9/5(木)からスタートした今夏2泊3日の「夏恒例のお城巡り」3日目、今夏城巡りの旅の9城目は「向羽黒山城(後編)」(福島県大沼郡会津美里町)ですが、情報量が多いので3回に分けて投稿していて、本日は「後編」です。因みに当城は「続日本100名城」です。

 

復習として「向羽黒山城」の歴史と城主について記載しておきます。

 

「葦名氏」のお城だったのは有名で、「蘆名氏」は相模の「三浦一族」でしたが、鎌倉幕府を樹立した「源頼朝」の御家人として、多くの軍功によって会津の北部を中心に領地を得ました。

 

「葦名氏」の全盛期を築いた16代「盛氏」は、度重なる戦いで新潟県東部から会津地方全域、中通り地方のほとんどを支配下に置き、「葦名家中興の祖」と呼ばれます。そして8年の歳月をかけて「向羽黒山城」を築きました。


しかし、「盛氏」の嫡男「盛興」は、1574年に若くして病没、そのため養子を取って継がせるも家臣に惨殺、その子も病死してしまいます。「盛氏」死後は、養子問題で家中が乱れ、1589年の「摺上原の合戦」で「伊達政宗」に大敗して「芦名氏」は滅亡、会津支配400年に終止符を打たれてしまいます。

 

「伊達政宗」の領地になるも、「豊臣秀吉」による「奥羽仕置」によって1590年に「蒲生氏郷」が「会津」等の地を賜り「黒川城」に入城し、「向羽黒山城」の改修を行います。

 

その後「蒲生騒動」の勃発で「蒲生氏」が転封となり、1598年に「上杉景勝」が入城すると2年かけて大改修を施し、更に「徳川家康」の会津攻撃の報を聞くや、「景勝」は「神指城」の築城をやめ、「向羽黒山城」を対家康戦の最後の砦として考えました。

 

しかし「関ヶ原の合戦」で西軍に加担した「景勝」は、1601年に「米沢」へ移封となると当城は廃城となりました。

 

向羽黒山城」の立地と縄張りについても同様に記載しておきます。立地は「観音山」、羽黒神社のある「羽黒山」、「実城一曲輪」のある「岩崎山」の3つの山から成ります。メインの「岩崎山」は標高408.7m、比高差は184mで、東西1.4㎞、南北1.5㎞と広大な城域があります。

 

縄張りは、「岩崎山」の頂上に「一曲輪(実城)」を置きますが、そこが詰城の如く、東に「出桝形」の虎口、西側に数本の「堀切」を並べ、更に北側にも「横堀」と長い「竪堀」を施して守りを堅固にしています。

 

更にその北側は、西から「西曲輪群」の多くの小規模な曲輪群に続き東に向かって「二曲輪(二ノ丸)」が並びます。「二曲輪」は当時「本丸」的な位置付けだったようで北側下には「二東曲輪群」「二西曲輪群」を配備して「虎口」や「石積み」を設け、内側には「水の手」も設えています。更にその東側には長くて幅がある2本の「竪堀」によって防衛しています。

 

そこから下った北側にある「大堀切」を隔てると「三曲輪」跡がありその辺りが「芦名盛氏」時代の遺構のようです。その東側には「盛氏」が隠居後に居住したと謂われる「伝盛氏屋敷」跡が堀と土塁に囲われて造成されていますし、堀を隔てた東側では「北(北東)曲輪」跡の高さと深さがある土塁と堀のアンジュレーションが見られます。

 

縄張図(パンフレットに掲載) ↓

 

「中編」では、「二曲輪(二の丸)」下の「二東曲輪・二西曲輪」跡を記載しました。本日は下山途中の車道脇にに点在する「弁天曲輪」「御茶屋場曲輪」「三曲輪」「伝盛氏屋敷」「北東曲輪」の各曲輪跡等をお届けします。

 

「弁天曲輪」「御茶屋場曲輪」「三曲輪」「伝盛氏屋敷」「北東曲輪」の縄張図(現地に掲出) ↓

 

駐車場から真直ぐ下りて車道がUターンした所に「弁天曲輪」跡があり「弁天神社」が建ちます。小さな曲輪で東下には「阿賀川」が流れているので、川からの攻撃に対する監視を目的にした櫓台にも使用していたのではないでしょうか。

 

「弁天曲輪」跡内の「弁天神社」の鳥居 ↓

「弁天曲輪」跡内の「弁天神社」 ↓

 

そこから一気に下る坂道になり東手には麓まで落ちる「竪堀」が二本あり、北側のモノは「御茶屋場曲輪」脇に設えられていますが、木々が邪魔して見下ろすことができません。

 

この辺りに「手洗清水」「竪堀」があるが夏草に覆われて見えない ↓

 

会津茶道発祥の地でもあると謂われる「御茶屋場曲輪」跡は、眺めの良い場所に設けられていて、茶道を楽しみながら眺めも愛でたことでしょう。現在でも「会津若松市街地」や後方に聳える「会津磐梯山」が一望できる好立地の場所です。

 

「御茶屋場曲輪」跡 ↓

「会津若松市街地」と「会津磐梯山」(「御茶屋場曲輪」跡からの遠望) ↓

 

車道をドンドン下っていくと駐車場があってその北側の車道両脇を大きく抉る(えぐる)「大堀切」が現れます。丁度「二西曲輪群」跡の西側から北側にかけて断崖絶壁になっている箇所で、登ってくる敵方の足止めをするのに大いに役立つ防御仕掛けです。

 

駐車場にも幟「蒲生氏郷」 ↓

駐車場にも幟「蘆名盛氏」 ↓

「大堀切」 ↓

 

「大堀切」の北側一帯が「三曲輪(三の丸)」跡になります。この場所は、「蘆名盛氏」時代の遺構らしく、馬の訓練場として造られ兵力養成場所にしようとしていたようです。ここも大小の曲輪が貼りついています。また、車道の右手(東側)下には、「土塁」が二本並ぶ「二重土塁」も見られました。

 

「三曲輪(三の丸)」跡 ↓

「三曲輪(三の丸)」跡 ↓

 

「羽黒山」の頂上を曲輪化した「羽黒山曲輪」跡と「羽黒神社」に向かう道が付いていましたが手前で写真だけを撮り、もう一方の内部に入っていく道を進みました。

 

「羽黒神社」が建つ「羽黒山曲輪」跡方向 ↓

 

この先には、「盛氏」が家督を譲って隠居した後に暮らした屋敷である「伝盛氏屋敷」跡があります。真直ぐ延びる道の行きあたり右手に段状になった「曲輪」群が見られます。

 

「伝盛氏屋敷」跡へ向かう道 ↓

「北(北東)曲輪」跡の「段曲輪」 ↓

 

その左手にコの字型の「土塁」で囲われ、更にその周囲を「堀」で囲った場所が「伝盛氏屋敷」跡のようです。

 

「伝盛氏屋敷」跡 ↓

「伝盛氏屋敷」跡(「土塁」で囲われた所) ↓

「伝盛氏屋敷」跡(周囲を「土塁」と「堀」で囲われている) ↓

 

「伝盛氏屋敷」跡の南から東側にかけて深い堀が掘られ、その分「土塁」の高さも高くなりそのアンジュレーションは奇抜な形をしていて、一度底に入ると這い上がるのに非常に難儀する仕掛けになっています。現地曲輪図ではこの辺りを「北東曲輪」跡とネーミングしています。

 

深い「堀」を挟んで「北東(北)曲輪」跡 ↓

「北東(北)曲輪」跡内の「横堀」 ↓

「北東(北)曲輪」跡内の「横堀」 ↓

「北東(北)曲輪」跡内の深い「堀」と「土塁」 ↓

「北東(北)曲輪」跡内の「虎口」 ↓

「北東(北)曲輪」跡内の深い「堀」と高さがある「土塁」 ↓

「北東(北)曲輪」跡内の深い「堀」と高さがある「土塁」 ↓

 

「北東(北)曲輪」跡、「伝盛氏屋敷」跡から車を置いていた場所に戻ると10時35分になっていましたので、予定時間から約10分の短縮です。今回「向羽黒山城」では2時間滞在しましたが、多分全体の1/2位しか見ていないように思われます。夏草や木々で覆われている箇所が沢山あったので仕方がないですが、ユックリ全てを探索しようと思うと約4~5時間は要するだろうな~と感じました。

 

しかし、東北最大の山城、全国的にも日本最大級の山城の一端でも見ることができたのは幸いでした。一昨年前(2022年)に登城しようと予定していたのは、JR只見線「会津本郷駅」から徒歩でアプローチする計画でしたが、それはかなり無理そうだということが解りました。

 

次回のブログは、「猪苗代城」をお届けしたいと思います。

 

 

 

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