック+連続連続殺人=本作となります。そのため、叙述を取り除いた作品を発表することが出来ず、最終稿の枚数は初稿と余り変わりませんでした。
狐ヶ崎という名前は、奇術研の連続殺人が終了してから初めて犯人が自称する言葉、ミステリ研のメンバー以外は知らない言葉、との意味がありました。つまり、犯人の独白は全て奇術研に対するものである、犯人はミステリ研のメンバーの中にいる、ということを示すものでした。
御門台の事件について。
序章で解答が記されています。脱稿からしばらく経って考え直すと、他に方法があったのではないかと思いますが、書いている最中は思いつきもしませんでした。
構想としてあったのは、冒頭で別人の死体があることを記すか、解答編でいきなり御門台の死体ではないと説明するか、そのどちらかでした。伏線がないものを書くのはどうかと思ったので、前者を選びました。
ミステリ要素について。
みづきの事件以降、ミステリ要素が減少しています。これは、プロットを綿密に立てなかったこと、書いている途中で内容を変えてしまったこと、が原因です。
当初は全ての人間が首を斬られる予定でした(その場合、首斬り自殺説や、鎮痛剤を使った犯行時刻の誤認、などが書かれたと思います)。それが変わったのは、長沼が被害者になる章を書いていたときです。
長沼が首を斬られて死ぬのは可哀相だと思いました。それが転じて、このような状況で犯人に勝てないと悟れば、長沼は自ら死を選ぶのではないか。ミステリ要素は第一の事件と、第二の事件に任せてしまえばいいのではないか。と考え、ミステリよりも長沼を優先してしまいました。全員を首なし死体に統一するという当初の設定も、ここで消えました。
それにより、柚木が長沼の遺志を継いだ解答編を行い、長沼が出来なかったことを自分が遂げるということに希望を見つけるのですが、これは兄と自分を同一化してしまった草薙と同じことをやっています。エンディングも、長沼がいたから柚木は今後も生きていけるという展開になってしまい、物語として良いものではありません。
プロットはなるべく綿密に立てること。内容は途中で変えないこと。が本作執筆による教訓になりました。
ミステリ要素以外について。
僕が書いた作品のほとんどは、勇気を出して何かをすると酷い目に遭う、だから人生無難に過ごした方がいい、と取られそうなものばかりですが、そこに意図はありません。メッセージのようなものがあるとすれば、そこではなく、事件が起こる前。彼(あるいは彼女)たちが幸せに過ごしていた期間にあります。
毬藻荘殺人事件
CLASSIC MURDEROUS SURVIVAL
────
S**大学推理小説研究会/会員紹介表
遠江ショウゴ ──三年生。会長。
春日町ふゆみ ──三年生。書記。ボランティア研究会と兼部。
御門台タケマル ──三年生。関西出身。
草薙ユタカ ──三年生。奇術研究会と兼部。
長沼リュウスイ ──二年生。次期会長。
柚木ユキト ──二年生。文芸部と兼部。
日吉みづき ──二年生。小柄。明朗快活。
桜橋キョウ ──一年生。臆病。新戦力。
古庄しいな ──一年生。仲良しコンビの片割れ。
狐ヶ崎 ──連続殺人犯。
伊豆ソウジ ──四年生。前会長。
入江岡リンタロウ──三年生。編集長。
清水まゆみ ──一年生。仲良しコンビの片割れ。
序章 明日にとどく
彼に恨みはない。
仲は良い。友達と言って差し支えないだろう。
だが、彼は自分に殺されなければいけない。自分は彼を殺さなければならない。
彼が殺される、あるいは自分が彼を殺すのに感情的な理由はない。彼でなくても、他の人間でもいい。自分が殺す相手に、彼が好都合だったというだけだ。自分は誰かを殺さなければならない。そのために、犠牲として選ばれたのが彼なのだ。
いや、犠牲というのであれば、彼のあとに殺される友人たちも、犠牲といわなければならないだろう。たった一人のために、たった一人の人間に想いを伝えるために、自分は幾人もの人間を殺害することに決めたのだ。
彼を呼び出すのは簡単だった。
余った栞や、この地方特有のビラやパンフレットを見せ、彼が興味を持ちそうな言葉で煽った。渓流釣りに絶好の穴場を見つけたので一緒に行こう、という文句に疑いを持つこともなく、彼はすぐさま誘いに乗ってきた。もっとも、彼は自分が殺されるなど考えてもいないだろう。
当然、無条件ではない。その穴場をこれ以上多くの者に教えたくはないので、自分と一緒に行くことも、どこへ行くかも誰にも報せない。不審がられないよう、近しい友人には一週間くらい旅行に出掛けていることにしておく。
この条件を飲めるのであれば、連れていってもいいと彼に伝えた。もし断るようであれば、別の人間を誘うだけのこと。他の友人だろうと、条件を飲めるのであれば構わない。
断られたり、勘繰られたりすることも想定したが、そんな心配は要らなかった。釣り好きの彼は一も二もなく条件を受け入れ、自分との旅行を承諾した。これまでの付き合いが良好だったので、当然のこととも言えるだろう。そのお陰で、このような辺鄙な場所へ二人きりで来れたのだ。
彼でなければいけない理由はない。重要なのは、ある程度の信頼を築いている知り合いを被害者にするということ。自分に対して警戒心を持っていない人間の中から、自分が殺す人間を選ぶということ。
つまり、彼に殺される理由があるとすれば、自分と仲の良い友達だったから、ということになる。自分と知り合わなければ、友達にならなければ、殺されることはなかっただろう。
今後の予定は既に立ててある。
だが、計画をいかに綿密に立てたところで、人間の心理までは把握出来ない。実際に殺された人間を間近にしたとき、奴等がどんな行動を取るのかは予想出来ないのだ。臨機応変な、柔軟性を持った計画を自分は練り上げたつもりだが、予定外の事態が起きることも、想定しておかなければならないだろう。
気掛かりなことが、ひとつあった。
殺す相手が一人ならば、気に掛けることもないことだ。しかし、最終的な目的地へ辿り着くには、数多くの犠牲者を伴わなければならないのだ。最初の段階で、始めの一歩で躓く訳にはいかない。
ほぼ計画通りの犯行を為せると確信はしている。しかしそれは、殺人を犯していない状況でのことだ。もし一人目を殺した時点で怖気づいてしまったら、延いては後の計画まで、全てが破綻してしまうこともあり得る。それだけは避けたい。避けなければならない。
そこで簡単なことに気がついた。
いきなり本番をやろうするから、動揺するのだ。それならば、事件を起こす前に練習を行なえばいい。人殺しの経験を得てから、計画を開始する。人殺しの練習台。それに選ばれたのが彼なのだ。
彼を殺すことによって、人を殺すための強さと、人を殺せる自信を手に入れる。そうすれば、自分の無様な振る舞いで計画を台無しにしてしまうことだけは避けられる。人を殺した衝撃で心神喪失等の状態にでもなったら、それこそ目も当てられない。
それと同時に。必ず最後まで計画を遂行しろと、自分を追い詰めることにもなる。逃げ道を用意してはいけない。行き着くところまで行くしかないのだ。
彼には悪いが、運が悪かったと諦めてもらうしかない。
自分の計画のために彼は殺され、死ななければならない。彼が殺されるのは必然なのだ。今後、予定している者たちも同様だ。
全ては自分自身のため、目的を果たすためだ。
覚悟はしている。被害者と決めた相手に抵抗され、逆に自分が殺される可能性も、皆無ではない。相手も必死なのだ。
目的が果たせず、自分が死んでしまうことには耐えられない。何としても避けたいところだ。だが、自分が相手を殺す以上、自分も相手に殺され得るという覚悟は必要だ。
上手く、行くだろうか。
背中に隠したロープを持つ手は汗に滲んでいる。先程まで聞こえていた、川のせせらぎも、野鳥の声も、今は聞こえない。
中肉中背の彼を殺せないようでは、今後の計画が心許ない。彼を殺し、強さと自信を手に入れる。それはきっと想いに繋がる。自分の希い望みを補強してくれるはず。そう考えると、彼の死は無駄死にではない。自分をれっきとした殺人犯にする礎となるのだから。
釣りを楽しむ彼の無防備な背中。背後に近寄っても、一向に不審がる様子はない。のんびりと浮きを眺めている。
もう一歩、彼に近づく。
そこで。
首にロープを巻きつける。抵抗されまいと懸命に引っ張った。
必死だった。ロープを外されないように。彼の力に負けないように。
苦痛に顔を歪めているだろう彼が、振り向こうとする。
だが。ここで臆してはいけない。後戻りは出来ない。殺すしかない。行け。殺せ。
逃げられるなど考えるな。自分は勝てると、上手く行くとだけ考えろ。弱気になるな。
激しく藻掻いていた彼の動きは次第に弱くなり、やがて止まる。
本当に死んだのだろうか。解らない。死んだ振りをしているのかもしれない。人を殺すのは初めての経験なのだ。動かないからといって、死んでいると判断するのは早計に過ぎる。
彼は微動だにしなかった。それでもロープを引き続けた。
何分経ったのだろう。十分か二十分かそれ以上か。
ロープを持つ手を恐る恐る緩め、彼に近寄る。
見るのも躊躇われるような酷い形相で、彼は事切れていた。
──やってしまった。ついに、殺してしまった。
これが、人を殺すということか……。
余り気分のいいものではない。当然だ。自分は人殺しによって快感を得るような、快楽殺人犯とは違う。目的のために、殺人という手段を採らなければならなかっただけのこと。いや、目的に達するのに、もっとも効果的な方法が、人を殺すということだったのだ。
結局──全ては殺人に帰結する。
今になって手が震えてきた。動悸が激しくなっている。自分の荒い息遣いのみが聞こえる。落ち着け。冷静になれ。自分は見事に人を殺したのだ。自分は人殺しなのだ。
これで、今後の計画に支障はない。狼狽したり取り乱したりしないはずだ。どんな状況に陥っても、冷静に対処することが出来ることだろう。
彼を殺した以上、自分は奴等を殺さなければいけない。目的を達成しなければならない。自分はもう進むしかないのだと思い込む。死んだ彼や、これから死ぬ奴等のためにも。
呼吸が収まり、川のせせらぎが再び聞こえ始める。
これで、終わりではない。ここからが重要なのだ。
彼の身体を切断する。
死体切断こそが、計画の中心となる。欠かすことの出来ない要素なのだ。
微動だにしない、彼の身体を見下ろす。
これが。目的への第一歩。
ここが。物語の最初の頁。
全ては。ここから始まる。
第一部 毬藻荘殺人事件
第一章 登場人物
*
女の子と男の子は、自分たちの背丈より高い芒を掻き分ける。
先を歩く女の子が芒を薙ぎ倒す。あとに続く男の子が、掻き分けられた芒を足で広げて踏み付ける。
「なんで、こんなところを……」
泣きそうな声で男の子が言う。女の子は甲高く大きな声を出した。
「近道だからに決まってるでしょ。それとも、迷子になるとでも思ってるの?」
女の子は一度振り返ったものの、男の子の返事を待つことなく先へ進む。男の子は、女の子に置いていかれないよう、何とか付いていこうとする。けれど繁茂する雑草に足下を掬われ、その場に転んでしまった。男の子が上げた小さい悲鳴に気づいたのか、先に行った女の子が戻ってくる。
「ちょっと、何してるの。ほら、立てる?」
女の子は男の子に右手を差し出す。男の子は何かぼそぼそと呟いていたが、何を言っているのか、女の子には聞き取れなかったようだ。女の子は男の子に構わず、倒れた男の子の手を引っ張って立たせる。
「もう、しっかりしてよね。いくつになったと思ってるの……」
まるでお姉さんであるかのように言う。口では注意しつつ、女の子は男の子のズボンに付いた土埃を払っている。男の子は、為されるままに、ごめんと言うだけだった。
「ちゃんと、大きな声で返事しなさいよ。男の子でしょ」
女の子の声は、周囲を覆う芒の中で大きく響く。
「行くよ、もう少しだから」
男の子の手を取って、女の子は歩き出す。男の子は急に手を摑まれ、躓かないように付いていくのが精一杯らしい。男の子が情けない悲鳴を上げる。男の子は女の子に無理やり引っ張られているようだ。
あっ、と男の子が声を上げた。左右を囲んでいた芒のアーチがようやく途切れる。女の子と男の子は、舗装のされていない狭い道へ飛び出す。
「ほら、言った通りでしょ?」
自分の知っている場所に出たのか、女の子は誇らしげに胸を反らす。男の子は芒の中を掻き分けたせいで、余計に時間が掛かったことを解っているのだろうが、口には出さずに頷いていた。
「じゃ、行こ……」
女の子が途中で口籠もる。視線の先には日傘を差した女性の姿があった。
「久能のおばさんだ……」
二人の許へと中年女性は近寄ってくる。
「あらまぁ」
中年女性は女の子の名前を呼んだ。
「そんなところから出てきて。服をこんなに汚しちゃって。まったく……」
女の子は顔を伏せる。女性に返事をしない。女の子が聞いていてもいなくても構わないのか、中年女性は女の子がそんなことをしたら駄目でしょうとか、せっかくのスカートなのにとか、芒の穂を掻き分けて出てきたことを咎めているようだった。
女の子はちらりと男の子を見るが、男の子はどうすることも出来ない。女の子の隣でおろおろと立ち尽くすだけである。
近所で喧しいと評判のある、久能のおばさん相手に何が出来るというのだろう。両親でさえ苦手にしているおばさんなのだ。ここは黙って話を聞いていた方がいい。男の子の顔は、そう思っているかのようだった。
女の子に話したいことを全部言ったのか、女性は矛先を男の子に向ける。
「あなたも男の子だったら、止めないと駄目でしょう。どうして一緒になってこんなことをするの。まったくもう。……あれ、あなた、どっちの方。……お兄さん、弟さん?」
思い出したように、女性は弟の名前を呼んだ。
「あなたはそっちだったわね。双子でもないのにどうしてそんなに似ているのかしら……」
男の子にはひとつ違いの兄弟がいる。自分では似ていると考えていないのだろう。女性の言うことに首を傾げた。
「僕は……」
男の子が何か言おうと口を開いた。そのときである。
「おばさん、さよなら」
女性のお喋りから逃れる隙を狙っていた様子の女の子が男の子の手を取り、二人は駆け出していく。
「ねえ、ちょっと……あなたたち……」
女性は何か呟いていたが、子供たちは颯爽と駆け抜ける。二人の姿はたちまち見えなくなってしまった。
* * *
毬藻荘を舞台とした連続殺人事件。
一連の事件を終え、山荘に残る人間はただ一人。生きている者はただ一人。
「殺人犯」はラウンジのソファに深く腰掛けた。
この山荘に訪れたメンバーを一人ずつ消していく。それが無理ならば、仕方がない。纏めて殺してしまえばいい。そのための道具は複数用意してあった。最終的な目的が果たせるのであれば、殺戮はどんな形でも構わない。殺すことが目的ではない。殺したあとで、目的へ繋げることが重要なのだ。
一人ずつ殺すことには拘らない。機会があれば複数の相手にも躊躇わない。迷いは即ち命取りになる。殺すのは一日に一人だけなどと、悠長に構えている余裕はない。
一晩で、全ての人間を殺すことが望ましい。無理だと思わなければ、出来ないこともないはずだ。時間は限られている。その中で確実に始末していかなければならない。
後戻りは出来ない。やるしかないのだ。
山荘に訪れる前から何度も自分に言い聞かせた。出来ないと思ったら終わりだ。必ず成功する。怖れるな。恐がるな。自分は願いに近づけるはずだ。
そう考えていた。そのように思っていた。
だがそれも、今となっては――終わったことだ。
心配は杞憂だった。絵空事だという考えが、頭のどこかにこびりついていた。
けれど。自分は山荘の人間を殺し尽くした。全員を殺したのだ。
とはいえ、全てが計画通りに行った訳ではない。偶然に任せたり、咄嗟の判断で計画を修正したり、現場の状況に対応出来るような行動を取った。
結果へ至る方法に多少の変更を余儀なくされた。けれど結果は変わらなかった。しかしそれは予測した通り。計画を固定しなかったからこそ、事件を為し遂げられたのだろう。
興味深かったのは、クローズド・サークルに置かれた奴等の行動だ。推理小説さながらに振る舞う奴もいれば、驚くような態度を取る奴もいた。事件を自分で解こうと考える奴や客室に閉じ籠もった奴もいた。
奴等の中にクローズド・サークルものの推理小説を読んだことのある人間も幾らかいたようだ。だがやはり、小説と現実は違う。事件の謎を解き、犯人を明らかにする探偵役など現われなかった。あるいは、いたのかもしれない探偵役を早々に殺してしまったのだろうか。犯人を指摘出来ない残りの登場人物たちは、自分に殺されるだけだった。
良く――ここまで出来たものだ。
成功すると信じてはいた。想いを届かせるために失敗は許されない。支えは常に自分の中にあった。
それでも。一連の事件を終えたことで、自分が安堵しているのは確かだった。人を殺す強さと自信。目的に向かう信念。あらゆる気持ちは、想いに繋がるはず。そう信じた結果だろう。
「殺人犯」の口許が緩む。
天候に関しては僥倖としか思えなかった。天気の崩れがあの日あのときでなければ、合宿は中止か延期になっていたはずだ。あれこそ天の意志というものだろう。天が、神が、自分を激励し、後押ししてくれていた。お前に失敗はない。だから怖れるな。計画は必ず成功する、と。
これではまるで――そう、狐ヶ崎だ。誰に捕まることもなく、殺人事件を繰り返す、名犯人の狐ヶ崎。
「殺人犯」は、かつて読んだ小説に登場した人物を思い出す。
……成程、狐ヶ崎か。自分は陳腐な「殺人犯」などではない。名犯人の「狐ヶ崎」なのだ。だからこそあれほどの連続殺人を行なえた。だからこそ自分は致命傷を負うこともなく生き残っている。
「殺人犯」いや、「狐ヶ崎」にはまだ仕事が残っている。この山荘には幾つもの死体が転がっているのだ。「狐ヶ崎」には死体を処理する必要があった。
だが、今すぐ行動を起こす気にはなれない。少し休息を取ってからだ。
「狐ヶ崎」はソファに背中をもたせ掛ける。腰を預けたまま足を伸ばし目蓋を閉じる。
そうして。「狐ヶ崎」の思考は回想へ沈む。
自身が犯した事件、毬藻荘での連続殺人に。
* * *
一
列車は北へ進む。
時間帯が早いせいか人は少ない。この車両にいる乗客は、十人にも満たなかった。もっとも、列車は便利とは縁遠い山奥を目指しているので、仮に昼時であっても然程混雑しなかっただろう。
「はい、どうぞぅ」
日吉みづきが声を上げた。甲高い声と左右で結んだ髪のせいか、高校生のような雰囲気を醸し出している。扇状に広げたカードを持つ左手の中指には、指輪が嵌まっていた。
「これに、しとこか」
みづきの差し出したカードから一枚を摑もうとするも、御門台タケマルはその手を引っ込めた。
「御門台先輩、一度取ろうとしたものを止めるなんて、男らしくないですよぅ。迷い箸は止めなさいぃ、ってお母さんに言われませんでしたかぁ」
「われ、何言うとんねん。トランプじゃろうが、勝負ごとには負けられへんのや。慎重になるのは当たり前じゃ」
御門台の台詞には、明らかな訛りが混ざっている。大阪弁と広島弁を合わせたような、彼独特の言葉遣いである。
「第一、いい歳した大学生が、何でババ抜きなんぞ、せなあかんのじゃ」
がっしりとした体格の御門台には、トランプで遊んでいる姿は余り似合っていない。
「だからぁ、ただのババ抜きじゃないですよぅ。ジョーカーを三枚入れてあるんですよぅ」
みづきはカードを持っていない方の手で、窓辺に置いてある二つのカードケースを示す。
ひとつは現在使っているカードのケースで、中身は入っていない。もう一方のケースには、ジョーカーを一枚だけ抜いた、残りのカードが収まっている。
「自分の持っているジョーカーが、必ずしもジョーカーになり得ないっていうところが、醍醐味なんじゃないですかぁ」
幼く見えても意外と言葉は知っているようである。
「ジョーカーを何枚増やしたところで、ババ抜きの何が変わるっちゅうねん」
「むぅ。そんなにババ抜きが嫌いなら、イギリスふうにオールドメイドと呼んでくださいよぅ」
みづきの説明を聞いているのかいないのか、御門台はどのカードを選ぶかに専念する。随分迷った末、一枚のカードを取り、げっ、と声を漏らす。咄嗟に手持ちのカードと混ぜ始めた。
「お前が何を引いたのかは解った。早くカードを広げてくれ」
隣に座っている草薙ユタカが、御門台を促す。
「甘いで草薙……それこそポーカーフェイスだと見抜けへんのか? わしがジョーカーを取ったと見せ掛けて、実は取ってもいないジョーカーを実は取って……」
御門台の言葉を余所に、草薙はカードを抜き取る。
「あ、われ、人の話は最後まで……って、何でそれを取るんや。どうして隣のを持っていかんのじゃ」
「いや、全然ポーカーフェイスになっていないし。それに自分から言ってるし」
草薙は揃ったカード二枚を椅子の上に伏せて置く。はい、と言ってカードを差し出す。けれど向かいに座っている古庄しいなの手は動かない。
「しいなちゃん、しいなちゃんの番だよぅ」
みづきに言われ、慌てて草薙のカードから一枚を取る。
「え、あ、はい。ごめんなさい……」
「うぅん、そんなにまゆみちゃんのことが心配なのかなぁ? 二人はいつでも一緒だもんねぇ」
「いえ、その、別に。わたしは、いつも……まゆみと一緒にいる訳では、ありません……」
頬を赤くして、俯き加減にしいなは答える。
「じゃあ、何を考えてぼうっとしていたのかなぁ?」
「それは、あの、はい」
恥ずかしがりながらも、しいなは正直に言う。
「……まゆみのことです」
「ほら、やっぱりぃ」
みづきの笑顔に釣られたように、しいながはにかむ。
「じゃ、これぇ」
しいなのカードをみづきが取り、ゲームは続いていく。
カードゲームに興じている彼女たちから通路を隔てた席には、これまた同年代の男女が座っている。
「……だからね、ミステリはミステリとして楽しめればいい」
遠江ショウゴが口を開く。背の高い、大柄な青年である。
「こんなトリックは無理だとか、こんな事件が起きる訳がないだとか、こんな人間がいるはずがないだとか。じゃあ何かい。実際に起こり得る事件を、現実的な捜査で解決するような作品を読みたいと思うのかい? それはもうミステリではなく、ドキュメンタリーやノンフィクションの類だよ」
「うぅん、確かにそうかもしれないけど……」
遠江の向かいに座る、春日町ふゆみが首を傾げた。
「いくら小説だからって、どうもこれは無理だろうってのも結構あるよ。荒唐無稽や前代未聞をやたらに強調しているようなものが。意外性だけを重視して、論理性に注意を払っていない作品は、私にはちょっと……」
「読めない、かい。自分の場合は、どれだけ意外な結末を持ってきてくれるかを、楽しみにしているんだけどね。現実的には不可能だろうが、どれだけ大掛かりな仕掛けだろうが、意外性があれば、自分は許せてしまう」
「物語の中に、それを許容出来る説得力があれば、ですよね」
遠江の隣に座る長沼リュウスイが、言葉を継ぎ足す。眼鏡を掛け、髪は肩まで届いている。遠江と並んでいるせいか、やや細めな印象を与えるが、二十歳前後の青年としては、標準体型と言って差し支えないだろう。
「SFだろうと、ファンタジーだろうと、現実的には無理な設定、世界だとしても、物語内の現実に沿っていればいい。僕たちにとっての現実が現実的であるように、小説内の人物にとっての現実は物語そのものである。それを読者が違和感なく受け入れることが出来るのであれば、ということでしょうか」
「自分は、そんなに難しいことを言っているつもりはないんだけどね……」
「殺人事件は実際の世界で起こることである。そのため、自身をその状況に置くことが容易い。人が死んでいる前で、犯人は誰だとか、トリックはどうだとか、そんなことを考えるのは酷く不自然に思える。こんな行動を取る人間がいるはずがないだろう、などと考えながら読むのは、ミステリをミステリとして楽しんでいない。遠江さんは、登場人物の行動が不自然ではないとの前提で、ミステリを読んで欲しい、と考えている訳ですね」
ふゆみは長沼の話し方を真似て言う。
「……そうだな、そういうことになるのかな。概ね二人が纏めてくれたことで、合っているよ。ミステリはミステリでいい。ノンフィクションに徹する必要はない。最低限のリアリティがあれば十分だよ」
「まあ確かに。嵐の山荘で、助けが来るまで全員が一ヶ所に固まっていたら、話が進みませんよ」
長沼は前髪を掻き分け、眼鏡の縁を押し上げる。
「そうだね、それはつまらないよね」
ふゆみも長沼に同意する。
「そもそもね、トリックを駆使した殺人や、同一犯による連続殺人自体、現実ではまずあり得ない。閉鎖状況での殺人事件を扱うのであれば、登場人物の行動の不自然さくらい、大目に見てもらいたいね。まあ、これはミステリ研のメンバーに改めて言うようなことではないだろうけど」
遠江は顔を横に向け、これまで黙っていた桜橋キョウに話し掛ける。
「途中から、話が別方向に進んでしまったけれど、参考にはなったかな」
「……はい、とても」
急に矛先を向けられた桜橋だが、話はきちんと聞いていたらしく、素直に頷いた。
「しかし、何だな……。ミステリ研に入っているのに、嵐の山荘パターンを敬遠しているとは。それじゃあ、あの名作が読めないじゃないか。そりゃあ、向き不向きはあるだろうけど、残念だな、次代を担う一年生が……」
「嵐の山荘ばかりがミステリじゃないでしょ。そんな偏ったミステリ観を、次代を担う一年生に押し付けてもね」
ふゆみは、隣に顔を向ける。
「桜橋君、この前、紹介した本、どうだった?」
「あの……まだ読んでないんです。すみません」
桜橋が頭を下げる。気の弱そうな外見のせいか、謝る仕草に余り違和感がない。
「春日町、君のことだから、また美形の探偵ばかりが出てくる作品を薦めたんじゃないのかい? ミステリを美形で読むのかい、君は」
「美形、美形って、私が顔を基準にミステリを選んでいるような言い方をしないでよ。そりゃあ、中年の刑事さんよりも若くて綺麗なお兄さんの活躍が読みたいのは当然のことでしょ。でもね……」
ふゆみは、顔を綻ばせる。
「しいなさんも、まゆみちゃんも、私のお薦めを喜んでくれたよ」
「……ああ、そうか。一年生の読書傾向が妙に偏っていたと思ったら、あれは君の影響だったのか」
桜橋は二人の言い合いに、どう対応して良いかが解らないようで、二人の顔を交互に見ているだけだった。
「気にしなくていいよ。しばらくすれば収まるから」
「そう……ですか……」
長沼に言われ、桜橋は相好を崩す。
「上級生の意見は、あくまで参考にすればいい。必ず読まないといけない、なんてことはない。読まされてミステリを読んだって、つまらないだろう? 同様に、本格を書きたいからといって本格を読むのは本末転倒だ。本格が好きだから、本格を書くんだろう? 君は自分が面白いと感じたものを順に読んでいけばいい。そうすれば書きたいものがそのうちに見つかる。まあ、今更僕が言うようなことではないと思うけどね」
ミステリ談義に花を咲かせている彼らの後方、空席を挟んだ位置に、柚木ユキトがぽつんと座り、文庫本に目を落としている。既に一冊を読み終え、二冊目に入っていた。
席の都合もあったが、柚木は最初から遠江と長沼の後ろの席に座っていた。けれど彼らの話し合いが次第に白熱してきたので、こちらの席へ移動してきたのだ。
この場にいる者は、柚木の性格を知っているので、あえて声を掛けていない。このような光景は、場所がボックスから電車に変わっただけで、彼らには見慣れたものであるからだ。彼らにとっては日常の、大学のボックス内と何ら変わらない風景だった。
―─以上九人の男女が、S**大学推理小説研究会春合宿の参加者である。
当然彼らは知る由もない。
これから毬藻荘で起こる惨劇を。
ただ一人、「狐ヶ崎」を除いては。
二
ホームに降り立った彼らを待ち受けていたのは、視界一面の雪景色だった。雪は風景に溶け込み、音もなく降り続いている。
「うわぁ。凄いなぁ」
みづきが驚きの声を上げるのは無理もない。S**大学が位置するS県内では一年を通して雪が降ることはなく、雪の降り積もった光景を目にすることなどないからだ。
「さすがは雪国、といったところでしょうか」
最後に列車から降りてきた長沼を確認して、遠江は改札へと向かう。
「バスは、ここからすぐ出ているのか?」
隣を歩く草薙に訊ねる。行先である山荘に泊まれるよう取り計らい、交通手段を調べたのは彼である。
「ああ、すぐそこだ。二時間に一本しか来ないが、時間はきちんと調べてある。あと二十分は余裕があるな。バス停には待合室もあるから、バスが遅れてきても凍える心配はない」
草薙が冗談めかして言う。引き受けた以上、きちんと仕事はこなすので、研究会での彼に対する評価は上々だった。
改札を抜けた辺りでは、小さい駅ながらも数軒の土産物屋が店を出していた。
声を上げて駆け寄ったのは、みづきである。その姿は大学生に見えない。ふたつに結った髪が揺れていた。
「全く……どっちが後輩なのか、解らないわね。バスに遅れないようにちゃんと見張っておかないと」
駆け出したみづきのあとを、ふゆみとしいなが追い掛ける。みづきは売場の中年女性に、これは何か、あれは何かと、一頻り訊ねているようだ。
「みづき、解ってると思うけど、お土産なら帰りにしなさいね」
ボランティア研究会の活動にも参加しているからではないだろうが、ふゆみは自分より年下の後輩たちに色々と世話を焼き、面倒を見る傾向があった。
「大丈夫ですよぅ、ふゆみ先輩。ちゃんと考えてますよぅ。今は、帰りに何を買おうか、眺めているだけですよぅ」
みづきが後ろを振り返る。
「しいなちゃんも、まゆみちゃんのお土産、何にするのか決めておけばぁ」
はぁ、と一応しいなは頷いてみせる。
「あんたたち、いいときに来たね」
みづきたちに、売場の女性が笑顔を向ける。品物を売りつけようというのではなく、単に話し好きな性格の持ち主であるようだ。そのせいか地声も大きい。
「いいとき、ですか?」
ふゆみが鸚鵡返しに聞き返す。
「ああ、ここは鄙びた田舎町だけど、そこそこの観光客が来るんだよ。登山とか、釣りとかにね。あんたたちみたいな団体のお客さんも、日に何組かやってくるよ。雪は毎日降ってるようなもんだけど、降るのは大抵昼間だけだね」
改札から出てきたのは、みづきたちの一行のみだったので、中年女性は団体の旅行者だと考えたのだろう。
「それが、二、三日前はかなりの大雪でね。そのときは昼夜構わず降り続けて。とてもじゃないが、店を出してなんかいられなかった。数日ずれただけでも、あんたたちは幸いだったね」
中年女性の言うことに、みづきは顔を綻ばす。
「うわぁ。吹雪の山荘ですかぁ。遠江先輩も残念だったねぇ」
ふゆみとしいなは苦笑を漏らすが、中年女性には意味が解らないようだ。
「そろそろ時間だ」
こちらへやってきた遠江がふゆみたちに声を掛ける。遠江の後ろには、御門台の姿もあった。どのようなものを売っているのか、多少は気になったのだろう。
「はぁい。それじゃぁ、また帰りに寄りますねぇ」
みづきが売場の女性に向かって挨拶をする。
「あれ……柚木君がいないみたいだけど」
歩きながら、ふゆみが口にした。
駅の出入口付近にメンバーは集まっている。そこには近辺案内図という看板が立ち、近くのホテルや旅館の場所が記されていた。
長沼は看板隣の柱にもたれ掛かって煙草を吸っている。草薙は荷物の前にしゃがみ、桜橋は所在なさそうに突っ立っていた。だが、その中に柚木の姿はない。
「ああ、さっきまでおったんやけどな。あいつは、先に待合室に行っとる。わしらも早く行かんと、乗り遅れてまうで」
御門台たちが戻ってくるのを見て、草薙が腰を上げた。長沼も煙草の火を消し、荷物を肩に掛ける。
「バス停はこっちだ」
と言う草薙を先頭に一向は進む。
「残念でしたねぇ、遠江会長ぅ」
みづきが楽しそうな顔で遠江に声を掛けるが、遠江は言われたことの意味が解らないようだ。
「二、三日前は、雪が酷かったって。さっきのおばさんが言ってたよ」
隣を歩くふゆみが、みづきの言葉を補強する。
「ふぅん、天候が芳しくないのは、天気予報で知っていたが、それほど酷かったのか……。だが、それは数日前のことだ。合宿が無事に行なえることは、喜びこそすれ、残念がることなんかないんだけどな……」
「だからぁ、あと何日か早く来れば、遠江会長の好きな吹雪の山荘になっていたんじゃないですかぁ」
みづきはどうしてこんなことが解らないのかというように言い放つ。
それを聞いて遠江は深くため息を吐いた。
「あのな、日吉。確かに自分は、クローズド・サークルものが好きだけど、それは小説の話だ。実際に旅行した先が、吹雪に見舞われるなんて状況を好んだりしないよ」
ええ、そうなんですかぁ、どうしてですかぁと言い続けるみづきの対応に困り、遠江はふゆみに助けを求めた。
このような的を外したみづきの発言は初めてではないが、まともに対応出来るのはふゆみか御門台くらいである。
その様子を見てしいなは苦笑する。隣を歩く桜橋に顔を向けるが反応はなかった。桜橋は消極的な性格もあり、余り口を開かない。しいなも自分から話し掛ける方ではなく、普段は一緒に入会した清水まゆみと過ごすことが多い。
まゆみはしいなと違い、社交的で活動的な性格である。けれど、どこか通じるものがあったのだろう。高校時代から、ふたりの付き合いは続いている。そのため、みづきから二人の仲をからかわれることが多々あった。そういうときに、きっぱり返事を出来るのがまゆみであり、途惑ってしまうのがしいなだった。
一年生同士、もう少し交流があってもいいだろう。しかし、ただ一人の男子である桜橋は自分から他人に話し掛けることが多いとはいえない。言うなれば、しいなと似たような性格をしている。なので、二人が一緒にいても会話は少なく、そこに第三者を挟んだときにのみ、会話が可能という状況になっていた。
一向がバス停に着くと、待合室に座る柚木が顔を上げた。けれどそれも一瞬で、彼はすぐに文庫本に顔を戻す。車中で読んでいた本とは、カバーが別のものだった。彼はミステリに限らずあらゆる種類の本が好きなので、文芸部にも所属していた。
「柚木、何冊目や、それ?」
荷物を足下に置き、御門台が声を掛ける。
柚木は文庫から目を離さずに、素っ気なく答える。
「三冊目」
三
雪は降り続く。
「あらかじめ聞いていたとはいえ、本当にこんな山奥とはね……」
ふゆみはハンカチを取り出して、額の汗を拭う。
駅前からバスに乗って四十分、麓でバスを降り、山道に入って二十分が経とうとしている。曲がりくねった山道は申し訳程度に舗装されているだけで、お世辞にも歩きやすいとはいえない。周囲は木々が生い茂り、昼間とは思えない程に薄暗い。更に春特有の湿った重い雪が、歩行を困難にしている。
「もうすぐだから、みんな頑張ってくれよ」
先頭を行く草薙が後ろを振り返る。
「本当? みづき、しいなさん、あと少しだって」
ふゆみがすぐ後ろを歩く二人に声を掛けるが、返事はない。しいなはもとより、車内では散々騒いでいたみづきも、声を出せないくらいに疲れているようだ。
「大丈夫か? 厳しかったらちゃんと言ってくれ」
その後ろを、遠江が女性陣を気遣って歩く。
「今回は仕方ないにしても、次回はまた、場所を考えないといけないか……」
遠江のあとを柚木が黙々と進む。彼も疲れているようだが、不平ひとつ言わずに進んでいく。
「それにしても、どうしてこんな山奥に……別荘なんて、建てたんでしょう……」
最後尾を歩く桜橋が掠れた声を出す。すぐ前を長沼と御門台が歩いている。
「なんや、知らんかったんか?」
桜橋の問いに、二人は不思議そうな顔をした。
「ああ、そういえば、自分は、この前ボックスにおらなんだな……」
「この別荘を立てた資産家というのが……かなりのミステリマニアらしくてね……。登呂さん、だったかな……が道楽で建てたものだそうだ。……ミステリに登場するような……山奥の山荘を、いつか作りたかったらしい……」
長沼が息を切らせながら言う。
「それを、草薙の親戚だか知り合いだかのつてで、わしらミステリ研の合宿に使わせてもらえることになったんや」
推理小説研究会のメンバーは、自分たちのサークルをミステリ研と略して呼ぶことがある。
「そう……ですか」
御門台は他の者に比べると、それほど疲れていないようだ。汗を掻いてはいるものの、普段と同じように話している。
「しかし思ぅたよりも、きつい山道やし……。ここは今回限りになるかもしれんな。ん、ようやく、到着かいな……」
先頭を歩く草薙を始め、他のメンバーも歩みを止めている。最後尾の桜橋も草薙たちに追いついた。どうやら坂道も、ここで終了らしい。
視界には谷川が広がり、そこに木製の吊り橋が渡されている。対岸は鬱蒼とした木々が立ち並び、その中に埋もれるように横長の建物が鎮座している。
「あれが、毬藻荘……」
桜橋が呟いた。
山道はここで終わり、木製の吊り橋へと続いている。
谷底までは、三十メートルくらいあるだろうか。谷の両側は垂直に切り立った崖になっており、底には川が流れる。急に開けた視界に対し、一行は押し黙っていた。川のせせらぎが、やけに大きく聞こえる。
「あ、あの、この橋を渡るんですか……?」
しいなが怯えたような声を出す。今回の合宿担当は草薙なので、自然と彼の言葉を待つ。
「ああ、そうだよ。見た目よりは頑丈だ。吊り橋も、山荘と同じく定期的に調べているそうだから、老朽化の心配はないとのことだ。雪に足を取られないよう、慎重に歩けば大丈夫だ」
草薙の説明に、そうですかと頷きはしたが、しいなにとっては気休めにもならないようだ。
「他に道はないの?」
しいなの様子を見て、ふゆみが助け船を出す。
「そこに、転倒防止用の柵があるだろう? 途中までそれに沿って山の中を進めば、対岸に出られるようだが、登山の経験者でも困難な山だそうだ。自殺行為になるようなことは止めてくれと、オーナーの登呂さんにくれぐれも念を押されている」
「……そうですか」
諦めたようにうな垂れるしいなとは反対に、みづきは嬉しそうな声出す。
「えぇ、どうしてぇ。しいなちゃん、小説みたいな景色じゃん。それに、あんな高いところを歩くなんて、滅多に出来ることじゃないよ。空の上を歩けるんだよぅ」
みづきの言葉を全て理解出来た訳でもないだろうが、しいなは覚悟を決めたようだった。
「そうだな、古庄には悪いが、我慢してもらうしかない。春日町、古庄を頼むよ」
皆を促し、遠江が先頭に立つ。
橋の長さは十五メートル程だろう。降り積もった雪を足で払いながら、遠江が進む。
「足を滑らせないように気をつけろよ」
以下、吊り橋の高さに動じない者から順に渡る形となり、ふゆみに見守られるようにして、最後にしいなが渡り終えた。傍らでふゆみが良く頑張ったねと、しいなを労っている。
吊り橋を渡り、崖に沿ってやや右手へ進んだところに山荘が佇む。彼らが数日を過ごすことになる、毬藻荘である。
屋根に雪が積もり、外観も白いので、山荘全体が、雪に覆われているかのようである。周囲に木々が立ち並び、裏手には林が広がる。その間から、光は細々と差し込むだけだった。
「ようやく到着だな」
玄関前に立ち、遠江がため息を吐く。山奥の山荘で合宿を行なうなど初めての試みだったので、何とか無事に目的地へ到着したことに安堵しているようである。
「あれは、何でしょうか?」
長沼が向かって左側を手で示す。山荘から二十メートル程離れたところに、小さな建物が建っていた。
「ああ、あれは離れだよ。中は母屋の客室と、ほぼ同じ造りになっている。一応鍵を預かってはいるが、部屋数は十分にある。使うことはないだろう」
草薙が説明する。世代の違う老齢の管理人との対応が無難に行なわれたのは、彼の手腕に依るところが大きい。
「とりあえず、みんな疲れているだろうから、各自部屋を決めたら少し休もう。確か部屋にはシャワーが備え付けてあるということだったな。そのあとで、今後の予定を決めることにしよう」
遠江の言葉に、全員が賛成した。
四
毬藻荘は東西に伸びた建物で、玄関は西端に設けられている。玄関ホールには人数分のスリッパが用意されていた。ホールの正面、方角にして北側に二階への階段があり、右手にラウンジ、その隣に食堂が位置する。どちらの部屋も廊下へ繋がる扉が北側に付いていた。ラウンジと食堂は互いに扉で繋がっており、行き来が可能である。食堂の東側はカウンターで仕切られ、その先が厨房になる。廊下へは、厨房からも出入りが出来るようになっていた。
玄関ホールを抜けると、すぐ右手に管理人室がある。部屋は東側に続き、隣の二部屋は空室である。その向こうに浴室、トイレが並び、東端が貯蔵室となっている。これらの部屋は廊下を挟んだ北側にあった。
二階へ上がると廊下が東側に伸びており、西から東へ十の客室が並ぶ。部屋の番号は階段に近い側から二〇一、二〇二、東端の二一〇まで順番に続く。内装は、どの部屋も同じで、扉は南側にある。扉にはドアスコープが付いているので、部屋の前に誰がいるかを確認出来る。
内開きの扉を開けると、すぐ右手がユニットバス、左手奥にベッドが固定され、正面にやや大きめの窓が見える。右手奥の壁側にクローゼット、テーブルが置かれ、壁に鏡が掛けてある。床は一面、カーペットが敷き詰められていた。
客室の窓から見えるのは、鬱蒼と茂った木々と一面の雪のみであり、どの部屋から外を見ても、似たり寄ったりの景色である。それもあってか、各自の部屋はすぐに決まった。西端の二〇一から順に、しいな、ふゆみ、みづき、一部屋空けて、御門台、遠江、長沼、柚木、桜橋、草薙、という部屋割りである。
部屋が決まったあとで、各自に鍵が配られた。部屋番号の記されたプラスティックのプレートと鍵が、キーホルダーで繋がれているものだ。
客室はオートロックではないので、部屋を空けるときに各自が施錠しなければならない。鍵を部屋に置き忘れて締め出されることはないが、万が一鍵をなくしてしまったときのために、合鍵が管理人室に保管されていた。
そこには、玄関の鍵や離れの鍵も一緒に置いてある。当然のことだが、使用されていない客室や離れの鍵はきちんと掛けられている。
五
「駿河さんが、見知らぬ二人組から渡された原稿……それが、『狐ヶ崎』の活躍する物語だった」
遠江はここで一旦言葉を区切り、煙草の灰を灰皿に落とした。
廊下からラウンジに入ると、正面に窓が見える。室内には、四角いテーブルが二つ、端をくっつけて横に並び、その周囲は三人掛けのソファで囲まれている。扉から見て右手の壁際に、アンテナの付いた大型テレビが設置されていた。背から伸びたコードは壁のコンセントに繋がっている。
遠江が座っている側のテーブルには、煙草の箱が二つとライターが載っていた。
「そういう経緯だったんですか、そこまで詳しくは知りませんでしたね」
長沼が感嘆の声を漏らす。
「ああ、ただ自分も伊豆さんから聞いた話だし、伊豆さんも上級生から聞いただけで、初代会長の駿河さんと直接の面識はないんだ。だから、どこまでが本当の話か解らない」
伊豆というのは、現在四年生の伊豆ソウジのことである。去年までは、彼がミステリ研の会長をしていた。四年生は卒業後の準備などで慌ただしいことが多く、余程の余裕がない限り、合宿には参加することがない。そのため春合宿は、実質的に一年生から三年生で行なわれていた。
「その二人と会ったのは駿河さんだけで、他の会員は誰も顔を合わせていないらしい。当時の会員たちも、原稿を持ってきた学生がいたというのは作り話で、『狐ヶ崎』の物語は駿河さんが書いた作品ではないかと疑ったそうだ」
「でも、自分で書いた作品をどうして隠す必要があるんです?」
桜橋が疑問を口にする。
「それは、どのような評価をされるかが、不安だったからじゃないのか。楽しんでもらえるのならともかく、つまらないと貶されたときに、これは自分の書いた作品ではないと逃れることが出来る。それに、初代の会長を務めた程の人物だ。自分の作品によって、ミステリ研の評判が落ちることだけは避けたかったんじゃないかな」
「そういうものでしょうか……」
長沼は納得が行かないような顔で、長い髪を掻き揚げる。
「結果的に好評でありながら、続きを書かなかったのは、やはりそれが自分の書いたものではなかったからでしょう。それに自分の作品を素晴らしい出来だから読めと、毎年後輩たちに配るのはどうかなと思います。会ったことのない駿河さんに、悪い印象を抱き兼ねませんね」
「まあ、駿河さんが書いたものにしろ、他の人間が書いたものにしろ、その原稿が優れていることは確かなんだ。そうでなければいくら伝統とはいえ、素人の作品を毎年新入生に配りはしないよ」
「いえ、あれはこれからも配るべきだと思います。ぼくと同じ大学生が、これほどのものを書いたんだって驚きと同時に、創作を志す者にとっての励みになります」
普段の大人しい口調ではなく、桜橋がはっきりと言う。何かの意見を述べたり主張したりすることは、彼にしては珍しい。
ラウンジには遠江、長沼、桜橋の三人が集まっていた。エアコンにより、室内は程好い温度に保たれている。
それぞれの部屋を決めたあと、約一時間後の三時を目安にラウンジに集まることにしたのだ。山荘への到着時間は余裕を持たせてあったので、今後の予定を決めるのに急ぐこともない。
三人が話しているのは、サークル内では『狐ヶ崎』シリーズと呼ばれる、素人学生が書いたとされる推理小説のことである。詳しいことが解らないのは、作品を書いた作者自身と接触を取った者が、当時の会長である駿河のみだったからだ。
『狐ヶ崎』シリーズは、連作短編集の形を採っている。探偵役の『狐ヶ崎』が頼りない助手役とコンビを組んで殺人事件を解決していく一話完結の物語である。しかし最終話に施された仕掛けにより、個々の物語で犯人と指摘された者たちの犯行が全て否定されてしまう。そして、『狐ヶ崎』がこれまでに解決した事件は、皆彼による偽の解決であることが明かされ、真犯人は自分であることを助手役だけに告げ、物語は幕となる。
いわゆる探偵が犯人のパターンである。この作品に駿河が固執したのは、内容はもとより、原稿を書いたのが自分と同じ大学生であったことが原因らしい。文章や構成に難はあるものの、作中で語られる内容は、これほどの作品が学生に書けるものだろうかと、駿河に深い感銘を与えた。
駿河が推理小説にのめり込んだ契機の作品の著者が、大学時代、推理小説研究会に所属していたことを知り、駿河は自分のサークルにも斬新な試みで世間をあっと言わせるような才能が入会してくれることを期待していたのである。
もちろん駿河は自分でも創作をしたり、推理小説についてのレクチャーを後輩に行なったりもした。けれど読書が好きな者はいたが、自ら書くことを好む会員は、推理小説研究会でありながらほとんどいなかった。
駿河が『狐ヶ崎』シリーズの作品を読んだときの驚きようといったらどれほどのものだっただろう。原稿を持ってきた二人組が、入会希望ではないと断っていたのにも拘かかわらず、駿河は再び訪れた二人に対して入会を強固に薦めた。駿河の執拗さに負けた彼らは、サークル内で読むことを前提として、『狐ヶ崎』が登場する原稿を渡してくれた次第である。
「最初は、駿河さんがこの作品は凄いからということで、会内の数人に読ませただけだった。それが他の会員たちにも好評で、当時のメンバーに廻し読みされた。駿河さんの作品だと思っている会員の一人が、新入会員にも読ませようと提案したそうだ。――当時はまだ、内輪向けの会誌しか作っていなかったので、新入生に活動内容を説明するときには、レクチャーや読書会用のレジュメを見せていたらしい。駿河さんも、素人学生が書いた小説をもっと多くの人に読んでもらいたいと考えていたらしく、その案に異論は出なかった。その後、入会届を出した学生には、『狐ヶ崎』の物語が渡されることになり、それが現在まで続いているという訳だ」
六
話が一段落着いたからか、長沼も自分の煙草をテーブルから取って口に銜える。合宿に参加したメンバーで、喫煙するのは遠江と長沼の二人だけである。
そこへちょうど、賑やかな声が聞こえてきた。ほどなくラウンジの扉が開き、みづきが顔を出す。ふゆみとしいなも一緒である。シャワーのあとに着替えたのだろう、彼女たちは先程と服装が変わっていた。そのあとに女性陣から少し遅れて御門台が入ってくる。
「しかし、凄いところやな。ここは」
御門台は遠江の隣へ腰を降ろす。
「わしが部屋を出たときに、ちょうどあん子らも出てきてな。ひとつの部屋に集まって話しとったようなんじゃけど」
御門台は、もう一方のテーブル側に腰掛けたみづきたちを示した。
「部屋におっても全く気づかんくてな。ボックスの外からでも聞こえる日吉の声が聞こえんちゅぅのは、かなり防音がしっかりしとるようやな」
「ちょっとぅ。変なこと言わないでくださいよぅ。それじゃあ、あたしがいっつもうるさくて騒がしいみたいじゃないですかぁ」
遠江たちとは反対側のソファから声を掛けるが、普通に話していても、みづきの声は大きい。この声が聞こえないとなれば、室内で叫び声を出しても、別室の者には聞こえないだろう。
「そういえば……そうだな。てっきり山奥だからこんなに静かなんだと思っていたが、防音設備か……」
遠江は、短くなった煙草を灰皿で揉み消す。
「自分の部屋がノックされているのならともかく、隣の部屋がノックされていても気づけへんかもしれんな。殺人犯には都合のええことこの上ないわ」
それを聞いて完全に冗談と受け取れる者と、不謹慎な物言いだと考えた者とで、笑いの質が異なっていた。
それは御門台の言うことが強ち冗談でもないことを皆解っていたからだろう。山奥の山荘。各部屋に施された遮音設備。ノックの音も聞こえず、悲鳴さえも聞こえない。もしそのような良からぬ考えを持つ者がいるのであれば、これほど絶好の舞台はない。
「だけど、ここは閉鎖された山荘じゃないだろう? 天気もここ数日は良好だ。クローズド・サークルじゃないんだ」
遠江が至極当然なことを言う。
「だけど、残念でしたよねぇ。遠江会長ぅ。吹雪の山荘にならなくてぇ」
みづきが、前に言ったようなことを口にする。
「日吉、それは二度目だ。さっき説明しただろう」
「あれ、あれれ。そうですねぇ。聞いたような気がしますぅ」
はにかんだ表情を、みづきは見せる。
「そういえば、結局入江岡は、何が理由で来れんかったんや? 今までは欠かさず合宿に参加してたやろ」
御門台が思い出したように言う。
入江岡リンタロウは三年生で、現在編集長を務めている。例会はもちろんのこと、これまでサークル内の行事を休んだことはなかった。入江岡にとって、サークル活動を欠席するのは、今回の合宿が初めてである。
「何か外せない用事があるそうだ。ただ、どうしても理由を教えてはくれなかったんだが」
遠江が答える。
「外せへん用事ねぇ……。案外、吊り橋が怖くて渡れへんちゅうのが理由やったりしてな」
春合宿の行先や予定などを纏めた栞は、毎回合宿担当によって作られる。その習慣に漏れず、今回の栞は草薙が作成した。それは合宿の参加不参加に拘らず、二週間程前、全会員に配られている。毬藻荘に行くには吊り橋を渡らなければならないことも、そこに記載されていた。
「まさか、そんなことで休んだりしないだろう」
「解らんで、あいつは結構プライド高いしな。来てはみたものの、やっぱり渡れませんでした、なんてのは許せへんのやろう」
などと、それぞれが取り止めのない話をしているうちに、草薙がラウンジへ降りてきた。
「あれ、もうみんな揃っているのか?」
「いや、柚木がまだや」
「まあ、いつものことと言えば、いつものことか」
草薙は遠江の向かいに腰掛け、腕時計を確かめる。まだ十五分程、時間が残っていた。
七
柚木がラウンジに現われたのは、三時ちょうどだった。
全員が揃ったところで、草薙により改めて連絡事項が伝えられた。
「……食料はあらかじめ用意されているのを、自由に使ってくれて構わないそうだ。冷蔵庫や貯蔵室に飲み物や食べ物は十分に用意されている。ただ、余り食べ過ぎないように。胃薬や頭痛薬、鎮痛剤など、最低限の薬は管理人室に置いてあったが……ま、大学生相手に言うことでもないだろう。体調管理は個人に任せる」
草薙はここで一度話を区切る。他に言うべきことがないか考えているようだ。
「あとは……何があったかな。離れのエアコンは故障中で、代わりにストーブが置いてあるそうだが、これは俺たちには関係ないか。ああ、さっき少し言ったけど、風呂は二十四時間いつでも入れるようになっているから、入浴は自由だ。けど、他に誰も入ってこないような時間帯であれば、出たあとにガスのスイッチは切っておくように」
草薙は遠江に顔を向ける。
「……と、これで合宿係の仕事は終わりだな。あとの仕切りは、会長と次期会長に任せる」
「ああ、ご苦労様。草薙、奇術研の方で忙しかったところを、悪かったな」
奇術研究会でも、合宿のようなものが行なわれていた。日程が重なっていたため、草薙は奇術研の方を早めに切り上げて、ミステリ研の合宿に参加しているのだ。
「いや、いちいち気にしなくていい。マジックよりもミステリを取っただけのことだ」
草薙と遠江は、他人が嫌がるようなことを自ら進んで行なう傾向があった。ミステリ研の運営は、実質この二人によって担われていると言っても過言ではない。
根本的には似たような性格の二人であるが、異なる箇所はある。遠江はどのような仕事であれ、最初から自分で係わろうとする意識を持っているが、草薙は他に立候補者がいない場合にのみ、自分がその仕事に携わろうとする。遠江が会長になり、草薙が役職に就かなかったのも、この点が理由として挙げられるだろう。
「では、今後の予定を確認しておく」
草薙に代わり、遠江が口を開く。
「今回の例会担当は一年生。初日が桜橋のレクチャー、二日目が古庄の読書会、三日目は三年生が担当の特別例会だが、こちらの内容は、まだ明かさないでおこう。場所は、そうだな、食堂を使うか。メモを取れる場所の方がいいだろう」
ミステリ研の合宿では、毎夜例会が行なわれる。通常例会とは違って時間制限がないため、担当者も会員たちも心行くまでの討論が可能となる。来年度の役職を決める参考にと、合宿での例会は基本的に一年生が担当していた。清水まゆみが参加していれば、彼女の担当する例会が三日目の夜に行なわれただろう。
「それと、前々からの懸案である、新入会員勧誘の件。これについては、桜橋のレクチャーが終わったあとに一人ずつ意見を聞くことにするので、各自考えを纏めておいて欲しい」
懸案というのは、ここ最近、推理小説研究会の入会者が減少していることである。ミステリを扱ったコミックの影響で、顔を見せる新入生は増加していた。しかし彼らはコミックのノベライズは読むものの、活字で書かれたミステリを読むのが苦手で、すぐにサークルを抜けてしまっていた。
映画やドラマのミステリ作品に興味を持って入会を考えた学生たちも、活字のミステリには取っ付きにくいのか、なかなか定着しなかった。コミックやドラマのミステリを軽んじる訳ではないが、活字のミステリに興味が持てないというのは、ミステリ研の会員たちにとって、切実な問題であった。
もともと人数の多いサークルではないが、この数年会員の減少が顕著である。入会希望者や見学者は毎年ある程度の人数が来るものの、最終的に入会する学生は少ない。去年も今年も、新入会員は三人だけだった。このままでは廃部となりそうな状況をどうやって打破するかが、ミステリ研に於いて由々しき問題となっていた。
「あとは、夕食の担当を決めないとな。さっき草薙が言った通り、材料は自由に使っていいそうだ。食事に対して希望は特になかったので、献立は担当者に任せることにする。そうだな、二、三人いれば大丈夫だろう」
これまでのホテルや旅館での合宿と違い、今回は自分たちで食事の支度をしなければならない。
「おれがやりますよ」
そう言って柚木が立ち上がる。会員たちは多少なりとも驚いているふうだった。
「料理、出来るんか?」
「まあ、人並みに。広いキッチンを、一度使ってみたかったんです」
柚木は自分のしたいと思う行動を迷わず敢行し、そのための発言なら躊躇うこともない。普段彼が口を開かないのは、話したいことや聞きたいことがないからである。柚木は、話すときは話すが話さないときは全く何も話さないという両極端な性質を持っていた。
「おい、どこ行くんや」
御門台が止めるのも、柚木がラウンジを出ていこうとしたからである。
「何を作るにしろ、ある程度の時間は必要でしょう。早めに作り始めるに越したことはない。そうだな、二時間、いや、三時間もらえれば十分だ。六時半には食堂に用意しておきますよ」
言うだけ言うと、柚木は振り返らずにラウンジを出ていってしまう。
「あ、ああ。それじゃ夕食は、六時半からということだな」
遠江にしても、柚木の突飛な振る舞いには未だ慣れていないらしく、発言が遅れた。
「とはいえ、さすがに一人でやらせる訳にもいかないだろう。誰か、手伝ってくれる者はいないか」
「じゃあ、あたしもやるぅ。たまにはご飯作りたいしぃ」
みづきが張り切って手を上げる。柚木のときと違い、皆の反応には不安の色が少なからず混ざっている。もっともみづきは、自分の発言に対する皆の反応に気づいていないようである。
「私も手伝うよ」
「はい、お願いしますぅ」
ふゆみの発言に安心したのは、みづきだけではないだろう。
「では、今日の夕食は、柚木、日吉、春日町に頼む。それじゃあ、あとは夕食まで自由時間だ」
そう言って、遠江はこの場を締め括った。
ふゆみとみづきに対し、わたしも手伝った方がいいでしょうかとしいなが訊いてきた。
「うん、大丈夫。みづきもいるし。さっきの口振りからすると、柚木君もかなりの腕前なんじゃないかな。しいなさんは休んでくれていいよ」
ふゆみが言ってみづきも同意を示したので、しいなは一礼するとラウンジを出ていった。おそらく自分の部屋に戻るのだろう。
しいなと話しているうちに、ラウンジに残っているのは自分たちを除けば遠江と草薙の二人になっていた。遠江は新しい煙草を取り出しているので、もうしばらくここに残るつもりかもしれない。
「じゃあ、私たちも行こうか。柚木君、誰も来なければ一人で先に作っていそうな感じだし」
ふゆみとみづきは、食堂へ繋がる扉を開けて厨房へと向かう。
「ふゆみ先輩、自炊は何日振りですかぁ」
「あ、あのね、みづき。毎日作るから、自炊って言うのよ」
ふゆみの表情が少し強張ったが、そんなことにみづきは気づかないようだ。
「それじゃあ、料理の腕には自信がありそうですねぇ。石垣の家では食事担当を任されていたって、聞いた覚えがありますよぅ」
「どうだろう、柚木君と同じで人並み程度かな。作ってたって言っても、家族相手だし、家庭料理くらいだよ」
何でもないことのように、ふゆみはさらりと流す。
ふゆみが高校生のとき、彼女の両親が離婚している。ふゆみは母親に引き取られることになり、石垣姓から春日町姓に変わった。両親の離婚は円満に行なわれたとは言えず、当時のふゆみに幾らかの影響を与えた。家庭内の不和によって精神的な失調に見舞われたふゆみは、高校へ通うことが困難な状況に陥った。それにより、ふゆみは止むなく留年することになったのだ。とはいえ、復学してからは以前の明るさを取り戻していた。
このことは特に他人に言うことではないが、仲の良いみづきだけには話してあった。自己紹介で自分から言わない限り、ふゆみが周囲より一年遅れて大学に入学したことは、誰にも解らない。早生れなので、同学年の学生たちと生まれ年は同じなのである。
「それじゃあ、今日はふゆみ先輩と柚木君にお料理の作り方を教えてもらいますねぇ」
ふゆみは頑張ってとみづきに声を掛ける。厨房へ続く扉を開けて、ふゆみは首を傾げた。
「あれ、おかしいな。柚木君がいない」
貯蔵室には段ボールやら発砲スチロールやらが、棚ごとに並べられていた。それらは扉に近い棚から乱雑に置かれている。食材を用意した人間は、置き場所や中身に注意を払わなかったようだ。
一箱ずつ蓋を開けて、柚木は中を確かめた。必要な食材を空いた段ボールへ詰め込んで、厨房へ向かう。野菜を入れた箱を片手で抱え、もう一方の手で扉を開けると、みづきとふゆみがいた。
「何?」
開口一番柚木は問う。
「夕食作り、手伝いに来たの。遠江君が、二、三人で頼むって言ったの、聞いてなかったの?」
柚木の質問にふゆみが答える。
「聞いていた。だがこれまでの例からすると、最初に決まらないときは、いつまで経っても決まらない。どのようなことであれ、最終的には遠江さんか、草薙さんがすることになる。だから、君たちが手伝いに来るとは思わなかった」
「そういえば……そうかな。でも、いつもあの二人に任せてる訳じゃないよ」
柚木は段ボールを流し台の横に置く。
「何を作るのぅ?」
先程の挙手からも解るが、みづきは誰に対しても別け隔てがない。相手が柚木だろうと、他の誰であろうと、態度や応対が変わることはない。それは上級生や下級生、年齢や性別が違う者に対しても同様だった。持ち前の人懐っこさのせいか、誰からも疎まれてはいないようである。
「冷蔵庫の中を見た。牛肉と卵の消費期限が近い。早めに処理した方がいい」
みづきが冷蔵庫の中を開ける。家庭用の冷蔵庫よりも、一廻りは大きい。
「S県と違って、こちらはかなり寒い。夜は大分冷えそうだ。体が暖まるように、ビーフシチューを作る。卵を使いたいから、プレーンオムレツも。それに野菜サラダだな。あとはフランスパンがあったから、それを焼く。メニューは一応こんな感じだ」
みづきとふゆみはすぐに反応出来なかった。
「何だ、他に作りたいものがあるのか? それなら言ってくれ。おれは別に何が何でもビーフシチューを作りたい訳じゃない」
柚木は敬語が使えないのではなく、他人と話すことに慣れていないのだ。そのため上級生を相手にすると、丁寧な口調のとき、上級生だと意識しない話し方のとき、それらふたつが混ざったような妙な言葉遣いを使うときと、話し方が度々異なる。柚木はボックス内で誰かと二人きりになっても気不味さを感じないのか、気にすることもないのか、余計な口を利くことはなかった。
これは柚木の性格によるもので、一緒にいる相手が嫌いだとか苦手だとかいう理由で避けているのではない。話し掛けられれば、ちゃんと言葉を返す。桜橋の場合は恥ずかしくて話せないということもあるが、柚木の場合は違う。必要があれば話すが、必要がなければ話さない。
実際、柚木は取っ付きにくい相手である。桜橋は大人しいとはいえ、他のメンバーが一緒にいれば柚木と話すことも可能だが、しいなは性格的に無理なようである。入会して一年が経とうとしているが、しいなは先輩である柚木とは未だ話したことがなかった。
「え、いや、色々考えてるんだなって思って。うん、いいんじゃないの」
柚木の発言に、ふゆみが少し遅れて答える。柚木は聞いているのかいないのか、流し下の収納を調べていた。収納扉の内側にある包丁差しに、三徳包丁、捌き包丁、ペティナイフなど、包丁一式が揃っている。収納には、フライパンや鍋など、大小数種類が仕舞われていた。柚木は必要とする調理道具を取り出し、流し台に並べていく。
「もしかして、食事は毎日作ってるの?」
「どうしてそんなことを。下宿生が自分で食事を作らなければ、食べるものがないだろう」
ふゆみの質問に対する、柚木の返事は素っ気ない。
「うぅ、何か、凄く上手そうぅ。料理上手な旦那さんなんて、あたしは嫌だなぁ」
みづきの言うことは、やはりどこか外れている。
ラウンジには遠江一人が残っていた。
灰になった煙草が灰皿に溜まっているが、遠江は新しい煙草に火を点ける。
今回の合宿は、遠江が会長として行なう最後の活動である。来年度からは、長沼が会長になりサークルを運営することになる。遠江は当初、従来と同じく近場のホテルか旅館で済ませる予定だった。草薙がどこからか見つけてきた山奥の山荘、毬藻荘にいきなり飛び付いた訳ではない。
草薙の説明はいかにも推理小説に登場しそうな山荘で、すぐにでも行ってみたい誘惑に駆られた。自分一人で訪れるのであれば問題ないが、ことはサークル合宿の行先である。自分の独断で、おいそれと頷くことは出来なかった。
食事のことや、山荘までの急な山道、S県とは掛け離れた気候での滞在、病人が出たときの対応、近場に店も何もない状況での合宿。考えないといけない問題は幾らでもあった。
中でも一番の障害は、推理小説に登場するような山荘だからといって、会員が全員喜ぶことはないと解っていたからだ。草薙にしてもそれは同じで、必ずしも毬藻荘で合宿を行なって欲しいという言い方ではなく、ここでいいなら手配をする、という感じだった。
当然と言えば当然のことだが、会員によって好みの推理小説は異なる。トリック、ロジック、キャラクターなど、推理小説のどこに重きを置いて読むかは個人の自由である。会長であるからといって、会員の読書傾向まで指図するつもりはない。
遠江自身は嵐の山荘もの、いわゆるクローズド・サークルと呼ばれる閉鎖空間での殺人事件を扱ったミステリを好んでいた。ところが、会内ではクローズド・サークルものは余り評判が良くない。遠江が薦めたときも、つまらなくはないが続けて読みたいと思う程のものではないという感想を数人から聞いた。遠江と反対に、クローズド・サークルものだから、敬遠して読まないという者もいるくらいだった。
推理小説研究会の中には他の部と掛け持ちをしている会員もいる。草薙は奇術研究会、ふゆみがボランティア研究会、柚木は文芸部にも所属していた。他のメンバーにはまだ知られていないが、桜橋も半年程前に文芸部へ入会している。本人曰く、自分の好きな小説が純文学なのか推理小説なのかがはっきりと摑めていないからということだ。あえて他の会員に言うことでもないので、会長だけには報告をしておきますと本人に直接言われたことがあった。他の会員にいちいち隠してくれというのが、臆病で内気な桜橋の性格を表わしている。
彼らにとってはミステリ研の活動が必ずしも一番な訳ではない。悔しい気持ちもあるが、それは仕方のないことだった。そのようなこともあり、自分一人が行きたいと考える場所を合宿の目的地に決めることに抵抗があったのだ。
最終的に会員の意見を取り入れて、毬藻荘を訪れる運びにはなったが、これは他の会員たちが山奥の山荘を希望したということではなく、この一年会長職を務めた遠江に対しての心遣いであるようだった。
かくして遠江会長による最後の宿泊場所は、この毬藻荘に決まった。半ば自分の嗜好によりこの山荘に決まったような感があるので、山荘へ着くまで本当に合宿の目的地を毬藻荘に決めた判断は正しかったのだろうか、と何度も自問した。
山道を歩いていたときなど女の子たちの様子を見て、やはり無難な場所にしておけば良かったと何度思っただろうか。けれど今更どうしようもない。どうにか無事に着くこと、それだけを考えていた。
毬藻荘に到着したことで、幾分気持ちは和らいだ。想像していた以上の建物だった。今までの宿泊場所は、代わり映えのしないホテルや旅館だったのだ。まるで小説の舞台のような山荘に、皆が多少なりとも驚嘆しているのは確かだろう。そんな様子を見て、遠江はようやく人心地がついた。
灰になった煙草を灰皿に押し付けたところで、ラウンジの扉が開いた。室内に入ってきたのは草薙である。
草薙は自分が中心になることは出来ないと考えている訳でもないだろうが、中心にいる人物を補佐することが多かった。それは推理小説研究会に限ったことではない。奇術研究会やゼミクラスにおける振る舞いや行動も似たようなものらしい。
今回の合宿でも、少なくない手助けを遠江は感謝していた。しかしそのようなことを面と向かって言うのは恥ずかしいのか、遠江はそれとなく助かったよと言っただけだった。
「早めに降りてきたっていうんじゃなくて、さっきからずっといたのか?」
草薙は灰皿の中身に気づいたようだ。
「ああ、たまにはのんびりしているのもいいだろう。何しろ、こんな景色はS県で見ることは出来ないからな。眺めているだけでも面白い」
釣られて草薙も窓の外を見る。
「面白い? 滅多に見られない光景ではあるが」
窓の外、雪は依然と降り続けている。
第二章 第一の被害者
*
風邪を引いたようだった。
男の子は布団で横になっている。朝食時は学校へ行くと言い張っていたが、母親に制止された。学校には連絡をしてあるそうだ。それを聞いて、男の子は大人しく部屋に戻っていった。
兄弟で使っている狭い部屋で、男の子はその日を過ごした。いつの間にか、男の子は眠っていたようだった。目が覚めたときは、夕方になっていた。今日の授業は、とっくに全部終わっている。
「ん……?」
男の子の前に、女の子がいた。両手で盆を抱え、その上に土鍋と蓮華が載っている。
「あ、起きた。ちょうど起こそうとしていたんだよ」
女の子は、土鍋を落とさないよう慎重に進む。部屋に二つある勉強机の片方に、盆を置いた。
「ええと、どうしてここに?」
「学校帰りに寄ったの」
女の子は椅子に腰掛ける。
「プリント、届けに来たの。おばさんに渡してあるから」
「ああ、そう……」
男の子は、寝呆けているらしい。
「でも、それは?」
「おかゆ。私が作ったんだよ。ま、ちょこっとはおばさんに手伝ってもらったけど」
女の子の言うことに、男の子は不思議そうな顔をする。
「夜ごはん、いつもこの時間なんだって? 結構早いね」
女の子は立ち上がる。
「それじゃ、私は帰るから。明日は学校来れるでしょ」
「ん、ああ、多分……」
襖を開けたまま、女の子は出ていった。おばさんおじゃましましたぁという声に続いて、玄関ドアの閉まる音が聞こえる。
「……何だったんだ? おかゆ?」
机の上にある湯気を立てる土鍋を、男の子はぼんやりと眺めている。
* * *
山奥の山荘。毬藻荘。
何も知らずに訪れたメンバー。
殺戮の舞台は整っている。
あとは、実行するだけだ。
計画に従い、ことを為す。
人数は、いや、彼らを人として扱うのは止そう。
奴等は殺されるための駒なのだ。人間ではない。
現在の駒は八つ。
全ての駒を取り除き、最後まで盤上に残るのは。
自分だけ。
遠い。目的地は見通せない程遥か遠くにある。
だが、辿り着かなければならない。
そこに自分の想いが、願いがあるのだから。
毬藻荘を舞台にした、一度限りの大量殺人ゲーム。
自分にとって、生涯を賭けた大仕事。
さあ、為し遂げてみせようか。
* * *
八
「明日、雪だるまでも作ろうかぁ」
曇った窓ガラスの前で、みづきとしいなが雪の降る様を眺めていた。みづきは子供のように水滴を指で拭い、絵のようなものを描いている。
「日吉さん、汚れますよ」
しいながハンカチを取り出し、みづきに渡す。
食堂には横に長いテーブルがあり、周囲を十四脚の椅子が囲んでいた。西側の壁、ちょうどラウンジに繋がる扉の上辺りに、時計が掛けられている。窓からは、吊り橋は見えない。これはラウンジの窓も同様で、どちらの部屋から見える景色も似たようなものである。真向いの雪景色と、崖の向こうに広がる山林が見えるだけだった。
時刻は六時二十五分。辺りに夕闇が迫りつつあった。
柚木は自分の発言通り、六時半までに食事の支度を終えていた。出来上がったあとは、ラウンジでくつろいでいた遠江と草薙にも手伝ってもらい、料理を食堂へ運んだ。あらかた並べ終わったころに、しいなが顔を出し、次いで長沼がやってきた。今し方、御門台が食堂へ降りてきたので、あとは桜橋を待つだけである。
「わしゃてっきり、柚木が作る言うたから、カレーかと思うとったんやが、これは意外なメニューやったな。それともこれは、春日町のレパートリーかいな」
みづきの名前が抜かれているが、忘れている訳ではないだろう。
「ううん、違うよ。メニューは柚木君が決めたの。それに、ほとんどは柚木君が一人で作ったようなもので、私たちは、本当に手伝いみたいなものだったよ」
「へぇ、そうなんか。早く味を見たいものやな」
御門台がちらりと柚木を振り返る。
「……桜橋にしては遅いな。いつもは集合時間に余裕を持ってくるんだが」
遠江が腕時計を見る。彼は他の会員が忘れてしまいそうな些細なことも覚えている。他人のことを極力理解しようと努める性格の持ち主である。
窓に落書きするのも飽きたのか、みづきが席に着き、しいなも隣に座る。みづきは早速スプーンを手に取り、今すぐにでも食事に取り掛かりたいふうだった。
「僕が呼んできましょう」
長沼が立ち上がったのは、夕食の予定時間を十分過ぎたころだった。
ああ、頼むよと遠江が声を掛ける。柚木と違い、長沼はええと頷いてからラウンジを出ていった。
「レジュメの最終チェックでもしているのか」
草薙が呟いた。
レクチャーにしろ読書会にしろ、担当者が作成したレジュメを基に例会は進められる。レジュメの見直しはするに越したことはない。もっともコピーは山荘へ来る前に済ませてあるだろうから、間違いを見つけた場合は手書きで修正するしかないだろう。
「みづき、もう少しだから我慢しなさい」
向かいの席から、ふゆみが声を掛ける。
「はぁい。しいなちゃん、これの三分一はあたしが作ったんだよぅ。美味しさの三分の一は、あたしの真心だよぅ」
みづきの言うことに、しいなはどう答えれば良いのか解らないようである。
突然に。勢い良く扉が開かれた。
階段を駈け降りてきたのか、長沼の呼吸は乱れている。
「ど、どうしたんや。階段を落ちでもしたんか?」
御門台はからかうように言ったが、長沼の蒼白な表情を見て二の句が継げなくなった。長沼は壁にもたれ、どうにか呼吸を整える。そして。切れ切れに、驚愕の事実を口にする。
「さ、桜橋君が……殺されています!」
水を打ったように、食堂内は静まり返った。
このような質の悪い冗談や悪戯を長沼がするはずはない。彼はいつも他人との距離を一歩置き、冷静で落ち着き払った人物である。討論や議論で熱く語ることはあっても、常に自分を律して我を忘れることはない。その長沼がこれほどまでに取り乱している様を目の当たりにして、言葉を返せる者はいなかった。
冗談でもなく悪戯でもない。長沼が伝えたことは紛れもない事実だ。そう思っているからこそ、誰も咄嗟に動くことが出来なかった。各々が頭の中で、長沼の言ったことを繰り返しているのだろう。そんなことが起きるはずはない。だが、長沼は嘘を吐くような人間ではない。それはつまり、本当に桜橋は殺されているのだ、と。
「わ、解った……様子を見てこよう」
最初に立ち上がったのは遠江だ。その声に草薙も席を立つ。どうしたら良いのか解らず、みづきがおろおろしているのを見て、しいなが宥めようとする。
「状況を確認してくる。日吉たちはここで待っているんだ。春日町、長沼を看てやってくれ」
遠江がラウンジを出て二階へ駈け上がる。その後ろを草薙が追う。
「この部屋、か……」
客室二〇九の前で、遠江が立ち止まる。勢い込んできたものの、やはり扉を開けるのに躊躇いがあるのだろう。じきに、柚木と御門台も部屋の前にやってきた。遠江の横に草薙、その後ろに柚木と御門台が並び、皆が遠江の行動を待った。
遠江はまなじりを決し、扉を開ける。
「さむぅっ……」
声を上げたのは御門台だった。部屋の窓が開け放たれている。頭上の壁に組み込まれたエアコンは、静かな音を立てて冷気を放出していた。
「な……」
部屋に入った遠江は呆然と立ち尽くす。
「う、嘘やろぅ……」
御門台が後退る。草薙と柚木は声もない。眼前の光景に目を奪われている。
長沼が、殺されていると発言したのも道理である。
ベッドに横たわる下半身。両足の間に挟まれた桜橋の頭部。枕元には、血に塗れた捌き包丁が突き刺さっている。その隣に置かれているのは、かつて上半身だったもの。首だけではなく、肩口から両腕までも斬り離された胴が俯せる。
それらは異常なまでに血で彩られていた。頭部も、胴も、下半身も、鮮血を撒き散らかされたかのように赤く染まっている。右腕、左腕であっただろう部分は、更に分断されて床に散らばり、それらに混ざって衣服が打ち捨てられている。カーペットには刃物で切られたような傷跡が複数残り、中には床まで抉れている箇所もあった。床上の分断された両腕にも、全てに生々しい血がべっとりと付着していた。
口数は少なくとも創作や評論に対し興味を抱き会内の新しい力となりつつあった桜橋。彼が自身のレクチャーを行なう日はもはや訪れることはない。
「ぐぅっ……」
御門台がくぐもった声を漏らし、ユニットバスへ駆け込む。我に返った草薙が、大丈夫かと声を掛けて御門台の許に近づく。死体を見下ろす遠江は悲鳴を上げることはなかったが、彼の手は細かく震えていた。柚木は後ろから、その姿をじっと見つめる。
御門台の嘔吐後、室内にはエアコンの稼動する音だけが、微かに響いていた。
九
食堂の時計は七時を過ぎた。
長沼はふゆみに差し出されたコップの水を飲み干して、かろうじて落ち着いたようだったが、そのまま押し黙ってしまった。みづきは目を赤く腫らし啜り泣いている。どうにか慰めようとするしいなの声は聞こえていないようだった。
食堂の扉が開く音に、ふゆみがはっとして顔を向ける。御門台だった。彼は無言で席に着く。
「ねえ、どう……だったの?」
御門台はかぶりを振っただけで、力なく椅子に腰掛けた。
「そんな、本当に……」
言ったきり、ふゆみは黙ってしまう。長沼を疑っていた訳ではない。だが、どこかでそんなことが起きるはずがないと願っていたのだろう。
再び扉が開く。
「不味いな……これは」
「悪い、俺がきちんと確認をしておくべきだった」
遠江と草薙が、深刻な顔をして入ってきた。
「ん、柚木はどうした。御門台、一緒に降りてきたんじゃないのか?」
柚木の席が空いていることに、遠江は目敏く気づく。
「さあ、トイレちゃうか」
御門台は気のない返答をする。
「あの、……他に何かあったんですか?」
二人の様子を訝しんだしいなが訊ねる。他というのは、桜橋のこと以外にという意味だろう。遠江が椅子に座り、草薙も隣の席に着く。
「ああ、それが……電話が通じない」
「え……?」
その返答に、しいなが声を飲む。
「とにかく警察に連絡するべきだと思い、草薙と管理人室へ行ってきたんだが、電話が掛けられなかった」
「どういうこと? 電話線が切られてたの?」
ふゆみが問う。
「いや、電話線自体がなくなっていた。一見しただけでは、電話に何も異常はないように見えた。実際に掛けてみるまで解らなかっただろう。別に、草薙のせいじゃない」
遠江は苦い顔で、草薙を一瞥する。
「いつそうなったのかは解らないが、電話線がなければ電話は使えない。そんなものは誰も持ち歩いていないだろう」
念のため遠江は、電話線を持っている者がいないかを訊いてみたが、案の定誰からの返答もない。
「そんな……」
遠江は懐から煙草の箱を取り出す。普段なら、周りの人間に了承を得てから煙草に火を点けるのだが、そのことを忘れているようだった。
「携帯電話も圏外だ」
草薙が言い放つ。
「じゃ、じゃあ、どうするの、これから……」
「心配するな、春日町。明日の朝、自分が警察を呼びに行く」
遠江は中学高校と陸上部に所属していた。この提案は、自分の持久力に少なからず自負を持っているからこそだろう。
「明日……ですか?」
しいなが不安そうな顔を見せる。
「ああ、今からじゃ無理だ」
答えたのは草薙である。
「麓から駅までのバスは、この時間走っていない。行くとなれば当然徒歩になる。それに、この寒さの中、何時間も歩くのは危険だ。いくら遠江が体力に自信を持っていても、かなり厳しい」
「そう……ですか……」
しいなは顔を伏せ黙ってしまう。
誰も何も話そうとしない。食堂にみづきの嗚咽だけが響く。明日警察が来るとはいえ、桜橋が死んだことに変わりはない。彼らは小説の中の出来事ではない現実の死に対し、掛ける言葉を持っていない。突然訪れた仲間の死に何を言えば良いのか、明確な答えを持つ者はいなかった。
三度扉が開く。
柚木が食堂へ入ってくる。
「厨房へ行ってきました。包丁差しになくなったものはない。料理を始める前に調理器具を調べたので、記憶は確かです」
突然の報告に皆は途惑う。しかし柚木は、自分が見てきたことを淡々と報告する。
「つまり、桜橋の部屋に残されていた包丁は、前もって犯人が用意したものでしょう。桜橋を、切断するために」
柚木の発言によって、食堂内の重苦しさが増す。警察がすぐには来られない状況で、彼は躊躇いもなく犯人のことを口にした。けれど柚木は自分が言った内容を気にする素振りもなく、席へ着く。だが、遠江もそのことを無視して話を進める訳にはいかないことを解っていたからだろう。柚木を咎めることはなかった。
「ちょっと待って」
ふゆみが声を上げる。
「ねえ、柚木君。今、切断って言ったよね。どういうこと? 桜橋君は殺されただけじゃなくて、その、包丁で……」
ふゆみは次の句を続けられなかった。けれど、言わんとしていることは皆に伝わっているのだろう。遠江は煙草を銜えたまま、長沼、御門台を順に見遣る。そしてふゆみに向き直るが、言うべきか言わざるべきか迷っているようだ。
「事実を伝えた方がいい。長沼や御門台でさえあの有様だ。彼女たちに桜橋の部屋を見に行かれたら、とてもじゃないが俺たちに介抱出来るとは思えない」
草薙が助け船を出す。それを受けて遠江はふゆみに向き直り、煙草を灰皿に捨てた。
「ああ、桜橋は……ばらばらにされていた」
桜橋の状態を知らないだろう女性たちに対し、遠江は説明する。直接的な言い廻しを避け気分が悪くならないような配慮を試みるも、ことが切断死体に関してである。どのように言ったところで、彼女たちに動揺を与えるだけだった。
みづきなど、一層大きな声を上げて泣き出してしまう。ふゆみは、しいなの手に負えないと判断したのだろう。席を立ってみづきの横にやってくる。みづきの細い身体をぎゅっと抱き締めた。
「……落ち着いて、みづき。大丈夫、きっと大丈夫……だから」
ふゆみの台詞に絶対の根拠がある訳ではないと、皆解っているのだろうが、誰もそれを口にしない。ふゆみに声を掛けられたからか、抱き締められた暖かみからか、みづきは次第に落ち着きを取り戻していった。
その様子を見て、遠江が大きく息を吐く。疾うに煙草は灰になっている。不意に気がついたのか、電話が使えないことと明日自分が警察を呼びに行くことを柚木に伝えた。柚木は驚くでもなく、そうですかとだけ言った。
「誰や、誰がやったんや……」
御門台が誰にともなく問い掛けるが、返事はない。苛立たし気に言葉を続ける。
「勘弁してぇな……。何でこんな目に遭わんといけんのや……。え、こん中におるんやろ。桜橋を切り刻んだ犯人が!」
張り詰めていた糸が切れたのか、御門台は目を剥いて喚き立てる。
「落ち着け、御門台。不安なのはみんな同じだ。そう声を……」
「遠江、お前さん随分冷静なんやな。こんな人が殺されたって状況で。それは自分が犯人やからちゃうんか? そやったら落ち着いてみんなに指示も出せるわな」
気色ばんだ御門台は、遠江が言い終わる前に口を出す。
「御門台! 止すんだ。それ以上は言うな」
草薙の厳しい声が飛ぶ。
「彼女たちが怯えている」
言われて、御門台はふゆみたちを見る。ふゆみの身体を摑むみづきの腕は震え、ふゆみとしいなにも狼狽の表情が浮かんでいる。
「あ……あぁ、すまん、かった……」
自分の失言を恥じたのだろう。女性たちの方を向いて、御門台は頭を下げる。そのままぐったりと顔を伏せた。
「遠江、気にするな。今のは勢いで言ってしまっただけだ。御門台だって、本当にお前が犯人だと思っている訳じゃない」
すっかり黙ってしまった遠江に、草薙が声を掛ける。何を思っているのか、遠江からの返事はなかった。 「遠江……?」
「離れだ……。そうだよ、真っ先に確認するべきだったんだ。もしそうなら、目も当てられない」
突然、遠江は立ち上がる。
「みんな、自分の部屋の鍵は掛けてから降りてきたか? もし、掛けたかどうかはっきりしない者がいたら、この場で言ってくれ」
遠江は唐突に質問を投げ掛ける。だが遠江の真剣な表情を見て取った会員たちは、それぞれに返答をする。その中に、鍵を掛け忘れたと言う者はいなかった。
「草薙……それと柚木、一緒に来てくれ……。確認したいことがある」
言うや否やラウンジを出る。草薙は遠江の行動におおよその予測がついているのだろう、余計なことを訊ねることなく遠江に付いていった。柚木も黙って続くが、彼の不言実行は、いつものことである。
「な、何よ……いきなり。何か一人で言ってたと思ったら、急に出ていって……」
困惑するふゆみに、長沼が顔を向ける。
「おそらく、外部犯が離れにいる可能性を望んだのでしょう。それがないと解っていても。……それにしても、さすがに遠江さんは優秀だ。仲が良いからと言って無条件で容疑者から外すようなことがない」
既に長沼は平静さを取り戻しているようだ。いつもながらの持って廻った言い方をする。
「どういうこと? 遠廻しに言わないで、はっきり言ってよ」
「遠江さんの様子を見る限り、離れを見に行くことは先程思いついたのでしょう。それでいて、すぐに草薙さんと柚木君を指名しました。草薙さんだけでもなく、柚木君だけでもない。二人を指名したんです」
「何? それがどうしたっていうの。離れに誰かが隠れていたら、一人じゃ危険だと思ったんでしょ。だから、二人を一緒に連れていった」
どこにもおかしいところなんかないでしょう、とふゆみは言う。
「離れに誰かが隠れている場合は、ですね。だが、離れはあらかじめ鍵が掛かっている。何者かが侵入するのは難しい。調べてみても離れには誰もいないということを、遠江さんが考えないはずはない。もし指名する相手が一人で、仮にその人物が犯人だった場合、遠江さんは犯人と二人きりになってしまう。そのとき犯人が行動を起こすのを防ぐために、草薙さんと柚木君の二人を連れていったのでしょう」
「何やそれは。遠江は、草薙と柚木を疑ごうとる、ちゅうことか?」
御門台が顔を上げる。先刻までの勢いはなく、声が弱々しくなっている。
「いえ、あの二人を選んだのは別の理由ですね。捜索をするのなら、全員で行なう方がいい。だが、ようやく冷静さを取り戻した僕たちを連れていくのは憚られた。比較的動揺が少ないように見える草薙さんと柚木君を連れていったのは、そのような理由からでしょう。こんなときでも、あの人は他人のことを気遣っているんですよ。とてもじゃないが真似出来ませんね」
何か思い当る節があるのだろう。遠江と同学年の二人は、わずかに安堵した表情を見せた。
「遠江さんにしても、内心は怖いはずです。それこそ、誰かどうにかしてくれと叫びたかったことでしょう。犯人がいるのなら名乗り出ろと。だが、それを露骨に見せることをしない。そんなことをしたら、僕らは疑心暗鬼に陥るだけです。遠江さんまでが取り乱したら、この場を収拾出来る人間はいません。このような状況で、落ち着いて判断し行動の出来る人間がいたことは、僕たちにとっての救いです」
「そやな、わしなんか、もう動く気すらないし。頑張っとるよな、あいつ」
御門台がぼそりと言う。
食堂は静寂を取り戻す。重苦しい雰囲気も多少は緩和されたようである。みづきもようやく泣き止んでいた。それを見てふゆみはみづきを抱えていた手を離す。空いている椅子を持ってきて、みづきの横に腰掛ける。
やがて、遠江たちが戻ってきた。遠江の頭は雪で少し白くなっている。彼は手に懐中電灯を持ったままだった。遠江が着席したのを見計らって、長沼が訊ねる。
「外部犯の可能性は消せましたか?」
十
一瞬驚いたような顔をした遠江だったが、すぐに納得の表情に変わる。
「さすが長沼だな。頭の回転が早い」
遠江は、離れには誰もいなかったこと、母屋の部屋を一通り調べてきたが誰も見つからなかったことを報告した。
「部屋って、わたしたちの、部屋も……ですか?」
しいながおどおどした声を出す。
「誰かを犯人だと疑った訳じゃない。あくまで、外部の人間が隠れていないかを調べるためだ。部屋の荷物に触れてはいない」
遠江は、しいなに優しく説明する。
「せやから、こんなに時間が掛かった訳か。離れだけなら、すぐに戻ってくるはずやったのにな」
時刻はまもなく八時になる。
「とりあえず、スペアキーは各自で持っていた方がいい。草薙」
先に話をしていたのだろう、草薙が持っている鍵を会員それぞれに渡していく。自室の合鍵を受け取った長沼が口を開いた。
「これで、外部犯の可能性は否定された訳ですね。要するに、犯人は僕ら八人の中にいる、と」
長沼は、あえて遠江が避けていた言葉を口にする。
「確かに、そう考えるしかなさそうだ……」
遠江の顔は苦渋に満ちていた。なかなか踏ん切りがつかないようだ。
「こんなときにまで他人を気遣う必要はない。お前が仲間だと思っていても、犯人に名乗り出る気はないだろう。それに仲間のことを考えるなら、犯人の検討はやはり必要だ」
席に戻った草薙が、あと一歩を進める言葉を掛ける。
「どうでしょう。警察が来るまで、僕らに出来ることをやっておくというのは」
このような状況に於いても皆が遠江の判断を仰ぐことが、彼の人間性を表わしていた。
「……解った。疲れているだろうが、みんなもう少しだけ付き合ってくれ」
ともあれ、切断の理由は避けて通れませんねと長沼が口火を切る。
「しっかしお前、急に活気づいてきてんな。さっきまで、茄子みたいに青ぅなってたいうのに」
長沼は、御門台の皮肉に動じることはなかった。
「あれは不意打ちでしたからね。もし発見者が僕ではなく、桜橋君のことを知らされた上で見に行ったのであれば、もう少し落ち着いて行動出来たと思います。まあ、冷静さを欠いていたのは事実ですからね。恥ずかしい姿を見せてしまったことは否定しませんよ」
「先程……」
これまで黙っていた柚木が口を開いた。
「遠江さんが桜橋のことを話していましたが、部屋についての説明が抜けていました」
何を言われたのか少しの間考えていたが、遠江はすぐに柚木の言うことを理解したようだ。
「悪い……。そこまで頭が回っていなかった。桜橋のことを伝えるだけで精一杯だったんだ」
遠江は改めて桜橋の部屋の窓が開け放たれていたことと冷房が点けっ放しであったこと、シャワーに使われた跡が残っていたことを皆に伝えた。
「ああ、成程……。寒気がしたのはそのせいですか。何か聞こえていたと思ったのは、エアコンの稼動音ですね」
得心が行ったのだろう、長沼は納得する。しかし柚木は浮かぬ顔のままである。遠江さんが気づいていないとは思えませんがと前置きして告げる。
「桜橋は服を着ていなかった。正確には桜橋の上半身が、ということです」
え、と遠江は声を上げる。彼だけではない、御門台も初めて聞いたような顔をしている。
「そういえば、床に上着が落ちていたな。血に塗れて解りにくかったが、あれは桜橋が着ていた服か」
「ええ、おそらくは」
草薙の言うことに、柚木が頷く。
これでこの場にいる全員が、桜橋の死について同じ情報を手にしたことになる。
「犯人は、どうして死体を切断したのか」
草薙が今一度繰り返す。桜橋が死体と表現されている。
「血の量から考えると、解体されたのは桜橋の部屋である可能性が高い。見たところ、ここには服を赤く染めている者はいないから、返り血に関しては相当気を遣ったんだろう。何かを羽織って犯行を行なったか……ああ、もしかしたら桜橋の着ていた服で血を防いだとも考えられるな。手や足に着いた血は、浴室で洗い流してしまえばいい。桜橋が使ったのか、犯人が使ったのかは解らないが、実際シャワーが使われていたみたいだったしな。だが、解体などという手間も時間も掛かる作業をどうして行なったのか……」
「あるいは、殺す作業と同時に切断したのかもしれません。桜橋君が生きたまま斬られたのか、死んだあとに斬られたのか……。それに関しては警察の調べを待つしかありませんが」
「まさか、そないなこと……」
長沼の言葉に、御門台は眉をひそめる。
「首を斬る、身体を切断する理由として多いのは、被害者の身元を隠すということでしょう。首がなければ本人かどうか解りませんし、手首がなければ指紋の確認が出来ません」
長沼が言っているのは、実在の事件からの知識ではなく、推理小説から得たものだろう。
「しかし桜橋君に於いて、それは当て嵌まりません。彼の身体は斬られただけで、部屋に残されていたんですから」
「そんなら、よっぽど犯人に恨まれてたちゅうことか。それであんなに……」
途中で部屋の状況を思い出してしまったのだろう。御門台は口を噤んだ。
「心理的にはあり得るかもしれません。けれどその場合、どうして下半身は無事だったのかという問題が出てきます。それほどまでに恨んでいるのなら、両足も細かく切断されている方が自然ではありませんか。何か、論理的な理由があるのではないでしょうか」
思い付きで言った程度のことだったらしく、御門台が反論することはなかった。
「論理的、とは?」
遠江が先を訊ねる。
「そうですね、こじつけのような理由ですが、ひとつの考えとして挙げておきましょう。桜橋君の上半身だけが斬られていたのは、犯人が彼の死因を隠したかったからではないでしょうか」
「死因を隠す?」
草薙が鸚鵡返しに聞き返す。
「ええ、首の切断は、扼殺、絞殺、あるいは頸動脈を切った跡を隠すため。同様に、手首を斬り取ったのは、動脈を切ったことを隠すために行なわれた。身体の上にわざと零したかのような血液も、目的は一緒でしょう」
「いや、しかし、どうして隠す必要がある?」
「つまり、殺害方法が犯人と直結してしまっている。この方法を使えたのが、あるいは使わないといけなかったのは、この人物しかいない、という。例えば、身体の大きい人間と小さい人間とでは、扼殺した場合の首に残る跡や刺殺した場合の刃物が刺さる角度などに違いが生じます。犯人はそれを怖れた」
成程なと、御門台が感嘆の声を漏らす。一方、反論を口にしたのは草薙である。
「さっき柚木が言ったように、犯人は包丁を用意していた。ということは、これが突発的な殺人ではなく、計画的な犯行ということだ。自分が犯人だと解ってしまうような方法を計画するだろうか。犯人に何らかの特徴があるのなら、むしろ痕跡を残さないように注意するのが普通なんじゃないのか?」
「そうですね。草薙さんの言うことはもっともです。僕自身も、これが切断の理由だと本気で考えている訳ではありません。冷たくされた部屋の状況と合わせて考える必要があるでしょう。つまり論理的理由というのは、首に残った跡を隠すために切断したが、それでは却って首に何かあるのではと疑われるかもしれない。なので首から注意を逸らすために上半身も切断した。このようなものです。理由もなしに人の身体を解体する人間がいるとは思えませんからね」
長沼は遠江に顔を向ける。
「要するに、あの状況は犯人にとって必要なことだった、という訳か……」
「ねえ、人の身体って……そんな簡単に斬り離せるものなの?」
ふゆみがもっともな疑問を口にする。
「……ある程度の時間は必要だろう。十分や二十分で出来るものとは思えない」
「犯人はご丁寧にも、上半身を切り刻んでいるんやしな」
「ひとつの部分に十分掛かったとしても、一時間以上は必要になりますね」
御門台に続き、長沼が言う。
「そうだな。……それくらいは掛かるだろう」
彼らの中に検死の経験を持つ者も、医学的知識を持つ者もいない。しかし解体作業に一時間掛かるという長沼の推量は、妥当なところだろう。
「どうです、各人の行動を確認してみませんか。要はアリバイ調査です」
十一
長沼の発言に御門台が顔をしかめ、しいなは不安そうな顔をした。
「アリバイのない人間が、必ずしも犯人という訳ではありません。それに自分が犯人でなければ、アリバイがないとしても躊躇うことはないでしょう」
「長沼の言う通りだ。桜橋の死を考えるなら、アリバイ確認は必要だ」
遠江は、煙草を出したのとは別のポケットからボールペンの挟まった手帳を取り出す。
「春日町、もし書けるようならメモを頼む」
ふゆみの文字は几帳面で読みやすい。この数年、研究会で何かを決めるときには、彼女が書記を行なっていた。
大丈夫、とふゆみは頷いた。遠江が手帳を隣の草薙に廻し草薙が更に隣に廻すといった具合にして手帳がふゆみの手に渡る。
「まず、桜橋の行動を確かめよう。夕食の担当を決めたあと、桜橋がラウンジを出ていったところを自分は見ている。そのあとの行動が解る者はいないか?」
「階段を上がるところを見掛けましたよ。解散して間もなくでしたから、三時半を少し過ぎたくらいでしょうか。もっとも、一緒に二階へ上がった訳ではないので、彼が自分の部屋に入るところは見ていませんが」
長沼が答える。
「そやな、わしが部屋に入ろうとしたときに、桜橋が階段を上がってきたような気がするわ。ラウンジを出たのはわしが最初やったから、そのくらいの時間やろう」
御門台が言った。
「他には、いないか」
遠江がもう一度訊くが、桜橋を見たという者はいなかった。
「そうか……。部屋に入ったところを見ていなくても、自分の部屋に戻ったと考えるのが自然だろう。この山荘の二階に、客室以外はないからな」
「桜橋君は被害者ですからね。ひねくれて考えることはないでしょう」
長沼が同意を示す。
「だとすると、桜橋が自室に戻ったのは三時四十分ころか。……最後に食堂へ降りてきたのは御門台だったな。あれが、確か六時二十分……」
ラウンジから二階へ上がるのに、ゆっくり歩いても五分は掛からない。一番端にある草薙の部屋に行くとしても、五分以内で到着するだろう。
「そやな、大体それくらいや」
御門台が頷いた。
「最終的に長沼が呼びに行き、発見されたのが六時四十分ごろか。だが、犯行を終えてすぐ、犯人が食堂へ降りてきた訳ではないだろう。返り血の処理など、後始末をする時間もある。それを考慮すると……犯行時刻は三時四十分から六時くらいまでの間と考えて、問題なさそうだな」
「ああ、短く見積もるのは危険だが、幅を持たせることに問題はないだろう。解体作業が一時間としても、それだけの時間があれば十分に可能だ」
草薙が補足する。
「この時間帯に、桜橋の姿を見掛けた者か、桜橋が誰かと話しているのを聞いた者はいないか。人の争う音とか、妙な物音とか、もし気がついた者がいれば言ってくれ」
遠江の問い掛けに、答える者はいなかった。
「解った。順に訊いていくから、思い出したことがあれば教えて欲しい」
遠江はしいなに向き直る。
「古庄、三時四十分から六時までの間、どこで何をしていた? もし何か気づいたことや気になることがあれば、些細なことでも何でもいい、一緒に言ってくれ」
サークルでは例会が終わったあとに、会員たちの感想を訊くことがある。その場合、一年生から順に発言していくので、その習慣が出たのだろう。
「あ、ええと、その……」
しいなは困惑の表情を浮かべている。
「古庄、君が犯人だと疑っている訳じゃない。それは解ってくれ。桜橋のためにも、自分たちは出来ることをしなければいけないんだ」
同じ学年である桜橋の名前を出されたからだろうか、しいなは遠江に顔を向けて質問に答える。
「わたしは……ラウンジでの話が終わったあと、春日町さんと日吉さんと少し話して、そのあと自分の部屋に戻りました。お二人は、食事の用意がありましたし」
「二階に上がる途中や、廊下で誰にも会わなかったか?」
「いえ、誰にも会っていません」
しいなは間違いがないようにひとつひとつ思い出して答えているようだ。
「部屋に戻ったのは……正確には解りませんが、四時にはなっていなかったと思います。そのあとは、山道で疲れていてベッドで休んでいました。ですから、物音とか足音とか、そういったものは聞いていません」
申し訳なさそうにしいなが言う。
「いや、歩く距離が長過ぎたと思う。もう少し考えるべきだった。すまない」
遠江が頭を下げるのを見て、いえ、大丈夫ですと慌ててしいなが答える。
「それでそのあとは、食堂に降りてきたのか?」
「そうですね……目が覚めたのは六時くらいで、急いで身支度して……そのあと、食堂に」
「古庄が食堂へ降りてきたのは、六時十分くらい……か? 料理を並べ終わったころだったと思うんだが」
「そうだな、十分を少し過ぎたくらいだろう」
隣の草薙が応じる。
「そうか……。他に何か、気づいたことや気になったことはないか?」
しいなはいいえと言って首を振る。
「解った。ありがとう」
遠江は視線をみづきに向ける。
「次は日吉、いや、夕食担当の三人は纏めて訊いた方がいいだろう」
ふゆみとみづきは同じ場所にいるが、柚木は彼女たちと反対側の席に座っているため、遠江は話す相手ごとに顔の向きを変える。
「春日町、日吉、柚木、三人はずっと厨房で一緒だったのか?」
「ええと……担当を決めたあと、しいなさんと少し話して、みづきと一緒に厨房へ行ったの。五分も話してなかったと思う。厨房に入ったときは四十五分になっていなかったよね」
うん、とみづきはふゆみに頷く。
「でも、厨房に柚木君がいなくて」
「いない?」
遠江が繰り返す。
「食材を取りに貯蔵室へ行っていたんです。時間は覚えていませんが、厨房に戻ったら春日町さんと日吉がいた」
顔を上げ、柚木が淡々と述べる。
「そのあと料理を始めたんだな。日吉が運ぶのを手伝ってくれと、ラウンジに言いに来たのがちょうど六時だったな。それまでは、三人一緒に厨房にいたのか?」
「ずっと一緒だった訳ではありません。しばらくして、おれは貯蔵室に行きました」
「貯蔵室? それは最初のときとは別に?」
みづきが恥ずかしそうに声を上げる。
「あの、あたしがちょっと失敗しちゃって……。それで、使えなくなった材料を柚木君が取りに行ってくれたんです」
少しの失敗で食材を再び取りに行くことはないだろう。柚木と長沼を除いた会員が、さもありなんという表情をした。
「ええ、そうです。いちいち時間を計っていませんが、十五分くらいで戻ってきた」
「十五分?」
廊下を挟んで厨房と貯蔵室は向かいに位置する。食材を持って戻るだけなら、五分もあれば十分である。少し時間が掛かり過ぎているのではないかと遠江は考えたのだろう。
「貯蔵室、行ってみれば解りますが、お世辞にも管理がいいとは言えない。ただ適当に野菜が放り込んであるという感じだ。だから、中には傷の付いたものが多い。それを選り分けていた時間でしょう」
「柚木が出ている間、二人は厨房に?」
ええ、とふゆみが応じる。
「解った……。あとは、厨房を出ることはなかったか?」
それ以降はずっと料理をしていましたと柚木は答えた。
「春日町、日吉の二人はどうだ。厨房を出ることはなかったか?」
「いや、少しだけ、厨房を出ていったけど……」
ふゆみとみづきが顔を見合わせる。
「それは、二人一緒にか? どこに行ったんだ?」
「え、いや、別々に……」
ふゆみは顔を伏せて小さな声で言う。
「トイレだから……」
「あ、いや、悪い」
何故か遠江は頭を下げる。
「先にいなくなったのは春日町さん、次にいなくなったのが日吉。二人とも、いないと思ったらすぐに戻ってきていたので、十分も消えていなかったでしょう」
柚木の表現はどこかおかしい。けれど皆、意図は解ったようである。
ふゆみとみづきにお互いが厨房を留守にした時間を訊くと、柚木の言う通り十分前後だろうとの答えが返ってきた。
遠江は長沼の方を向く。
「僕には、アリバイはありませんよ。先程言いましたが、階段で桜橋君が上がるところを見掛けました。僕が部屋に入るときには廊下に誰もいなかったので、桜橋君は自分の部屋に戻っていたのでしょう。僕が部屋に戻ったのは、三時四十五分くらいでしょうか。そのあとは、ヘッドホンで音楽を聞いていました。変な物音だとか足音がしても、気づいていなかったと思います」
そうか、と遠江は残念そうに唸る。
「ヘッドホンを外していたとしても、変わりはないでしょう。防音がしっかりしているようですからね。それで、食堂に行ったのは何時ころでしょうか。既に、食事の用意はされていました」
「長沼が来たのは、古庄のすぐあとだった。六時十分から十五分の間だろう」
草薙が言う。
「解った。次は……」
「わしも、アリバイなんて持ってへんで」
呼ばれる前に、御門台が返事をする。
「さっきも言うたが、最初に二階へ戻ったのはわしや。けど、わしは桜橋を待ち伏せたり、あいつの部屋に行ったりなんて、してへんで」
「御門台、疑うために調べているんじゃないんだ」
「部屋に戻ったのは、何時や? いちいち覚えてへんけど、桜橋より早いちゅうなら、三十五分くらいか。腹減って、あんま動く気もせんかったから、ベッドで横になっとった。別に眠っとった訳ちゃうが、何も妙な音は聞いてないわ。余りに静か過ぎるもんで、ウォークマンでも持ってくれば良かったなと思ったくらいやしな。ほんで、十分前には行こうと食堂に降りたんで、遠江が言うてたように、二十分くらいやな」
「解った。あとは、自分と草薙か」
遠江が草薙を促す。
「俺はラウンジで遠江と話したあと、二階に上がった。階段でも廊下でも、誰も見ていない。桜橋の隣の部屋だったが……すまない、何も気づかなかった」
草薙が詫びるのを、遠江が仕方ないと庇うように言う。
「俺も一休みしようと思ったんだが、寝つけなくてな。寝るのは諦めて、ラウンジに降りてきた。誰かいれば、ゲームでもやろうと思ってな」
電車内で使われたカードはみづきのものである。草薙は、自分でもカードを一式用意してきたようだ。
「ラウンジには遠江が残っていた。四時を過ぎたころだったかな。十分くらいか?」
そうだなそのくらいだ、と遠江が同意する。
「そのあと何回かゲームをして……いや、ゲームよりも、話をしていた時間の方が長かったな」
「ババ抜きは、二人でやっても面白くありませんよぅ」
ようやくいつもの調子に戻ってきたのだろう。目蓋をこすり、みづきが口を挟む。いや違うよ、と草薙は素気ない返答をする。
「日吉が呼びに来るまで、遠江とラウンジにいた。途中で部屋を出てはいない。だから俺にアリバイがない時間というのであれば、三時半ころから四時過ぎまでの……三十分弱か。これまでの証言から考えると、俺にアリバイのない時間は、そのまま遠江にアリバイがない時間となる訳だが」
遠江は嫌な顔をすることなく、草薙の言葉を受け止める。
「そうだな。自分は、みんながラウンジを出ていってからも一人で残っていた。雪を見ながらぼんやり煙草を吸っていると、草薙が降りてきた。だからラウンジに一人でいたというのは、自分が言っているだけに過ぎない。自分にも、その時間帯のアリバイはない。草薙が降りてきたあとは、草薙と同じだ。日吉が来るまで、二人でラウンジにいた」
十二
「にしても、犯人は良く白昼堂々あんなことが出来たもんやな。誰に見られるか解ったもんやないっちゅうのに」
御門台は独りごちる。厳密には白昼の出来事ではない。
「人を殺すような人間だ。時間なんて関係なかったんだろう」
「機会があったから、その時間に殺してしまったと? 犯人はそんな行き当たりばったりの人間ではないと思います。犯人なりの理由があったのではないでしょうか」
草薙の意見に、長沼は否定的である。
「また、理由かいな。犯人の行動が論理的なのは推理小説の中だけやろう」
「御門台さんは現実を生きているのに、行動が論理的ではなさそうですね」
「なんやと?」
喧嘩は止してくれと、遠江は双方を制する。そこで、ボールペンを持ったままじっとしてしているふゆみに気づく。
「春日町、どうした。具合でも悪いのか? 薬なら管理人室に用意してあったはず……」
違う、大丈夫とふゆみは首を振る。
「論理的って言葉が気になって。ちょっと考えてみたの。……覚えてる? 電車の中で話してたこと。登場人物の行動が不自然だって。だけど、どんなことが起ころうと、彼らは物語の現実に沿って行動している。だから小説内に於いて、それは自然な行動であるって」
「そんな話しとったんか。で、それが何なんや」
「だからね、小説内でリアリティがあっても、それはやっぱり小説なんだよ」
「意味解らへんぞ」
御門台の返事は投げ遣りである。
ふゆみが言ったことの意図を摑めないのは、御門台だけではなかっただろう。どういうことかと、遠江が説明を求める。
「あのね、実際に人を殺そうとする場合、すごく注意すると思う。誰かに見られたり、犯行がばれたりしないように。小説だと、館とか屋敷とかで事件が起こる場合、犯行は大抵夜中に行なわれる。そして、朝食の席に着いていない人間が殺されている」
「そりゃ、夜の方が人目に付かんからやろ。みんな眠ってるんやしな」
当然じゃないかというように、御門台が答える。
「そう、小説ではそういう理由が多い。けど、それは犯人の理由じゃなくて、作者側の理由なの。夜中に犯行を行なえば、誰かに見つかる怖れが少ない上に、明確なアリバイを持つ者もいない。作者は読者に、登場人物の全員を均等に疑わせることが出来る。最初の数ページに起こった事件だけで、犯人が特定されてしまうような小説を書く人はいない。それじゃミステリにならないからね」
ふゆみの言うことに興味を惹かれたのか、皆黙って耳を傾ける。
「作者の意図が介入する時点で、現実の犯人と小説の犯人とでは考えが違う。いえ、違いが生じる。いい、小説で犯人が真夜中に行動を起こすのは、その時点で自分が捕まらないこと、疑われないことを作者に保証されているから。犯人の正体は、解答編までは解らないようになってる。でも、現実は違う。夜中にやったからって、誰にも見つからない保証はない」
「だから夜になる前に行動を起こしても不思議じゃないと?」
遠江は納得が行かないようである。
「他の場合は解らない。だけど、今回の私たちの状況に於いては、夜中よりも夕方に行なう論理的な理由があった。見つからない確率で考えたら、と言った方がいいのかな」
長沼が微笑する。
「……成程。夕食担当が減る訳ですね」
「え、なんだ。気づいてるなら、長沼君が説明してよ。私、みんなに解りやすく話すのは苦手なの」
「いえいえ、それは春日町さんの考えです。僕は横取りなどしませんよ」
長沼は恭しく振る舞い、ふゆみに視線を向ける。
「だからね、真夜中にことを為そうとする場合、犯人は自分以外の七人に注意を払わないといけない。犯行を行なう前に見つかったのなら、犯行を先に伸ばすなり、別の機会にするなり、変更すればいい。もっとも注意しないといけないのは、犯行を終えて自分の部屋に戻るときだと思う」
ふゆみは一旦言葉を切る。どのように説明すれば解りやすいかを考えているようだ。
「この近くにコンビニはないし、山荘に自動販売機もない。夜中に喉が乾いたら冷蔵庫に飲み物を取りに行くかもしれない。お風呂はいつでも入れるって言ってたから夜中に入る人がいるかもしれない。眠れないからといって誰かの部屋を訪ねる人や、夜通し誰かと語り続けている人のことや、誰がいつどの部屋から出てくるかも、なんてこと考えたら切りがない。そんなの幾らだって理由は出てくるんだから」
「だが、ある程度の決心がついたから、あんなことをしたんだろう」
草薙が合いの手を入れる。
「うん、そこでさっき言った確率の話になるんだけど。夕方に犯行を行なった場合、夕食担当の三人に目撃されることは、まずない。食事を作るっていう人間が、二階に上がっていくことはないからね。六時半までに準備をするって柚木君が言ったけど、実際にはもっと早く出来上がっているだろうことは解る。だからある程度の余裕を持たせ、この時間までに犯行を行なえば夕食担当に見つかることはないと踏んで、犯行を夕方に行なった。目撃不可能な人間が三人っていうのは、妥当なとこじゃないかな。これ以上になると、お互いにアリバイを持つ人間が増えて、自分の首を絞めることになり兼ねないし。そこで、自分を目撃する可能性のある人間が七人の場合と四人の場合を考えたら、少ない方を選ぶのが自然でしょ。紙の上ではあり得ない理由かもしれないけど、犯人は実際に生きている人間なんだから、心理的な理由っていうのも十分あり得るでしょう?」
大きく頷いたのは、遠江である。全く考えもしなかったというような顔をしていた。長沼と柚木を除けば、大方のメンバーが多少は納得しているようだ。
「だからと言って、夕食担当の方が容疑者から外れるという訳ではありませんけどね」
え、とふゆみが声を上げた。長沼は遠江の方を向く。
「話が逸れてしまったようですね。アリバイを確かめたのですから、誰が犯人になり得るかの検討に戻りましょう」
遠江の手帳が、先程とは逆の順番で遠江に戻される。
「確認しよう。アリバイがないものは、日吉、長沼、御門台の三人。残りの者は一応アリバイを持っているが、完全ではない。それぞれが使えた空き時間は、自分と草薙が三十分程度、柚木が十五分、春日町と日吉が十分、ということだが……」
遠江が全員を見廻す。
「容疑者は三人に絞られる訳ですね。僕は自分が犯人でないことを知っていますから、残りは二人です」
「それはわしも同じや」
長沼の発言に、御門台がすぐさま言い返す。
「死体を解体する程の犯人が、アリバイを疎かにしたとは思えません。僕はむしろ、アリバイのある人間の方が怪しいと考えますよ」
「怪しい言うてもなぁ。お前かて、解体作業に一時間以上は掛かるちゅうたやないか。不本意やが、容疑者はわしら三人なんや」
「成程……考えることを放棄してしまえば、確かに先へは進めませんね」
長沼の台詞は『狐ヶ崎』のものであると、何人かは気づいたようだ。
「な、何を言うとんのや。無理なものは無理やろう。それとも、何か方法があるとでも言うんか?」
てっきり否定の言葉が返ってくると思っていたのだろう。御門台は長沼の返答に驚きの表情を隠せない。
「ありますよ。ここにいる全員のアリバイを崩すことが可能です」
十三
「な、なんやて?」
御門台が素っ頓狂な声を上げる。
「話ちゃんと聞いとったんか。三十分使える遠江と草薙はともかく、柚木は十五分、春日町と日吉に至っては、十分しかないんやぞ。たった十分で、殺して、首斬って、腕斬って、胴体斬って、そんなこと出来るかいな」
「だったら、十分間で出来ることをすればいい」
長沼は動じることなく、落ち着き払っている。何人かが驚きの声を上げた。
「……困難の分割か」
草薙が呟く。
「奇術では一般的な手法ですよね。なら、草薙さんも気がつかれたのではないですか」
奇術研究会にも所属している草薙に、長沼が訊ねる。草薙は、いや、と短く答えただけだったので長沼は話を続けた。
「順番は訊いていませんでしたね。夕食担当の方が厨房を出たのは、どのような順番でしたか?」
「え、時間は解らないけど。確か……柚木君が最初で、そのあとが私で、みづきが最後だった」
代表してふゆみが答える。そうですかどうも、と長沼は礼を述べた。
「つまり、こういう方法を採れば犯行は可能になります。まず、始めに柚木君が桜橋君の部屋に行き、彼を殺害して上着を打ち捨てる。十五分後、何食わぬ顔で厨房に戻ってきます。次に春日町さんが桜橋君の部屋へ行く。春日町さんは首を斬り、厨房に戻ります。次に日吉さん。彼女は腕を斬ります。以下、遠江さんと草薙さんにも同じことが言えます。短い時間で出来ないことであれば、その時間でやれることを行なえばいいのです」
室内は静まり返ったが、やがて遠江が発言する。
「それはつまり、犯人に共犯者がいる場合だな」
「ええ、共犯者の数が多い程、一人一人の負担が減る訳です」
ただし、と言って長沼は付け加える。
「共犯者を前提にすると、先程のアリバイ調査の信憑性が薄れます。当然、犯人に仲間がいるのであれば口裏を合わせることが可能ですからね。……もっとも、犯人が単独なのか共犯者がいるのかは、現時点ではまだ解りませんが」
「……しかしだな。共犯者がいるとすると、桜橋は一人だけではなく複数の人間に殺される理由があったということになる。あいつが、何人もの人間に恨まれるような性格をしていたとは思えない」
長沼はあっさり匙を投げる。
「そうですね、動機に関しては全く解りません。人を殺す動機なんて、犯人によって違うでしょう。経験のない僕には、何も言えませんね」
十四
「机上の空論ばかりだな」
これまで、ほとんど発言のなかった柚木が顔を上げる。
「出来るかもしれない出来ないと思うを繰り返して何になる? おれたちの中に、死斑や体温降下、死後硬直の度合いから死亡時刻を推定出来る人間はいません。当然だ。おれたちの通う大学は、カレッジであってユニバーシティじゃない。医学部なんてないんだ。さっきのアリバイ、それぞれの持ち時間は、解体に掛かった時間が解ってこそ犯人を絞る役に立つ」
「しかし柚木、医学的知識のない俺たちにその点はどうしようもない。ある程度の幅を持って、推測するしかないだろう」
草薙の言葉を柚木は簡単に切り返す。
「実際に試してみればいい。ここには死体も凶器もあるんだ」
何人かが驚きの声を上げ、食堂内が騒めく。
「桜橋の部屋。理由は知らないが、窓が開き冷房も点いて冷やされていた。窓は閉めてきたが、冷房は入ったままだ。桜橋の死後硬直は殺されてからそれほど進んでいないだろう。つまり今の桜橋の身体は、生きているときとほぼ同じ柔らかさだということだ。首は斬られてしまったが、下半身は手付かずのまま。臍の下辺りから斬れば、胴体がどれくらいの時間で斬り離されたかの目安になる。腕や手首は残っている部分を斬ればいい。その時間から逆算して――」
突然のことに、何が起こったのか皆すぐに理解出来なかった。体勢を崩し前のめりに突っ伏した柚木。前に置かれた食器が音を立てて倒れ、中身がテーブルに撒き散らかる。いつの間にか柚木の後ろにふゆみが右手を振り上げたまま立ち、柚木を睨み続けていた。
どうにか状況を摑んだ遠江が双方を取り成す。
「春日町、気持ちは解るがもう止せ。柚木もだ。口にして良いことと悪いことがある。そういうことは言うんじゃない」
テーブルから顔を上げた柚木が、ふゆみを見据える。ふゆみは赤く腫らした目を逸らさない。震える口から絞り出すように声を出した。
「あんた……今のこと、本気で言ったんじゃ、ないでしょうね」
「おれは、冗談は言いません」
ふゆみが再度腕を上げるのを見て、遠江が動く。
「止めろ、春日町! 日吉、古庄、春日町を止めてくれ」
遠江は柚木を制し、ふゆみから離そうとする。
「ふゆみ先輩、駄目ぇ!」
「春日町さん、落ち着いてください」
すぐに、みづきとしいなが立ち上がり、ふゆみの許へやってきて行動を抑える。
「大丈夫よ、もう。だから離して」
そう言って、ふゆみは自分の席に戻る。みづきとしいなもあとに倣う。
「限界だな……」
遠江は、みづきとふゆかに宥められるふゆみを見た。彼自身も疲れ切った表情をしている。
「話し合いは、もう終わろう」
食堂の時計は八時三十分を廻っていた。
窓の外、雪はいつの間にか止んでいる。
十五
桜橋の部屋に冷房が点いていた件の検討がないことに長沼は不満そうだったが、遠江に宥められ渋々了承した。
「ま、警察が来るまで、じっくりと考えさせてもらいます。実際の警察官と知恵競べが出来る機会など、滅多にありませんからね」
食事を摂りたいと言い出す者は誰もいなかったので、夕食に用意されたビーフシチューはラップで包んで冷蔵庫に入れられた。一通りテーブルを片付けてから、遠江が皆に提案する。
「全員一緒に同じ部屋で寝た方が安全じゃないか? ラウンジのソファをベッド代わりに使って。足りなければ、客室から毛布や掛け布団を持ってきて、それを床に敷けばいい。暖房の温度を上げれば寒いということはないだろう」
「無理や。犯人に共犯者がいるかもしれないってことを聞いてしまったんや。そんな簡単に疑いは消えへん。極端な話、わし以外の人間が全員犯人やったら、むざむざと殺されるだけや」
御門台がすぐさま返答する。
「わたしも……この状況で、みんなと一緒、は無理です」
しいなも御門台と同じ心境のようだ。震える身体を抑えて、遠江に頭を下げる。
「やれやれ、共犯説を出した僕のせいでしょうかね。言わずもがなですが、戸締まりをしっかりとして各自で注意を払うしかないですね」
長沼が肩を竦める仕草をした。
立て続けに反対され、遠江は不安そうな顔つきになる。やがて、意を決したように言う。
「解った、自分の部屋で寝るのはいいとしよう。だが念のため、明日食堂に降りる時間を決めておこう」
「そんなん、目ぇ覚めた奴から降りてくりゃいいんちゃうか?」
「違いますよ。犯人が二番目に降りてきたら、最初に降りてきた人が危ないと、遠江さんは言いたい訳です」
「ああ……そういうことかいな。廻りくどいやっちゃな」
御門台は、長沼の説明に対して絡む気力も減少しているようだ。受け入れはしたものの辛辣に言葉を吐き捨てる。
「早くに目が覚めても、一人では決して降りないで欲しい。客室の外へ、みんなが同じ時間に出る。食堂へは一緒に降りよう。そのあとは、そのまま食堂に残るかラウンジか、どちらか一ヶ所に固まっていてもらう。その間に、自分が警察を連れてくる」
こちらの提案に、反対する者はいなかった。
「時間は……そうだな、九時にしよう。九時になったら全員が廊下へ出る。それ以前は、ずっと部屋の中にいてくれ。飲み物が欲しければ、今から厨房へ行って取ってくればいい。くれぐれも部屋には鍵を掛けて、夜中に部屋から出ないように。頼む……」
最後の言葉には、会長としての威厳は微塵もない。ただ仲間たちに無事でいて欲しいという願いだけが込められていた。
第三章 第二の被害者
*
少年は、少女と向かい合わせで勉強をしていた。
あと二週間で、中学生になってから初めての中間試験がやってくる。出来るだけ早めに試験対策をしておいた方がいいと考えたのだろう。この数日は毎日机に向かい始めた。
少女が来たのは試験が始まる一週間程前だった。数学で解らない問題があるから教えて欲しいということらしい。少女は自分の教科書とノートを持ってやってきた。
少年の勉強机では教えにくかったので、折り畳み式の平テーブルを、ただでさえ狭い部屋に持ち込んだ。少年と少女は、そこでノートと教科書を開いている。
「うん、うん、成程ね。そういうことか。なんか算数から数学に変わって、いきなり難しくなった気がしちゃって。学なんて付くと、難しそうに思うじゃない?」
そうかな、と少年は言った。良く解らないという顔をしている。
「でも凄いよね。こんな問題解けるなんて」
少女は数学Ⅰの教科書をぱらぱらと捲る。
「いや、解けない方が珍しいんじゃないか」
少女が頬を膨らませた。
「それは、私の頭が悪いって遠廻しに言ってるの? って全然遠廻しじゃないじゃない。むしろ直接的ぃ」
少女一人がいるだけで、この家は途端に騒々しくなる。けれど息子が余り他人と話すような性格ではないので、母親はこの賑やかな少女の訪問を喜んだ。今日も、夕食を一緒に食べていくようしきりに誘っていた。
「なんだ、良く解らない。それが突っ込みって奴か? 漫才とかコントとか、見たことがないんだ」
少年は淡々と自分の勉強を進めている。
「ま、漫才? 誰が……」
少女は引き攣った笑みを浮かべている。決して何か面白いことがあって笑っている訳ではないだろう。
「むぅ。数学を教えてもらう代わりに、私が得意な現代文を教えてあげようと思ってたのにぃ……。そんなこと言うのなら、教えてあげない。ふぅんだ」
少女はそっぽを向いた。
少年は立ち上がり、勉強机から国語Ⅰの教科書を取り上げて言う。
「現代文は僕も得意だ」
* * *
初日で駒はひとつ減った。
上手く行くかどうかの不安は常にあった。
そこで糧になるのが経験である。
既に自分は人を殺したことがあるという事実。
これは他の何にも代えがたい、原動力になった。
初めての殺人を毬藻荘で行った場合、ことを成したあとで人事不省に陥り、被害者の部屋にいるところを誰かに見つけられたことも考えられる。人を殺したあとでそのまま部屋に残っていたら、言い逃れなど出来ない。それでは自分が犯人であると、皆に告白するようのものだ。自分はこんなところで、最初の殺人で躓く訳にはいかないのだ。
今でも忘れられない。初めて人を殺したときのことを。
殺しているときは夢中だった。何も考えられなかった。早く死んでくれることを願った。
切断するときも嫌だった。気持ち悪かった。吐き気がした。悍ましかった。
本当にこれが、さっきまで動いたり話したりしていた人間なのかと疑った。
生きているのと死んでいるのとで、これほどの違いがあると思わなかった。
滅多に人が訪れない場所を選んだのは正解だった。
目的が達せられれば、この死体が見つかったところで構うことはなかった。だから死体を丁寧に埋めることはしていない。余程物好きな人間が訪れて、あの辺りを徘徊でもしない限り見つかることはないだろう。
簡単に見つからない程度に隠しただけだ。けれど、あのときはこれが精一杯だった。
初めての人殺しで初めての解体作業で、涙が出て嗚咽して動揺して。それでもどうにか目的に向かって進むしかなかった。逃げる訳にはいかない。逃げてはいけないのだ。
その日は下宿に帰って、朝までずっと泣いていた。自分の目からこんなにも涙が流れるなど信じられなかった。しかし涙が止まることはなかった。
いつの間にか眠っていたらしく、気がついたときは夕方だった。震えは止まっていた。涙も乾いていた。何かが変わった。いや、変わったと思った。
事実、その経験があったから自分は前に進めたのだ。
人を殺して躊躇うこともない。人を解体して涙を流すこともない。
残りの駒は七つ。
大丈夫。やれるはずだ。自分は既に殺人者なのだ。生まれて初めて死体を見る人間や、人を殺したことのない人間とは違う。心構えが全く異なる。動揺や途惑いは自分にはもうない。だから。怖れるな。
* * *
十六
午前九時。
客室の扉が、ほぼ一斉に開けられる。
「おはようございます」
「ああ、おはよう」
挨拶を返しながら、遠江は廊下を見廻した。
「ふゆみ先輩、眠いですぅ」
「おはよ、みづき」
一晩経ったせいか、緊張状態は幾分緩和されているようだ。
「あやうく、寝過ごすとこやったわ」
少し遅れて御門台が顔を出す。
遠江は部屋から出てきた者を確認する。草薙、柚木、御門台、長沼、みづき、ふゆみ、と順に見て顔が強張る。
「古庄は……まだか?」
努めて平静を装う。
「……寝坊、したのかな」
答えるふゆみの態度もどこかぎくしゃくしている。
「ふゆみ先輩……」
みづきがふゆみの後ろに寄り添い、袖を摑んだ。
「古庄、時間だ。……起きているか?」
遠江が二〇一の客室を叩く。自然と皆、しいなの部屋の前へ集まり始めた。
「古庄、返事をしてくれ。古庄」
その叩き方は次第に強くなる。
「シャ……シャワー、浴びとるんかも、しれへん。眠気を覚ますには、熱い湯を浴びるんが、一番や」
説得力がないことを自分でも解っているのだろうが、御門台はわざと明るく言う。
遠江は扉の取っ手を摑み。驚きの声を上げた。
「え?」
扉は簡単に開いた。鍵が掛かっていないのだ。
「古庄、入るぞ」
後ろの人間を制して、遠江が中に入る。
客室に何も異常は認められない。昨日遠江が調べたときと同じバッグがベッドの横に置かれている。
「いない……」
遠江が廊下に声を掛ける。ふゆみとみづきが中へ入ってきた。その後ろに、御門台や長沼が続く。
「シャワーは? 調べたの?」
ふゆみに言われ、遠江ははっとした表情を見せる。ふゆみは咄嗟に動いてユニットバスの扉を開けた。シャワーが使われたのだろう、浴槽に濡れた髪の毛が残っている。他には特に変わったものは見当らない。
遠江は部屋の奥へ進んだ。窓には鍵が掛かっている。右手にあるテーブルの上には、この部屋の鍵が合鍵と共に置いてあった。
「どこにも隠れていないようですね」
クローゼットを開けて、長沼が告げる。中には昨日しいなが着ていたフード付きのコートが、ハンガーに掛けられていた。
「既に犯人がことを為したあとであるなら、一度使った部屋を、再度使用したのかもしれません」
長沼の言葉を聞いて、遠江は廊下へ出る。その後ろを長沼が付いていった。入れ替わる形で、草薙、柚木が部屋に入る。みづきは、廊下の壁に背を付けたままじっとしていた。
「遠江さん、大丈夫ですか。顔色が悪いですよ」
大丈夫だ、と遠江は言って、二〇九号、桜橋が使っていた部屋の前に立つ。長沼が、僕が開けましょうか? と言うのを振り切って遠江は自分で扉を開ける。
こちらの部屋も、昨夜と変わりはなかった。冷房が点いたままの冷たい部屋で、桜橋だったものがそのままの状態で残されている。意を決して、遠江はユニットバスに向かったが、そこも昨夜のままだった。トイレに饐えた匂いが残り、浴槽は所々が濡れている。
「昨日と、変わりないですか?」
後ろから長沼が覗き込む。昨日と変わった様子はないようだ、と遠江は頷いた。
二人が二〇九号を出ると、心配そうな顔で廊下に残っていた者たちがこちらを向く。それに対し、遠江は黙って首を振った。
そのあと全員で下へ降り、一階の部屋を全て捜索したが、収穫は得られなかった。何の発見もなく、重い足取りで彼らは食堂に移動した。
「昨夜、古庄はみんなで一緒に寝ることを酷く嫌がっていた。あれほど怯えていた彼女が、部屋の鍵を掛け忘れるはずがない」
遠江が苦しそうに口を開く。
「つうことは、何や? 誰かに連れ去られたとでも言うつもりか?」
御門台が食って掛かる。
「ちゃう、んなこと無理や。鍵が掛けてある部屋にどうやって入るんや。窓の鍵やって、ちゃんと掛かっとったやろうが」
「密室ですね……」
長沼が呟く。どことなく成り行きを楽しんでいる節がある。
「やられました。犯人が夕方に犯行を起こしたのは、こういう理由もあった訳ですか……」
「どういうことだ?」
遠江が聞き咎める。
「ええ、昨夜春日町さんが説明した目撃者の人数とは別に、犯人に利点が発生します。既に人が殺されている状況です。迂闊に廊下へ出て、自分が殺される訳にはいかない。みんなそう思っていたはずです。夜中に部屋を出るなと言われなくても、誰も出たりしません。鍵もしっかり掛けたでしょう。つまり、犯人は誰の姿を気にすることなく、古庄さんを連れ去ることが出来た訳ですよ」
長沼の言葉に、大小様々な驚きの声が上がる。
「そ、そんな……」
「待ってよ、しいなちゃんが連れ去られたって、どうして解るの? 恐くて、一人で先に帰っちゃったのかも、しれないでしょ」
女性二人の声は震えている。
「いや、それはないでしょう。古庄さんの着ていたコートが、クローゼットに残っていました。外へ出るのなら、当然着ていくはずです。荷物がベッド脇に置いてあることからしても、彼女が自分から部屋を出たとは思えません」
「だが、部屋に鍵が掛かっていたのなら、犯人はどうやって古庄を連れ出す?」
草薙が独白のように問い掛ける。
「それは、まだ解りません」
長沼はかぶりを振った。
「ねぇ、しいなちゃんも、その、もしかして、桜橋君みたいに……」
「あ、阿呆なこと言うなや! 人がそんなにばんばん死んで堪るかいな」
みづきの言うことを遮り、御門台が叫ぶ。
「離れは?」
自分でもあり得ないことを言っているのが解っているのだろう。ふゆみの声は、たどたどしくなっていく。
「あそこまでなら、コートを着なくても、大丈夫だって、思ったんじゃないのかな」
「しかし、離れの鍵はふたつとも管理人室に置いて……」
遠江は草薙の肩に手を置いて、彼の話を止めた。そしてふゆみの方を向く。
「解った。様子を見にいこう」
十七
一面の雪景色であるが、雪は降っていなかった。
しいなのことを心配しているのは、ふゆみとみづきだけではない。口に出さなくとも、皆しいなが無事でいることを望みたいのだろう。全員で離れの様子を見にいこうと述べた遠江に、反対の声は出なかった。
「雪が降ってのぅても、かなり冷えるな……」
御門台が言うのも無理はない。すぐにでも確かめたいという気持ちを彼らは多かれ少なかれ持っていた。母屋から離れは距離にして二十メートル程である。そのため、皆着のみ着のままで山荘から出てきていた。
周囲を吊り橋側から俯瞰した場合、母屋は東側、離れは西側に位置する。母屋と離れを直線で結び、その中心から南へ向かったところに吊り橋が掛かっている。当然、離れに行く途中で彼らの左手に吊り橋が見えることになる。
一番初めに気づいたのは誰だろうか。皆ほとんど同時に声を上げた。いや、それは声というよりも、悲鳴に近い。
「な、ちょっと、やだ……」
「あ、阿呆な、んなはずあるかい!」
「嫌ぁ!」
しかし確かめない訳にはいくまい。皆の足は吸い寄せられるように向きを変え、吊り橋へ近づく。その先に、しいなを見つけたからである。
誰も声を出さない。視界に映る光景から目を離すことが出来ない。寒さも忘れ、皆一様に立ち尽くす。
「はは……。夢ちゃうか……」
御門台が崩れ落ちる。
吊り橋には雪が降り積もっている。谷底からは水の流れる音。橋桁の上には足跡ひとつない白い道が続く。しかし、対岸近くで様子が変わった。
対岸に近い橋桁の雪はうっすらと赤く染まっている。その上に、肘の辺りで切断された細い左腕、膝の下で斬り離された右足が載っていた。赤色は対岸の雪にも降り注いでいる。
橋を挟んだすぐ向こう岸の地面、その雪上に見える、横を向いたしいなの頭部。やや左側に、首と両腕の繋がっていない胸部、すぐ右隣に重なるようにして、左の大腿部が転がる。頭部の周りに、身体のどこの部分だったか判断できないくらいに斬り取られた部位が散らばる。雪の上に放り出された捌き包丁が、微かに光を反射した。
恥ずかしがり屋でいつも友達の側に隠れるように付き添っていたしいな。彼女が親友と笑いながら話せる日はもう来ない。
「うえぇっ。ぅっく、ぅっく……」
みづきが声を上げてしゃくり泣く。
「なんでぇ……っぅう。どうして……っぅ。しいな……ちゃん……」
けれど慰めの言葉はない。何を言えば良いか、何が起こったのかを、咄嗟に判断出来た者はいないのだろう。皆、固まったように動かない。
「古庄……さん」
やがて、屈み込んでいた御門台がゆっくりと立ち上がる。目が虚ろで焦点が合っていない。ふらふらとした足取りで橋を渡り始める。橋桁の雪に、御門台の足跡が刻まれていく。
「……何だ?」
その音は確かに聞こえていた。何かを擦るような。何かが引き摺られるような。だが、どこから聞こえている音なのか発生源はどこなのか、遠江が気づいたときには手遅れだった。
「戻れ! 御門台!」
橋が緩み、軋む。桁を繋いでいたロープが切れていた。片側の支えを失った吊り橋は、重力に逆らうことなく渓流に落ちていく。
ほんのわずかの間の出来事だった。対岸の杭に繋がったロープが、切り立った断崖に垂れ下がる。外れることのなかった数枚の橋桁が、かろうじてロープにぶら下がっていた。
独特の言葉遣いを振り撒いて会内に笑顔を提供していた御門台。彼の姿はどこにも見えない。
十八
正午を過ぎていた。
吊り橋に向かうときはしいなの頭部に皆の注意がいってしまい誰も気づかなかったのだが、母屋から吊り橋にかけて雪の上に足跡のようなものが所々に残されていた。母屋に戻るときに、長沼が悔しい顔をしてそれを発見した。しかし既に彼らの足跡と混ざってしまい、どれが先に付いていた足跡なのか見分けがつかなくなっていた。
それでも残っていた痕跡を彼らは調べた。結果は芳しくなかった。その足跡の持ち主はわざと変わった歩き方をしたようで、爪先立ちしたり、踵で立ったり、後ろを向いたり、元の足跡を更に踏み付けて大きくしたり、逆に雪を被せて足跡を小さく見せたりと、様々な偽装を行なっていた。
それゆえ、この足跡が犯人のものであるのかあるいはこの山荘にいる誰かのものであるのかは判明しなかった。足跡についての検討を終え、彼らは山荘に引き返した。
食堂に戻っても、誰一人言葉を発しない。漫然と時間が過ぎていった。皆が押し黙っている間に、また雪が降り始めた。やがて長沼が、二日続けて食事抜きはつらいですねと言い出したことで、彼らの時間は動き出す。
「食欲がないのは解る。だが、何も食べないでいたら身体の方が先に参ってしまう。少しだけでも食事を摂った方がいい」
温め直した昨日の夕食を咀嚼するのは、男性陣だけである。遠江が努めて優しく言うが、女性二人の手は動かない。
彼女たちは桜橋の死体を見ていない。話で聞いただけである。しかし今朝は違う。自分たちの目で、しいなの首を確認したのだ。続けて、御門台が谷底へ落ちていく瞬間を目撃している。平静でいられるはずがない。食事を摂っている者の中にも、必ずしも平静な訳ではなく、わざと気丈に振る舞っている者はいるだろう。
食事の手を休め、柚木が立ち上がった。
「どうした?」
「厨房に。心配なら扉は開けたままにしておく」
柚木は遠江にそう返す。厨房へ繋がる扉を開けて中へ入る。冷蔵庫を開け、何かを取り出しているようだった。食堂の扉を後ろ手に閉めて、柚木は戻ってくる。
「所詮は気休め程度だ」
余計な一言と共に、紙パックの野菜ジュースをみづきとふゆみの前に置く。彼女たちの反応を見ることもなく、柚木は席に戻って食事を再開する。目の前に置かれたからか、固形物よりは摂りやすいと考えたのか、みづきとふゆみは紙パックに手を伸ばした。
彼らが毬藻荘を訪れて最初の食事だった。話し声は何もない。
吊り橋がなくなった今、遠江が警察を呼びに行くことは出来なくなった。彼らの中に、雪山登山の経験を持つ者はいない。橋を渡らずに麓へ降りることは不可能であり、電話も使えず、外界と連絡を取る方法もない。推理小説さながらの閉鎖空間に彼らは放り込まれていた。
「どう考えたらいい……。いや、何から考えればいいんだ……?」
黙々と進んだ食事が終わり、遠江は頭を抱える。
「僕が代わりましょうか?」
遠江は長沼の申し出を受けた。彼が他人に頼るのは珍しい。相当参っている様子である。
「古庄さんが見つかったのは、対岸……橋を渡ったすぐのところでした。桜橋君と同じく、身体を切断されていました。ただ、彼女の上半身はきちんと服を着ていたようです。腕や腿には衣服は付いていませんでした。どこの部分か解り兼ねるものもありましたが、首の周りに散らばっていたのは、彼女の身体の一部に間違いないでしょう」
みづきが身体を強張らせる。
「血を流さないような殺し方であれば、彼女の部屋でも犯行は可能です。その場合、犯人は鍵の掛かった部屋に侵入したことになりますが、どんな方法を使ったのかはまだ解りません」
まだ、という単語を長沼は強調して言った。
「部屋に入った犯人が古庄さんを生きたまま連れ出したのか、殺してから運びだしたのか。どちらにしても、残された包丁や血に染まった雪から考えて、解体作業は僕たちが見つけたあの場所で行なわれたようですね。当然、あんなところで解体するには、何かそれなりの理由があったのでしょうが」
「長沼、お前が気づいていないとは思わないが、その仮説には問題がある」
草薙の言う通り、誰かがその疑問を口にすることは予想していたのだろう。長沼は容易く肯定した。
「ええ、そうです。もし彼女が橋の向こうで解体されたのであれば、犯人の足跡がなければいけない。なのに、橋桁に積もった雪に足跡のようなものは何も残っていませんでした。僕は昨日、いや、今日ですね。朝の三時ころまで起きていましたが、その時間まで雪は降っていませんでした。誰か早起きした人や、気づいた人はいらっしゃいませんか?」
長沼は食堂にいる者を見廻した。
「私、今朝は早く目が覚めて……。もう一度寝ようと思ったけど、寝られなくて……。外を見たとき、雪は降ってなかった。あれは五時少し前くらい、だったと思う……」
ふゆみが言ったあとで、遠江も告げる。
「自分は、夜中に何度か目を覚ました。二時と、四時くらいだ。そのとき、窓を見たが雪は降っていなかった」
長沼は満足そうな顔をした。
「僕らが気づいていない時間帯に、都合良く雪が降り積もったとは考えにくいですからね。昨夜から今朝まで、雪は降っていないと考えて構わないでしょう。第一、雪がこの時間に降るなんていうことは、犯人にも誰にも予測出来ません。仮に解体作業が別の場所で行なわれたとしても、古庄さんの死体を橋の向こう側に置いてきた以上、足跡の問題を避けて通ることは出来ません。犯人は何らかの方法を用いて、橋の向こう側とこちら側を行き来したのです」
「その橋も、もうなくなってしまった……」
苦渋に満ちた顔で遠江が言う。
吊り橋を支えるロープは、両岸に打ち付けられた杭に幾重にも巻き付けて結ばれているはずだった。調べてみると杭に残ったロープには、刃物によって付けられた幾筋もの切り込みが残されていた。
「古庄さんの死体があんなところにあれば、誰かが見に行かざるを得ません。人が載ったら落ちてしまうようにロープが傷つけられていたのは、それを見越してのことでしょう」
「その方法は確実とは言えないんじゃないか。人が載ったら落ちる程度に切っておくといっても、かなり微妙だ。犯人がロープを切っている最中や、強風に煽られたときに橋が崩れてしまうこともあるだろう」
草薙が述べる。遠江の口数が少ないときは、草薙の発言が多くなる傾向がある。これまでの例会や、ボックスでもこのようなことは幾度かあった。
「古庄さんの死体を設置したあとであれば、切り込んでいるときに橋が落ちても、朝になって風に吹かれてなくなっていようとも構わなかったのです。その場合、当然足跡の問題は発生しません。足跡の付いた橋ごと落ちてしまったと僕らは考えるでしょうから。橋がかろうじて残っていたために、足跡の問題が浮上した訳です」
長沼は実に嬉しそうな表情を見せる。
「……成程成程。確かにミステリとは違う。犯人はトリックを見せつける気などなかった。どちらに転んでも良かった訳ですよ。状況に応じて柔軟に対応する方が、遥かに現実的な行動ですからね。上手く行けば誰かが橋から落ちるかもしれない、程度の考えだったのでしょう。たまたま、御門台さんが橋を渡りましたが、日吉さんや春日町さんが見に行くことも考えられました」
ふゆみは、びくりと身体を震わせる。
「被害者が女性なのですから、二人一緒にということもあります。いずれにしても遠江さんが警察を呼びに行くのには、あの橋を渡らなければいけません。かろうじて残っていた橋が、崩れることは決まっていたのです」
遠江は口を出さず、黙って聞いていた。
「たまたま、じゃない。しいなさんのあんな姿を見たら、駆け寄るのは御門台君だった」
ふゆみが顔を上げて長沼を見る。
「……古庄さん、のことですか。気づいていましたよ。だが、そんな感情的な理由で犯人が御門台さんを狙ったとは思えませんね。確実性がありません。そういう情報は伏せておいてこそ、犯人を特定するとき役に立つんです。何でもかんでも、みんなに提供する必要はありません」
「ちょっと待てよ、何を言っているんだ。御門台がどうしたんだ?」
遠江が問い掛ける。草薙も似たような、解らないという表情をしている。
「このように、知らない人間には使えない方法です。御門台さんが標的だったというのには賛成出来ません。密室や、足跡のない犯行をやってのけた犯人です。人の感情という、あやふやなものを利用したとは思えませんよ」
遠江の質問に対して長沼は、このような状況で言うのは何ですがと前置きしてから、古庄さんのことを気に掛けていたんじゃないですか、と関心がなさそうに言い捨てた。
「それよりも興味深いのは、犯人がひとつの殺人を次の殺人に利用していることです」
「どういう、ことだ?」
浮かない顔で遠江が訊く。
「桜橋君の死によって、犯人は夜中に僕たちが部屋から出ないよう楔を打ちました。同様に、古庄さんの死体を次の殺人の仕掛けとして用いました。しかし、御門台さんの件に関しては先程も言いましたが、運が良ければ死体がひとつ稼げる程度の考えだったのでしょう。そのため次の殺人への繋がりも、これまでのように首が斬り取られることもありませんでした」
「次の殺人……」
みづきは怯えた表情を見せる。
「どうして……そんな、普通に、話せるのよぅ。何人も、続けて……人が、死んだって、いう、のに……」
同学年の長沼にみづきは突っ掛かる。けれど長沼は歯牙にも掛けない。
「やれやれ、困りましたね。日吉さんのように慌てふためいたところで、何が変わるんですか? 泣けば犯人が犯行を止めてくれるとでも思っているんですか?」
「そ、それは……」
みづきが言葉を詰まらせる。
「いいですか、犯人が衝動的にことを起こしたのであれば、一人一人を問い詰めて自白に追い込むことも可能かもしれません。しかしこの事件の犯人はそうじゃない。冷静に判断し、行動し、殺人を犯しています。そのような犯人を相手にするのであれば、こちらも冷静に構えるほかないでしょう。感情だけで動いたら、おそらく犯人には勝てません」
そう言われたきり、みづきは顔を伏せて押し黙る。
第四章 第三の被害者
*
引っ越しの日だった。
生まれてから十数年を過ごした町ともお別れだった。
二度と戻ってくることが出来ない距離ではない。引っ越し先は同じ日本の中にある。
けれどやはりそこは遠い。少年にとって中学生にとって、簡単に行き来の出来る場所ではない。
ここにいるのは、おそらくこれが最後なのだろう。
少年が住んでいた家には、何も残っていない。
少女が度々遊びに来た部屋も、今はもうない。
家にあった全ての荷物は、先に運ばれている。
玄関前の乗用車は出発を待っていた。両親は車の中にいる。
家の前で少年と少女が話をしていた。
少女は感情的になっているが、少年は淡々と言葉を返した。少女が涙を流しても、少年は変わらなかった。無理なものは無理で、叶わないことは叶わない。そのようなことを言っている。
やがて。少女は持っていた紙袋を少年に押し付けた。ごめんなさい、という言葉を残して振り返ることもなく駆け出した。少年は声を掛けることもない。追い掛けもしなかった。
少年は家族の待つ車に乗り込んだ。いいのかと父親が訊いたが、仕方のないことだろう、と少年は言い放った。
少年は紙袋を開ける。中から出てきたのは野球チームの帽子だった。けれど少年には、それがどのチームの帽子か解らなかったようだ。一瞥すると紙袋に戻した。
乗用車が動き出す。
* * *
駒の数は減っている。
幾ら慣れや経験があっても、時間の制限はある。
一日にひとつの駒だけでは間に合わないのだ。ふたつ、みっつを同時に壊せるのであれば同時に壊し、一日で複数を壊せるのなら、それに越したことはない。
最悪の場合、正体がばれてしまっても構わない。見つかろうと気づかれようと、目撃者全員を消してしまえばいいのだ。日程的な限度が来たときは、全ての駒を一斉に片付るしかないだろう。方法は用意してある。
だが、そのことを考えるのまだ早い。一斉消去は、あくまで最後の手段なのだ。
要は状況に応じて臨機応変な行動を取ればいいということ。駒の動きを完全に制御出来ない以上、こちらも柔軟な対応を取るしかない。この駒にはこの方法で、などと固執すると自ら墓穴を掘ることになる。そのときどきに使える方法で、駒を減らしていくのが確実だ。最終的に全ての駒を消すことが出来るのなら、方法はどんなものでもいい。
小説ではないのだ。殺害方法に理由も論理も何も必要ない。このときこの駒にはこの方法が適している。そう思って行動を起こすだけ。
目的の場所に辿り着けるのであれば、方法など関係ない。
* * *
十九
「こちらから連絡を取ることが出来ない以上、誰かにこの状況を気づいてもらうしか、自分たちの助かる方法はない……」
ようやく遠江が口を開いた。
「ここの山荘を借りるとき、オーナーの登呂さんに俺たちメンバーの名前と連絡先を伝えてある。期限を過ぎても、鍵の返却がないようであれば、不審に思って調べに来てくれるだろうが……」
草薙は語尾を濁した。
「何か問題があるのか?」
「登呂さんは他に客が来ないからか、気に入ったのであれば、滞在期間を一日でも二日でも伸ばしてくれて構わないと言ってくれた。まあ、そのときは追加料金を取られるんだろうが、一日二日長引いただけでは、ここまで調べに来ないだろう。電話は緊急のとき以外掛けないとも言っていたしな。気が良すぎるのも考え物だな」
「そうか、山荘側からのアプローチは期待しない方がいいということか……」
遠江は肩を落としたが、すぐに顔を上げる。
「……春日町は、実家から通っていたよな。家の者に合宿のことは、どの程度伝えてきている?」
「う、うん。ミステリ研の合宿で、三日間泊まってくるって、だけ。場所の説明もほとんどしてない……」
「そうか……」
遠江の落ち込み出した表情を見て、ふゆみが続ける。
「でも、私のお母さん、心配性だから。三日経って私が帰ってこなければ、きっと私を探そうとしてくれると思う……」
「待てよ。あいつらがいるじゃないか」
遠江が急に大きな声を出す。
「入江岡と伊豆さんがいる。それに清水も。春日町の母親だって、娘を探すのなら真っ先にミステリ研の連中と連絡を取るはずだ。入江岡も伊豆さんも清水も、合宿の栞を持っているし、栞にはこの山荘の住所と連絡先が書いてある。異常を感じたら、すぐにこちらへ向かってくれるはずだ。特に入江岡は、合宿での例会結果を終わったらすぐに聞かせろと言っていたくらいだ。最終日にボックスで待っている可能性はある」
「じゃ、じゃあ、あと三日経てば……」
ふゆみが顔を綻ばせる。
「ああ、入江岡がきっと警察に報せてくれる。草薙、これもお前が合宿の栞を作ってくれたおかげだ」
「止せよ。状況自体は何も変わっていないんだ」
草薙が嗜める。
「解ってる。だが、希望が見えてきたのは事実だ。今晩、明日、明後日、この三日間を無事に過ごせば、警察に連絡が行き、動き出してくれるはずだ」
「……無事に過ごせれば、ですね」
長沼の言葉に、彼らは再び口を閉じる。
二十
それは誰もが思っていることだったろう。
もし救けが来ても、そのときまで生きていなければ意味がない。既に三人の仲間が殺されている。自分がいつどこで同じ目に遭うかもしれない。無事、明日を迎えられるかどうかも解らないのだ。
殺人を犯した人間が紛れ込んでいることは、無視出来ない事実である。それを長沼が口にしたことで、希望を持とうとしていた彼らは、現実を直視せざるを得ない。
それを緩和しようと、遠江はもっともらしく明るい口調で口を開いた。
「せっかくテレビがあるんだ。この地方特有の、何か面白い番組でもやっているんじゃないのか。柚木、点けてくれ」
テレビに一番近い席に座っていた柚木が腰を上げ、リモコンを手にする。電波の届きが悪いのか、放送局自体が少ないのか、チャンネルを廻しても、画面には砂嵐のような灰色が雑音と共に映っているだけだった。
柚木がチャンネルを変えていると、突然、雑音混じりに途切れ途切れの音声が聞こえ始めた。画面には鮮明ではないが、ぼんやりと映像が映っている。報道番組だろうか。スタジオにはスーツ姿の男性が見える。リポーターの女性と中継放送が繋がっているようだ。
『……発見された遺体には、頭部がなく……身元はまだ……』
その音声に、食堂にいた者たちははっとして顔を上げる。映像は歪み、揺れ、曲がり、細かく切れた音声のみが流れる。
『……遺体の……水に濡れ……学生手帳に……S**大学……文字が……』
「え? ねえ、今――」
みづきが声を上げると、遠江が透かさず制止する。
「日吉、黙っていろ! 柚木、大きくしてくれ」
柚木が音量を上げ、雑音の激しさが更に増す。
『……ポケット……滲んで……が、かろうじて……毬藻……合宿……』
何人かが驚いたように目を見張る。
『……遺体は……釣りに……A川の畔……発見さ……』
「まさか、そんな……」
長沼にしては珍しく、声を震わせる。
『……捜査員……調べ……』
それきり音声は止まり、画面は砂嵐に戻る。一向に映像が映る気配がなさそうなので、柚木は電源を切った。
「み、御門台、君……?」
ふゆみが呟く。
「お、驚いたが……。あれから四時間近くが経つ。川に流されて発見されることは……考えられる。そこの谷底を流れる川が……A川というのだろう」
遠江は草薙の方を向く。
「あの栞……。合宿の栞は、一人に一部ずつ渡したはず、だったな」
「ああ、再利用出来るものではないし、会員全員に配ったあと、残りは俺が始末した」
答える草薙の声も、心なしか震えている。
「御門台が流された直後に、伊豆さんや入江岡、あるいは清水が死体で発見される偶然など、とてもじゃないが起きないだろう。なら今のはやはり御門台、のことか……」
「ま、待ってよ! そうだったら、おかしいじゃない。だって……」
みづきは言葉を止める。自分の考えを信じることが出来ない程の取り乱しようだった。
「発見された遺体は、頭部がなかったって……。ねぇ、頭部って頭でしょう? どうして、どうして御門台先輩が、首を斬られているのよ! だって普通だったじゃない……そのまま……落ちたじゃない! それなのにどうして。ねぇ、何が起こったのよ!」
みづきは喚き散らす。
「それは……」
顔を向けられても遠江は答えることが出来ない。他の者も反応は似たようなもので、みづきの発言に対し愕然とした表情を見せる。
「くくっ……。面白い、面白いですよ……。犯人がここまでやってくれるとは……」
長沼が声を荒げた。興奮しているのか、いつもの冷静さを欠いている。
「な、長沼! 気を確かに持て」
「しっかりするのは遠江さん、あなたの方です。見知らぬ場所に泊まるというのに、近辺の地理も調べていないから、そんな呑気なことが言える」
長沼は振り返り、遠江を見据える。
「いいですか、A川というのは流れの途中で二つに別れます。その地点から名前が変わり、それぞれK川、T川と呼ばれる」
「な、んだって……」
会員たちに緊張が走る。
「この山荘の下を流れるのはK川なんです。解りやすくはっきり言いましょう。どういう訳か御門台さんは、K川の上流にあるA川の畔で発見された。これまでと同じく、首を斬られた状態で」
第五章 第四の被害者
*
兄の葬儀が行なわれた。
事故だったらしい。詳しいことは知らない。訊いても両親は教えてくれなかった。戻ってきたとき、兄の身体は灰色をした布のようなものに巻かれていた。
兄は布団の上に寝かされた。兄を居間に運び入れたのは中年の男性と若い女性だった。病院の人間だろうか。男は茶碗の水に筆を浸し、兄の唇を濡らした。男が何をしているのか解らなかった。
男たちが帰ると別の人間がやってきて、両親と話をしていた。何も手伝えることがなかったので自分の部屋に戻った。いや、何をすればいいかが解らなかった。人が死んだときに、何をどうすればいいのかが解らなかった。
人の死に触れるのは初めてだった。兄の死が初めての死だった。
翌日になると、居間には祭壇が用意され、兄は棺に移されていた。居間の襖が外されていた。壁には黒と白の幕が垂れ下っている。
家の中に親戚たちや、知らない人間が集まってきていた。学制服を着た中学生も混ざっている。皆黒い服だった。見える色は黒だけだった。
何人もの人間が居間に集まった。入り切れない者が廊下や外にもいたようだ。やがてお坊さんがやってきてお経を上げた。あれは何を言っているのだろう。
お経が終わると、親戚たちによって兄の棺が運ばれた。家の外で待っている霊柩車に入れられた。家の中にいた人間たちも外に出た。たくさんの人間が集まっていた。周囲は黒ばかりだ。
父親がマイクを通して訪れた人たちに挨拶をしていた。スピーカーからクラシックが流れていることに気がついた。兄の好きだった曲だ。
お坊さんはいつの間にかいなくなった。父親が挨拶をしたあと、道を埋めていた人間の大半が帰っていったようだ。そのあとにマイクロバスが何台かやってきて、家の前に停まった。
一時間近くバスに揺られていた。誰とも話さなかった。親戚にも従兄にも歳の近い人間はいなかった。それに何を話せばいいのだろう。何を話したって悲しくなるだけに決まっている。
ずっと窓の外を眺めていた。知っている風景がなくなり、窓から見えるのは知らない景色ばかりになった。火葬場は、知らない場所の緑がたくさんあるところに建てられていた。広い建物だった。駐車場も大きい。庭もあった。
遺体が焼かれるのは順番だった。死んだ人間は兄だけではないようだ。待合室は広く大きい部屋だった。ここにも黒い人がたくさんいた。兄の身体がじきに焼かれる。骨になったら、火葬場の人間が報せてくれるとのことだ。病院で薬を待っているときみたいだ。
しばらく時間が掛かるというので待合室を出た。母に、景色を見てくると言って席を立ったが、母は何も言わなかった。
どこへ行こうという当てはなかった。ただ適当に歩いた。空は青い。白い雲が流れる。周りは緑に囲まれている。そんな場所で兄は骨になるのだ。いや、灰になるのか。
砂利を踏む音が聞こえた。振り返るとそこに彼女が立っていた。もう会うこともないだろうと思っていた彼女がいた。彼女は黒いワンピースを着ている。
新幹線を乗り継いできたのか飛行機を使ったのか、兄の死を聞いてすぐにやってきたに違いない。しかしいつからいたのだろう。気づかなかった。お坊さんのお経も聞いていたのだろうか。
再会の挨拶はなかった。悲しそうに微笑んで彼女が近づいてきた。彼女の顔が目の前にあった。目が赤く腫れていた。突然彼女が縋り付いてきた。そして次の瞬間、彼女は泣いていた。子供のように声を上げて泣き喚いていた。
こんなところまで彼女が来くれて嬉しかった。離れていても想いは変わらない。自分の気持ちも彼女と同じだと感じた。もう彼女の泣いた顔を見たくない。悲しむ顔も見たくない。これからも彼女を守ってあげないといけない。そう思って彼女を強く抱き締めた。
* * *
閉鎖空間。クローズド・サークル。
外部との連絡は一切取れない状況になっている。
閉鎖状況が解除されるまで、駒が盤上から逃げ出すことは出来ない。駒が山荘に留まっている間が、まさしく殺人に打って付けなのだ。
これで少しは時間の余裕が生じた。
一日にふたつもみっつも駒を壊すのは、出来れば避けたいところだった。こちらも人間なのだ。慣れてきたといえ続けてはきついものがある。
奴等はこの日になったら救けが来るはずだ、だからそれまで頑張ろうなどと言っている。だが無駄だ。救けなど来ないと自分は知っている。
閉鎖状況がいつ解除されるかの予測はつかない。
確実なのは、そのとき全ての駒は消えているということだ。
* * *
二十一
信じられないという声が幾らか上がったので、長沼は自室へ戻り、すぐに地図を取ってきた。遠江に言うだけのことはあり、山荘周辺の地理を把握していたようだ。長沼がテーブルに広げた地図により、山荘のすぐ下を流れるのがK川、上流に位置するのがA川であると判明した。それにより、食堂内は更に重苦しい雰囲気に包まれる。
突然、緊張状態に追い込まれ、落ち着きを取り戻したころに次の事件が発生する。この山荘へ来て一晩しか経っていないというのに何度同じことが繰り返されただろう。慰める声は何もなかった。
「……もう、嫌」
みづきが立ち上がる。厨房に繋がる扉を開けて中に入っていく。
「おい、日吉、どこに」
遠江を無視し、厨房で何かを探しているようだった。
「日吉……」
跡を追おうとして席を立った遠江の動きが止まる。戻ってきたみづきは、手に包丁を持っていた。
「もう嫌ぁ! もうたくさん!」
みづきは金切り声を上げた。
「誰があんなことをしたのよ! 桜橋君もしいなちゃんも御門台先輩も、何で殺されなきゃならないのよ!」
「みづき! 落ち着いて……」
「日吉!」
みづきを止めようとふゆみが立ち上がる。遠江とふゆみの叫びが重なる。
「……こんなところに……人殺しなんかと、一緒にいられない!」
みづきは同学年の柚木に近づいた。
「離れの鍵、取ってきて。食べ物と飲み物も袋に詰めてきて」
柚木は座ったままみづきを見上げる。
「早く……! 取ってきてって言ってるでしょ!」
摑んだ包丁を柚木に向けるが、その手は震えている。
「柚木、行ってやれ」
草薙に言われ、柚木は席を立つ。みづきを一瞥して廊下へ出ていった。
「日吉、危険だ。単独行動は……」
みづきは遠江の言葉を遮る。
「何言ってるの? みんな殺されたのよ。ここにいる誰かに! そんな人と一緒にいたら、あたしもいつ殺されるか解らない。あたしは死にたくない! 殺されたくない!」
「みづき……」
遠江とふゆみは、テーブルを挟んでみづきと対峙している。みづきは手に持った包丁で、威嚇を続ける。
「遠江先輩、ライターを貸して」
訝しがる遠江に、みづきが癇癪を起こす。
「離れはストーブだって言ってたでしょ! だから貸してって言ってるの!」
「ま、待てよ、日吉。ストーブの燃料だって、いつまで持つか解らない。一人で離れに閉じ籠もったからって、どうなるんだ」
遠江はみづきを必死に宥めようとする。
「じゃあ、どうしろって言うの! ここで殺されるのを待てって言うの? あなたが犯人かもしれないのよ!」
遠江は返答出来なかった。唇を噛んでポケットからライターを取り出し、テーブルの上を滑らせる。扉が開いて柚木が戻ってきた。片手にビニール袋を持ち、もう片方に離れの鍵を持っている。
「袋に入れて。鍵も一緒に」
みづきはテーブルの上にあるライターを示す。柚木が黙ってライターと鍵を袋に入れるのを見ると、包丁を持っていない方の手でビニール袋を摑む。
「……誰も来ないで。近寄らないで」
祈るように言うと、みづきは廊下へ飛び出した。
「日吉!」
遠江が跡を追おうとする。
「待て、遠江。今は行かない方がいい」
草薙が制止の声を投げる。
「あの状況での説得は無理だ。逆にお前が刺されるぞ」
「だが……」
遠江は言葉を詰まらせた。
「日吉さんが言ったことも、強ち間違ってはいないでしょう。殺人犯が同じ屋根の下にいるという状況で、落ち着けと言う方が無理なのです。いつ同じようなことが起きるかもしれない。厨房の包丁は、処分するなりどこかに仕舞っておくなりした方がいいかもしれません」
長沼は離れのある西側の壁に顔を向ける。
「ただ、あれが彼女の演技だとしたら、危険なのはむしろ僕たちの方になりますね」
二十二
「みづき……」
ふゆみは手を組んで額に当てている。
「……犯人の目的は何なんだ?」
遠江が独りごちる。
「連続殺人なんて、そんなことに何の意味がある……?」
「それは犯人にしか解らないだろう。どんな動機で殺したかなど、考えても切りがない。ここにいる者は全員性格が違うんだ。憤りを感じる対象もそれぞれだろう」
草薙に言われて、遠江は唸る。
「共通点があるとすれば、俺たちが同じサークルに所属する人間だということくらいか」
「それは……そうだろう。ミステリ研の合宿なんだから」
そんなことは解っているのだろう。遠江は草薙の発言に残念そうな顔をして答えた。
「みづきは、みづきは大丈夫なの……?」
ふゆみが顔を上げた。
「ねえ、やっぱりみづきを止めた方が良かったんじゃないの……」
「しかし、それを拒んだのは日吉さんです。あのまま彼女を引き止めていたら、僕らの誰かが怪我を負った可能性があります。論理的に動く犯人を捕らえるよりも、感情的に動いている人間を抑える方が大変です」
長沼が言った。
「みづきは、そんな、そんなことは……」
「しない、とは言い切れないでしょう。例え犯人でなくても、自分が殺されるくらいなら相手を殺そうと考える人間はいます。彼女はその状態に近かった……」
「みづき……」
食堂が静けさを取り戻したかに思えた。
そのとき。
爆発音が轟き、山荘内に振動が伝わる。
「な、何?」
ふゆみがテーブルに手を付き、腰を浮かせる。
「離れの方ですね」
長沼が言い、はっとした顔で遠江が立ち上がる。遠江が駆け出し、すぐさま草薙が続く。そのあとを、残された三人が少し遅れて追い掛けた。
玄関を出たところで、遠江と草薙が立ち尽くしていた。
凄まじい炎と煙に離れは包まれている。雪に映える赤と白。衰えることなく燃え続ける赤色。降り掛かる白色。破裂音が響き炎の勢いが増す。
我に返って、遠江が山荘へと引き返した。廊下に設置されていた消火器を手にし、離れへ駆け出していく。
「遠江、戻れ! 危険だ」
引き止める草薙を無視し、遠江は離れに近づく。
「無理だ……もう、助からない……」
「日吉、大丈夫か! 日吉! 頑張れ……」
遠江はみづきの名前を大声で呼びながら消火活動を試みる。火の粉が音を立てて爆ぜる。そんなことは目に入らないというように、遠江は消火液を噴出させる。だが、依然として火力は衰えない。
「止めろ、遠江! 巻き込まれるぞ」
草薙が遠江の腕を引っ張り、彼をどうにか離れから移動させる。再び離れに破裂音が響く。
彼らは頽れる建物を、ただ眺めているだけだった。
焼け落ちた離れから、焼死体が見つかった。
ふゆみは確認なんか出来ないと言って一人母屋に引き返したが、誰も何も言わなかった。残った四人は雪の降る中、離れの残骸を捜索した。熱気が残り、周囲に異臭が立ち込める。
離れはそれほど大きい建物ではなかった。全焼した今となっては、玄関に立つだけで全体を見渡せる。辺りには瓦礫が散乱し、みづきが持ってきたものだろう、熱で溶けたペットボトルや、変形した缶詰が残っている。
玄関付近に焼け焦げた遺体が横たわっていた。頭部が身体から千切れかかり、かろうじて身体と繋がっているという具合だった。室内のストーブの下に、みづきが持ってきたものと思われる包丁が落ちていた。
「ぐぅっ……首が……」
見下ろして、遠江が呻き声を上げる。
「いや、これは意図したものではないでしょう」
長沼はしゃがんで、黒焦げの遺体に顔を近づける。
「それよりも、ここ。左手の中指に指輪のようなものを付けているようですが、誰か見覚えはありませんか」
遺体の状況から、外見だけでみづきであるかどうかの判断は難しかったのだ。
「それなら間違いなく日吉だ。電車の中でトランプをしたとき、指に嵌まっていた」
答えたのは草薙だった。
「そう、ですか。まさかこんな形で次の殺人に繋がるとは、思いもしませんでしたよ。犯人はつくづく運に守られているようです」
「運? 犯人が意図的に、爆弾か何かを用意しておいたんだろう」
「おそらく、ストーブに火を点けたら火薬が爆発するようになっていたのでしょう。火を点けようと屈んだときに、頭部に爆風を受けたようです。離れの燃え方からすると、爆弾は、ひとつだけではなくふたつみっつと仕掛けられていた可能性はあります。エアコンが故障しているのであれば、ストーブを点けるしかないでしょう。もしかしたら、灯油かガソリンが、離れの壁や周囲に染み込ませてあったのかもしれません」
「爆弾なんて、そんな簡単に手に入るものなのか?」
遠江の疑問に長沼が答える。
「爆弾を手に入れるのは難しくても、材料は手に入ります。インターネットで作り方が紹介されている時代です。入手経路から犯人に辿り着くのは難しいでしょう。まあ、そんなことは最初から期待していませんけどね」
「俺たちが調べたときに異常はなかったから、仕掛けられたのはそのあとか……」
草薙が言うのは、桜橋の遺体が発見されたあとに外部犯がいないかどうかを、遠江、柚木と調べに行ったときのことである。
「そうすると、初日の夜に仕掛けたのかもしれません。古庄さんを殺し、橋桁のロープを切り刻み、離れに爆弾を置いた。なかなかハードなことをしていますね」
「ふん、人を殺すような人間だ。今更どんなことをしようと驚かないさ」
草薙が無下に言い捨てる。
明るく元気で人懐っこく誰からも好かれていたみづき。彼女の無邪気な笑顔は二度と見られない。
「確認出来たのなら、母屋に戻ろう。春日町を一人にしておくのは心配だ」
遠江が皆を促した。
第六章 第五の被害者
*
家族が減った。
四人家族が三人家族になった。そう思っていた。四人から三人に減ったのだと。
けれど兄が死んでしばらく経つと、父も母も兄のことを話さなくなった。兄の部屋はそのまま残されている。それなのに。学校の連中も同じだった。兄が死んだことには触れないようにと気を遣ってくる。兄が死んだのは事実だ。それを避ける必要はないだろう。だが、所詮は他人だ。彼らが兄をどう思おうと関係がない。
家族が兄を想ってくれていればいい。兄は確かに生きていた。生まれて十数年、一緒に過ごして一緒に暮らしてきた。父と母の方が付き合いは長い。何しろ最初の子供だ。死んだことを信じたくないと思うのも当然かもしれない。
だけど。しかし。だからといって。兄のことを忘れたからって悲しみがなくなるのだろうか。つらくなくなるのだろうか。最初からそんな子供はいなかった。兄はいなかった。そう思えば、涙を流さずに済むのだろうか。
兄のことを話すと父と母が露骨に嫌な顔をするようになった。それでも兄との思い出を二人に聞かせた。効果はなかった。兄の部屋も荷物も持ち物も、全部残っているのに。どうして兄がいなかったように振る舞えるのか。頭の中でどう整合をつけているのだろう。兄はいなかった、ということが父と母の間では事実になっていった。
待てよ。待ってくれ。何だそれは。死んだ人間のことを生きている人間が忘れてどうするんだ。生きている者が死んだ者を覚えていなければ、それこそ死んだ者は最初からいないことになってしまう。まるで。兄のように。違う。兄は生きていた。一緒にいたんだ。ここにいた。いたはずだ。
家族が兄のことを忘れてしまって、誰が兄のことを覚えているんだ。だから忘れちゃいけない。忘れてはならない。絶対に覚えていないといけない。死ぬまで。ずっと。
* * *
駒は確実に数を減らしている。
残りの駒は少ない。もう半分は片付けたのだ。
この数になればもう心配することもない。残りの駒が少ないのだから、変な装飾に凝ることもない。
だがここで手を抜いてはいけない。これまで通り、落ち着いて着実に消していくのだ。そうすれば失敗はない。我を忘れて慌てて行動してしまうことが、一番危険なのだ。
幸い、まだ誰も犯人の正体に気づいていない。気づいたところで、あいつらの未来が変わる訳ではない。だが、殺し方が雑になることは避けるに越したことはない。複数を纏めて消そうとすると、どうしても方法が杜撰になってしまう。
大丈夫。残りは少ない。ひとつひとつ順に消していけ。
奴等が持っていないカードを、自分は持っているのだから。
* * *
二十三
「どうにか延焼は免れたようだな。森林に飛び火でもしたら、どうしようもなかった」
「いっそのこと、山火事にでもなった方が、早く救助が来てくれたかもしれませんね」
草薙の言うことに、長沼が素っ気なく返す。これまでと様子が違うことに草薙が怪訝そうな顔をした。
「犯人が爆弾を用意しているのなら、それぞれの部屋を調べてみるのはどうだ。昨日は荷物までは調べなかった。荷物の中に爆弾や凶器のようなものが隠してあるかもしれない」
遠江が提案するのに対して、長沼が感情のないような声で返す。
「正体が解ってしまうようなものを、犯人が所持しているとは思えません。隠し場所なら山荘の外、雪の中や土の中、林の中と幾らでもあります。密室だった古庄さんの部屋に侵入した犯人です。犯人がそれを他人の部屋に隠しておいたということも考えられます。所持品検査に効果はないでしょう。それにそんなことをしたら、犯人が他人の部屋に入る機会を堂々と与えてしまいます。そのときに妙な仕掛けやら、凶器をこっそり隠されることも考えられます。お薦めは出来ません」
そう言われ、遠江は押し黙ってしまう。
食堂の時計は六時を廻った。
彼らが毬藻荘を訪れて、丸一日以上が経過していた。火災現場を調べ終えた四人が戻ってきて、ふゆみに離れの状態を伝えたところである。遠江は言うか言うまいか迷っていたようだったが、昨夜の草薙の言葉を思い出したのか、調べてきたことをありのまま伝えた。
「そんな……。みづきまで……」
母屋に残ると言ったときに、ある程度の予想はしていたのだろう。しかし、事実を予想するのと実際に聞くのとでは衝撃の重みが違うようだ。みづきの死を報されて、ふゆみはそのまま啜り泣き始めた。
食堂のテーブルを囲む人数は、五人に減っていた。既に四人もの人間が命を落としているのだ。皆、疲れ切った表情でうな垂れている。昨夜はお互い隣や向かいの席に着いていた彼らだったが、今はそれぞれとの距離を取っていた。
「離れの爆発によって……解ったことがあります」
冴えない表情で長沼が発言する。
「犯人の目的は、僕たちを殺すことだけではないのでしょう」
「だけじゃ、ない?」
遠江が繰り返す。
「ええ、殺すこととは別に何か目的があるのではないかと思ったのです。犯人は爆弾を用意していました。殺すことのみが目的であれば、一人一人面倒な殺し方をする必要はありません。食事のときでも例会のときでも、みんなが集まったところで、爆発させればいいのです」
「犯人が、巻き込まれることを嫌ったのかもしれない」
遠江の言葉に、長沼は肩を竦める。
「あれだけ凝った殺人を繰り返す犯人が、遠隔操作の出来る爆弾を用意していないとは思えませんね。携帯電話は圏外ですが、山荘周辺に無線で電波を飛ばす程度は可能でしょう。それに普通の爆弾でも、自分が巻き込まれない方法は考えられます」
「それは、そうかもしれないが……」
長沼は遠江の言葉を聞いていないのか、そのまま話し続ける。
「犯人がいつまで犯行を続けるのかは解りません。これで終わりかもしれませんし、犯人一人になるまで続くのかもしれません。ただ、犯人の目的が殺人だけではない以上、僕らは、いや、僕は犯人に勝てません」
「何だって?」
驚いたのは遠江だけではないようだ。草薙は唖然とした表情を浮かべ、柚木とふゆみは顔を上げて長沼を凝視する。そして。長沼の吐き出した台詞に皆目を見張った。
「申し訳ありませんが、僕はここで退場させて頂きます」
二十四
「ちょっと、何……。何を言ってるのよ」
ふゆみが怯えたような声を出す。
「そのままの意味です。いいですか。もし僕が犯人を指摘してトリックを暴いても、そこで物語は終わらない。都合良く犯人が泣き崩れたり、自殺を試みたりはしないでしょう。そんなことをするのは、自分のトリックを読者に見せつけて終わりの、作者に都合の良い犯人だけです。現実はそこまで甘くない。正体がばれたのなら、残りの人間を殺そうとするだけだ。僕には犯人がここで犯行を止めるとは思えません。最後に残るのが犯人だけであるのなら、正体が解ったところで何も変わらない」
「待てよ長沼。犯人が一人なら、残りの四人で取り押さえればいい。多少の怪我は覚悟しないといけないかもしれないが――」
長沼は、遠江に最後まで言わせなかった。
「いつまで現状を維持出来ると考えているんですか? 四人もの人間が続けて殺されたんですよ。犯人を突き止めるのと、僕たち全員が殺されるのと、どちらが早いと思いますか?」
「そ、それは……」
遠江は反論しなかった。心の中でその可能性を完全に否定出来なかったのだろう。
「当然、今言ったことは僕の考えなので、他の可能性もあるでしょう。事件はこれで終わり、殺人は続かないかもしれません。そのときは僕を笑ってくれればいい。判断は各自に任せます。では僕の、最後の論理を聞いてください」
そう言って、長沼は恭しく立ち上がる。
「僕たちが犯人に勝とうとするのなら、方法はふたつしかありません。ひとつは犯人が持っている目的、犯人を動かしている殺人の動機そのものを打ち砕くこと。しかしこれは、草薙さんが言われたように、考えても切りがありません。人の数だけ動機は存在します。これは、トリックを暴くことよりも難しいでしょう」
長沼は長い髪を掻き上げる。
「ふたつめ。犯人を突き止め、かつ、殺すこと」
「え?」
ふゆみが小さな悲鳴を上げる。
「先程も言いましたが、犯人を指摘したところで意味はありません。右往左往するだけの僕らは、犯人に殺されるだけです。殺さなければ、殺されます。僕が犯人に勝てないと言った理由はここです。相手が殺人犯であろうと、僕は人を殺したくありません」
「な……なら、考えろよ。お前、御門台に言ったじゃないか。考えることを放棄するなって」
遠江はどうにか説得しようと必死だった。テーブルに手を付いて立ち上がる。
「考えましたよ。けれど残念ながら、現時点で僕には犯人の見当もつかない。情報が足りないのか、どこかで考え違いをしているのか、四人のうち一人を指摘することが出来ない」
長沼も表情を曇らせて懸命に言葉を返す。普段の丁寧な言葉遣いも乱れてきていた。
「僕自身が殺されることも考えました。残りの人間は犯人を除いて四人。次に僕が殺される確率は四分の一です。幾ら推理を重ねて真実に近づいたとしても、殺されてしまっては意味がない。不本意ですが、僕が真相を看破するよりも、犯人に殺される方が先だと、僕は考えています」
長沼は後ろのポケットから、灰色の替刃をゆっくりと取り出す。
「他人に抵抗する武器は持ちませんが、自分に向ける刃物だけは、持たせてもらいました。さながら、オッカムの剃刀とでも言いましょうか。このような状況に於いては、これがもっとも単純な理論です」
長沼は苦々しく自嘲する。
「な、長沼……?」
遠江はそのあとを続けられない。草薙は目を見開き、ふゆみは驚きの表情のまま、柚木は黙って、長沼を見つめる。
「仮令僕が死んだあとでも……犯人によって首を斬られ、おかしな装飾を施されることには耐えられない。僕の身体は、不可能犯罪の材料でもトリックの道具でもない。僕は人間だ。長沼リュウスイだ」
そう言った長沼の瞳から、涙が一筋流れた。長沼は服の袖で涙を拭う。
「……僕は犯人に勝てません。だが、負けもしない。僕の命は僕のものだ。犯人に殺されはしない。押し付けてしまって申し訳ありませんが、あなたたちにその証人となって頂きます」
長沼は手に持った替刃を皆に見えるように翳す。
「長沼っ!」
遠江が叫ぶ。
「近寄らないでください! これが僕の克己であり矜持です」
長沼は強い口調で言い放つ。これまでにない迫力に押されてか、誰も動くことが出来なかった。
「遠江さん。色々と教えて頂いたのに、会長職を継ぐことが出来なくて申し訳ありません。けれどあなたと一緒に活動が出来て楽しかった。ありがとうございます」
「長沼……」
長沼は草薙の方を向く。
「草薙さん。遠江さんが落ち着いて活動を行なうことが出来たのは、背後にあなたの支えがあったからです。これからも遠江さんを助けてあげてください」
草薙は何も答えない。ただ、長沼を見ているだけだった。
次に、長沼はふゆみに向き直る。
「春日町さん。これまでお世話になりました。何も知らなかった一年生のころ、サークルのことだけなく、学校のことも優しく丁寧に教えてくれたことは、今も感謝しています」
「そ、そんなこと、そんなことない……」
ふゆみの声は震えている。気を抜いたら、すぐにでも涙が零れそうだった。
そして。長沼は、一番離れた場所にいる柚木を見据える。
「柚木君。君とは同じ学年でありながら、ほとんど話すことがなかったね。しかし僕は、君に近いものを感じていた。君のことが好きだったよ。そうだな……犯人に勝てるとすれば、君かもしれない」
「……そうか」
柚木はぽつりと言った。
もう一度全員を見廻したあと、長沼は微笑した。壁を背にして後退る。
「では、お別れです。こちらを見ない方がいい」
そう言って長沼は。手に持った替刃を。首筋に当て。躊躇うことなく。掻き切る。
「長沼っ!」
「嫌ぁ!」
遠江が叫ぶ。草薙は動けない。ふゆみは声を上げ目を背ける。柚木は凝視したまま。
長沼の首から吹き出した鮮血が、壁をテレビを床を、赤く赤く染める。
「長沼! 長沼っ!」
遠江は長沼の許に駆け寄る。汚れることも厭わず、崩れ落ちた長沼を抱き抱える。遠江が長沼の血に塗れた。首筋を抑え、血の流れを止めようとするが効果はない。
「おい、長沼! 長沼! 返事しろよ! 目を開けろよ!」
遠江が叫ぶ。涙を流して叫び続ける。
「……どうしてだよ……何で。こんな……結末しか……なかったのかよ! 返事しろよ!」
遠江の言葉に答える声は何もなかった。
会内において判断力と洞察力では誰にも劣らず名探偵役を自任していた長沼。彼の冷徹な目が再び開くことはない。
二十五
時刻は九時に近い。
長沼を抱いたまま、遠江は嗚咽する。
草薙、ふゆみ、柚木の三人は、遠江の背中を黙って眺めているだけだった。
やがて柚木が立ち上がり、食堂を出ようとした。
「どこに行く?」
草薙の問いに柚木は即答する。
「部屋に戻る」
「だが……」
「どこにいても同じだ。殺されるときは殺されるだろう」
素気なく返事をすると、柚木は食堂を出ていった。
ふゆみは柚木の出ていった扉を恨めしそうな目で見たあとで、視線を草薙に戻した。
「……怖いか。仕方ないさ」
「ち、違う……。そういう訳じゃないけど、ただ……」
口では否定するが、ふゆみの声は震えていた。
「いいよ、行って。遠江は俺が看ておく。戸締まりはきちんとしておけよ」
「あ、う、うん……」
中身の籠もっていないような返事をして、ふゆみは食堂を逃げ出すように出る。無理もない。部屋に鍵を掛けたところで、何の安心も出来ないのだ。
「遠江。いつまでそうしているつもりだ」
草薙は、部屋の隅で蹲る遠江に声を掛ける。
「長沼の死は、お前のせいじゃない」
けれど遠江は泣き続けるばかりで答えない。今は遠江に何を言っても答えはないと思ったのだろう。
「俺も部屋に戻る。遠江、注意だけは怠るな」
それだけ言って、草薙は食堂を出ていく。
食堂には遠江一人が残った。
しばらく経って、遠江が不意に顔を上げた。
窓の外。雪はいつの間にか降り止んでいる。
第七章 第六の被害者
*
手紙が届いた。彼女からだった。
兄の葬式以来、彼女には会っていない。あの日彼女を抱いたとき、いや、あの日彼女が現われたとき、離れていても想いは通じると知った。同じ想いを抱いていることが解った。
だから無理に会う必要はなかった。機会があるときに会えるのなら、それで十分だ。それに金銭的な問題もあった。中学生だった当時はともかく、高校生になった今でも彼女の住む場所は遥かに遠い。それこそ兄が死んだときのように、両親と余程親しかった人間が亡くなるか、彼女自身が亡くなったときにしか、幼少時代を過ごした場所には戻れないだろう。けれど彼女がいない故郷には意味がない。そんなことを考える必要はない。
大丈夫。故郷での出来事は覚えている。彼女との思い出もちゃんと心の中にある。戻らなくても帰らなくても、想いはいつだって故郷に繋がる。思い出は甦る。
最初の手紙が着いたのは、兄の葬儀から数週間経った日のことだった。葬儀のときに抱きついてしまったこと、泣きじゃくってしまったこと、兄の面影を見てしまったから、などと懸命に弁解していた。そんな必要もないのに。彼女の文面を読んで微笑ましく思った。
その後、彼女からの手紙は一年に一通になった。当初は封筒だったのが、いつからか葉書に変わった。内容も簡潔で挨拶程度のものになった。だがそれも当然だろう。想いの全てを綴ったのでは便箋が封筒に入り切らない。それは互いが心の中で想っていればいい。言葉や文字で伝えることではない。
彼女から届いた五通目の手紙。長年住んだ町を離れると書いてあった。両親も近所の人も、この町にいる人はみんな優しくて親切だからいくつになっても甘えてしまう。頼ってしまう。そんなことではいつまで経っても独り立ち出来ない。だから、嫌いになった訳じゃない、嫌になった訳じゃない。だけど私はこの村を出ないといけない。全部を白紙に戻して、誰に頼ることなく、一人で生きていかなければならないと。
そして最後に。彼女が目指す県外の大学名が記されていた。そうか。成程。大学生か。大学生なら中学生とも高校生とも違うから、ある程度の自由が利くだろう。もしかしたら彼女とまた一緒に過ごせるかもしれない。思い出を新しく作れるかもしれない。
彼女の手紙を読んで、そう思った。
* * *
残りの駒はふたつ。
ひとつずつでも、ふたつ纏めてでも、どちらでも構わない。
殺人の邪魔をする余計な駒はもうないのだから。
絞殺でも扼殺でも、ことを起こす場所に気をつけさえすればいい。
この状況になっても、奴等は自分を疑っていない。犯人の正体に気づいていないのだ。
それももっとなことと言えばそれまでだが。奴等は密室殺人だ不可能犯罪だと騒いでいるだけで、真相に近づく気配もない。密室殺人に限らず、不可能犯罪など起こることはないというのに。
情報が不足しているだけなのだ。それに気づけば、密室も不可能も何もない。自然に解答が導かれる。知っている者からすれば、密室殺人のどこにも不可能はない。
与えられていない情報を訊ねることは難しい。井戸の中の蛙が、外の世界を知らないように、奴等は知らないことを訊ねようがない。想像力を働かせれば気づくかもしれないが、そんなことを考える前に駒は消えていくだろう。
自分を容疑者から外すために行なった密室殺人だが、奴等を疑心暗鬼に陥らせ、恐怖を煽ることは出来たようだ。やはり人の死に対する免疫が物を言っている。考えを纏めるためには、何よりも冷静でいることが必要なのだ。それが出来ない者たちを怖れることはない。
残りの駒を始末するのに、それほど苦労はないだろう。
* * *
二十六
午前九時。今朝も雪は降っていない。
互いの安全を確認したかったのか、遠江の指示を守る義務を感じていたのか、客室の扉が順に開かれた。
時刻は昨日とほぼ同じだが、開いた扉は三つだけだった。草薙、ふゆみ、柚木が廊下で顔を合わせる。昨日と違い挨拶はない。柚木以外の二人は服を着替えたようで、昨夜と服装が変わっていた。三人は自然と二〇五号、遠江の部屋の前に集まる。
「遠江、時間だ」
草薙が扉を叩く。
「止めましょう……。遠江さんが時間を守らないはずがない」
柚木が諦めた口調で言う。
「解った……」
草薙は、ふゆみに下がっていた方がいいと言って扉を開ける。鍵は掛かっていない。草薙に続いて、柚木も部屋の中に入る。
予想していた光景だったのか、あるいは人が死ぬことに慣れてしまったせいなのか、彼らに驚きの声は上がらなかった。草薙と柚木の後ろから恐る恐る覗き込んだふゆみも、落胆の表情を浮かべただけである。
遠江はベッドの上で仰臥していた。左胸に捌き包丁が突き刺さり、微動だにしない。上着もズボンも赤く染まっている。長沼の血液と自身のそれが混ざってしまっているようだ。
「昨夜と同じ服……。着替える間もなく殺されたのか……」
草薙が、遠江の脈を取ったあとで身体を見渡す。
「包丁でひと突き……。他に、傷はないみたいだ」
「その包丁も、犯人が用意したもののようですね。厨房のものではない」
答える柚木も淡々としている。二人はまるで悲しむという感覚が麻痺してしまった人間のようだった。ふゆみだけが遠江の死に顔を見て、同じ部屋にはいられないらしく廊下へと出ていく。
自分よりも他人のために行動し心からの涙を流すことが出来た遠江。彼の落ち着いた話し声はもう聞こえない。
「しかしこれは……。長沼の勝ちだな」
遠江を見下ろして、柚木が言う。
「どういう、ことだ?」
「首を斬られていない」
言い捨てて柚木は廊下へ戻る。
廊下で待っていたふゆみが顔を向けたので、柚木は黙ってかぶりを振った。ふゆみは手で口を抑えて押し黙る。じきに草薙が部屋を出てきて扉を閉めた。
「昨夜、おれが部屋に戻ったあとは、どうしたんだ?」
柚木がどちらともなく訊ねる。
「わ、私も柚木君のすぐあとに二階に……」
自然と、二人の目が草薙に向く。
「俺は、遠江に忠告をしてから部屋に帰った。時間的には春日町が出ていってすぐだ。遠江一人を残しておくのは心配だったが、何を言っても動きそうになかった」
忸怩たるものがあるのだろうか。草薙は悔しそうな顔をした。
「……そう、ですか」
柚木が答える。それきり三人は押し黙り、その場に佇んだ。
しばらくして草薙が口を開いた。
「残りは三人。もう一人殺したら犯人の正体が解ってしまう。なら、この三人は助かるか」
からかうような口調だが、誰も笑わない。
「けりをつけましょう」
挑発するように柚木が言う。
「……そうだな」
わずかに柚木を見つめたあとで、草薙が頷いた。
「え、何?」
ふゆみ一人が途惑っている。
「しばらく時間を措こう。考えを整理したい」
「構いませんよ。おれも、調べることがある」
草薙の提案を、柚木は受け入れる。
「そうだな、十二時……いや、一時でどうだ」
「場所は?」
柚木がそう訊いたのは、昨夜の長沼を思い出したからだろうか。
「食堂は……止した方がいいな。ラウンジを使おう」
解ったとだけ言うと、柚木はすぐにこの場を離れる。自分の部屋に戻るのではなく、桜橋が使っていた部屋へと入っていった。
「どうしたの?」
ふゆみは意味が摑めないようである。
「聞いての通り、一時にラウンジに集合だ」
「集まって……何を、するの?」
ふゆみの問いに、草薙ははっきりと答えた。
「この事件の真相を、明らかにする」
二十七
ふゆみはベッドで仰向けになっている。
柚木が桜橋の部屋へ行ったのは、何か確かめたいことがあるからだろうと草薙は言った。その草薙も、考えを纏めておきたいからと部屋に帰った。
廊下に誰もいなくなり、ふゆみも自室へと戻った。扉と窓の鍵を掛け、扉の前にテーブルと荷物を積み重ねてバリケードを作る。頼りないが何もしないよりは増しだろう。クローゼットを置けばかなり安心出来るのだが、ふゆみの細い腕では動かすことは無理だった。そのように扉を塞いでから、ふゆみは熱いシャワーを浴びた。
初日は山荘まで歩いてきた疲れがあったせいか、バリケードを作ってすぐに眠り込んでしまった。だが、昨夜は違う。寝たり起きたりを繰り返していた。そのせいか、頭に靄が掛かったかように思考が滞っている。この状況で何も考えずに成り行きに身を任せているだけでは駄目だ。そんなことでは殺されてしまう。
ユニットバスから出て髪を乾かしたあと、ベッドで横になる。シャワーを浴びたことで、少しは頭がすっきりしてきたようだ。ふゆみは二人の遣り取りを思い出した。
けりをつけると柚木が言い、真相を明らかにすると草薙は言った。何を意味しているのかは明白だ。二人とも、ラウンジで犯人を指摘するのだろう。
しかしどういうことだろうか。ふゆみは自分が犯人ではないことを知っている。草薙か柚木のどちらかが、この毬藻荘で連続殺人を行なった犯人なのだ。それは間違いない。つまり、草薙は柚木を、柚木は草薙を、犯人と考えているのだろう。
――いや、違う。そうじゃない。ふゆみにとって草薙と柚木が容疑者であるのと同じく、彼らにとっては、ふゆみも容疑者に入るのだ。犯人が自分自身を指摘することはないだろうから、自分以外の人間を犯人に仕立てようとするに違いない。
え、それって。ここまで考えてふゆみは愕然とする。警察の捜査がない以上、この場にあるこの場で確かめられる材料のみで、犯人を推測するしかないだろう。もし自分が犯人だと指摘されてしまったら。二人がそれを信じてしまったら。事実に反していても、そのもっともらしい推論に、自分以外の二人が納得してしまったら。――自分が犯人にされてしまう。その場合、犯人と目した人間を、六人もの人間を続けて殺した犯人を、警察が来るまでそのままにしておくだろうか。
――駄目だ。駄目だ。それは。濡れ衣を着せられる訳にはいかない。私は違う。犯人じゃない。
それなら考えろ。考えるしかない。草薙か、柚木。どちらかが犯人なのだ。それを明らかにするしか突破口はない。どちらかが犯人。可能性は二分の一。
だけど。桜橋が死体となって発見されたとき、各人のアリバイを調べた。確実なアリバイのない時間は、草薙が三十分、柚木が十五分、ふゆみが十分である。切断に一時間以上掛かるというのなら、生き残った三人の誰も犯行を行なえないはずだ。これはどういうことだろう。
あれ。もしかして。桜橋は切断されてなどいないのか。桜橋の部屋を調べたのは、長沼、遠江、草薙に柚木。ふゆみは彼らの話を聞いただけで、桜橋の死体を見ていないのだ。桜橋の身体が斬り取られていないのなら、単に殺されていただけであるのなら、草薙にも柚木にも、十分犯行は可能だ。
しかしそれも違う。彼らが揃って嘘を吐く必要はないし、ふゆみが現場を見に行けばすぐにばれてしまうのだ。草薙が言ったように、桜橋の惨状を目にしてふゆみやみづきが気を失ってしまわないようにと、あの場で告げたことは事実なのだろう。それに、自ら命を絶った長沼の悔しそうな顔は忘れられない。その彼が事実を捩じ曲げて伝えたとは思えなかった。
結局何も解らない。思考は振り出しに戻る。
どうしてこう不可解なことばかり続くのか。桜橋を殺せた者はいないし、しいなは鍵の掛かっていた部屋から消え、御門台は考えられないようなところで発見され、みづきは離れへ逃げたところで爆発に巻き込まれ、遠江は戸締りを怠っていないだろう状況で殺された。しかも桜橋、しいな、御門台の三人は、首を斬り取られている。
――何かおかしい。引っ掛かる。そう、余りにも出来過ぎているのだ。始めから用意されていたかのような。まるで小説のプロットであるかのような。当初から全てが仕組んであったかのような。
「あっ!」
思わずふゆみは声を上げた。
最初に消去されてしまいこれまで考慮していなかった可能性。判断の材料から取り除かれていたその事実。犯人が最後に演出したいと考えるのはそこなのか。だから過剰なまでに装飾した犯行を繰り返した。
ふゆみは、ひとつの解答に辿り着く。
「でも、本当にそんなこと……」
そしてその考えが正しいのかどうかを検討していった。
二十八
草薙は自室のベッドに腰掛けている。
遠江の死体を確認したことで、ひとつの考えを思いついていた。あとはそれを組み立てていくだけだ。約束の時間まで三時間以上ある。どうにか纏めることは出来るだろう。
だが、その考えには明確な証拠といえるものがない。机上の空論と言われればそれまでだ。ふゆみはともかく、柚木を説き伏せることが出来るのか。
柚木か――。同じサークルでありながら、ほとんど話したことがない。男にしては小柄で、他人と余り口を利かない。読書は好きらしく文芸部にも所属しているという。草薙が知っているのはそれだけだ。柚木も自分なりに考えを整理しているらしいが、どの程度的を射ているのだろう。全く予測がつかない。
もっとも探偵役に相応しいと思ったのは長沼である。事件の度に出された彼の推論には、成程と思えるものもあった。長沼が生きていれば、真相を見抜けたのでないか。それとも長沼にはある程度の見当がついていたのではないだろうか。
犯人を指摘したところで勝つことは出来ない。だから自分は退場する。潔いのが長沼らしいといえば、あの行動は長沼らしいが、誰にとっても予想外の出来事だっただろう。
自殺を他殺に見せ掛ける、あるいは他殺を自殺に見せ掛けるといった方法もあるが、長沼のあれは間違いなく自殺である。何しろ目の前で起こった出来事なのだ。そのこと自体に考える問題はない。
気に掛かったのは、長沼が最後に柚木へ向けた一言。犯人に勝てるとすれば君かもしれない。本当に、長沼はそんなことを考えていたのだろうか。それは解らない。だが、遠江の死体を見たときの柚木の言葉や、廊下での挑発的な態度は、明らかに長沼を意識しての行動だろう。柚木は死んだ長沼の遺志を汲んだつもりでいるのか。
まあいい。どちらにしても真相はひとつしかない。誰が何を言おうと真実は変わらない。
その真実に向けて自分は行動するだけだ。
草薙は、思考を確かな形へと組み立てていく。
二十九
柚木は雪の積もった木々に囲まれている。
草薙、ふゆみと別れたあと、柚木はそのまま桜橋の部屋に向かった。
本来なら昨日、山荘を訪れた警察によって捜査が進められるはずだった。そのため、あの晩の話し合いでは、警察の捜査で判明するだろうことに関しては詳しく検討されなかった。桜橋の死体を改めて確かめた者もいないのだろう。桜橋の部屋は冷房が点きっ放しになっていた。このままでは警察が到着するまで動いているに違いない。
柚木は寒さに耐えながら桜橋の遺体を手に取って確かめた。切断された各部分を覆うように血は固まっている。触ったところで柚木の手が汚れることはなかった。
無論、遺体を触っただけで死亡推定時刻が明らかになるはずもない。それさえ解れば真相へ一直線で辿り着けるはずなのに。迂回路を通るのは面倒だが、一歩一歩近づいていくしかない。
「……本当に、余計なことを」
柚木は呟き桜橋の部屋を出た。自分の部屋に戻り防寒着を持ってくると、階段を降り一階へ向かう。目当てのものがどこにあるかは解らない。消火器が用意してあるのだから、きっとどこかに置いてあるはずだ。これだけ雪の降り積もる場所で、準備がないということはないだろう。
この山荘に倉庫や物置はない。あるとすれば管理人室か貯蔵室か。けれど貯蔵室で見掛けた覚えはないので、やはり管理人室だろうか。
管理人室へ向かおうとした柚木に、食堂の扉が目に入る。
「長沼……」
意識した訳ではない。自然に足が食堂へと向いた。
食堂には長沼の死体が横たわっていた。しかし、顔は綺麗に拭かれ身体は毛布に包まれていた。遠江さんがやったのか……。
少しの間、長沼の顔を見下ろした。柚木は食堂を出て管理人室へ向かう。時間は限られているのだ。柚木は管理人室の中を探し始める。
犯人がこの山荘にいる以上、不意に襲撃を受けるかもしれない。それは解っている。戦う力のない自分では、犯人と殴り合うことも揉み合うことも出来ない。犯人が素手であっても勝負にならないだろう。おれが犯人に勝てるはずがない。長沼は何をとち狂ってあんなことを言ったんだ。
常に危険はある。だが、見たこと聞いたことを頭の中で考えるだけでは、この事件は解決しない。実際に調べて確かめないことには論理も推理も立てることが出来ない。それなら動くしかない。部屋の中にいただけでは何も進まないのだ。
ようやく懐中電灯と大型のスコップを探し出した。除雪道具は他にもあったが、これで用は足りるだろう。柚木は防寒着を身に着けて外へ出る。
腕時計を見た。制限時間は残り三時間程度。間に合うだろうか。こうしている間にも、一人が殺されている可能性はある。だったら残った一人が犯人だ。犯人相手に真相を明らかにしてなんの意味があるだろう。それに必ずしも外に隠してあるとは限らない。部屋に置いてあるかもしれないし、全てを使い切ってしまったかもしれない。だったら。自分がしていること、しようとしていることは何なのか。
「くそっ」
どうしてこんな、気持ちだとか想いだとかいった余計なものがあるのだろう。これさえなければ、何も考えず機械のように動くことが出来るのに。知らず柚木の口から呻きが漏れる。
とにかく今は感情的に考えるな。長沼のように論理的に動け。そう、長沼のようにだ。――不意に、柚木の口許が緩む。そうだよ。何を考えていたんだ、おれは。長沼は論理的に考えて行動していたが、あいつは機械じゃない。ちゃんと感情を持った人間だったじゃないか。
何かを決心したかのように柚木の行動に迷いがなくなる。柚木は玄関を出て北の方向、山荘の裏側へ回る。そこからは各客室の窓が見渡せた。建物から幾らか離れた場所に木々が立ち並んでいる。
人数が減った今ならともかく、八人の目がある状況で軒下に隠しはしないだろう。それでも山荘の壁周辺に積もった雪を確かめて、柚木は山荘からやや東寄りの林へと向かった。
懐中電灯で木々の根元を照らす。この辺りなら、客室の窓から身を乗り出しでもしない限り、人の目に触れることはない。周囲は相変わらず薄暗いので、余程のことがなければ見つかることはないだろう。
柚木は足下の雪にスコップを突き立て土を掘り返していく。淡々と黙々とただひたすら。スコップで土を持ち上げて横に捨てる。ある程度掘ったら、場所を変えてスコップを突き立て土を掘り返す。その繰り返し。
途中で雪が降り始め、柚木の頭や肩を白くする。それでも柚木は意地を張った子供のように、同じ作業を繰り返した。
正午近くになったが依然手応えはない。柚木の細い腕で土を持ち上げるのが苦痛になってきた。
そのとき。土の中に白い固まりを見つけた。土に埋まり汚れている。それは、白い大きな袋だった。
柚木は袋を取り上げて逆様にする。中に入っていたものが地面に落ちた。足下に転がるのは、女性のものと思しき細い左腕。薬指に指輪が嵌まり、腕は変色している。隣には血の付着した鉄斧――。
「……これか」
どうにか最後の糸は残っていた。あとは論理を組み上げるだけだ。
* * *
ラウンジのソファに腰掛けた「狐ヶ崎」は目を開けた。
思考はここ数日間の回想から現実に戻る。
いつの間にか眠ってしまったらしい。夜中に行動することが多くなるのは予測出来た。なので計画を思い立ったときから、短時間の睡眠を繰り返して疲れが取れるよう、身体を調節してきていた。今も、眠ったのは三十分程度だろう。それでも、多少の疲れは取れたようである。
殺戮の舞台、毬藻荘に生存する人物は、「狐ヶ崎」ただ一人。
「狐ヶ崎」は最後の仕上げを行なうべく、腰を上げてラウンジをあとにする。
来たるべき、次の殺人に向かって。
――かくして。
毬藻荘殺人事件は幕を閉じる。
* * *
第二部 続・毬藻荘殺人事件
第一章 解答編
一 前哨戦
午後一時。三人はラウンジ前の廊下で顔を合わせた。
草薙が壁に背をもたせ掛けていたところに、ふゆみが降りてきて、そのあとに柚木が現われた。欠けた者は誰もいない。
扉を開けて草薙が入り、片手に紙袋を持った柚木が続く。柚木は服を着替えたらしく、朝とは別の服装をしていた。最後に入ったふゆみは扉の前で立ち止まってしまう。草薙が玄関に近い側のソファに、柚木が食堂との扉に近い側のソファに座っている。草薙と柚木は二つのテーブルを挟んで直線的に向かい合っていた。ふゆみはどちら側に座るべきか迷った素振りを見せたが、結局は二人から等分の距離を保てる廊下の扉に近いソファに腰を下ろした。
「さて、犯人は解ったのかな」
ふゆみが座ったのを確認して草薙が口を切る。
「……うん」
返事をしたのはふゆみだった。草薙と柚木は顔をふゆみへ向ける。その言葉は予想だにしなかったものなのか、草薙は憮然とした表情を見せた。
「春日町が?」
うん、とふゆみはもう一度頷いた。
「別に驚くようなことではないでしょう。次に自分が殺されるかもしれない状況なら、誰だって犯人のことを考える」
柚木が淡々と言う。
「……解った。まず、春日町の考えを聞こう」
草薙に促され、ふゆみは口を開く。
「大丈夫、三人で協力すればきっと助かる。無事にここから出ていける」
ふゆみはわずかに笑顔を覗かせた。
「だってこの事件の犯人は、私たち三人の中にいないんだから」
二 『クローズド・サーキット』
「何だって?」
本当に驚いたのだろう。訊ねる草薙の声は掠れていた。
「それは、既に死んだ人間の中に犯人がいるということか?」
草薙と違い、柚木の声はいつもと変わらない。ふゆみは首を横に振る。
「ううん、そうじゃない。私たちサークルのメンバーに犯人はいないよ」
「馬鹿な……。外部犯の可能性は真っ先に否定されたじゃないか。桜橋が見つかったあと、俺と、遠江、柚木で、母屋と離れの両方を調べた。どこにも怪しい人影はなかった。それは柚木だって認めている」
目を向けると柚木は黙って頷いた。草薙はふゆみに視線を戻す。
「それとも、あれは俺たちの狂言だったとでも?」
ふゆみは再度首を振る。
「ううん。それはあのとき、母屋にも離れにも犯人はいなかったっていうだけ。だって考えてみて。母屋の空いた部屋にしろ離れにしろ、そんなところに隠れてもすぐに見つかってしまうのは明らか。だから、犯人はそれ以外の場所に隠れていた」
「いやしかし。それ以外の場所といっても、この付近には他に建物なんかない。まさか雪の中に隠れていた訳でもあるまい」
草薙の否定をふゆみはさらりと返す。
「そうだよ、雪の中だよ。正確には山荘の裏手にある林の中。山荘からは見えない場所に、テントを立てるか大きな穴を掘るかして、犯人は隠れ家を作った。だって、林の中は探していないんだよね?」
ふゆみは二人を均等に眺める。
「あ、ああ……。確かに」
「私たちが山荘を訪れたとき、犯人は隠れ家にいたの。しばらくそこで待機して、誰がどの部屋にいるかを把握したあと、山荘裏手の軒下を通り西側を廻って玄関から中に入った。そうして桜橋君の部屋に行き、彼を手に掛けた」
「ま、待てよ。春日町。当然のように言うが、それには幾つか問題があるだろう」
草薙がふゆみを制する。
「テントにしろ穴の中にろ、隠れ家が作ってあったところまではいい。良しとしよう。林の中を隈なく探していない以上、可能性は消せない。だが、隠れ家にいる犯人に、どうして桜橋が部屋に戻ったなんてことが解る? いや、誰がどの部屋にいるのかを、どうして犯人が知っているんだ? それに、桜橋の部屋に鍵が掛かっていたら入ることは出来ない。スペアキーを使うにしても、管理人室に置いてあることは俺たち以外知りようがない。外部の人間に解るはずがないんだ」
草薙は次々と疑問を投げ掛ける。
「そして、厨房にはお前たち三人が、ラウンジには遠江が残っていた。そんな危険な状況で、犯人は山荘に入ってきたと言うのか? それは春日町が一昨日言った、見つかる確率が低いから夕方に行動を起こしたという考えと、正反対の行動じゃないのか?」
ふゆみは動じない。
「同じだよ。ラウンジの扉も厨房の扉も廊下側に付いてるから、扉が開け放してあっても、玄関ホールにいる人影は見えない。食事の用意をしている私たちも、ラウンジにいる遠江君にも、見つかることなく犯人は二階へ行くことが出来た」
「だから、どうして誰がどの部屋にいたかなんてことが解る?」
草薙は同じ質問を繰り返す。
「盗聴器を使ったの」
「え?」
「犯人はこの山荘全部の部屋に盗聴器を仕掛けている。もちろん、ちょっとやそっとでは気づかれないように細工して。だから犯人は、話し声や物音で、誰がどの部屋にいるかを把握出来た。特に客室は防音がしっかりしているから、別の部屋の物音と勘違いすることはない。部屋に一人でいれば話すことはないだろうけど、まるっきり音を立てないなんてことはない。荷物を片付ける音やベッドに腰掛ける音などで、部屋に人がいるかどうかは確かめられる」
草薙は何か言いたそうだが、声を出せないようだ。柚木は黙って耳を傾けている。
「……答えは目の前にあったのに。少なくとも、しいなさんが密室から消えた時点で気づけたはずなのに……」
ふゆみは悔しそうに下唇を噛む。
「一連の事件は、全てが過剰なまでに装飾されていた。桜橋君を殺すことの出来た人間はもういない。私たち三人には時間的に不可能なんだから。しいなさんは密室から消えて、足跡のない殺人なんていうおまけまで付いてる。御門台君は谷川に流されたはずなのに、何故か上流で見つかったし、みづきは爆弾で殺された。遠江君だって、鍵を掛けていたはずなのに……。そして、遠江君とみづき以外は首を斬られている」
ここでふゆみは顔を伏せる。小さな声で、長沼君の行動は犯人にとっても予想外、疑うことのない自殺だった、と言って悲しそうな表情を浮かべたが、すぐに顔を上げる。
「……おかしいでしょ。殺すだけなら何もこんな方法を取る必要はない。もっと簡単な方法は幾らだって考えられるはず。私たちを恐怖で煽るというよりも、まるで見せつけているような感じを受けたの。長沼君が言ってたよね。犯人には、殺すこととは別に何か目的があるのではないかって。それがおそらく過剰なまでに事件を演出すること」
「犯人は、それだけのために……?」
ふゆみが言おうとしていることに察しがついたのか、草薙は声を震わせた。
「多分、そう。幾ら不可思議な事件を起こしても、気づいてもらえなければ意味がない。犯人が私たちに望んだのは、人が殺されたことに怯える様じゃなくて、不可能犯罪によって人が殺されたことに恐怖する様。一般的な人たちなら、人が殺された場合、犯人探しは警察や専門家に任せる。だけど私たちはなまじ知識があるせいで、自分たちで犯人を見つけようとか、この謎を解いてやろう、などと考えてしまう。長沼君が、正にその通りだったね。途中までは……」
語尾は聞き取れないくらいに掻き消えた。
「殺すことが目的ではなく、殺される人間の反応が目的だったということか?」
しばらく発言のなかった柚木が問い、ふゆみが答える。
「……うん。犯人にとって推理小説研究会に入ってる私たちは打って付けの観客だった。事件に驚いたり検討したり互いを罵ったり、そんな私たちの反応を犯人は盗聴器で聞いて楽しんでいたんでしょう。きっと今も。そんな犯人が特別に注意を払うのは、もっとも驚きを与えたいと考えるのは――意外な犯人」
草薙も柚木も、微動だにしない。ふゆみを見つめ、黙って次の言葉を待つ。
「趣味が高じて犯人はミステリに取り憑かれていった。現実と小説の区別がつかなくなり、自分で不可能犯罪を演じたいと考えた。そのためだけに、連続殺人の舞台となる山荘を作り上げた……」
ふゆみは自身の推理によって導かれた解答を伝える。
「犯人は毬藻荘のオーナー。登呂さんなのよ」
愕然とした表情を見せて、まさかそんなことはないだろうと言い立てる草薙を、反論は彼女の推理を一通り聞いてからにしましょうと宥めて、柚木はふゆみに先の説明を求めた。
「オーナーなんだから、盗聴器なんていつでも仕掛けられるし、母屋も離れも全部屋の鍵を普通に持ってる。管理人室に入ってスペアキーを持っていくことなんかない。盗聴器で各自の居場所を確認している犯人は、誰にも見つからずに桜橋君の部屋へ行けた。このとき部屋に鍵が掛けてあってもなくても構わない。スペアを持っているんだからね。犯人は中に入って、桜橋君に襲いかかった……」
殺害された状況を想像したくないのか、ふゆみの話はたまに語尾が弱くなる。
「死因は解らない。絞殺なのか、刺殺なのか。私は現場を見ていないし、見たいとも思わないし。ともかく犯人は桜橋君を解体した。どのくらいの時間が掛かったのかはっきりしないけど、三時四十分から六時までの時間があれば十分なはず。解体後、し……遺体をベッドや床に並べて血を振り掛けた。言うのが酷く嫌だけど……首でも腕でも、切断されている部分から、流れ出る血を垂らしたんでしょう」
ふゆみは犯人を指摘してからも、名前を言わずに犯人で通している。
「桜橋君の部屋に入るときは玄関を通っていったけど、帰りに玄関を通るのは難しい。夕食作りを終えた担当が二階に来ることも、逆に御門台君やしいなさんが早めに降りることも考えられる。解体作業の終わった時間が、夕食時間に近づけば近づく程、犯人が玄関を通って山荘を出るのは難しくなる。犯人はなるべく誰にも見つからないような行動を取るだろう、ってのは一昨日言ったのと同じ。だから犯人は別の場所から外へ逃げ出した」
「……それで、窓が開いていたと?」
草薙がふゆみの顔を見る。
「そう、犯人は窓から逃げることをあらかじめ想定していた。壁に固定されているベッドの足にロープを引っ掛けて、窓から外へ出る。ロープは輪っかにしておいて、外に出てから結び目を解くか切るかして回収した。当然、盗聴器で誰がどの部屋にいるかを確認して、他の客室や一階の窓から見られることのないように注意を払って。夕食の時間、六時半ころにはまだ雪が降っていたから、足跡を気にする必要はない。まあ、軒下にいかにもな感じで残ってしまうのは不味いから、その辺には雪を被せるなり平らにするなりしておいたんだろうね」
一度言葉を切ってからふゆみは話を続ける。
「遺体を切断して血を撒き散らかしたのは、事件を過剰に演出するという目的があるけど、クーラーには別の理由があった。この雪国で、窓を開け放してクーラーまで入れておいたら、部屋の中は異常に寒くなる。つまり、部屋を冷やしたのは死体現象の進みを遅らせるため、警察が介入した場合に死亡推定時刻を誤魔化すため、という理由に私たちの意識を向かわせるためだった。そうすれば、窓が開いていたことを犯人が外に逃げたからだ、と疑われることはなくなる。……実際には、あの日そこまで検討はしなかったんだけどね」
そう言ってふゆみは柚木にちらりと目を向ける。
「部屋の寒さについての話し合いはなかった。けど、そのときは外部犯の可能性が否定された直後だった。そのせいもあって、誰も犯人が窓から逃げたとは考えなかった。結果的に、犯人が望んだ形に落ち着いたの。それと、桜橋君の部屋に鍵を掛けても密室殺人にはならないから鍵は掛けなかった。管理人室にスペアキーがある状況では、誰にでも桜橋君の部屋に入ることが出来るので密室殺人に何ら謎が伴わないし。部屋に鍵を掛けなかった理由は、そんなところじゃないかな」
しいなさんの事件、と言ってふゆみは続きを話し始める。
「桜橋君が見つかったあと、遠江君の提案でスペアキーを各自が持つことになった。翌朝、鍵を掛けたはずの部屋からしいなさんがいなくなり、橋の向こうで見つかった。ここで気づけたはずなのに……」
ふゆみはもう一度繰り返した。
「窓には鍵が掛かってる。当然窓から中へは入れない。なら扉から入るしかない。あれだけ怖がっていたしいなさんが、鍵を掛け忘れることなんてない。しいなさんじゃなくても、戸締まりはちゃんとしていたはず。でも、鍵はスペアと一緒にしいなさんが持っていた。だから中へ入れない、どうやって犯人が密室に侵入したのかが問題になった。……何も難しく考える必要はなかったの。窓から入れず、扉からも入れない。八方塞がりなようだけど、鍵を持っていれば何の不思議もない。スペアを余計に、いや、あっちの方がマスターか。要はもうひとつの鍵を持っている毬藻荘のオーナー、登呂さんがマスターキーを使って鍵を開けたというだけのこと」
例によって、しいなを殺した云々のくだりでは語調が弱くなっていた。
「しいなさんの事件に付いていたもうひとつの要素、足跡のない殺人。長沼君は、犯人はトリックを見せつける気などなかったって言ったけど、それは違う。足跡のない殺人は最初から予定に組み込まれていた」
ここで草薙が合いの手を入れた。
「犯人の目的が不可能犯罪の演出というであれば、足跡のない殺人はかなり魅力的だろう。だがそれを行なうには、犯人の作業中に雪が降らないということが前提になる。これから雪が降るか降らないかなんて、誰にも解らないだろう? もし遠江が目を覚ましたときに雪が降っていれば、犯人はその時間より前に吊り橋を渡ったというだけで、足跡がないことに何も問題は発生しない」
草薙は続けてふゆみに問う。
「それともうひとつ。夜中に雪が降っていないと解ったのは、春日町、お前を含めて遠江と長沼が窓の外を眺めた時間帯が違っていたからだ。起きているからといって外を見る訳でもないし、眠っていれば当然、雪が降ったか降らないかなど知りようがない。犯人は電話線を奪い吊り橋を落とすことで、外部との連絡手段を断っている。警察によって、あるいは気象台に問い合わせて降雪時間を知るといった方法を俺たちは採れない。足跡のない殺人を演出したところで、驚きようがない。犯人の目的と外れてくると思うんだが」
後ろの質問から先に答えるねと、ふゆみは言う。
「その場合、犯人はきちんとした足跡を残しておいたんじゃないかな。ああ、これは吊り橋じゃなくて、母屋から吊り橋にかけて残されていた足跡のこと。あれは靴のサイズや、形を隠すために変な歩き方をしてたでしょ。そうじゃなくて、母屋から吊り橋の前に行く足跡、またはその逆の吊り橋の前から母屋へ戻る足跡をはっきりした形で残しておく。自分の足跡を見つけられたところで、外部犯の可能性が考えられていないことを、犯人は知ってる。足跡に注目されても、誰かが予備の靴を用意していたとか他人の靴を穿いたとか、内部の人間に疑いは向くだろうから、犯人が足跡を残しておいても構わない。で、私たちは吊り橋の前まで続いた足跡がそこで消えて、しいなさんが橋の向こうにいるのを発見する。しいなさんが橋の向こうで解体されてる以上、犯人が橋を渡ったのは確実。それなのに足跡がない、という不可能状況が私たちの前に現われる」
ここまでふゆみが筋道を立てて推論するとは考えていなかったのだろう。草薙からぐうの音も出ない。
最初の質問についてと言って、ふゆみは話を続ける。
「犯人は、夜中に雪が降ることはまずないと踏んでいた。昨日は気づかなかったけど、ここの天候は三日続けてほぼ同じパターンになってる。大体お昼前から雪が降り始めて、午後八時か九時に雪が止む、っていう。多分今日も夜には止むんじゃないかな」
ふゆみは、それはどうだろうというような顔を見せた草薙の機先を制する。
「犯人はこの事件のために周到な準備をしている。数年あるいは十数年を準備に費やしてきたはず。これから話すことになるけど、逆に言えば犯人は、毬藻荘を訪れたばかりの私たちには無理な方法を犯行に用いている。山荘や離れ、吊り橋についてはもちろん、この辺りの地理や気候など、事件に関係する、関係するかもしれないあらゆることを熟知していた。天候については、過去何年もの空模様や温度の変化などから統計的に調べて予測を立てた。一応、天気予報なりどこかに訊ねるなりして、ある程度の確実性を得ていたんだろうね。ただし、絶対なんてことはやはりない。万が一ってことはあり得る。その場合、足跡のない殺人ではなく、別の装飾に変えていただけだと思う。演出する事件はこれとこれだけ、なんて決めたら自分の首を絞めるだけ。何種類もの不可能犯罪を用意しておいて、その場の状況や被害者にぴたりと合うものを選んだの」
ふゆみはようやく言葉を止める。
「結局、古庄はどこで殺されたんだ?」
試すような視線を向けた草薙に、ふゆみは簡単に答える。
「はっきりとは解らない。しいなさんの部屋に血痕は残っていなかったし、浴槽から血の匂いもしなかった。なら、もう一度桜橋君の部屋を使ったか、隠れ家まで彼女を連れていってそこを使ったか。ただ、これだけは言える。しいなさんが解体されたのは、橋の向こう側なんかじゃない。あれは、解体作業があそこで行なわれたように見せる、犯人の偽装工作だった。吊り橋の上に足跡がない殺人を演出するには、橋の向こう側で解体されたように見える遺体が必要だったの。解体された身体に、大量の血、凶器の包丁、と桜橋君のときと同じ状況を再現したことによって、あの場所が解体現場であると錯覚させられた」
柚木がふゆみを呆然と凝視していた。構わずふゆみは続ける。
「解体現場は殺害現場と同じ。わざわざ雪の中で解体する理由も見当らないし、殺したあとに続けて作業をする方が、遥かに効率的。犯人は向こう岸で解体されたと見せ掛けるだけでいい、実際にあそこで作業をする必要はない。犯人がしいなさんを解体したのには、桜橋君のときと同じで、まず装飾の意味合いがある。そしてもうひとつは、彼女の身体を軽くして運びやすくするためだった」
成程ねと柚木が唸った。
「まず、頭部は必要。腕や足は、見てすぐに女の子のものだって解るようにかな。犯人は自分が持てる限りの部分を袋か何かに詰めて持ち運んだ。全部を持っていったんじゃ、切断した意味がない。使わない部分は、作業のあとで林の土の中にでも埋めておいたんでしょう。とはいえ、向こう岸で解体されているのに足りない部分があると、疑問を持たれる怖れがある。それを防ぐために、右腕と左足が向こう岸近くの橋桁に載っていた。つまり、見当らない身体の一部は橋桁に載せてあったが、風に吹かれたかして谷底に落ちてしまった、そう思わせるように」
草薙は何も言わない。柚木も黙っている。
「他に必要なのは、凶器に見せる包丁と赤い液体。桜橋君のときと違って、しいなさんの身体は私たちが調べることは出来ない。だから別に本当の血を使う必要はなかった。もしかしたら本物なのかもしれないけど。……で、それら必要なものを持って、犯人は足跡のない殺人に取り掛かる。吊り橋を渡らずに向こう岸へ行く方法っていうのはひとつしかない。この事実も犯人が部外者というのと同様で、考える前に最初から消去されてしまっていた。推理小説で使われたらアンフェアだと罵られ兼ねない。だけど、現実の事件にアンフェアも何もない。実際に行なわれたことに文句を言ってもどうにもらならないよ。答えは凄く単純なこと。犯人は、山を越えて向こう岸へ渡ったの」
「は? な、何だって」
余りにも意外な方法だったからか草薙が頓狂な声を上げた。
「私たちが山荘へ来た日、吊り橋の前で休憩しているときに草薙君が言ったよね。山荘へ行くには、吊り橋を渡るか山を越えないといけない。登山経験者でもこの山を登るのは難しいと、登呂さんに聞いたって。ただね、登呂さんが言ったことは全てが本当なのか。確かに、経験者でもない私たちには自殺行為かもしれない。けれど経験者には可能なのではないか。登呂さんは山登りが困難であることを過剰に表現して、草薙君に伝えたんじゃないのか」
「馬鹿な。春日町、その考えは飛躍が大き過ぎる。登呂さんにそんな……」
ふゆみは草薙に皆まで言わせない。
「いい、さっきも言ったけどこの事件は何年も前から計画されている。過剰な演出を目的とするなら、何を行なうにも苦労を厭わなかった。山荘を建てようと考えたときから、登山の経験を積んでいた。あるいは、以前から山岳部とか登山関係の、そういう団体に属していたのかもしれない。それに、登るのはこの毬藻荘と対岸を結ぶこの雪山だけ。始めは難しくても何度か繰り返せば、少しずつ上手くなる。最短距離や疲れない道を模索し、その用意が完全に出来たところで、私たちの合宿を受け入れた。計画が万全に用意されていない状況でのお客は、改装中だとか補修中だとか、適当に理由を付けて断ればいいだけだから」
柚木が右手でこめかみを押さえているようだったが、ふゆみはそのまま続ける。
「犯人はしいなさんの身体を持って山を越える。向こう岸に置いてきたあとで、また山を越えて山荘側に戻ってくる。そして、ロープに切り込みを入れる作業に移る」
「吊り橋に関しても、犯人は十分に知っていた。橋が風で落ちることはなく、人が載ったときにだけ崩れるよう、綿密に計算した上でロープに傷を付けた。物理学? 力学っていうの? 私は詳しく知らないけど、物体に作用する力と運動を調べる研究。橋にどれくらいの重さが掛かったらロープの限界だとか、重さを分散させるためにはどのように設計したらいいだとか、そういうものを熟知していた。それにこの地域の風力や風向きに関する統計と合わせ、人が載ったときにだけ落ちるような橋にするには、どれくらいロープを傷つければいいかということも把握していた。別に犯人がこれら全てを理解している必要はないよ。専門家に訊いたっていうんでもね。専門家だって、ミステリマニアだからそういうことを訊くんだな程度にしか思わないだろうから」
もはや、草薙も柚木も声が出せなかった。
「で、橋に細工を施したあと、離れに爆弾を仕掛ける。足跡には気をつけて、山荘の裏側から廻ったんでしょうね。山越え、橋の細工、離れの爆弾、これらを行なった順番は解らないけど、時間は朝方まで目一杯使えるんだし、出来ないことはない。犯人畢生の大事業なんだから。妥協なんてしやしない。吊り橋と離れに、遠隔殺人の準備をしておいたから次の事件を急いで起こす必要もないし、隠れ家に戻って昼過ぎまでは休息を取ることが出来たんじゃないかな」
ふゆみは草薙と柚木が疲れた表情をしていることに気づいたようだ。
「長くなったけど、もうすぐ終わりだよ。あとは御門台君の事件だけだから」
一連の事件の中でもっとも不可解だったのは御門台君の事件、とふゆみは言う。
「これこそ、犯人が前もって準備をしておかないと出来ない不可能犯罪だった」
話が佳境に入ってきたからか、草薙はぐっと唇を噛んだ。ふゆみは草薙、柚木を一瞥して説明を再開する。
「そもそも谷川に流された人間が、首を斬られて上流で見つかるなんてことはあり得ない」
「自分で言いましたね、実際に行なわれたことに文句を言ってどうなると。起こったことをあり得ないというのは、さっきと逆の考えだ」
断定するふゆみに柚木が告げる。右手はこめかみから離されたようだ。
「御門台君の事件は、本当に起こったことなの?」
ふゆみは逆に聞き返す。けれど反応が返るのを待たず、解答を述べていく。
「私たちが実際に知っているのは、御門台君が橋の途中で……落ちたってことだけ。他の事件と違って、遺体を確認した人は誰もいない。生きているか死んでいるかも正確には解っていない。私たちはテレビの報道によって、御門台が首を斬られて上流のA川で発見されたことを知った。でも、そんな現象は起こらない。桜橋君としいなさんの状況が、共に首を斬られるという劇的な方法だった。だから、御門台君の事件も犯人が何らかの方法を用いて首を斬ったと考えてしまった。要するに、御門台君はA川で見つかってもいないし、首を斬られてもいない。あの放送は犯人によって作られたでたらめの報道だったのよ」
唖然とした表情で、草薙が聞き返す。
「ま、まさか。公共の電波が殺人犯の戯言を聞いたとでも言うのか?」
「公共の電波じゃないよ、あれは。この山荘のみ、私たちに見せるためだけに作られた映像だったの」
柚木も驚いているようだが、草薙と違い表情の変化に乏しい。
「簡単に説明すると、テレビっていうのは、放送局が映像と音声を電気信号に変えて送信アンテナから電波として空中へ放つ。それを受信アンテナが受信して、電気信号を映像と音声に戻してテレビ画面に映し出す。ケーブルテレビは名前の通り、放送局と家庭のテレビがケーブルで繋がれているから、アンテナは必要ない。どちらを使ったのか解らないけど、犯人は林の中にちょっとした送信施設を作っておいた。別に放送局だとか中継車だとか、そんな大規模なものは要らない。精々、送信アンテナにモニターテレビ、ビデオデッキとケーブルがあるくらいでしょ。そこを隠れ家と兼用しているのかもしれない」
「携帯電話が圏外なのに、電波が届くのか?」
柚木がふゆみに訊ねる。彼は携帯電話を使用したことがない。
「携帯が圏外なのは、この周囲に基地局っていう無線電波を中継する設備がないから。山の中でも基地局が近くにあれば、携帯は使える。それに今の時代、携帯のものによっては、端末と回線を使って、映像をテレビに伝達することも出来るの」
柚木は余り理解出来ていないような顔をしている。そこへ草薙の声が割って入る。
「柚木の質問はずれている。いや、そもそも春日町の言った、森の中に隠れた送信施設があるっていうのが酷く疑わしい。出来ることと出来ないことがあるだろう」
ふゆみは、うんそうだねと言ってあっさり頷く。
「実際にはそんな大掛かりなものじゃないと思う。ただ、仕組みとしてはそれと同じってだけ。今はもう取り外されているだろうけど、食堂のテレビから映像コードと音声コードが床下を通って山荘の外へと続いていた。もちろん特注のコードだよ。現実的に考えると山荘のすぐ裏手の壁辺りまで伸びていたんじゃないかな。そこで犯人は映像コードと音声コードをバッテリー式のビデオカメラに繋ぐ。八ミリとかデジタルとか、小さいのは幾らだってある。遠江君がテレビを点けてくれと言ったのを聞いて、犯人は用意しておいたテープを再生した。ビデオ画面だと不味いから、1チャンネルか2チャンネルで映像が映るように設定してあったんだろうね。他のチャンネルは最初から周波数を合わせていないのか、もともとこの山荘までは電波が届かないのかも。映像の内容が内容だけに、食堂にいる全員が見るだろうから、犯人がすぐ近く、山荘の壁の外にいても気づかれることはない」
ようやくふゆみが区切りをつける。
「まあ、放送局云々よりは幾分まともになったが……。それでも疑問は残る。第一、遠江がテレビを点けようと言い出すことは、誰にも予想出来ないだろう」
草薙の言うことにふゆみはさらりと返答する。
「さっきも言ったけど、犯人は何種類もの不可能犯罪を用意していた。誰かがテレビを見ようと言ったり点けたりした場合にのみ、あの映像を流した。偶然を利用すれば、そこに作為があっても見逃されてしまうから。休息を昼過ぎまで取って、犯人はそのあと待機した。当然、どれだけ待っても誰もテレビのことを言い出さないことだってある。だから、この時間までに動きがなかったら映像は流さない、と決めていたんじゃないかな。映像を使わない場合は、御門台君の事件には別の装飾が使われていたんだと思う」
「それは、そうかもしれないが……」
草薙はふゆみの言うことに納得が行った訳ではないようだ。
「草薙君は、鍵を借りるときに、私たちの名前と連絡先を登呂さんに教えてある。S**大学推理小説研究会の春合宿でって言って申し込んできたんでしょ。だったら、あの映像にS**大学という言葉を入れることは出来る」
「ああ、その通りだ。けどな、合宿の栞を作ったなんてことは教えていない。どうしてあの映像で栞のことに触れられたんだ?」
「それはね、ただの勘違いだよ」
ふゆみはあらかじめ、質問される内容を予想していたようである。
「もちろん、雑音混じりでぼやけた映像を流したのはわざと。電波の届きにくい山奥のテレビが鮮明だったら、どう考えても不自然だからね。犯人はS**大学の学生手帳を被害者が持っていたとすることで、その誰かが吊り橋から落ちた人物であると思い込ませようとした」
「橋から落ちた人物? 御門台のことじゃないのか」
「それは、映像を作ったときには解らない。草薙君が合宿の申し込みをしてすぐに映像を作ったとしても、誰が橋から落ちるかはその段階で知りようがない。だから、音声を途切れ途切れの雑音混じりにして、被害者の名前が報道されない不自然さを隠そうとした。被害者の名前を出さなければ、吊り橋から落ちたのが誰であっても利用出来るからね」
「ああ、そういうことか……」
草薙は頷いた。
「映像の中で栞という言葉は使われていない。春合宿の栞を被害者が持っていると考えてしまったのは、御門台君が見つかってもおかしくないような時間帯に映像が流れたことや、S県から幾らも離れたこんな場所で、御門台君が谷底に落ちたその日に何の関係もないS**大学の学生が見つかったという偶然は、まず起こり得ないことだから。そのために、私たちはリポーターのアナウンスを勝手に解釈してしまった。ゲシュタルトとか聴覚補完現象とか言うのかな。ええと、確かあれは……」
ふゆみは顔を少し上に向け、流れた映像と音声を思い出しているようだ。
「……まず、頭部がない、学生手帳、S**大学、という言葉で私たちは御門台君だと思い込んだ。真っ先に声を上げたのは私だったみたいだね。それで、ポケット、かろうじて、毬藻、合宿、という言葉から、ポケットに入っていた紙からはかろうじて毬藻荘春合宿の栞という文字が読み取れて、という意味のことをリポーターが言ったのではないかと考えてしまった。その結果、栞を被害者が持っていたことが私たちの事実となり、被害者が御門台君であると強調されることになったの」
「みづきの事件も、被害者は固定されていない。被害者が他の人になることも、爆弾に気づかれて未遂に終わることもあった。計画が幾つもあるんだから、未遂の場合は、また別の犯行を行なうだけ。長沼君の件は犯人の犯行とは直接的には関係がない。最後の遠江君の事件はしいなさんと同じ。もし鍵が掛かっていても犯人は部屋に入ることが出来る。遠江君は特に装飾をされていなかったけど、鍵が掛けてあったはずだから密室殺人にはなる。過度なことをしなかったのは、起こった事件を的確に説明してくれる長沼君や、落ち着いて考えていく遠江君がもういない……から、じゃないのかな」
ふゆみの長い説明は終わったらしい。二人の顔を交互に見る。
「証拠と言えるものはない。でも、これなら全ての事件に説明がつく。あとは、このまま助けが来るまで三人で固まっていれば大丈夫。もし犯人が来ても三対一なんだから、負けることはないよ」
「春日町さん、あなたの推理は現実に目を向けていない」
柚木がふゆみに顔を向け、はっきりした口調で告げる。
「あなたはまだどこかで、サークルのメンバーに犯人はいない、自分の仲間や友達が、こんなことをするはずがないと思っている。だから残り人数が三人しかいないという状況にあっても、おれや草薙さんを疑えなかった。そんなときに外部犯人説を少しでも考えてしまったら、メンバーの人間を犯人にしないためにも、そちらの仮説に飛び付いてしまう。あとはもう、外部犯を成立させるための論理に躍起になってしまった」
「そ、そんな、そんなことはない。私はちゃんと……」
ふゆみは抵抗を試みるが、声は震えている。
「春日町さん、今は子供が親を殺しても、親が子供を殺しても、大して驚きのない時代だ。友達だろうが仲間だろうが、殺すときは殺すだろう。過去にどれだけ仲良くしていようと、どれだけ思い出があろうともな」
言い放って、柚木は草薙に目を遣る。ふゆみも草薙の反応を窺う。
「春日町、途中で説明しようと思ったが、君が自説を本気で信じているようなので、最後まで言い出せなかった。……春日町の推理は成立しないんだ。登呂さんが犯人であるはずがない」
草薙の言葉に、ふゆみは目を見張る。
「な、何で、そんなことが、言えるのよ……」
「登呂さんが犯人ということはあり得ない。彼は今年で八十歳になろうかという、ご老人なんだ。春日町が言ったような行動を取ることは出来ない。雪の降る寒さを耐えての犯行など、身体的に無理なんだよ」
「え、そ、そんなまさか……」
柚木が口を挟む。
「そのことは、以前おれもボックスで耳にした。毬藻荘は高齢のミステリマニアが建てた山荘だと。草薙さんの言ったことは、本当だ」
ふゆみは声を出せなかった。先程までの自信に溢れた様子は消え、急に怯えたような表情に変わる。犯人は残った者の中にいないと信じていた度合いが大きいだけに、ふゆみの落胆は激しいのだろう。
「だが、安心しろ。事件はもう起こらない」
うな垂れたふゆみに、草薙が声を掛ける。
「犯人は、既に亡くなっている。これ以上の犯行を起こすことは出来ない」
三 『いらない人間SELECTION』
ふゆみに代わり、草薙が自身の解答を述べる。
「始めに言っておこう。この山荘では殺人事件などひとつも起きていない。全てはあいつらの連続自殺、偽装殺人だ」
「な、何を言ってるの?」
ふゆみは小さく悲鳴を上げた。
「いいか、生き残った俺たち三人、合宿に参加しなかったメンバーがそれを裏付けている。遠江が首を斬られなかったのは、共犯者が残っていなかっただけのこと」
「な、何それ。どうして、みんなが自殺なんてことを……。それに、なんで殺人に見せ掛ける必要が、あるのよ……」
ふゆみは恐々と草薙に言い掛ける。
「俺たち以外のメンバー、正確に言うと、遠江、御門台、長沼、日吉、桜橋、古庄、それに伊豆さん、入江岡と清水。あいつらには共通する目的があった。そのために連続殺人を偽装したんだ」
「偽装って、そんな、それじゃ……」
何やら色々と言いたいことがあるような様子のふゆみに、反論は草薙さんの推理を一通り聞いてからでもいいでしょうと言って、柚木は草薙に先の説明を求めた。
「春日町の登呂さん犯人説と動機は違うが、あいつらにも推理小説に出てくるような事件を再現する必要があったんだ。先に事件を振り返っておこう」
ふゆみと柚木に一度目を向けてから、草薙は話し始める。
「最初に起きた桜橋の事件、現在山荘に残っている俺たち三人にアリバイがある以上、犯人が死んだ人間の中にいるのは必然だ。いみじくも長沼の推理が真相だった。長沼があえて事実を語った理由は想像するしかないが、あいつの性格からして、読者への挑戦状みたいなものだったんじゃないか。犯人の正体を突き止められるものなら突き止めてみろと。このときはまだ、長沼も揺れていなかったんだろうし」
ん? とふゆみが不審な顔を向けたが、草薙は先を進める。
「桜橋は、アリバイのない御門台と長沼、古庄によって殺された。被害者が同意しているのだから、自殺幇助と言った方がいいかもしれない。遠江と日吉が手伝ったどうかは微妙だ。変な動きを見せるより、御門台、長沼、古庄に任せた方が疑われないで済む。実際、遠江と日吉にはアリバイがあった訳だしな。死体を切断したのは個人での犯行が無理だと示すためで、窓を開けたままにしたりクーラーを入れたり、死体が血に塗れていたのは推理小説的な装飾だ。本来なら、最後の遠江が殺されたあとで、生き残っている人間に犯人はいない。この連続殺人には犯人が存在しないという不可能状況が生じる予定だったんだろう」
古庄の事件、と言って草薙は話し始める。
「あれは、俺たち以外の五人による共同作業だった。古庄も犯人の一人なんだから、密室なんて存在しない。あいつらは死体を切断するための包丁と、ロープを切るための刃物、これが何かは解らないが、それと離れに仕掛ける爆弾を用意して吊り橋へ向かう。母屋から吊り橋に至る足跡が偽装されていたのは当たり前のことだ。五人もの足跡が吊り橋まで延々と続いていたら、どう考えても不自然過ぎる。おそらく、足のサイズが小さい者から順に歩き、後ろから付いていく者はそれぞれ前に残る足跡を潰し、一人の人間が歩いたように見せ掛けた。あれは犯人が足跡を特定されるのを怖れたのではなく、複数の人間が歩いたことを隠すために施されたんだ」
ああ、とふゆみが感嘆する。
「次に、あいつらは古庄を使って足跡のない殺人を行なう。雪が降っていようといまいと、この時間帯は降っていなかった、と口裏を合わせれば、間違いなく足跡のない殺人を見せつけることが可能だ。しかし、俺や春日町、柚木が証言したときに食い違うと不味い。だから長沼が、雪が降ったかどうかをみんなに訊ねたとき、春日町の言ったあとに遠江が口を開いたんだ。これで、先程俺が春日町に訊ねた降雪時間についての問題はなくなる」
「……そう、だね」
とふゆみは頷いた。
「それじゃあ、しいなさんは、橋の向こうで、実際に……?」
「そうだ、古庄が自分の足で向こう岸まで渡ったんだから、死体を持ち運ぶ苦労などない。古庄があの場所で解体されたのは、続けて足跡のない殺人の偽装を行なうからだった。古庄を解体し、凶器を残しておく。そこが現場なんだから、作為はなく古庄の血がそのまま雪に染み込んでいた。そして足跡の細工を行なっている途中で、斬り取った古庄の身体の幾つかを谷底に落としてしまった」
「え、どういうこと?」
「右腕と左足だけが対岸の橋桁に載せてあったが、本来は他の部分も吊り橋の上に、それぞれ距離を離して置かれるはずだったんだ。それなら、身体の一部が橋の上に点々と転がっているのに犯人の足跡がないことになり、足跡のない殺人の不可思議さが更に増すことになるからだ。だが、それは上手く行かなかったので、向こう岸の橋桁の上に置くのみに留めたのだろう」
柚木は相変わらず、説明の途中で口を挟むことが少ない。じっと草薙の話を聞いている。
「吊り橋に足跡がなかったのは、あれが四人の共同作業だったからだ。一人では時間的に厳しいものがあるだろう。まず、一人が向こう岸に近い橋桁に立ち、少し離れてもう一人が立つ、そこからまた少し離れてもう一人が立つ。最後の一人はこちら側、山荘側の雪の積もった場所に立つ。山荘側の人間が雪を掬って前にいる人間に渡す、その人間は更に前の人間に渡す。最終的に受け取った向こう岸近くにいる人間が、橋桁に雪を被せる。バケツリレーを雪で行なうようなものだな。先頭の人間は、橋桁に雪を載せながら、山荘側に向かって少しずつ後退る。その作業を繰り返せば、橋の上に足跡は残らない。積もった雪が橋桁に残っているように見えるだけだ」
「足跡の細工が終わったら、吊り橋を支えるロープを傷つけることと、離れに爆弾を仕掛ける作業が残っている。これは二人ずつに別れて行なったのかもしれないな。吊り橋のロープについて春日町は色々と言っていたが、そう複雑に考えることはないだろう。夜中、風に吹かれて落ちることのない程度に切りつけておく。足跡のない殺人さえ目撃させれば、あとはどうにでもなる。御門台が橋の半分まで行っても橋が崩れないようであれば、急に取り乱した振りをして、駆け出すなり足を強く踏み出すなり、橋に衝撃を与える行動を取ればいい。そうすれば、切り込まれているロープに影響が出ないことはないだろう」
草薙は少し間を措いて、再開する。
「唯一の連絡手段である吊り橋を落とすのと同時に第三の殺人が行なわれた、そう見せ掛けるのがあいつらの目的だった。御門台が首を斬られA川で発見されたのは、あいつらも予期していなかったイレギュラーな事件だ」
「ま、待ってよ。それはないって」
慌ててふゆみが声を上げる。
「だから私は、報道がでたらめだって考えたんだから……」
「春日町、あれは決して不可解な現象ではない。偶然が積み重なっただけなんだ。偶然を利用すればそこにある作為が見逃されしまうと、自分でも言っただろう」
「……だけど」
ふゆみは不満そうな表情を見せたが、草薙はそのまま説明を続ける。
「御門台が落ちた場所は水の少ない岩場だった。そこに鋭く尖った岩があり、御門台はちょうどそこに落ちた。ギロチンに向かって、自分から落ちていくようなものだ。報道では切断面に触れていなかったが、斬り口は酷いものだろう。吊り橋のどこまで歩いたところでロープが切れるかなど、御門台に予想出来たはずもない。尖った岩の上に落ちたのは、全くの偶然だったんだ」
ふゆみは動揺しているのか、すぐに言葉を返せなかった。
「……そ、そんなこと。で、でも、もし御門台君が落ちたのが岩場だったにしても、あとはもうそこに引っ掛かってしまうか、川に流されて下っていくだけ、のはずでしょ。ど、どうやったら、上流のA川に流されるっていうのよ」
落ち着きをなくしてきたふゆみと対照的に、草薙は平静な態度で話を進める。
「変に勘繰ることはない。事実をそのまま見ればいい。川の流れが逆流したんだ」
「まさか! そんな……」
先と違い、ふゆみは思わず声を上げた。
「海の満潮時に、海水が河口から上流へ逆流する現象は世界各地で起きているんだ。アマゾン川のポロロッカや銭塘江の海寧の潮などは良く知られている。日本ではこれらの現象を海嘯や川津波と呼ぶ。もちろん、逆流現象が起きるためは河口の形状や川の勾配、潮汐など諸々の条件が必要だが、日本での例も皆無ではない。ちょうどあのとき、正に御門台が落ちたあのときに、この逆流現象が起こっていた。まさしく奇跡的な偶然で……。頭部も流されているはずだが、岩場に落ちたときに身体とは別のところへ飛んでいったんだろう。だから、首と身体は一緒に発見されなかった」
「ぐ、偶然……。でも、そんな現象が本当に起きたのなら……」
ふゆみは、草薙の言うことに納得しつつある。
「遠江がテレビを点けようと言い出したのも、ちょうどニュースが放送されたのも、電波が途切れていたのも、運が悪いことに、いや、あいつらにとっては幸いなことに、単なる偶然だった。遠江は本当に川の名前を知らなかったんだろう。しかし目敏く川の名前に気づいた長沼がこれも犯人の仕業であると言い出したため、あたかも不可能殺人であるかのように俺たちは思い込まされてしまった」
柚木は表情に変化もなく、ただ黙って聞いている。
「この首斬りだけは、どう考えても人間には不可能だ。長沼自身に見当がついていたかは不明だが、咄嗟のことを事件に組み込んだ手際には、脱帽するしかない」
あとはもうそれほど難しいものはないだろうと言って、草薙は残りの事件を説明する。
「日吉は頃合を見計らって離れへ行き、自分で爆弾を爆発させた。癇癪を起こし取り乱したのは、一人で離れに閉じ籠もっても不自然にならない演技だろう」
「みづきが……?」
ふゆみは言ったきり黙ってしまう。
「予定では、次に遠江か長沼のどちらかが偽装殺人を施されるはずだった。しかし、長沼が突然それを拒んだ。どうして急に心変わりしたのかは推測するしかないが、日吉の死体を確認した辺りから長沼は何か様子がおかしかった。日吉の死に何かを感じたのかもしれない。長沼は死ぬ前、自分は不可能犯罪の材料ではない、トリックの道具ではないと叫んでいたが、あれは遠江に向けた言葉だったんだろう。あのとき真相を話してくれれば、遠江が死ぬことはなかったかもしれない。だが、偽装殺人は手伝わないがそのことをばらさないというのは、愚直な長沼らしい行動ではある……」
草薙はどこか遠くを見るような目つきをする。
「でも……。遠江君はみづきが爆発に巻き込まれたとき、自分のことは構わず火を消そうとしていた。長沼君のことだって懸命に説得して、助けられなかったのをあんなに悔やんで……。あれも……演技だったの?」
ふゆみは悲しそうな顔をして訊く。
「遠江自身、最初から死ぬ予定だったんだ。爆発に巻き込まれることを怖がる必要もない。長沼のことにしたって、次に殺されるのが自分だった、あるいは長沼と二人で特殊な殺され方をする予定だったのかもしれない。それが長沼の自殺で、自分に施されるはずの不可能犯罪が消えてしまい、どうしていいか解らなくなって長沼に縋り付いたんだろう」
「と……遠江君が、そんな、こと……」
「春日町。遠江にしてみれば、事件を最後まで遣り遂げる義務があった。既に死んだ四人に対しても、あいつは責任を感じていたんだよ。偽装殺人を最後まで遣り遂げなければいけないと。だが、それが出来なくなってしまった。最後に自殺する人間が一人残るのであれば、殺人に偽装して自殺をしたんだろうが、遠江はそんなことをしていない。……自分で胸を突いていた。長沼の自殺が原因だったのかどうかは、もう確かめようのないことだ……」
草薙による事件についての説明が一通り終わったところで、柚木が口を開いた。感情も何も籠もっていないような無愛想な話し方をする。
「それで結局、彼らの動機は何だと言う気ですか?」
柚木の問いにはっとした表情を見せて、ふゆみは草薙に向き直る。
「そ、そうよ。遠江君たちは、何が理由でそんなことを……」
「動機か、それは目の前にあった。俺たちも当然知っていることだ」
「え? 知ってることって、何?」
ふゆみは全く思い当ることがないようだ。
「ただ、それに対する度合いが違っていただけだ。普通、そこまで深く思い込むことはないだろうからな」
「な、何よ。はっきり、言ってよ……」
口を尖らせるふゆみに、草薙は動じることもない。
「本来、俺たちは合宿で何をするはずだった?」
突然の質問に、多少途惑いながらふゆみは答える。
「え、何って。合宿は一年生の例会が中心で、今回は桜橋君としいなさんが、例会を担当する予定だった。桜橋君がレクチャーで、しいなさんは読書会。それと私たちがする予定だった、特別例会……」
「初日の内容だ。桜橋のレクチャーのあと、何が行なわれる予定だった?」
「え、桜橋君のあとは……そう、新入会員をどうやって増やすかって、そのことについての話し合いが行なわれることになっていた。だけど、それがどう関係するの?」
「それこそが、この連続自殺、偽装殺人事件の目的だ。あいつらはミステリ研の会員を増やすため、S**大学推理小説研究会の知名度を上げるために、この事件を引き起こしたんだ」
「な、何を言ってるの?」
思わずふゆみは驚きの声を上げる。
「そ、そんな、馬鹿なこと……。そんな、ことのために……」
「そうだよ、俺たちにとっては馬鹿なことで、くだらないことだ。毎年の新入会員が少ないことや、このペースが続いたらあと数年で廃部になってしまうことも、仕方のないことだろう。無理やり入会させてどうなる話でもないしな。だけど、あいつらはそれが許せなかった。どうにかしてミステリ研を存続させたかったんだ……」
「で、でも、だからって……」
草薙はふゆみを見て話す。
「結局、会員を増やすのにもっとも有効なのは、S**大学推理小説研究会の名前を全国に広めることなんだ。知名度が上がれば、当然入会希望者も増える。その中に才能のある人間が紛れていることもあり得ない話ではない。うちのミステリ研から作家デビューした人間でもいれば、多少は勧誘に効果があったのかもしれないが、創作がそれほど盛んではないうちではなかなか難しい。これまでだっていなかったし、これからも厳しいだろう。それに廃部がもう目前に迫っている状況で、そんな悠長に待つことは出来なかった。何とか打開策を考えているところに、俺が今年の合宿を毬藻荘でやってみないかという話を遠江に持っていってしまった。それであいつらは事件を起こすことに決めたんだ……」
「だ、だから、どうして、そんな方法を採ろうなんて……考えたのよ」
「それは、あいつらが推理小説研究会に所属する人間だからだ」
「え? 何、それ」
ふゆみは、草薙の言っていることが理解出来ないようだ。
「山奥の閉じられた山荘での連続殺人事件。あたかも推理小説で扱われているような殺人事件に巻き込まれた推理小説研究会であってこそ、センセーショナルな話題になる。これにはメディアやマスコミがやたらと飛び付く。報道番組やワイドショーで毎日のように放送されるはずだ。S***大学の推理小説研究会は、ありとあらゆる人に知られるようになる。これが他のサークル、例えば文芸部やSF研究会の連中が殺人事件に遭ったとしても、ミステリ研程のインパクトはない。ミステリ研の連中にしたって、事件の場所が閉じられていないホテルや旅館の場合ではやはりインパクトが薄い。だから今回の合宿先、ミステリマニアが建てた山奥の山荘というのは、あいつらにとって絶好の舞台だったんだ」
「で、でも……さっきから言ってるのは、草薙君の想像でしょ。遠江君から聞いた訳じゃないよね?」
ふゆみは、どうしても信じられないようで、草薙に問い質す。
「当然だ、あいつらは俺たちのことを仲間だと思っていなかった。もしかしたら、同じサークルにいながら、正式な会員として見ていなかったかもしれない」
「な、何で、どうして。一年生のころから、みんな一緒にやってきたじゃない。そりゃあ、意見の食い違いとか、好みの小説のこととかで、言い争いもあったけど、ミステリが好きっていう共通点があったから、仲良くやってこられたんじゃない」
「違うよ、春日町。あいつらと俺たちでは、ミステリやミステリ研に対する想いに落差があった。そのため、計画を俺たちに打ち明けることをしなかった」
「なんで、私たちが仲間外れなの? みんな、同じサークルの一員でしょ」
「……兼部、ですか?」
唐突に柚木が口を開く。草薙は少し意外そうに柚木を見た。
「ああ、そうだ……。他の部と掛け持ちをしているからといって、ミステリ研の活動を疎かにしているとは言えない。けれどあいつらはそう思わなかった。ミステリ研の優先順位が一番でないと許せなかった。他の部と一緒に、片手間に出来る活動ではないと。同じサークルにいながら、あいつらは俺たちのことを異端だと考えていた」
草薙は腰を上げてソファに座り直す。
「そもそも、今回の合宿は参加メンバーからしておかしかった。いや、正確には参加しなかったメンバーが、というべきか。伊豆さんが来なかったのは、未だ就職活動中だという理由もあるが、合宿は三日間だけだ。それだけの日にちを就活に使わなかったからってどうなるものでもない。第一、そんなに一日一日を大切にする人であれば、もっと早い時期に内定をもらっていてもいいだろう。入江岡にしても変だ。あいつは、これまで例会を欠席したことも合宿に不参加だったこともない。それが推理小説に出てくるような山荘での合宿というイベントに飛び付かないのは不自然だ。結局、欠席理由は最後まで暈していたようだし。それに清水。清水が一人で行動するのは良くあるが、古庄が一人で行動するのを見たのは今回が初めてだ。例会にしてもボックスに来るときにしても、古庄はいつも清水と一緒だった。清水が来ないのなら古庄も来ない、ということは考えられた。だが、実際はどうだ。古庄は一人で合宿へ参加している。なら、そこに何か作為があると考えるのが自然だろう」
参加しなかったメンバーの理由は、と言って草薙は話を展開する。
「首尾よく事件が行なわれて、来年度早々に新入会員が入ってきたとき、役職に就いた人間が誰もいないという状況は不味い。活動が円滑に行なえなければ、幾ら会員が入ってきても、それではざるになってしまう。会長職を担っていた伊豆さんと、編集長の入江岡が残っていれば、例会のやり方や会誌の作り方、教室の取り方や合宿の行ない方など、最低限の活動内容は下級生へ伝えることが出来る。こんな目に遭った俺たちが、部に残る可能性は薄いだろうしな。清水が不参加だったのは、古庄の死を見届けるため、古庄の想いをずっと自分が覚えておくといったようなことじゃないのか。まあこれは逆で、清水に見届けてもらいたいから、古庄だけが参加したのかもしれない。そして、あいつらが作る連続殺人事件の観客、読者の立場として用意されたのが、俺たちだ。俺は奇術研、春日町はボランティア、柚木は文芸部にも所属しているしな。だが、これは適切な配置だったろう。あいつらの誰かが観客に廻った場合、真相を知っているだけに、山荘から戻って警察やマスコミ、大学の関係者から話を訊かれたとき、観客が知り得なかったことを話してしまう怖れがある。それを防ぐには、計画を知らない者、仲間ではない者、俺たちが観客であることが望ましかったんだ」
事件に対する草薙の説明は終わったようだ。ソファに肩をもたせ掛ける。ふゆみは、そんな、まさか、でも、と自問自答を繰り返す。そんな中、柚木が一人独白のように言う。
「ミステリを愛するがために行なわれた、推理小説研究会会員による偽装連続殺人事件……。さすがはサークル一の量産家ですね。もっともらしい話を作り上げる」
草薙はソファから身を乗り出した。
「どういう意味だ、柚木? 俺が嘘を並べ立てたとでも言うのか」
「嘘も何も、あなたの論理は成立しない」
草薙がふゆみに向けて言ったのと、同じ意味の言葉を柚木は吐いた。ふゆみははっとして柚木に向き直る。
「どういうことだ? 話を聞こう」
柚木は草薙の質問を切り返す。
「草薙さんの考えは、動機に拠り過ぎている。あなたが言う通りの動機が存在しなければ、起こり得ない事件になる」
「……だが柚木、生き残っている俺たち、合宿に不参加のメンバーから考えても、妥当なところじゃないのか。それとも他にぴたりと合う動機があるとでも?」
多少の躊躇いを見せる草薙に、柚木は言い立てる。
「あなたの示した解答自体が間違っているんです。殺された者たちに共通の動機など発生しない。その説が成立するためには、被害者全員の所属しているサークルが、ミステリ研ひとつだけという条件が必要になる。けれどそうじゃない。桜橋は兼部している」
「何?」
草薙が目を見開く。
「桜橋は半年程前、文芸部へやってきた。そこで会ったとき、あいつはおれに、どういう訳か自分が兼部していることを隠して欲しいと頼んできた。ミステリ研を途中で辞める気でいたのか、別のサークルにいるところを見られると気不味いと思ったのかは知らないが、桜橋はそう言ってきた。そして後日、あいつは万が一何かあったときに困るからと言って、遠江さんだけには兼部していることを伝えていた」
草薙は唇をわなわなと震わせ、柚木を凝視する。
「桜橋は兼部していたし、それを遠江さんも知っていた。だから、草薙さんの説が正しいのなら、桜橋はおれたちと同じ観客側であるはずだ。桜橋だけ例外ということはあり得ない。それを認めたら、ミステリ研のみを愛する者たちとの結びつきは途端に弱くなる」
「なら、桜橋の事件だけが、偽装ではなく本当の殺人だったと……」
どうにか反論しようとする草薙を、柚木は遮る。
「この事件が、被害者と加害者の協力によって綿密に計画された連続殺人であるのなら、最初の殺人にそんな不確定要素を置きはしない。桜橋がいつ部屋に戻るかも解らないし、部屋の鍵を閉められたら中に入ることも出来ない。桜橋の予測出来ない行動を基に、あとの連続殺人を計画的に行なうのは不可能です。草薙さんが言ったことは、全て空中楼閣だ」
「じゃ、じゃあ……」
ふゆみの表情に微かな希望が現われる。
「遠江さんも長沼も……殺されたみんなは、そんな倒錯した考えを持っていない。遠江さんの行動も演技ではない。春日町さんが感じた通りそのままだ。あれが遠江さんという人だ」
このような状況でありながら、ふゆみはわずかに笑顔を覗かせた。
そんなふゆみの表情を一瞥したあと、草薙は正面の柚木に顔を向ける。
「だが、外部犯と共犯者を否定してしまうと、最初の殺人を行なえた人間がいなくなってしまう。何度も言ったが、俺たち三人が桜橋を切断出来ないのは明白だ。犯人のいない連続殺人など、それこそあり得ないだろう」
「……そう、そこが犯人の拠り所だ。その仕掛けを解けば、あとは容易い」
二人を交互に一瞥し、力強い声で柚木は宣言する。
「草薙さん、あなたが犯人だ」
四 『きみにできるあらゆること』
柚木は横に置いていた紙袋を取り上げる。
「草薙さんも春日町さんも、事件を捻くれて考え過ぎだ。殺人事件を起こすための山荘を誰が建てますか、会員欲しさに連続殺人を起こすサークルが、どこにありますか。ミステリに取り憑かれているのは、あなたたちの方でしょう」
言いながら柚木は立ち上がる。紙袋に入っているものを取り出し、テーブルの上に放り出す。ふゆみは短く叫び、草薙は苦しそうな声を出した。
「な、何、これ。ゆ、ゆず、き君が……?」
ふゆみは急におどおどした素振りで柚木を見上げる。
「おれにそんな趣味はない。それよりも、怖がらすにきちんと見てください。それが、この事件を解く鍵だ」
テーブルの上に載せられたのは、肩口から斬り取られた左腕。女性のものらしく細い腕の薬指には指輪が嵌まっている。
「う、腕……? だ、誰の。み、みづき……? ち、違う。みづきは離れで……。じゃあ、しいなさん……? え、そんな」
ふゆみの表情が、恐怖から驚愕に変わる。
「……違う。しいなさんが指輪をしていたか、どうかは気づかなかったけど……。しいなさんの……左腕は、吊り橋の向こうに……」
「そうだ、それが解れば十分だ。これは、山荘裏手の林に入った辺り、そこの土の中に埋められていた。疑うのであれば、今から案内してもいい」
二人から反応が返ってこないので、柚木は続ける。
「仮にこれが古庄の左腕であるなら、橋桁に載っていた左腕は誰のものか。左腕がひとつ余ることになる。それにこれだけじゃない。周囲にはまだいくつかの布袋が埋められ、それぞれに斬り取られた身体の一部が入っていた。一人のものではないだろう」
柚木は左腕を取り上げ紙袋に戻す。それをソファの横に置き、自分は先程まで座っていたソファに腰を下ろした。
「な、ちょっと、どういうこと……。解らない……何が、どう……」
ふゆみは明らかに困惑した顔つきになっている。
「素人判断だが、切断部分は死後一週間と経っていない。おそらくここで、おれたちが来る前に、何人もの人たちが殺されたんだ」
「ここって……この、山荘で? 林の中とか、山の中じゃなくて?」
「バスを乗り継ぎ山道を延々と歩き、こんな辺鄙なところまできて、殺人を犯すような人がいるとは思えません。そんな人間がいたとしても、死体を見つからないように隠すことが目的のはず。なのに死体を山荘近くに埋めてしまったら、死体を掘り出してくれと言っているようなものだ。それこそ、山荘から離れた林の中か山の中にでも埋めてしまえばいい。それなのに、裏手の林に埋めてあったのはどういうことか。それは、山荘近くに死体を隠しておかないと、一連の事件が起こせない、犯人にとって不都合が生じるからだ」
……間もなく、最後の解答編が始まる。
「桜橋のばらばら死体、あの事件には、別の人間の死体が利用されていたんだ」
何、一体どういうことと訊ねるふゆみに構わず、柚木はゆっくりと話し始める。
「この左腕が入っていた布袋には、凶器として使われただろう鉄斧が入っていた」
「……斧? 凶器は、包丁じゃなかったの?」
柚木の言葉に、ふゆみは首を捻る。
「刺殺には使われたかもしれないが、首や身体を斬り落としたのは鉄斧だ。現場に捌き包丁がこれ見よがしに残してあったのは、死体切断に使われたのが包丁である、とおれたちに思い込ませるため。当然、斧を用いた方が、素早く作業を終えられる。桜橋を解体するのに、一時間も必要ないんだ」
「しかしな、柚木。使われたのが斧だとしても、桜橋はあれだけ細かく解体されていたんだ。そんな使い慣れないものを使ったら、余計に時間が掛かるだけじゃないのか。何度も言っているが、俺のアリバイがはっきりしないのは、わずか三十分程度だ」
草薙の口調は先程までと変わらない。
「全部を解体するのは厳しいでしょう。だが、首と胴体だけならそう無理なことでもない。斧の扱いは、確かに素人には難しい。だからあなたは、首を一撃で落とせるように、胴体を短時間で斬り離せるように、十分な練習を積んでから本番に挑んだ」
「れ、練習って、そんなの、どうやって……」
ふゆみは何かを言おうとしたようだが、傍らの紙袋を見て愕然とする。
「まさか、その、人たち……林に埋められている人たちは……斧を、使う練習のために……?」
それだけの理由ではないがな、と柚木は頷いた。
草薙は、柚木を見つめるだけで何も言わなかった。否定も肯定もしない。近くにいるのが怖くなったのか、ふゆみは徐々に後退りながら、柚木の近くのソファに腰を下ろす。
「柚木、お前の推理も最後まで聞いてやろう。お前がどんなことを考えたかを言ってみろ」
草薙に動揺はなく、泰然としている。
「それはどうも」
柚木も草薙と同様、平静な態度は崩れない。
「まず、桜橋が殺された日、あの日のあなたの行動について説明しましょう。山荘に着いたおれたちは、まず部屋割りを決めた。誰にも見つからず林の中に行く必要のあるあなたにとって、西端の客室が好都合だった。だが、幾ら合宿担当とはいえ部屋割りまで決めておくのは不自然だ。誰がどの部屋を使うかは自然に任せた。二階にあるのは客室と殺風景な廊下だけ。どの客室を選んでも、見える風景に変わりはないし、窓から身を乗り出しでもしなければ、東側の林は窺えない。しかし西端は古庄に取られ、隣に春日町さん、日吉が入ってしまった。出来るならその隣の二〇四を使いたかっただろうが、男性陣が皆東側の部屋に固まっているのに、自分だけ女性側の部屋を取るのは避けたんだろう。止むなくあなたは、東端の部屋に落ち着いた。もっとも、それだけであなたの計画がどう変わる訳でもない。誤差が十秒程生じるだけのこと」
柚木は右隣のふゆみを怪訝な顔で見る。彼女がこちら側に移動してきたことに、今頃気づいたようだ。顔を正面に戻し、柚木は続きを話す。
「部屋決めのあと、約一時間後にラウンジへ集合することになった。遠江さんの性格からして、休憩もなしに今後の予定を決めるとは考えにくい。それに山道を歩いてきたばかりだから、汗を流す時間は取ってくれるだろう。もし時間が短いようであれば、そこで口を出せばいい。部屋に荷物を置いたあなたはリュックサックのような袋を持ち、すぐに客室を出る。玄関から出て林へと向かう」
「え、すぐ? それに窓から出るんじゃないの? みんなが客室にいるんだから、誰かが廊下に出ていたり、ラウンジに降りたりするかも……」
ふゆみが柚木に訊ねる。草薙から距離を取ったせいか、少しずつ落ち着いてきたようだ。
「いや、時間を措いたら駄目なんだ。客室に戻ってすぐなら、間違いなく全員がシャワーを浴びている。シャワーが早いといっても、最低でも十分は掛かるだろう。この十分が、あなたにとって重要な時間だ。一連の事件全てが賭けられていると言っていい。逆にこれさえ乗り切れば、草薙さんは自分のアリバイを最初の段階で確保出来る」
「……でも、一階にお風呂があったでしょ。男子は解らないけど、私たち、女子が一緒に下のお風呂へ行こうって話をしていたら、どうするの?」
「春日町さん、それは今だから言えることだ。草薙さんがこの山荘の設備を一通り説明したのは、みんながラウンジに集まってからのこと。風呂の使い方だとか離れはストーブだとか、そういうことを説明したのはそのときだ」
あ、という形に口を開けたふゆみを、柚木は横に見る。
「山荘裏手の林までは、急げば五分と掛からない。それにおれが見つけたのは林の中に埋められていたが、最初の事件に必要な身体の部分だけは、もう少し山荘に近い雪の中に隠されていたかもしれない。草薙さん、あなたは全員がシャワーを浴びている十分の間に、用意しておいた別人の死体と鉄斧を取って客室に戻ってきた。斧はそれほど大型のものじゃなかった、リュックに入る大きさだろう」
「で、でも、リュック……の、中に死……人の身体が入って、るんでしょ。もし、帰りに誰かと会ったら……」
「ラウンジに人がいても、玄関ホールは覗けない。それはあなたが言った通りだ。もし、誰かに会ったら平然としていればいい。誰がリュックに死体を入れていると思う。このときは、まだ誰も死んでいないんだ。山荘に着いたら離れを確認しておいてくれとオーナーに頼まれたのを忘れていたとか、万が一のために吊り橋のチェックをしておいたとか、理由は何でも作れる。長年遠江さんの補佐的役割をしてきた人だ、そんな雑用をしたからといって、疑われることはない。それにこのときであれば、山道を登ってきて掻いた汗と死体を取りに走って掻いた汗との見分けはつかない」
柚木はソファに座り直し、草薙を見据える。
「しかしそんな保険はおそらく要らなかった。……あなたは誰にも見つからないと考えていた。運、というよりも、勢いがあなたを守っていた。殺人に限らない。何をするにしても、失敗や解れは、実行する人間の自信のなさや怖れから生まれる。あなたの目的が何かは解らないが、あなたはこの事件が成功すると、最後まで行なえるということに疑いを持たなかった。それはあなたを守るのと同時に強さにもなる。誰にも見つかることなしに、あなたは死体と斧を持ち運ぶことが出来ると疑わなかった。それゆえ、実際誰にも見られることがなかったんだろう」
くくっ、と草薙が含み笑いを漏らす。
「……面白い。続けてくれ」
「あなたが取ってきた死体は……推測するしかないが、二人分の細かく斬られた両腕と上半身。それぞれが別の袋に分けてあった。ひとつは、遠江さんや御門台さんのような体格のしっかりした人間の身体、もうひとつは、長沼や桜橋のような中肉中背の人間の身体」
「似たような……?」
ふゆみが小さく言ったが、自分でも察しがついたのだろう。そのまま口を噤んだ。
「女性の身体も用意しておければ万全だが、持てる量に限度があるし、胸部の問題もある。多分、最初の被害者は男性にすると決めていたのだろう。このときは夕食担当を誰が行なうかは知りようもないが、御門台さんや長沼は性格からいって手伝いそうにない。遠江さんと女性の誰かが行なうだろう。その程度の予測は出来る。だから、女性の遺体は持ってこなかった、と思うが……」
草薙からの返答はない。
「客室に死体を持ち込んだあとは、遠江さんが言った集合時刻までにシャワーを済ませればいい。そしてラウンジへ降りてくる。その後、あなたは何食わぬ顔でおれたちに、山荘の設備や使い方、連絡事項を伝えた。夕食担当、おれはあとから知った訳だが、おれに春日町さんと日吉が加わり、ラウンジに遠江さんが残っていた。最初の被害者を決めたのはこのときだ。女性を除いているのなら、桜橋か長沼か御門台さんだ。防音設備がしっかりしているこの山荘では、人がいる隣の部屋で死体を斬り落としていようと、誰に気づかれることもない。桜橋を選んだのは、部屋が隣で都合が良いと考えたのでしょう。相手を桜橋に決めたあなたは、二階に上がる前に管理人室で桜橋の部屋の合鍵を持ち、自室へと戻る。おそらく、このとき一緒に電話線も取り外しておいた」
そして最初の事件に取り掛かる、そう言って柚木は傍らの紙袋をちらと見る。
「桜橋の部屋に入ったあなたは、まず桜橋を殺す。長沼が言った通り、殺害方法は解らない。しかし、これまでの殺人や、後の古庄のときと違い、部屋に血痕が残っていても構わない。自分が返り血に気をつければ、方法は何でもいい」
これまでの殺人という文句にふゆみは首を傾げたが、柚木は先を進める。
「桜橋を殺したあと、解体作業を開始する。先に言った通り、あなたが斬り落としたのは桜橋の首と胴体のみだ。残りの部分は既に切断されていた。それを桜橋の死体と組み合せ、あなたは死体の装飾を始める。それが終わったら、使わなかった身体と両腕が残っている桜橋の上半身は、纏めて白い袋に入れて、窓から外へ投げ捨てる。出来るだけ林に近い方が安全だろう。桜橋の身体は見た目には全て揃っている。死体の足りない部分を探そうなどと言い出す者はいないだろうし、夜中に回収する予定でいたんだ。そして、部屋を出る前に忘れず冷房を入れておく。足が血に汚れないよう、窓だけは先に開けておいたのかもしれないが……。部屋に戻ることに関しては春日町さんがあの夜述べた通り、一階にいる者に見つかる怖れはない。客室の覗き穴から部屋の前に誰もいないことを確認し、素早く自分の部屋に戻ったんだ」
ようやく柚木は、最初の事件の解答を明らかにする。
「斬り落とされたばかりの死体と以前に斬り落とされた死体とを混ぜることで、あなたは自分のアリバイを確保した。三十分程度では、あれほど細かく死体を斬り離すことは出来ない、と。桜橋の上着が脱がされていたのも当然だ。既に死んでいる別人の身体は、細かく斬り離されている。服を着せることなど出来やしない」
柚木は、二人の説明では扱われなかった点を補足した。
「吊り橋を落としたのが翌日だったのも巧妙です。爆弾を用意してあるのだから、死体を取りに戻ったとき、吊り橋に仕掛けてくることも出来た。だが、桜橋が発見された時点では、翌日に警察が来て、死体を調べてくれるということをみんなに示す必要があった。好き好んで死体を、しかもついさっきまで生きて話をしていた桜橋の死体を、調べたい者などいるはずがないでしょう。けれど、最初の死体確認時に違和感を持たれることは避けなければいけない。そのため、桜橋の首を扉正面に向けて、誰も死体に触れることがないよう、大量の血液を死体に振り撒いた。状況が状況だけに、死体を手に取って確かめようとする者は、まず出ない。鮮血を撒き散らかしたのは、おれたちに死体を触らせない目的があるのと同時に、別の死体の変色を隠すためのものでもある。出来たばかりの桜橋の死体と数日前に殺された人間の死体では、死体現象の進度が異なる。見る人が見ればすぐに解るだろうが、死体を見慣れている者などうちの研究会にはいない。おれたちを騙すのには、それで十分だった」
草薙はもとより、ふゆみも口を挟むことなく柚木の話に耳を欹てている。
「血液素浸潤や腐敗網が見られるのは、個人差もあるが死後二日から四日にかけてのこと。けれどこの気候で雪の中に埋められていたのなら、死体現象は実際よりも遅く進む。別人の上半身と両腕は、上手く桜橋の身体と混ざり、一人の死体となった。桜橋の身体に下半身を残しておいたのは、下腹部から始まる腐敗性変色は隠しようがないからだ。死後一日以上経った死体では、腹部に変色が及んでいる。到底代用出来るものではない。あなたは、死体の変色を、血を撒き散らかすことで解決したんだ。……そしてもうひとつ、万が一誰かが死体に触れたときのために、窓を開けて冷房を入れておいた。部屋を寒くしたのは、桜橋の死体から体温を奪い、別人の死体との体温差を気づかれないようにするため。ミステリ的な装飾も幻想もない。桜橋の部屋にあったのは、自分の罪が見つからないようにと、犯人が残した醜い偽装工作の残骸だけだ」
柚木は草薙に言い放つ。
「あとはアリバイを作るため、一階に降りる。合鍵はこのとき管理人室に返しておいた。ラウンジにいた遠江さんがアリバイの証言者になったが、誰もラウンジにいなければ、厨房に来ておれたちの仕事を手伝えばいい。これで、草薙さんのアリバイが確保される……」
成程成程、と草薙が感心したように口を開く。
「その方法なら、確かに俺一人でも犯行が可能だ。しかしな柚木。そう都合良く、別人の死体など用意出来ると思うか。あいつらの身代わりに使うのであれば、大学生の死体を複数用意しなければならない。そんなものをどうやって用意する。あの山道、複数の人間の死体を持って登るのは無理だろう。だとしたら、生きている人間をこの山荘近くまで連れてきたことになるが、こんな辺鄙な山奥に連れてこられて不審に思わない人間がどこにいるというんだ。自分から殺されにきたとでも言うつもりか」
柚木の表情に変化はない。
「実際におれたちが来ているじゃないですか。不審に思うこともなく、こんな辺鄙な山奥の山荘に」
「……そ、それは、柚木君。私たちは、サークルの合宿としてきているからで……。普通、こんな、や――え? ってその、も、もしかして……」
ふゆみは途中で何かに気づいたように、表情を強張らせる。
「草薙さん、あなたは、奇術研究会の合宿を途中で終え、こちらの合宿へ参加したとのことだ。マジックよりミステリを取ったとも言っていた。奇術研究会の合宿場所というのは、おれたちミステリ研と同じ場所、この毬藻荘で行なわれたのではないですか?」
「草薙さん、あなたは、奇術研究会の方でも会長を補佐するような、そんな役割をしているのではないでしょうか。奇術研の合宿も、あなたが計画を立てて場所をここに決めた。奇術研というものがどんな活動をしているのかは知らないが、マジックの強化合宿とか、新しい手品の構想を練るのにぴったりの、自然に囲まれた凄く静かな山荘があるとか、そういったことを理由に挙げて誘ったのでしょうか。別に合宿でなくとも、都合がつく者同士、仲の良い数人で行く旅行といったものでも構わない。あなたが必要とする人間に声を掛け、仲間うちで行こうと誘えばいい」
柚木は草薙を一瞥するが、草薙からの反応は特にない。
「問題があるとすれば、その合宿は一週間程度行なう必要があり、それを承知してくれる参加者を集めなければいけなかったことだ。最悪、自分に都合の良い人間が集められないことも考えられるが、一連の事件のためにそこだけは譲れなかった。しかしこうして事件が行なわれたということは、奇術研の連中が、一週間の合宿を了承したということだろう。少なくともあなたは人に嫌われるような性格の持ち主ではない。そのような人の頼みで、春休みということもあり、一週間の合宿に付き合ってくれたのでしょう。あなたは、おれと違い協調性というものがある。それに他人と話すことにも慣れています。交渉次第で十分に可能だ。どんな台詞を使ったのかは、おれには見当がつきませんが」
「……で、でも、それって。奇術研とミステリ研が同じ場所に行くっていうのが、合宿前に誰かに知られちゃったら、どう考えても変だよ。春休みに同じ山荘へ行くっていうのは、おかしく思うよね?」
ふゆみが疑問を口にする。
「話が漏れるとしたら、双方の会員からです。だからそれは事前に確認しておいたはず。ミステリ研の連中に奇術研の知り合いがいないか、また奇術研の連中にミステリ研の知り合いがいないかどうかを。自分はどちらのサークルにも所属しているのだから、それとなく聞き出せばいい。授業かサークルで知り合うことがなければ、おそらく繋がりは発生しない。ユニバーシティであれば、なかなか大変な作業だが、うちのような文学部のみのカレッジであれば、指導教官やサークル顧問を頼ることなしに、自分で調べることも可能だ。その結果、双方に知り合いがいないと解ったから、奇術研の連中を利用することにしたんだ」
草薙は口を挟むことなく、楽しむかのように柚木の説明を聞いている。
「もし誰かに繋がりがあった場合、別の計画があったのか、他の場所で事件を起こしたのか、それはおれには解らない。……そして両方の合宿準備に取り掛かる。合宿の連絡は春休みになってから行なったんだろう。授業はないし、ボックスの場所も離れている。ミステリ研と奇術研の連中が遭遇することは、まずあり得ない。それに携帯電話を使えば、参加者が学校へ集まることもなく、旅行の計画を立てられます。そしてあなたは、奇術研究会の合宿担当として、メンバーの名前と共に毬藻荘での合宿をオーナーに申し込んだ。ただ、このとき奇術研、ミステリ研と、ふたつのサークルの合宿を同時に申し込むのは不味い。自分が両方のサークルに共通の会員であるとオーナーに解ってしまうし、変に疑いを持たれ兼ねない。だから、奇術研究会が合宿で一週間使用することにして申し込んだ。だが実際は、一週間の前半を奇術研、後半をミステリ研のメンバーで使用したんだ」
え、とふゆみが驚いて声を上げた。声こそ出さないが、これまで平静だった草薙も眉根に皺を寄せた。
「さっきも、あの……腕見て、一週間は経っていないって言ってけど、どうしてそう判断出来るの?」
「幾ら死体を雪の中に埋めておくとはいえ、死体現象を止めることは出来ない。そのために、奇術研の合宿からそう日が経たないうちに、ミステリ研の合宿を行なう必要がある。第一、奇術研の連中が参加してくれるのも、長くても一週間が限度だろう。それ以上の二週間や、三週間もの合宿に参加してくれる者はおそらくいない。しかし、自分が毬藻荘のオーナーを、奇術研の代表ミステリ研の代表として、二度訊ねるのは不審を抱かせるだけだ。かといって、遠江さんにでも申し込みを頼んだら、オーナーが世間話程度に、同じ大学の奇術研のことを話してしまうかもしれない」
柚木は少し間を空けて、話し始める。
「……それに、合宿終了後に鍵を返すのであれば、次の客が来るまでに清掃業者辺りを山荘へ寄越すだろう。奇術研が使用して、そのあとにミステリ研が使用するのであれば、その空いた期間に清掃やら設備の点検やらが行なわれるのは必然だ。それを避けるには、どちらかひとつの団体名で、両方の合宿を行なえる期間だけ山荘を借りなければいけなかった。だから草薙さんは、オーナーと奇術研の会員には奇術研究会が一週間の合宿を行なうと思わせ、おれたちには三泊四日の春合宿を申し込んできたと思わせる必要があったんだ。しかしその配慮のせいで、おれたちが来る三日前、この山荘に奇術研究会のメンバーが到着したという証拠が残ってしまった」
「証拠、だと?」
柚木の話を聞いてから、初めて草薙が声を荒げた。
「奇術研の連中かどうか定かではない。おれたちが知らないだけで、草薙さんが、奇術研、ミステリ研以外のサークルに所属していることも、何か大学以外の団体に所属していることも考えられます。なので草薙さんが連れてきた団体の……」
「柚木、そこはいい。続きを話せ」
苛立たった様子で、草薙が柚木を促す。
「証拠って、そんなものが……本当に?」
ふゆみも柚木の顔を見る。
「春日町さん、それはあなたも知っている。あの日、おれと一緒に夕食を作っただろう」
「え、うん、それは覚えているけど。それが一体……?」
「あのときおれは、貯蔵室で野菜の管理を見て、食材の扱いがぞんざいであると感じた。だから冷蔵庫の中を見ても、山荘を貸すだけであとのことには不親切なオーナーが用意させた材料なら、こんなものだろうと思って深く考えることもしなかった。だから、それらを早めに処理しようと夕食に出した」
「夕食って、ビーフシチューのこと? あと、サラダ……とフランスパン、それにオムレツも作ったんだったよね」
ふゆみが気づきそうにないので、柚木は自分で話すことにしたようだ。
「春日町さんにはあのときも言いましたが、牛肉と卵の消費期限が近過ぎるんだ。もともと、消費期限というものは製造日から五日間で期限を迎える食品に表示される。卵は何とか一週間は保つが、牛肉はものにもよるが三日から七日が限度だ。生物を用意するのであれば出来るだけ新鮮なものを揃えておいて欲しかったと、おれは調理しながら思っていたが、そうじゃなかった。加工日からすると、卵も肉も、用意されたのは三日前あるいは四日前。おそらく奇術研究会が訪れた日だ。だから、おれたちが夕食を作ろうとしたときには、鮮度が落ちていたんです」
柚木は、草薙が共に訪れた団体を奇術研究会と称して話すことにしたようだ。
「おれたちが山荘に着いた日の午前中、あるいは前日に食材が運ばれたのであれば、奇術研に対する食事の用意が全くないことになる。そんなことを、奇術研の合宿を決めた草薙さんがする訳にはいかなかった。機嫌を損ねて、奇術研の人たちに帰られることは不味いでしょう。つまり、おれたちが見たあの食材は、杜撰なオーナーが用意させたものではなく、ミステリ研より数日前に到着した、奇術研のために用意されたものだった」
「卵と牛肉……そういえば、そんなこと言っていたね」
とふゆみが呟く。草薙もはっとした顔で、小さく漏らした。
「冷蔵庫の中身、か……」
「草薙さんが気づいていたかどうかは知りません。だが、これは気づいてもどうしようもない。このような近くにコンビニもスーパーもない山奥の山荘では、食事に関してはオーナーに頼るしかない。おれたちが来る日に改めて食材を頼んでも良かったが、その場合、部外者が山荘に来る機会を増やすことになる。奇術研のときは、食材を持った業者が先に来ていようと、事件が起こっていないのだから不都合はない。しかしおれたちミステリ研が来る前というのは、奇術研のメンバーが殺されたあとだ。万が一という危険は避けたいだろう。それに、ひとつの団体で借りているのに、食材を二度頼むというのも不自然だ。量だけはたっぷり用意されていましたので」
少し間を取って、柚木は話し始める。
「かといって、生物全てを自分で用意するという訳にもいかない。奇術研、ミステリ研の団体でこの場所を訪れれば、あなたの姿は団体の中の一人に埋もれてしまうが、一人でいたら目立ってしまう。あなたは奇術研の合宿後に、一度S県に戻らなければならない。一人で行動するのは、そのときだけで済ませたかったのでしょう」
草薙は柚木を見据えて口を開く。柚木の話を聞き始めたときより、幾分表情が固くなっている。
「……柚木、仮にそこまではお前が言ったことが正しいとしよう。だが、やつらだって馬鹿じゃない。殺されるのを承知で山荘に来たのではないだろう。それに複数いる人間をそう簡単に殺すことが出来るのか。人を殺人鬼のように言うなよ」
「犯人と被害者の持っている情報に、違いがあったらどうですか。言い換えれば、合宿担当のあなただけはオーナーから聞いていたが、奇術研のメンバーには伝えていなかったことがあった。考えられるのは、合鍵の存在です」
草薙の抵抗に、柚木は反論を与える。
「あなたは奇術研のメンバーに、部屋の鍵はそれぞれに渡したものと、あとはオーナーが管理しているものしかないと伝える。合鍵の存在を知らない者たちには、合鍵のことを疑いようがない。しかし合鍵を隠し持っているあなたは、どの客室にも自由に侵入出来る。奇術研の連中に関して死体に装飾は要らない。ただ殺すだけでいい。客室に血痕を残さなければ、どんな方法でも構わない。安全なのは扼殺か絞殺、刺殺の場合は刃物で脅し、被害者を浴室に追い込んでから殺害したんだ。そこでなら血痕は洗い流すことが出来る。殺したあと部屋に鍵は掛けない。合鍵がない状況で密室にしたら、扉を蹴破って中を確かめられてしまう。そんな状況は、避けないといけません」
ですが、鍵を掛けて客室に閉じ籠もっているだろう人たちが殺されるのは、他の人から見れば犯人の入室経路が解らない以上、鍵が掛かっていないのに密室殺人が行なわれたという、奇妙な状況が現われます、と柚木は付け足す。
「そうして奇術研のメンバー、何人いたのかは解らないが、部屋数からして多くても十人いるかいないか程度でしょうか。全員を殺し終えたあなたは、死体を解体する。無論、桜橋の事件で使用するためだ。それらを袋に分けて雪の中に埋める。そのあと、被害者の客室を入念に調べて掃除を始める。特に、浴槽に血を流したのであれば厳重に洗い直し、匂いが残らないようにした。まあ、血痕については殺すときに十分注意を払っているでしょうから、その心配はなかったのかもしれませんが」
草薙は肩を竦める仕草をする。
「柚木、お前は大事なことを忘れている。奇術研と俺たちミステリ研が置かれている状況は違う。今は吊り橋が落ちたせいで外部との連絡を取れないが、奇術研の連中がここにいたときは吊り橋が掛かっていたはずだ。電話が使えないのなら、山道を降って外部に救けを求めるだろう。一人目が発見された時点で、ことは警察に知られる。警察が山荘を訪れている中、それ以上の犯行を続けるのは不可能じゃないのか」
「そ、そうだよ、柚木君。無理だよ……それは。人が死んでる……殺されてる、のを見つけたら、体力に自信のある人がいなくたって、必ず、誰か一人は、山を降りて報せにいくはず……」
ふゆみは不安そうに柚木を見る。
「勢いに乗っている草薙さんなら、一晩で全員を殺すこと、奇術研のメンバーが訪れた翌日、生きているのは草薙さん一人だけ、という状況を作るのも不可能ではないでしょう。そうすれば、死体を発見する人間も、警察に連絡する人間も現われません。多分、当初の予定では初日の夜から朝に掛けて、全員を殺すことになっていた。早めに殺した分、あとで休息はたっぷり取れます。しかし不幸なことに、いや、あなたにとっては幸いなことにでしょうか、図らずもこの毬藻荘は外界との連絡手段を閉ざされてしまった。あなたはその機に乗じて、殺人を三日または二日に振り分けた。殺す日が伸びれば、死体現象も自然と伸びる。桜橋の事件で、死体変色を誤魔化すのに利用しない手はない。もっとも、山荘に閉じこめられてしまったのですから、早めに殺したところであなたは山を降ることが出来ませんでした」
「と、閉じこめられたって、ど、どうして。吊り橋が……使えなくなったの?」
震えたような声でふゆみが言う。
「おれたちが閉じこめられたのは、吊り橋が落とされたからです。当然、この方法は先に訪れている奇術研には使えない。その方法を使ったら、草薙さんがS県に戻れないし、おれたちも山荘を訪れることが出来ない。奇術研の連中は、人為的に閉じこめられたのではありません」
「人為的じゃないって……。自然にって、こと?」
はっと何かに気づいたように、ふゆみは柚木を見上げる。
「え、もしかして……吹雪の山荘? 雪が酷くて、山を降りることが出来なくなったの?」
「そうだ。そのことについては、地元の者が証言している」
「え、地元? 柚木君、こっちに知り合いなんか、いたんだ。そんな話、いつしてたの?」
柚木は右手の人差し指でこめかみを押さえる。
「……思い出してください。話していたのは春日町さんと日吉、それに古庄だ。土産物屋の女性が言っていたでしょう。二、三日前、この辺りは大雪で商売どころではなかった、と」
「あっ! そうだ、言ってた。だから、みづきが遠江君をからかって……」
ふゆみはそのときの光景を思い出したようである。
「でも、何で柚木君が知ってるの? こっそり覗いてたの?」
柚木は、あれだけ大きな声で話していれば余程耳が遠くない限り聞こえますとふゆみに言い、草薙の反応を待った。
「吹雪の山荘、とはね。遠江のような物言いだな。しかし吹雪というのは自然現象だ。いつ治まるかの予想などつかない。ミステリ研の合宿日までに俺が山を降りられないことだってある。そんな不確定要素を計画に組み入れてどうする。ミステリ研の連中が山荘に来ないことになれば、奇術研のやつらを殺したことに意味がなくなる。まさか吹雪の治まる時間まで解っていた、というつもりはないだろうな」
草薙の言葉を、柚木は真正面から受ける。
「電話を壊さなかったのは……そのためです。電話を壊したり電話線を切ったりすると、あとから来たミステリ研の連中に言い訳が効かない。食材と同じく、新しい電話機と交換することは無理だ。電話を掛けさせないためには、電話線を取り外すという方法を使うしかなかった。それなら奇術研の連中に見つからないよう注意すれば、あなただけは電話を使える。電話を残したのは、天気予報や大雪警報などの状況を得るためと、吹雪が長引いたときに、外部と連絡を取る必要があったからだ。言うまでもないが、電話を利用するのは山荘の人間全てが部屋に戻っているときや、全員が殺されたあとのことです」
「外部って、警察じゃないよね?」
じゃあどこにと、ふゆみが問う。
「毬藻荘のオーナー、それに遠江さんだ。自分が管理する別荘で、しかも団体客が来ているときに山荘が吹雪に巻き込まれたのであれば、当然オーナーが連絡を取ってくるはず。ただ、オーナーからの電話を待つよりは、草薙さんが自分から電話を掛けた方が安全だ。吹雪いているが特別な心配はない、もし何かあれば連絡する、と。向こうから電話を掛けることだけはないように良く言っておく。この辺はあなたの手腕によるだろう」
あなたが言っていた、緊急事態にしかオーナーは山荘に連絡をしないというのが本当であれば、その点で心配は余りなかったのでしょう、と柚木は続ける。
「それに遠江さんとも連絡する手段を残しておく必要がある。集合時間や集合場所は事前に決めてあるとはいえ、こちらの天気が芳しくなく大雪警報まで出ているのを遠江さんが知ったのなら、まず合宿担当の草薙さんに連絡を取る。だが、そのときあなたはこの山荘にいる。遠江さんが幾らあなたの携帯電話に掛けたところで繋がらない。その不自然さを隠すため、あなたは遠江さんに、ミステリ研の合宿前に奇術研の合宿へ参加すると伝えておいたんだ。場所は違うが毬藻荘のように携帯電話の電波が届かないところだ。だから、何かあれば連絡は自分からすると。そうしておけば、遠江さんの連絡が奇術研との合宿中に掛かってきたとしても、事前に理由を聞いているので疑われることはない」
草薙は動揺することなく、柚木をじっと見ている。
「実際、吹雪は二日程で治まったようなので、遠江さんに電話を掛けることはなかったのでしょう。もし吹雪が長引いていた場合、天気予報が気になってオーナーに訊ねてみたが、毬藻荘周辺は大雪に覆われている、合宿の日にちを一日か二日遅らせた方が安全だとでも、遠江さんに提案すればいい。相手は自然災害なのだから文句も出ないだろうし、三日の予定が二日になったところで、山荘へ連れてきてしまえば、翌日に吊り橋が落とされるんだ。あとはどうにでもなる。おれたちが来たとき、既に電話線が取り外されていたのか、付け直してからまた外したのかは解らない。遠江さんも、見ただけでは解らなかったと言っていましたし」
柚木は長い説明に、ここで一度区切りをつける。
「……桜橋一人のために、八人の人間を殺すとは。随分な苦労をしたものだな」
八人という具体的な数字を草薙は口にした。
「しかし、その甲斐はあった。アリバイのために長沼は解答に至ることが出来なかったし、遠江さんもあのような状況でありながら、あなたのことを信用していた。あなたは誰に疑いを持たれることもなく、その後の殺人を続けていったんだ」
「あくまで俺が犯人だと言い張る気か。まあいい。話が途中だったな。残りの事件の説明を聞こうか」
草薙は幾らか冷静さを取り戻したようで、柚木に対する口調も落ち着いてきている。
「解りました。では、古庄の事件からいきましょう」
「桜橋のときと違い、スペアキーも古庄に渡してある。どうやったって、俺は鍵の掛かった古庄の部屋には入れない。まさか、合鍵はもう一組用意されていたなどとは言わないだろうな」
「そんな必要はありません。桜橋が発見されたあと、用心のためにと遠江さんがが言って、スペアキーが各自に配られました。そのとき既に、あなたの部屋のスペアキーと古庄の部屋のスペアキーが入れ替わっていたんです。桜橋の部屋の鍵を管理人室に返したときに、あなたはその細工をしておいたんだ」
「え、どういうこと。鍵を入れ替えるって、どうやって……?」
ふゆみが口を挟む。
「客室の鍵は、番号の付いたプレートが繋がっているもので、スペアキーも同じ作りだった。古庄の部屋の鍵には二〇一のプレートが、草薙さんの部屋の鍵には二一〇のプレートが付いている。鍵先の刻みを見てどの部屋の鍵かを判断することは難しい。古庄が、スペアキーを自分の部屋のものだと判断したのは、鍵に付いていたプレートが二〇一号だったからです。本物の二〇一のスペアキーは、二一〇のプレートを付けて草薙さんが持っていた」
「あ、そうか。それなら……」
一度は納得した趣だったが、ふゆみは何か引っ掛かりを覚えたようだ。
「でも、見分けがつかないってことは、しいなさんが自分の部屋を開けるとき、どっちの鍵を使うか解らないってことでしょ。最初に渡された鍵を使うか、偽物のスペアキーを使うか。それでスペアの方を使ったら、鍵は開かない。みんなに言って調べれば、草薙君がしいなさんのスペアキーを自分のものと交換したと、すぐに知られちゃうよ」
「それは別に構わない。そのときは古庄の殺される順番があとに廻されるだけのこと。いいですか、二人の鍵が入れ替わっていたというだけで、犯人として疑われることはあり得ません。遠江さんも長沼も、そんな単純に結論づけない。それに、もし疑われるのだとしたら、アリバイのない古庄の方だ。古庄が鍵を入れ替えて草薙さんを殺そうとした、と。鍵のすり替えが見つかった場合、この仕掛けはもう使えないから、別の方法を用いたことでしょう。けれど古庄は鍵のすり替えに気づかなかった。二分の一の確率で、彼女は最初に渡された自分の部屋の鍵を使った。そして草薙さんは、夜中に古庄の部屋に侵入した」
古庄の殺害された場所、解体された場所については、春日町さんが先に述べた通り、再度桜橋の部屋を利用したのでしょう、と柚木はふゆみに顔を向けて言う。
「草薙さんは、解体した古庄の身体と、吊り橋のロープを切り込む刃物、切断に使われたと見せる包丁、それに離れに仕掛ける爆弾など、必要な道具を持って山荘を出る。離れの鍵は管理人室にありますから、容易く持っていくことが出来ます。もしかしたら、離れへは一度客室に戻ってから行ったのかもしれませんが。ともかく、草薙さんは足跡を偽装しながら吊り橋へと向かう。母屋から吊り橋までの足跡に細工があったのは、単純に自分の足跡を隠すため。他人の靴を穿いたところで、慣れない靴の不自然さはどうしても出てしまう。だから、あえて自分の靴を穿き、それを隠すという方法を取ったんだ。古庄の身体を斬り取ったのは、持ち運びやすくするため、という春日町さんの推理は合っていました。残念ながらそのあとが違う」
そのあとが……? とふゆみは繰り返す。
「死体を解体したのは、同一犯の犯行であること、包丁が凶器に使われたことを印象づけるため。そして、古庄の身体を向こう岸に放り投げるためだ」
「な、投げる? そんな……」
ふゆみが頓狂な声を上げる。
「谷幅は十五メートル程度。決して無理な距離じゃない。雪は一面に積もっている。これを固めて投げれば、練習はいくらでも出来ます。それに、必ず向こう岸へ届けないといけないのは、古庄の首だけだ。あとの部分は代用品がある」
柚木は傍らの紙袋に目を向ける。
「古庄の身体だとはっきり言えるのは、首と、上着を着ていた上半身も、おそらく本人のものだろう。正確には、服を着ていたのは胸部です。腹部や腰部といった具合に、投げやすいサイズにしておいたのでしょうか。あとの部分は推測するしかありません。古庄の身体を投げたのか、別の女性の身体を投げたのか。谷底へ落ちてしまったものもあるだろう。全部を同じ場所に投げることが出来れば理想的だったが、さすがにそれは難しかったのでしょう。投げられた身体は、橋桁に残ったものや、向こう岸まで届いたもの、首の周囲に散らばったものと、ばらつきが出てしまった。しかしそれだけで疑惑を持たれるといったものでもない。血痕に関しては、本物か偽物かは解りません。雪に赤い液体を混ぜて、それを向こう岸に放ったのでしょう。そのようにして、あなたは吊り橋を渡らずに、向こう岸で解体されたように見える死体を作り上げた」
「長沼の言った通り、草薙さんには足跡のない殺人を見せつける気はなかった。同一犯であることを示すために古庄の身体を切断することや、夜中のうちに吊り橋のロープを傷つけることだけは決まっていた。翌朝見つけるのは、ロープが切れて落ちてしまった吊り橋と解体された古庄の死体、基本的にはこの状況になる予定だった。要は古庄が桜橋と同じ犯人に、同じ凶器で解体されたと示せれば、他にどんな要素が加わろうと構わなかったのです。だから古庄を殺したあとで、雪が降っていないことに気づいたあなたは、この状況をついでに利用しようと考えた。上手く行けば不可能犯罪が強調されて、更に恐怖心を煽ることになる。もちろん、雪が降っていれば足跡のない殺人の装飾など出来ません。しかし仮に朝までに雪が降り、足跡のない殺人という要素が消えてもどちらでも良かった。古庄が橋の向こうで解体されていることだけは示せます」
柚木は足跡の説明から橋の説明に移る。
「吊り橋についても同じことが言えます。夜中のうちに橋が落ちなければ、翌日に古庄を確認に行く人間か、警察に報せに行く遠江さんが吊り橋と共に落ちることになる。遅かれ早かれ、吊り橋は落ちることになっていた。荷重が掛かったらすぐにでも落ちてしまうくらいに、ロープは切り刻まれていたのでしょう。幸い、夜中に強風が吹くこともなかったのか単に耐えることが出来たのか、偶然にも、ロープに切り込みの入った吊り橋は、翌朝まで無事だった」
傍目には草薙の表情に変化はない。柚木の説明を黙って聞き続ける。
「結果、これらは見事に上手く行き、橋の向こう側で解体された古庄、足跡のない橋桁、吊り橋と共に落ちていく御門台さんと、これまでにないくらいの光景を印象付けることになりました。ロープに関しては、不確かな要素がありますから、こちら側の橋桁の裏に爆弾を用意しておいたことも考えられます。間違っても、誰かに山を降りられる訳にはいきませんし。ですが吊り橋が落ちた今となっては、確かめようがありません。そのあと、離れに爆弾を仕掛けて、窓から投げ捨てた桜橋の身体を回収します。懐中電灯の光が漏れないように、十分な注意を払って」
では御門台さんの事件に移りましょう、と柚木の説明は先に進む。
「橋の向こう側に古庄の死体を発見して、御門台さんが橋を渡る。どうして御門台さんが、ということは考えても仕方のないことでしょう。古庄の死体を向こう岸に置いておけば、必ず御門台さんが橋を渡るとは限りません。あのとき最初に動いたのが、たまたま御門台さんだったというだけだ。草薙さんの仕掛けた吊り橋に荷重が掛かり、御門台さんは吊り橋ごと谷底に落ちてしまった。御門台さんの事件は、これだけのことです」
「ま、待って。そ、それで終わりじゃないでしょ。御門台君の身体がA川で発見されたっていう、理解しにくい出来事が、起こったじゃない」
ふゆみは声を張り上げるが、柚木は平然としている。
「あれは御門台さんではない。誰か別の人間だ」
「えっ?」
ふゆみの声に掻き消されてしまったが、草薙も小さく声を上げたようだ。柚木を見る目が険しくなる。
「難しく考えることはありません。事実だけを見ればいい。御門台さんは首を斬られることもなく下流に流されたと考える方が自然だ。テレビ放送に作為があった、川が逆流していたなどと考える方に無理がある。報道番組に作為はないでしょう。あのときリポーターは、S**大学の学生手帳と毬藻荘春合宿の栞を持つ人間が、A川の畔で見つかったと言っただけです。御門台さんである必要はない」
「そ、それじゃあ、偶然、ってこと? 御門台君が橋から落ちたあとに、この付近でS**大学の学生が見つかった、っていう」
ふゆみは柚木の言うことをすんなり受け止めることが出来ないらしい。
「で、でも、合宿の栞を持ってたってことは、どうなるの? あれは一人一部しか配ってないんだから、伊豆さんや、入江岡君、まゆみちゃん、の誰かってことはないよね?」
「その可能性も、ない訳じゃない。合宿不参加の誰かが被害者であるのなら、殺されたのは合宿の栞が配られたあと、ここ二週間の間だろう。それが誰かを判断する材料は、ここにはありません。それに、毬藻荘、春合宿とリポーターは言っていたが、それが必ずしもおれたちが持っているものとは限らない。例えば、来年の春合宿を毬藻荘で行ないたい、などという走り書きをした紙を被害者が持っていただけかもしれない。S**大学の中で、毬藻荘のことを知っているのが、おれたちだけということもないだろうし。この件についての、明確な判断は出来ません」
……そう。と言ってふゆみは残念そうに目を伏せる。ただ、飛躍したものでいいのなら、考えはあります、と言って柚木は草薙に声を掛ける。
「草薙さん、A川で見つかった死体というのに、もしかしたら心当たりがあるのではないですか?」
「ど、どうしてそう考える?」
冷静を装おうとした草薙が言葉を詰まらせた。
「合宿の栞を一人に一部しか渡していないというのは、草薙さんの言葉でしかない。伊豆さんや、入江岡さん、あるいは清水のうち誰かが殺されたのではなく、あなたが合宿の栞を渡した別の誰かが殺されたのではないか、そう思っただけです。余ったものは処分したと言っていましたが、その中から一部を別の人間に渡していたのかもしれません。例えば来年度に入会を考えている学生に渡したとか、いつか毬藻荘で合宿を考えている学生に参考までにと渡したとか。……でも、奇術研とミステリ研にあれだけ注意を払う草薙さんが、そんな危険を増やすようなことをするはずはありません。見当違いでしょう、やはり」
草薙は目を逸らさないよう、柚木をじっと見ている。
「ただ、もしあなたが栞を一部誰かに配っていた場合、報道番組が流れたあとにそのことを告げても、何が変わるということもありません。合宿不参加メンバーが殺されたのかもしれない、の中に草薙さんの知り合いが殺されたのかもしれない、ということが混ざるだけです。もし草薙さんがそのことを故意に隠したとすれば、A川で発見された人物は草薙さんと深い関係のある人か、あるいは草薙さん自身が殺した人なのではないか、と考えたのです。けれど草薙さんが一部を別の誰かに配っていようとなかろうと、その判断はここでは出来ません。御門台さんとは関係のない事件ですから解く必要はない、いや、解くことは出来ないのでしょう」
柚木は何かを考えるように黙ったあと、再び口を開く。
「それに、もし草薙さんが犯人であるなら、手際が悪いとしか言いようがありません。いくら鄙びた地域だろうが、首を斬り落としていようが、身元を示す学生手帳に、合宿の栞まで残していたら、警察に身元を明らかにしてくれと頼んでいるようなものです。逆説的ですが、この事件に関しては、あなたが犯人ではないでしょう。警察が捜査に乗り出しているようですし、間もなく解決するはずです。毬藻、合宿の二文字から毬藻荘のオーナーを訊ねるかどうかは解りません。しかし警察がオーナーに連絡を取るようであれば、ことは人の死に関係しています。宿泊客たちの話も聞いておこうと考えるのも妥当なところでしょう。春日町さん、早ければ明日か明後日には、警察関係の人たちがこの山荘の様子を見に来てくれる可能性はあります」
柚木が最後の台詞をふゆみに向けて言うと、彼女は顔を綻ばせた。
互いを見ている二人は気づかない。声こそ出さないものの、膝に置いた草薙の右手は、爪が食い込む程に固く握り締められていた。
残りの事件に取り掛かります、そう言って柚木は草薙に向き直る。
「日吉は、あなたが事前に仕掛けておいた爆弾によって殺された。もちろん、日吉以外の人間が自棄を起こして離れに行くことも、誰も離れに行かないことも考えられる。運悪く引っ掛かったのが日吉だった、というだけの事件です」
長沼のことはもういいでしょう、二人の説明と同じです、と柚木は少しだけ顔を伏せた。
「最後の遠江さんについては、それほど難しくなかったのではないでしょうか。あの人の性格からして、こんな状況であっても、誰かが訪ねてくれば部屋の中に入れたような気もします。ですがあえて方法を推測するなら、西端の二〇一辺りに隠れて、扉を少し開けておく。遠江さんが二階へ上がってくる足音が聞こえたら、扉を閉じて覗き窓から様子を窺う。通り過ぎたあとに廊下へ出て、遠江さんが自室の扉を開けた隙に、あなたは部屋に侵入する。そして包丁でひと突き。といった具合でしょうか。食堂で行なったら、階段や二階の廊下に血痕が残る怖れがある。あなたは最後まで、万が一にも疑われるかもしれない要素は取り除いておきたかったのでしょう」
「遠江君が、首を……斬られていなかったのは?」
ふゆみが小さな声で言う。
「理由がないからです。桜橋、古庄のときは、身体を斬り離す必要があった。御門台さんは首など斬られていませんし、遠江さんの首を落とす理由は何もない。意味のない装飾や工作を、草薙さんは行なわなかった」
「そういう、こと……だったの」
柚木の長かった解答編もようやく終わりに近づいた。
草薙は口を利かず、ふゆみも黙っている。わずかばかりの間、ラウンジに静寂が訪れる。再び柚木が口を開く。そして、組み上げた論理が導いた事件の真相を明らかにする。
「草薙さん、あなたがこの山荘で行なったのは、連続殺人事件なんかじゃない。毬藻荘を舞台にした、連続連続殺人事件だったんだ」
第二章 解答編、その後
五 冷たい方程式
毬藻荘連続連続殺人事件――。
柚木が示した一連の解答に対して、草薙が口を開く。従来通りの低くしっかりした声である。
「いやいや、どうして。面白い。お前の仮説。長沼の買い被りかと思ったが、そうでもなかったようだ。俺が犯人か、一応筋は通っている」
「それは自白ですか」
口許を緩め楽しそうに話す草薙に、柚木は真剣な顔つきで訊ねる。
「いいか柚木、結局はお前の解答も、先に春日町や俺が話した推理と同じだ。もしかしたらそうだったかもしれない、という程度の可能性に過ぎない。まさか牛肉の消費期限が動かぬ証拠だと言うつもりはないだろう」
「……そうですね。あなたが犯人だと証明する明確な証拠は存在しない。残念ながら、おれはあなたを追い詰めることは出来なかった」
「ゆ……柚木君……」
顔を伏せる柚木を、心配そうにふゆみが見つめる。
「惜しかったな、柚木。しかし、それでも良く考えた方だろう」
草薙は不適に微笑む。
「ええ、おれ一人だったら、ここで終わっていたでしょう」
「何、だと?」
顔を上げた柚木に対し、草薙の相好が歪む。
「トリックを暴いたところで、犯人は泣き崩れたりしない。長沼が教えてくれましたよ。犯人を自白に追い込むには、推理を聞かせるだけでなく、その先を考えなければならない」
柚木はズボンのポケットから白い紙を取り出して、二人に見えるように翳す。
「あなたが作った合宿の栞です。当然、このようなものを残したくはなかったが、下手に怪しまれるのは避けたかったからでしょう。例年の慣習通り、合宿担当のあなたは栞を作るしかなかった。ここに、毬藻荘の連絡先が書いてあります。何か疑問点があれば、誰にしてもあなたに連絡を取るはずだ。直接オーナーに掛けられる心配はなかったのでしょう。もしかしたら、山荘の名前も電話番号もでたらめということも考えられますが、この地域にある吊り橋の向こう側の山荘、とでも言えば地元の人には通じるでしょう。問題はありません」
「な、何が、言いたい……」
草薙の焦燥を感じ出したような態度に介することもなく、柚木は取り出した紙をゆっくりとポケットに仕舞う。
「おれは、あなたが宿泊を申し込んだときに作為があったと考えています。一連の事件を起こすため、ミステリ研の名前では借りなかったと。あなたが犯人でないのなら、それを隠す必要はない。おれがオーナーから何を訊こうと、支障はないはずです」
「は……馬鹿な。電話も使えないのに、どうやって連絡を取る気だ」
「いえ、電話は使えるんです。これを繋げば」
柚木が紙袋の中から取り出したのは、何重かにして丸く巻かれた灰色のコード。それは、管理人室から消えたとされる電話線だった。
え、なんで、どうして、柚木君が、とふゆみは目を丸くしている。
「草薙さん、あなたは奇術研のメンバーがいたときには、電話を壊すことが出来なかった。それはさっき言った通りです。しかし、ミステリ研が山荘に着いてからなら、電話を壊しても構わなかったはずだ。それなのに、あなたは何故か電話線を取り外すという方法を採っていた。……それは、保険だったんじゃないんですか。万一、取り乱して自棄になった誰かによって、自分が深い傷を負ったとき、すぐに救助を呼べるように。これだけ残虐な犯行をしておきながら、あなたは自分が死ぬことを怖れた。計画が成功するかどうかよりも、第一に自分が死なないということが前提にあったんだ。だからあなたは電話を壊さなかった。あるいは、何らかの形であなたが殺したい人間を全て殺す前に警察がここを訪れた場合の、交渉用に連絡手段を残しておいた。まあ、こちらの可能性は薄いでしょうが」
草薙の柚木を見る顔は硬直し強張っている。
「いずれにしろ、電話で連絡を取るためには、電話線が無傷でどこかに保管されているはず。雪の中土の中では使うべきときすぐに取り出せない。かといって、他の者に見つかるような場所では駄目だ。結局のところ、客室の荷物の中に隠しておくのが、もっとも安全だ。あなたはラウンジに集合したあと、自分の考えた真相を話しておれたちを丸め込むつもりだったんだろう。上手く行くはずだと思い、気が緩んでいたのか、客室に鍵を掛けることなくラウンジへ降りていった。オートロックじゃないのが幸いでした。あなたがいなくなったのを自分の部屋から覗き窓で確認し、おれはあなたの部屋に入った。そして、荷物の中からこの」
柚木は電話線を握り締める。
「コードを見つけることが出来た。上手く行ったからいいものの、ほとんど賭けでした。あなたが肌身離さず持っていることも考えられましたし、鍵を閉められていたら、扉を蹴破るしかなかった。しかしそれはおれには難しい。物音を立てて草薙さんにばれたら、どうしようもなかった……」
柚木は、正面の草薙をじっと見据える。
「おれの運を使い切ったかもしれないが、綱渡りは成功した。どうですか、草薙さん?」
最初はくぐもった声を出していた草薙だったが、やがて箍が外れたかのように大声で笑い始めた。怯えた目で草薙を見るふゆみは、更に離れようとして柚木に近づく。
「はん、まさかな。ここまでお前がやってくれるとは、思わなかったよ……。頃合を見て、犯人自ら解答編を行なう、という趣向を用意していたんだがな……」
ふゆみが驚愕に目を見張った。草薙は依然と笑い続ける。
「……それは、予想していましたよ」
柚木の台詞に草薙の表情が固まる。
「あなたは、おれか春日町さんのどちらかを犯人に仕立てるのだろうと考えていました。けれどあなたの解答は、生き残った者に犯人はいないというものだった。しかし三人が無事に山を降りたとしても、自分が警察に捕まることは免れない。あなたはその前に、自分がやったことを誇示しておきたかったかったんだ。おれたちが安心したあとに、真相を告げれば、一度不安が取り除かれただけに、一層の恐怖を煽ることが出来る」
「全く、驚かせてくれる……。お前がここまでやってくれるとは……」
ふゆみは柚木と草薙を交互に見遣る。
「じゃ、じゃあ……本当に? 本当に、奇術研究会の人たちも……遠江君や、みづきたちも……」
「ああ、本当だ」
草薙が自ら、ふゆみの問いに答える。自白だった。
「そんな、無茶なこと……。人、一人殺すのだって……上手く行くかなんて、解らないのに。そんな、続けて、何人も、なんて……出来るはずがないよ……」
明らかになった真相を信じることが難しいのだろう。ふゆみは、詰まりながらも必死で否定の言葉を紡ぎ出す。
「春日町さん、確率はあくまで確率だ。成功する確率が十割でない以上、失敗は必ず存在する」
柚木が淡々と述べる。
「確率で考えたら、こんな事件を起こすのには並々でない困難を伴う。ここまで事件が続いたのは、運というよりも勢いだろう。一人目を上手く殺せた、それなら二人目も上手く殺せるはずだ。二人目が殺せたなら、三人目も殺せるはずだ、と。勢いは、今後も上手く行くという自信に繋がる。勢いがあるうちに続けて行なうのも、ひとつの方法じゃないのか」
「……そんな、そんな、こと、が」
事実を受け入れられないふゆみに、柚木は話の方向を曲げる。
「譬え話をしよう。重い病気を持った患者がいる。この病気を治すことの出来る医者は世界に二人しかいない」
いきなりのことに、ふゆみは途惑いを隠せない。
「解りやすいように、二人の医者がこれまでに受け持った患者の数を十人とする。一人は受け持った患者のうち、七人の手術を成功させ、もう一人は三人の手術を成功させた。春日町さん、あなたがこの患者だとして、どちらの医者に手術を頼みますか?」
「そ、そんなの、七人救けている方に、決まってるじゃない。七割か三割の、どっちを選ぶって、こと、なんだから」
「確率で考えた場合は、そうだ。しかし、七割の医者は最初の七人は成功させたが、残りの三人は失敗している。一方、三割の医者は最初の七人は失敗したが、最近三人の手術には成功している。こういう状況だとしたら、どうです。確率ではなく勢いで考えれば、三割の医者がこのまま勢いに乗って次の手術も成功するだろう、と考える患者もいるのではないですか」
ふゆみは何も言い返すことが出来なかった。突然聞こえた拍手の音に、ふゆみは顔を向ける。その音を立てたのは、草薙だった。
「なかなか上手い譬え話だ。大筋は間違っちゃいない。だが、勢いなどというものとは違う。俺の目的、ふゆみに対する想いが、この事件を成功させたんだ」
「柚木、お前はさっき、俺が傷を負ったときに救助を呼べるよう、電話線を残しておいたと言ったが、それは違う。あれは、もし御門台や長沼といった連中が、とち狂ってふゆみを傷つけてしまったときの用心だ。ふゆみだけは死なせる訳にはいかなかった。ふゆみが死んだら、俺のすることに意味がなくなる。その場合、事件は途中で頓挫してしまうが、仕方ない。医者を巻き込んででも、目的を優先させるつもりでいた」
ふゆみと柚木は怪訝そうな顔をする。
「な、何……いきなり。何を、言ってるの?」
「ふゆみ……?」
ふゆみは急に自分の名前を呼ばれたことを訝しんだようだが、柚木は咄嗟にそれが誰の名前なのか思い出せなかったふうである。
「ふゆみ、俺は君に想いを伝えるため、俺の想いを君に残すために、この事件を起こしたんだ。十五人だろうと何人だろうと、君のためなら何でも出来ると信じていた。必ず成功すると思っていたよ」
草薙はふゆみの顔を真っ直ぐに見据える。
「十五人……? A川の死体も、やはりあなたが」
柚木が人数の違いに気づく。草薙は顔をふゆみに向けたまま、目だけで柚木を見遣る。
「杜撰な犯行で、悪かったな……。お前の言った通りだ。学生手帳に栞まで残して……水辺だから良かったようなもの。あいつが昨日見つかったとは……恐ろしいものだな。……しかし天は俺を見捨てなかった、俺の想いがあらゆるものに打ち勝ったんだ」
草薙に平静さは欠片もなくなり、高揚した調子で話し続ける。
「ちょ、ちょっと、さっきから何を言ってるのよ……。わ、私がなんで、こんな、こんな事件に、関係あるのよ……」
ふゆみは恐怖のためか、声を震わせる。
「ふゆみ、君の気持ちは解る。全てを捨てて出ていった以上、村の人間にはもう頼れないだろう。だが俺は違う。俺は村を出ていってからも、いや、その前からずっと、俺は君のことを忘れたことなどなかった。俺はずっと君のことを想っていたよ。君だってそうだろう。あの日、君が兄さんの葬式へ訪れたときに、わざわざ俺に会うために来てくれたときに、俺は確信した。君も俺と同じ気持ちだと。だから、あのとき俺は誓ったんだ。どれだけ遠く離れていようと俺の想いは離れない。心はいつでも君と一緒だと」
「わ、解らない……。な、何を言ってるの? わ、私には、あなたが何を言っているのか、全然……解らない」
喚き立てるふゆみの様子に、しばし呆然としていた草薙だが、じきに得心が行ったような顔つきになる。
「成程……君が疑うのも当然だ。あの日から、もう六年も経つ。けれど俺はあの日の、君の温もりを覚えている。君のことをいつだって感じている。俺は君と会った日から、俺たちが小さかったときのことから、君と一緒だった日々を、取るに足らないような些細な出来事でも、俺は全て覚えている」
そう言って。幸せそうに微笑んだ。
草薙はもはやふゆみしか見えていないようだった。柚木の存在など忘れたかのように、ふゆみだけを見続ける。
「それなら証明しよう。俺がふゆみのことをどれだけ想っていたかを。いつだって君のことを考えていたことを。それを知れば、きっと君は、俺の想いを受け入れてくれるはずだ」
草薙は語り始める。男の子と女の子の物語。少年と少女の物語。そして彼と彼女の物語を。
六 しあわせの理由
二人は草薙の長い話を聞き続けた。
「君が残した最後の手紙、新しい住所も連絡先も、何も書かれていなかった。君が目指すと書いていた大学、それだけが俺のよすがだった。だけど、君が目標に向かって進む以上、俺は必ず、君に会えると信じていた」
ふゆみは話の途中で何度か口を出そうとしたが、草薙のこれまでと違う態度を怖れてか、結局何も口にすることが出来なかった。隣の柚木も何ら行動を起こすこともなく、草薙がふゆみに語る物語に耳を澄ましていた。
「そして俺は、再び君と出会った。奇跡なんていうものじゃない。俺と君は以前のように、また仲良く過ごせるはずだったんだ。零からやり直したいと、君は手紙に書いていた。そのため、俺と大学で会ったときは、多少ぎこちなかったが、仕方のないことだ。知っているのに知らないように、初めて会ったかのように、振る舞わなければいけなかったんだから。しかし俺は君の手紙を、君の書いた文字を知っている。君の書いたノートを見て、君がわざと俺を避けているのだと、俺には解ったんだ。別に俺を相手にそんなことをする必要もないが、俺も村の人間だった。君はおいそれと、俺を頼ることは出来なかったんだろう。君が先へ、未来へ向かって進んでいるのが解ったから、過去の話を持ち出す必要はなかった。それに俺には、俺たちには、二人で過ごした共通の思い出がある。君がそれを口に出さなくとも、想いは同じはずだ。そう、同じはずだったのに……」
草薙はここで一度話を切り、ふゆみの顔を改めて凝視する。
「だけど君は。ふゆみは。俺を見ていなかった。何かといえば遠江、遠江だ。あいつは、君が考えているような奴じゃない。遠江は君のことを何とも思っちゃいなかった。ただ同じ大学ただ同じサークルのメンバー、それだけだ。あいつと違って俺は昔からずっと、今だって君を想っている。君だけを想っている。言ってくれれば、俺はいつでも君の傍にいることが出来るのに。なのに君の目に、俺の姿は映っていなかった。君は、いつになっても俺を振り向いてくれなかった」
「く、草薙……君。む、無理だって、ちゃんと……言ったじゃない。わ、私は……他に、好きな……人が、いるから……。だから、ごめん……って」
ふゆみはびくびく身体を震わせながら、必死で声を搾り出す。
「そ、それに、あのときも……言ったけど、わ、私は……この大学に来てから、初めてあなたに、会ったの……。村がどうのこうの言われても、何のことか……全然解らない」
「そう、君は昔から強情で一途だった。自分の意見を途中で曲げたりしない。こんな状況でも意地を脹れるのは、相変わらず君らしい。その性格はちっとも変わっていない。君が言った目標、自立するという、自分独りで生きていけるようになるまでは、君は村のこともそれに関係することも、一切口を利かないだろう。だが、今ので解ったはずだ。俺の君に対する想いは、今も繋がっている」
草薙は、またしても声を出して笑う。
「結局、思い出というものは、ときが経てば消えてしまう。俺が覚えていたことも、ふゆみはほとんど忘れていただろう。いや、忘れようとしていたんだ。だから、改めて聞かされて、そんなに驚いたような顔をする。俺はどうしても君に伝えたかった。遠江なんかじゃない。君の中に、俺の気持ちを残しておきたかった」
ふゆみは、縋るように柚木の袖を引っ張る。柚木は一度ふゆみを見て、視線を草薙に向けた。
「草薙さん、こんな事件を起こしてまで、あなたは春日町さんに何を求める? おれと付き合わなければ殺すとでも言うつもりですか。……やれやれ、随分遠廻りな告白もあったものですね」
柚木はわざとらしく肩を竦めてみせる。草薙はその声で、この場に柚木がいることを思い出したようだ。
「茶化すなよ。柚木」
ぐっと柚木を睨み付ける。柚木は目を逸らさない。しばし互いは睨み合う。埒が明かないと考えたのか、先に草薙が目を離した。
「付き合おうが結婚しようが、そのようなことに意味はない。何をしようと何をやろうと、思い出さなければ全てが消え、なかったことになる。記憶も思い出もなくなれば、生きていたこと自体がなくなる。生まれたことすら消えてしまう。俺の兄がそうだった。俺に兄はいたはずだ。一緒に暮らしていたはずだった。なのに兄に関する記憶も思い出も、何も残っていない。残ったのは兄の名前だけだ。それ以外はみんな消えた。父も母もそうだ。俺の家族に始めから兄はいなかったことになっていた。そのとき解ったんだ。俺がふゆみに想いを伝えるのであれば、簡単に忘れられるようなものでは駄目だ。ふゆみがこの先ずっと、いつまで経っても俺のことを覚えているようなものでなければいけないと」
「だから彼女のために、彼女の記憶に残すために、こんなにもたくさんの人を殺したのか」
強い口調で柚木が言う。
「先走るな。俺の目的は……この先にある」
草薙はソファに座ったまま身体を屈ませる。テーブルの下かソファの下に隠しておいたのだろう、起き上がったその手に折り畳み式のナイフが握られていた。草薙は刃を起こし、切っ先を柚木とふゆみに向ける。
「ふゆみ、君は人を殺したことがあるかい?」
がらりと口調が変わり、優しそうな声で問い掛ける。
「あ、ある訳、ないじゃない。そ、そんなこと……」
ふゆみの答えに、草薙は満足そうな顔を見せる。
「……君に俺を殺させる。それが俺の求めるものだ」
「君が遠江や他の誰を見ようと、この先誰と暮らそうと、そいつらのことをずっと覚えていられる訳ではない。想いは消える。記憶とともになくなっていくんだ。しかし俺は違う。俺は、君が殺した初めての人間になる。初めて殺した人間の記憶など、そう簡単に消えることはない。それは俺が経験済みだ。他の奴等は何ともないが、あいつの、姿、声、匂い、流れる血の色も、首を斬り落とした感触も、全て俺の身体に染み付いている」
柚木の草薙を見る目つきが鋭くなる。
「君が俺を殺すことによって、俺の想いは君に届く。他の奴など関係ない。君のために十五人も殺した俺の、君のことをずっと愛していた俺の、君が初めて殺した俺の、この俺の記憶が、ふゆみの中で永遠に残る。……俺の想いは、とこしへに繋がるんだ」
「や……やだ……そ、そ……」
ふゆみは凝然と目を見開く。滑らかに話すことが出来ない。堪えていた涙が溢れ出して頬を流れる。
「ふゆみ、こっちへ来るんだ。長沼の自殺は予定外だったが、君も見ただろう。俺は君にナイフを渡す。あれと同じことをすればいい。首の、ここ、動脈を一気に切り裂くんだ」
草薙はナイフを持っていない方の手で、首筋を押さえる。
「……草薙さん、あなたが賢いのかそうでないのか、いまいち解らない」
柚木が呆れたように口を挟む。
「そんな話を聞かされて、はいそうですかと頷く人がどこにいます。あなたが話したことによって、あなたの目的とやらは叶わなくなったんだ」
「馬鹿はお前だ、柚木」
草薙はナイフを構えたまま立ち上がる。
「俺が、どうしてお前を最後まで生かしておいたと思う。別にお前の推理が聞きたかった訳じゃない。本来、真相は俺自身で伝えるつもりだった。お前の死体に合うような、小柄な男が見つからなかったことや、お前が殺されたところで連中に与える印象は弱いだろうという理由もあった。ただサークルにいるだけで、特別誰と仲が良いということもないからな」
草薙はふゆみを横目で見て、柚木に近づいていく。
「初日の夜にしても、桜橋の身体を切断して死亡推定時刻を逆算しましょう、だ。普通の人間が考える発想じゃない。他の誰もがそう感じたはずだ。しかし、改めて桜橋の死体を調べられていたら、俺の計画があそこで割れていた可能性はある。これについては、ふゆみに感謝したよ」
草薙はナイフを持ったまま柚木の前に立つ。ふゆみは慌ててソファから立ち上がり、逃げ出そうとした。だが、柚木が動かないのを見て、柚木が座るソファと食堂の扉との間で立ち竦んでしまう。
「……お前を残したのは、何の障害にもならないからだ。俺がここでナイフを奪われたとしても、相手がお前なら簡単に取り返せる。いや、貧弱で体力もないようなお前が相手なら、素手で十分だ。お前に出来るのは、ミステリを読むことくらい。俺の暴力に、抵抗する手段を持たない」
「……それは、認めるしかない」
柚木は、草薙の言葉をあっさり肯定する。
「お前に言われなくても、ふゆみが素直に従わないだろうということは解っていた。だから俺は、人質としてお前を残した。桜橋や古庄の身体を切断したのには、もうひとつ理由がある。それは、俺の言葉が脅しではない、無惨に殺すことを躊躇わない人間であると、ふゆみに教えるためだ」
「……え?」
ふゆみが声を上げたときには、草薙の身体が前に傾き、柚木が苦痛に喘いでいた。
柚木はソファから放り出されるように前のめり、左手で頬を押さえたままテーブルに俯せる。頬を押さえた指の間から鮮血が溢れ、テーブルにカーペットに赤い染みが広がる。
「ゆ、柚木君!」
草薙を気に掛ける間もなく、ふゆみは柚木に駆け寄る。
「ね、ねえ、ちょっと。だ、大丈夫? しっかりしてよ。ねえ!」
「安心しろ、ふゆみ。殺したら人質にならない」
草薙の持つナイフに、柚木の血が滴る。
「だが、ふゆみ。君の決断が遅くなればなる程、柚木の傷は深くなる。目が見えなくなるか、耳が聞こえなくなるか、あるいは一生口が利けなくなるかもしれない。しかしそれも、君の行動で決まる。逃げたところで、結末は変わらない」
草薙はふゆみに微笑む。柚木の血を避けるふうにして先程まで座っていたソファに戻り、ふゆみと柚木の様子を楽しそうに眺める。
「だ、大丈夫……ねぇ。柚木君!」
ふゆみは泣きながら声を張り上げる。柚木の顔はテーブルに載ったまま苦渋に歪む。
「だ、大丈夫な、訳が、……ないだろう」
左手を頬に当てたまま柚木はどうにか上体を起こし、ソファに座り直す。こわごわと左手を頬から放し、血塗れの手を見て。
――悲鳴を上げた。
「ゆ、……柚木君?」
ふゆみも草薙も何が起きたのか咄嗟に理解出来なかった。柚木は怖れ驚き腹の底から叫びを上げている。これまで話していた強気の口調はどこにもない。ただ、泣いて喚くのみだった。柚木はソファから落ち、悲鳴を上げて床を転がり廻る。
「は、柚木、偉そうなことを言っていた割に、自分の血を見ただけで、この様か。笑わせてくれる」
草薙はソファに深くもたれ掛かる。柚木の様子を見て、笑いが止まらないようだった。
「し、しっかり、してよ、ねぇ!」
柚木は散々転げ廻ったあと、自分が座っていたソファの背に後頭部を押し付け、床に横たわる。心配気に柚木へ近寄ったふゆみは、顔を上げた柚木を見てはっとする。
柚木の目に、光はまだ消えていない。
「ばれないよう、芝居をしてくれ」
小さく声を出す。ふゆみは状況を察したようで、柚木を励まし心配する声を掛け続ける。草薙からは、ソファに隠れて柚木の足しか見えない。
「春日町さん、あなたは名字が、変わった、のか……?」
ふゆみは、大丈夫大丈夫と声を出しながら、大きく頷いた。
「笑えない……人違いだ」
「や、やっぱり。……なら、そのことを、教えてあげれば……」
草薙に聞こえないよう、ふゆみは囁く。
「駄目だ。あの人が生かしているのはあなたではない。彼にとっての春日町ふゆみだ。あなたが本人でなければ、生かしておく理由は消える。目的が消え、自棄になった草薙さんは、春日町さんと、おれを、迷いなく殺すだろう……」
「……そ、そんな。じゃあ……言う通りにする、しか、ないの?」
涙に濡れた瞳に絶望の色が混じりつつあった。
「いや、方法はある」
柚木の返答に、ふゆみは大きく目を見張る。
「草薙さんのファンタジーを、打ち崩す」
さすがに草薙が怪しみ始める。
「何をこそこそしている。柚木、それくらいで動けなくなることはないだろう」
柚木はソファに手を掛けて立ち上がる。
「おれの話に合わせてくれ。最後は……あなた次第だ」
小声で言うと、柚木はソファに座り直す。左手は頬に当てたまま、草薙に向き直る。
「おれは、喧嘩もしたことがないんだ。自分の血が流れているのを見たら、驚きもする」
そう言う柚木の口調に怯えはない。ふゆみもまた、柚木の隣に腰を下ろした。
「草薙さん、最終的にはあなたの言った通りになるでしょう。嫌がりながらも、春日町さんはあなたを殺す。あなたは、目的に達することが出来る」
草薙は妙な顔をする。
「しかし、それには時間が掛かるだろう。春日町さんが決心を固めるのに、もう少し時間が必要だ。その間に、俺の目も耳も、使いものにならなくなるかもしれない」
「だから何だ。ひと思いに殺せと言うのか。馬鹿が。殺してしまったら、人質の意味がなくなるだろう」
「いや、そうじゃない」
柚木は否定する。
「おれが、こんな不条理な目に遭う理由を、はっきりさせたい。原因である、あなたと春日町のさんの思い出を、過去の出来事を、もう一度把握しておきたい」
「はん、傷つくのに、いちいち理由が必要か。だが柚木、さっき話したことが全てだ。付け加えることはない」
草薙はきっぱりと言い切る。
「全て、実際にあったことですか?」
「当たり前だ。あれは、俺とふゆみの思い出なんだからな」
「あとから付け足したり、夢を都合良く解釈したりしたことも……」
「くどいな」
草薙は声を荒げる。
「全て事実だ。俺がふゆみと経験した、過去の記憶だ。どこにも作為は入っちゃいない。いいだろう、それで」
「あとひとつだけ教えてください。あなたはお兄さんの名前を覚えていると言った。お兄さんは、何というんですか」
柚木の意図が摑めないようだったが、草薙は答えを返した。
「……マサアキだ。草薙マサアキ」
「解りました、ありがとうございます」
柚木は、ふゆみをちらりと見て繰り返す。
「そうですか、お兄さんは、マサアキさんと言うのですか」
「ふゆみ、早くしろ」
苛立たし気に、草薙が吐き捨てた。
「それとも、また柚木を刺して欲しいのか?」
ふゆみの救けを求めるような視線は、柚木に向いている。
そして。柚木が口を開く。
「助かりましたよ。あなたの記憶が、夢でも妄想でもなくて」
「何、だって?」
草薙の顔に微かな狼狽が浮かぶ。
「あなたの記憶は途中で食い違いを起こしている。つまりあなたがした話は、あなたと春日町さんの思い出ではない」
七 死者の代弁者
草薙は哀れむように柚木を見る。
「……柚木、助かりたいために必死だな。お前が何を考えているかは知らないが、全ては過去に起こったことだ。俺自身の記憶であることは、はっきりしている。覚え違いも勘違いもない。全ては過去に起こったことだ。それを今更、どう覆すと言うんだ」
「ええ、おれもあなたの頭がどのように矛盾を処理しているのか、見当がつきません。専門家じゃありませんから」
柚木は強気の姿勢を崩さない。
「おれの論理が間違っていた場合、おれがあなたに抵抗する手段はなくなる。おれは切り刻まれ、春日町さんはあなたを殺してしまうだろう。……最悪の結末だ。だから、これは負け犬の、最後の遠吠えだと思って聞いてください」
「……いいだろう。最後の望みを、自分の手で砕いてみろ」
草薙は再度ソファに座り直す。柚木は左手を頬に付けたまま、草薙を見据える。隣のふゆみは二人の様子を静かに窺う。
雪の降り続く山荘、そのラウンジで、最後の謎解きが始まる。
「草薙さん、さすがに創作を行なっているだけのことはある。あなたの話を聞いただけで、映像が浮かんでくる程だった。あなたは、寸分違わず覚えていたのでしょう。しかし、あなたの話は途中からおかしくなった。お兄さんが亡くなったあとと、それまでの話には変化が生じていた」
変化……? と草薙が呟く。
「お兄さんが亡くなる前の話では、男の子と女の子がきちんと映像に浮かんでいました。ところが、お兄さんが亡くなってからは女の子の映像しか浮かばなくなった。もっとも、このときは女の子ではなく中学生になっていますが。解りやすく言うと、あなたの記憶は途中で視点が切り替わっているんです。お兄さんの死を契機として、あなた自身の記憶と、お兄さんの思い出が混ざってしまったのではないでしょうか」
「ば、馬鹿な!」
柚木は構わず先へ進む。
「あなたは言っていた。両親もクラスメイトもみんな、お兄さんがいなかったことにした。お兄さんを忘れようとした。だから自分だけは忘れない、お兄さんとの思い出を覚えていると。食い違いが起こったのは、このときです。おそらく春日町さんに憧れていたあなたには、彼女と仲良くしているお兄さんが羨ましく映ったのでしょう。お兄さんが死んでしまい、周りの人間もお兄さんを消してしまったために、お兄さんと春日町さんの思い出を、自分のものにすることが出来た」
もちろん、あなたが意図した訳ではなく、お兄さんの死を悲しむ余りに、心が勝手に働いてしまったのでしょう、と柚木は付け足す。
「ば、ば、馬鹿な。馬鹿なことを言うな……。そんなことがある訳ないだろう。お前の言うことが本当なら、ど、どうして兄さんとふゆみが一緒だった記憶が、俺に残っているんだ。あれが兄さんの記憶なら、俺が知るはずないじゃないか。そ、それとも何か、俺は知らない間に兄さんの記憶を、脳に移されたとでも言うのか」
草薙は訥訥と反論を試みる。
「そんなSF的解釈は要らない。あなたは二人のすぐ近くにいた。同じ家にいれば、自然と二人の様子は目に入る。勉強部屋は兄弟で使っていたそうですから、そこにあなたもいたのではないですか」
「そ、そんなはずは、ない。あれは……俺だ。そ、そうだ、ふゆみと一緒に芒の中を通り抜けたとき、あのとき久能さんが、久能のおばさんが、俺のことを名前で呼んでいる。ちゃんとユタカと。間違いない、あれは俺だ。ふゆみと一緒にいたのは、俺なんだ」
草薙は懸命に記憶を辿り、必死で抗おうとしている。
「……その女性、あなた方兄弟は、そっくりで見分けがつかないと言っています。だとしたら、お兄さんとあなたを見間違えて、あなたの名前を呼んだのではないですか。そのときあなたは、二人のすぐ後ろにいた。だから、お兄さんと春日町さんの言動を知ることが出来た。いや、そのときだけじゃない。あなたが覚えている春日町さんとの思い出というのは、皆あなたが実際に近くで見聞きしたものなんだ」
今や形勢は逆転していた。柚木の一言一句に、草薙は右往左往している。
「あなたが話した幼少時代の思い出に、あなたと春日町さんのものは存在していない。全て、お兄さんと春日町さんの思い出だ」
「ち、違う。そうじゃ、ない……。俺は、俺は……。そ、そうだ、兄さんが死んだとき、葬式のとき、ふゆみが来てくれた。俺のために来てくれたんだ。ふゆみは、泣きながら俺の胸に飛び込んできた。俺もふゆみを強く抱き締めた。このとき、俺は解ったんだ。ふゆみも俺を愛してくれていると、これからも俺が、ふゆみを守っていかなければいけないと……」
淡々と柚木は切り返す。
「そのとき既に、お兄さんの思い出が混ざっていたのでしょう。あなたの言うことは牽強付会に過ぎる。お兄さんの葬式に訪れて、どうしてあなたに会いに来たことになる。泣いていたのだって、お兄さんが亡くなって悲しかったからだ。春日町さんは、あなたのことが好きであなたに会いに行った訳じゃない」
「ち、違う、違う……。それなら、どうして俺に抱きついたんだ。あれは、ふゆみから俺にに、抱きついてきたんだ……。す、好きでもない男に、そんな、ことはしないだろう。あれこそ、ふゆみが俺を愛している証拠だ……」
柚木は冷たく言い捨てる。
「さっきも言った。春日町さんは、あなたにお兄さんの面影を見たんだ。長年仲良くしていた、死んでしまったお兄さんを重ねて、思わずあなたに抱きついた。それだけだ」
草薙の顔は蒼白になっていた。かろうじてナイフを摑んでいるものの、その手は震えている。どうにか落ち着こうとゆっくり声を出した。
「……柚木、結局それも……ただの可能性、に過ぎないだろう。……確かめる術も、証拠もない」
「証拠が……必要ですか?」
柚木は視線を上げ、何かを考えているようだった。そのうちふゆみに向き直る。
「春日町さん、学割を使ったから、学生証は持ってきているだろう。取ってきてくれ」
訳が解らないという顔をして、うん……と曖昧に頷いたふゆみはラウンジを出ていく。草薙に当初の勢いはなく、ふゆみが出ていくのを横目で眺めただけだった。顔は柚木に向いたままである。
「何を……する気だ……」
「すぐに戻ってくるでしょう。先に話を進めましょう。明らかにおかしいのは、二人が試験勉強をしていたときのことだ。あなたの話では、春日町さんが数学Ⅰの教科書を持ってきたことになっている。それは、当然彼女の教科書でしょう。一方、あなたは自分の机から国語Ⅰの教科書を取り出している」
「それがどうした。ふゆみは数学が苦手だから……俺が、教えてやっただけのこと、だろう。国語の教科書を見せたのは……ふゆみが、現代文が得意だと言ったからだ。……どこに、おかしなことがある」
柚木はわずかに顔を上げる。時折、左目が苦痛に歪むが、決して草薙から目を離さない。
「科目は関係ない。重要なのは教科書の方だ。いいですか、春日町さんが持ってきたのは数学Ⅰの教科書、あなたが手に取ったのは国語Ⅰの教科書だ。これは両方共、中学一年生の教科書、ふたりは中学一年生だということになります」
「当然だろう、それは。中学に入って、初めての試験勉強なんだから」
「違うんですよ、草薙さん。あなたと春日町さんが、同じ学年ということはあり得ない」
草薙は目を丸くした。身体全体が小刻みに揺れ動いている。
「な、何を、言っているんだ。勘違いしているのは、お前の方だ。俺とふゆみは同じ年に大学へ入った、今だって同じ学年、三年だ。俺とふゆみは同い年なんだ。俺が中学一年なら、ふゆも中学一年だった。……どこも、おかしくはない」
「……高校を留年したのか、大学に入る前に浪人したのか、おれは知らない。はっきりしているのは、春日町さんが現役生ではないということ。それは、草薙さんと年齢の違いがあるということだ。要するに、春日町さんが一緒に勉強をしていた相手はあなたではなく、ひとつ年上のお兄さん。春日町さんにとっては同い年の、マサアキさんということです」
草薙は目の色を変えて、捲し立てる。
「そ、そんなことが、あるか! あ、あれは……俺だ。俺なんだ。……ま、待てよ。そ、そうだ、大学に入ってから、ふゆみと、干支の話をしたことがあった。あのとき、俺とふゆみの干支は、同じだった。だから、俺とふゆみは……」
「早生まれです。春日町さんは早生まれだったから、一学年下のあなたと、干支が同じなんです」
毅然とした態度で柚木は言い放つ。
「そ、そんな……」
草薙の手からナイフが落ちる。わなわなと震えるだけで、口から声を発することが出来ない。
そのとき扉が開いて、ふゆみが戻ってきた。手にはカードを持っている。ふゆみが隣に座ろうとするのを、柚木は右手を上げて制する。
「丁度いい。春日町さん、それを草薙さんに見せてあげてくれ」
そして。……最後は君の台詞だ、と続ける。
ふゆみは一度柚木を見て、草薙に向き直る。おずおずと草薙に近づいた。テーブルの上に学生証を置き、少し後ろへ下がる。
草薙は目の前に置かれたふゆみの学生証に目を落とす。しばらくそのままの体勢で、じっとして動かなかった。
ふゆみが柚木を振り返る。柚木はふゆみに合図を送る。ふゆみはまなじりを決する。赤く腫らした瞳で、草薙を見据えた。
「……く、草薙君。これまで言えなかったけど、はっきり言うね。私は、私がずっと好きだったのは……マサアキ君なの。あなたじゃ、ないの。私は、今でもマサアキ君のことが……」
それが最後だった。
草薙を支えていたもの、気持ちも想いも願いも祈りも夢も、全てが決壊した。
「ふゆみ……」
立ち上がり、泣きそうな顔でふゆみを見る。そこには、ただひとつの想いを胸に、殺人を犯した男の姿はない。状況に押し潰され、真実に耐えることの出来ない、悲傷に溢れた男がいるだけだった。
草薙は泣き叫びながらラウンジを飛び出す。ふゆみは緊張から解かれそのまま床にへたり込む。柚木はテーブルに手を付いて立ち上がる。
「どこに、行く気だ……。春日町さん、あなたはここにいるんだ」
吐き捨てて柚木は廊下へ出る。彼らしからぬ行動だった。草薙を見つけたところで、何をするという当てはないはずだ。だが、柚木は懸命に草薙の姿を捜した。
「どこだ、草薙さん……」
客室へ上がろうとしたとき、以前感じた振動が山荘を襲った。いや、前のものと違い、振動は長く続き、連続した爆発音が耳をつんざく。
「外か……」
柚木は足を玄関に向け、そのまま山荘の外へ出た。昨日、一昨日と同じく雪が降っている。山荘裏手の林、その開けた一角で爆発は続いていた。その音に向かって、柚木は歩いていく。
雪の中から火柱が上がる。赤い炎は薄闇を照らす。破裂音が続き、土が舞い雪が舞い煙が舞う。その中心で煽られ踊るような人影。その姿を柚木は、右目で捉える。
「くさ、なぎ……さん……」
やがて破裂音は止み、炎は勢いを落とし、降雪に包まれていく。
柚木は、少しずつ歩を進める。頭に雪を被り、肩に雪を載せ、一歩一歩近づいた。
雪が溶け焼け焦げた地面。そこには、今し方柚木と対峙していた青年の遺体が横たわる。
ただ一人の少女に対し幾星霜の慕情を重ね続けた草薙。彼の想いが少女に伝わることはない。
八 いまひとたびの生
「爆発、だよね。今の? 何が……あったの?」
ラウンジに戻った柚木は、それとなく草薙の最期を説明した。
「雪の中に隠しておいた爆弾だろう、それで……」
「そう……」
ふゆみは顔を伏せて感慨に耽っているかのようだった。頬には涙の跡が残っている。何かに気づいたのか、不意に顔を上げた。
「そうだ、柚木君。手当てをしないと。あんなに痛がってたし……大丈夫? 管理人室に、救急箱置いてあるよね」
「……いや、あれは芝居だ。出血が多かっただけで、傷はそれほど深くない。だから……」
「何をぐだぐだと言ってるの。取ってくるから、あなたはここで座って待ってる。いい?」
有無を言わせず、柚木はソファに座らされる。
「……何だったんだろうな、あれは」
柚木は独りごちる。
「長沼に取り憑かれていたかのような振る舞いだったな」
事件は全て終わったと思っているのだろう、ふゆみの表情は完全に晴れてはいないものの、ここ数日でなくした明るさを取り戻そうとしているかのようだ。救急箱を取ってきたふゆみに、柚木は為されるがままだった。手当てといっても、傷口を消毒してガーゼを貼る程度の処置である。
「どう、これで?」
ふゆみが柚木に訊ねる。
「ああ、痛みは変わらないが、気休めにはなるだろう」
「あ、あなたねぇ……。他に、何か言い方があるでしょう」
助かりましたよ、と言って柚木は立ち上がる。床を見廻して、草薙が落としたナイフを手に取る。振り返り、柚木はその刃をふゆみに向けた。
「まだ、全てが終わった訳じゃない」
予想外のことだったのか、ふゆみは力なくその場に崩れ落ちる。
「ゆ……柚木君、な、何言ってるの……? あなたまで、頭がおかしくなっちゃったの?」
「やれやれ、酷い言われ方ですね」
「もう……終わったでしょ。全部終わったんでしょ!」
ふゆみは声を強く出すが、柚木は怯むこともない。
「春日町さん、本当に終わったと思っているんですか。ミステリ研の者だけでも六人、奇術研の人たちを合わせると十四人。この一週間余りで十四人もの人が殺されたんです」
「だ、だから、何……。草薙君が、こんなこと、するなんて。誰も、気づかなかったし……。そんなこと言っても、どうしようも、ないじゃない」
「確かに、事件を起こしたのは草薙さんだ。目的よりも手段が先行してしまったのでしょう、あなたを春日町ふゆみだと明確にする前に、思い込みだけで行動を起こしてしまった。本人に確かめることもなく、自分の中だけで完結させた物語を、一方的に正しいと信じ込んだ」
淡々と感情を交えることなく、柚木は続ける。
「一番の原因は、あなたの筆跡です。草薙さんと春日町ふゆみを繋ぐ現実は、彼女からの手紙のみだった。名字に名前、そして同学年というのに加え、筆跡が駄目押しだ。あなたの文字を見た草薙さんは、間違いなくあなたは、自分の知る春日町ふゆみだと思い込んだ。逆に、筆跡が違えば、草薙さんに訝しがる理由を与えたかもしれない。まあ、今更言っても詮方ない。どう考えたって、悪いのは草薙さんで、責められるべきは草薙さんだ。しかし、あなたに全く責任がない、と言い切れるんですか」
ふゆみがびくりと肩を震わせる。
「あなたにとっては、迷惑以外の何物でもない。相手は自分のファンタジーを頑なに信じてしまっている人間だ。あなたが事前に人違いだと伝えていても、草薙さんの現実を翻すことは難しかったでしょう」
「な、何よ……。わ、私が、もっと詳しく草薙君に説明していれば、こんな事件は、起きなかったって言いたいの?」
「理由も動機も関係ない。方法も人数も関係ない。殺人に重いも軽いもない。家族がどうの社会がどうの環境がどうの、そんなものは一切関係がない。人を殺したのは、その人自身の責任だ」
柚木は強い口調で言い放つ。
「だ、だったら……」
ふゆみは途中で口籠もる。
「春日町さん、あなたに直接的な原因はない。しかし、あなたの名字が変わっていなかったら、名前がふゆみではなかったら、この大学に入っていなかったら、筆跡が異なっていたら、こんな事件は起きなかったとも考えられる……」
「わ、私に……どうしろって言うのよ! そんなこと、私には、どうしようもないじゃない!」
声を張り上げふゆみは叫ぶ。
「ええ、起きてしまったことはどうしようもない。あなたが選べるのはこれからのことだ。間接的とはいえ、あなたのために十四人、草薙さんを入れると十五人の人が命を落としている。春日町さん……あなたはこの先、十五人もの死を背負って生きていくことが出来るのですか?」
「……え?」
「無事に帰ったあとで、重荷に押し潰され耐えることが出来なくなり……自死を図ったら。あなたの家族や友人は、生還を喜んだ分、悲しみの度合いは深くなる。ここで死んでしまえば、下手に希望を与えることはなくなります」
冷たくなった柚木の目が、ふゆみを見下ろす。
「ナイフならここにある、包丁も余っている。草薙さんの荷物を探せば、薬のようなものが出てくるかもしれない。どうしますか、春日町さん。あなたはそれでも、生きていけますか? いや、生きていたいのですか?」
「わ、わ、私は……」
下を向き、ふゆみは押し黙る。ラウンジが静まる。柚木はふゆみの答えを待つ。
そうして。それから。
ふゆみは口を開く。自分の想いをふゆみは告げる。
「解らない。そんな先のことなんて……。つらくて痛くて苦しくて、どうしようもなく嫌になることがあるかもしれない。何もかも投げ出してしまうかもしれない。柚木君が言ったように、自殺を考えることだってあるかもしれない。だけど……」
ふゆみは顔を上げる。涙の滲む瞳に迷いはない。
「私は……生きていきたい。……人の死を背負うなんて、そんな立派なことは、私には出来ない。情けなくて恥ずかしい、自分の弱さを晒し続けていくだけかもしれない。だけど私は、私に出来ることは、生きていくことしかないの……。遠江君や、みづき、長沼君……みんなに対して私が出来るのは、一日でも一時間でも、みんなより多く、みんなの分も生きることなの。だから、私は……こんなところで死ぬ訳にはいかない! これからもずっと、生きていかなきゃいけないの!」
柚木はナイフを折り畳み、ポケットに仕舞う。
「……その言葉を聞きたかった。これでおれは、何の憂いもなく犯人になることが出来る」
ラウンジの時計は四時を廻っている。
「今から警察に連絡をすれば、夜までには来てくれるでしょう。一時的に橋を掛けなければいけないから、もう少し時間は掛かるだろうが、今日中にあなたは保護され、山を降りることが出来る。良かったな」
ふゆみは惚けた顔で柚木を見つめる。
「な、何を言うの? 犯人って、草薙君でしょ。どうして、柚木君が草薙君を庇う必要があるの?」
「何も庇うつもりはない。殺人事件には……犯人が必要なんだ。それもこんな、大量殺人事件であれば、尚更だ」
ど、どういうこと、とふゆみが説明を求める。
「草薙さんの死が、他殺か自殺かの判断が警察にはつかないだろう。検視をしたところで、何も変わらない。どれだけ仔細に事件の説明をしたとしても、この場にいなかった警察が、おれたちの話を受け入れるとは思えない。いいか、おれたちが草薙さんの犯行を信じたのは、草薙さんの自白があったからだ。物的証拠はひとつもない」
「……で、でも。そ、そうだ。草薙君が書いた毬藻荘の申込書、それが奇術研究会になっているのが証拠だって、柚木君がさっき言ったじゃない」
「あれは草薙さんには証拠となったが、警察に対しての効力はない。草薙さんは、この山荘を奇術研究会の連中と一緒に訪れたが、いくら鄙びた地域でもそこそこホテルや旅館もある。団体客だって、一日一組ということもないだろう。駅の人間が観光客を逐一覚えているとは限らない。奇術研と同じ日に、おれたちが到着していないと、誰が言える」
「でも、申込書には、奇術研の名前……しか、書いてない……」
ふゆみの声は弱々しくなり、消える。
「……そうだ、ミステリ研がここに来たことを証明するのは、おれたちの証言でしかない。警察にとっては、いつ来たかなんて解りようがないんだ。宿泊費を減らすため、オーナーには内緒でふたつのサークルが合同で合宿をしたとも考えられる。それに、草薙さんが起こした荒唐無稽な事件を受け入れるよりも、合同合宿の最中に一連の事件が行なわれたと考える方が自然だ。吊り橋が落とされた日にちも、調べようがないだろう」
「ま、待ってよ。栞、合宿の栞にはミステリ研の合宿日程が書いてあったし、そう、私はその前日まで実家にいたことは、お母さんが証言してくれるし、他の人だって……」
ふゆみは必死な様子で役に立ちそうな情報を思い出す。
「その場合、ミステリ研の到着日が明らかになるだけで、特に影響はない。殺人事件が続けて起きたことを前提に警察が考えたとしても、奇術研に混ざって合宿に参加していた者が、草薙さんであるという明確な証言は取れない。奇術研の連中は全て死んでいるんだ。当日参加したのが別の人間であると言っても、反論出来る者はいない。その辺の注意を草薙さんは怠ったりしていないだろう。だからこそ、ここまで計画が上手く行ったんだ。どちらにしろ、状況に然程の変化もない」
「そんな……」
落胆する様を、ふゆみは隠せない。
「このような状況で警察が来て、おれたちを疑わないはずがない。殺人事件が起きた山荘に生きている者がいるのなら、おそらくそれが犯人だ。おれか、あなたか、あるいは両方か。真相を話しても、生きている人間が罪を免れようと、もっともらしい真相をでっちあげたと取られるかもしれない。いや、その方が普通でしょう」
殺人事件には犯人が必要だ、と柚木はもう一度繰り返す。
「だが、おれが犯人になればそんな心配はない。春日町さんが警察に付き纏われることも、冤罪を着せられることもなくなる。あとはおれがあなたを人質に残したことにして、警察に自白すればいい」
「な……何を。そんな、してもいないことを、どうやって、自白するって、言うのよ」
「草薙さんのやった方法は、おれにも十分可能だ。動機にしても方法にしても、適当に流用し、それらしく作り上げる。犯人が明確でない事件においては、自白が重要視される。警察は、世間や社会に対して、犯人を捕まえたと報告する義務がある。実際、状況証拠だけで捕まった殺人犯もいました。別におれの自白を警察が疑い、犯人に辿り着けるなら、それに越したことはない。まあ、そのときおれは、極刑に処せられたあとでしょうが」
「……そ、そんな。どうして、そんなことを……」
ふゆみは絶句して、うな垂れる。
「連絡するのは早い方がいい。あなたを人質にするに当たって、多少の打ち合せが必要だろう。春日町さん……」
顔を上げたふゆみを見て、柚木は言葉を続けられなかった。
再び泣きだしてしまいそうな悲しい目をして、ふゆみは柚木を見据える。
「ねえ、柚木君。生きているのが、そんなにつらいの?」
柚木の顔がわずかな狼狽に歪む。
「……おれは、特別、生きたくもないし死にたくもない。生きたくないと思いながら、死ぬことも出来ない。傷つくのや痛いのは、苦手なんだ……。何か、生きる目的がある訳でも、したいことがある訳でもない。ただ何となく生きて、暮らしているだけだ。おれは……草薙さんに殺されても、構わなかった。むしろそっちを望んでいた……。だけど……おれは生き残ってしまった」
「じゃあ……じゃあどうして、さっき私を救けてくれたの……。草薙君から、守ってくれたのよ……」
ふゆみの肩は震えている。
「……それはきっと、長沼のせいだ。あいつがもし、ここにいたら。生きている人間を、春日町さんを救けるだろうと、思った。おれは、そう思ってしまった。だからあれは、おれじゃなく、長沼の行動だ。……おれに出来るのは、みんなのために、この事件の罪を……」
柚木が皆まで言う前に、ふゆみは立ち上がる。柚木の襟元を摑み、無理やり壁に押し付ける。
「……あんた、さっきから、何、自分勝手なことばかり言ってるの」
涙を流しながら、柚木を睨み付ける。
「何がみんなのため? 社会のため世間のためよ! 自分が全部の罪を被る? 犯人として自白する? 格好いいとでも思ってるの? 違うよね。自分でも解ってるよね。逃げてるだけだって。私には……散々、生きろ生きろとか言っておいて……自分は逃げてるだけじゃない! 嫌なことつらいことから……生きることから!」
ふゆみの柚木を摑む力が弱まる。
「……そんなこと、言わないでよ。……そんな、悲しいこと。私はあなたが犯人じゃないことを知ってる……知ってるんだよ! それなのに、あなたが捕まって、何にも気にせずに、暮らしていけると思うの……? 私を救けるのなら、最後まで救けてよ! 途中で逃げないでよ! 私一人に……みんなの死を……背負わせないでよ! 生きてよ……。あなたも、一緒に……生き続けてよ!」
泣き喚き、ふゆみは懸命に訴える。
「せっかく……助かったんだから……そんなこと言わないで。犯人じゃないなら……無実を明らかにする、方法は、きっとあるはず……。出来るでしょ……あなたなら。……長沼君がいない今……それは、柚木君にしか出来ないことでしょ。だから……現実から目を背けないで……」
ふゆみは膝を付き、その場にへたり込む。
ラウンジにふゆみの泣きじゃくる声だけが響く。
やがて。柚木が口を開く。
「……そうか、そういう考え方も、あるのか。そんなこと……おれ一人では、思いつかなかった……」
「……ゆ、柚木君?」
「……解った。何とか、善処して、みよう……」
「ほ、本当に……?」
頷く柚木を見て、ふゆみの顔に笑顔が浮かぶ。
「とりあえず……春日町さんを泣かした責任は……取らないと、いけないだろう」
柚木はズボンからハンカチを取り出し、ふゆみに差し出す。
「あ……ありがとう」
ふゆみは両膝を床に付けたまま、柚木に手を伸ばす。
終章 最后の頁
そのとき。
床に壁に天井に一斉に亀裂が走る。
山荘自体が悲鳴を上げているかのような轟音。
外部と繋がる入口から次々と白色が流れ込む。
衝撃に耐えられず山荘は呆気なく崩れ落ちる。
瞬く間に山荘は白い雪に覆われて。
全てが雪崩もろとも押し流される。
木々を薙ぎ倒し瓦礫を埋め尽くす。
事件の終幕と共に。
役割を終えたかのように。
毬藻荘はその姿を消した。
雪は降り続く。
全てを純白に包むように。
かつて山荘が建っていた場所には。
もはや何も残っていない。
そこに。
真っ白な雪が降る。
深深と降り続く。
白い白い白い雪が。
いつまでも、降り続ける。
いつまでも、降り続く。
白く白く白く。
闇を。世界を。
白く白く染めていく。
起筆2004年12月14日
脱稿2005年10月17日
執筆54日 原稿用紙367枚
作品に対する感想は読者の自由であり、本来作者が口を出すものではありません。けれど作品の意図が伝わらない責任は全て作者にあります。今回に限り、作者の意図として伝えておきたい最低限の事柄を記しておきます。
狐ヶ崎について。
本作のメイントリックは、犯人の独白と連続殺人の時系列が異なる、という叙述です。この手法を使うために、似たような事件がもうひとつ必要でした。連続連続殺人というのは、叙述を使うために付け足した要素です。
叙述トリック+連続連続殺人=本作となります。そのため、叙述を取り除いた作品を発表することが出来ず、最終稿の枚数は初稿と余り変わりませんでした。
狐ヶ崎という名前は、奇術研の連続殺人が終了してから初めて犯人が自称する言葉、ミステリ研のメンバー以外は知らない言葉、との意味がありました。つまり、犯人の独白は全て奇術研に対するものである、犯人はミステリ研のメンバーの中にいる、ということを示すものでした。
御門台の事件について。
序章で解答が記されています。脱稿からしばらく経って考え直すと、他に方法があったのではないかと思いますが、書いている最中は思いつきもしませんでした。
構想としてあったのは、冒頭で別人の死体があることを記すか、解答編でいきなり御門台の死体ではないと説明するか、そのどちらかでした。伏線がないものを書くのはどうかと思ったので、前者を選びました。
ミステリ要素について。
みづきの事件以降、ミステリ要素が減少しています。これは、プロットを綿密に立てなかったこと、書いている途中で内容を変えてしまったこと、が原因です。
当初は全ての人間が首を斬られる予定でした(その場合、首斬り自殺説や、鎮痛剤を使った犯行時刻の誤認、などが書かれたと思います)。それが変わったのは、長沼が被害者になる章を書いていたときです。
長沼が首を斬られて死ぬのは可哀相だと思いました。それが転じて、このような状況で犯人に勝てないと悟れば、長沼は自ら死を選ぶのではないか。ミステリ要素は第一の事件と、第二の事件に任せてしまえばいいのではないか。と考え、ミステリよりも長沼を優先してしまいました。全員を首なし死体に統一するという当初の設定も、ここで消えました。
それにより、柚木が長沼の遺志を継いだ解答編を行い、長沼が出来なかったことを自分が遂げるということに希望を見つけるのですが、これは兄と自分を同一化してしまった草薙と同じことをやっています。エンディングも、長沼がいたから柚木は今後も生きていけるという展開になってしまい、物語として良いものではありません。
プロットはなるべく綿密に立てること。内容は途中で変えないこと。が本作執筆による教訓になりました。
ミステリ要素以外について。
僕が書いた作品のほとんどは、勇気を出して何かをすると酷い目に遭う、だから人生無難に過ごした方がいい、と取られそうなものばかりですが、そこに意図はありません。メッセージのようなものがあるとすれば、そこではなく、事件が起こる前。彼(あるいは彼女)たちが幸せに過ごしていた期間にあります。
カテゴリー:ノンシリーズ(あるいは続編が書かれていない作品)