そもそも「私」がどう思うか、なんて発想は微塵もなく、何も考えず、書きたいから書いて、送りたいから送ったのではないか。悪意があるよりも、その方がずっと怖い。そこに人格を持った「私」はいない。
私に藤沢さんを責める資格があったのだろうか。ずっといっしょに過ごしてきたのに、相手の中に「自分」がいないし、自分の中にも「相手」がいないなんて。
夫婦でさえそうなら、いったい誰とならまともにそんな関係を築けるのだろう。他の人たちは築いているのだろうか。
花田菜々子『出会い系サイトで70人と実際に会ってその人に合いそうな本をすすめまくった1年間のこと』
私たちは日々人に会って、人のことを自分はきちんと見えていると思っているのだけれど、実は相手のことが全然見えていない。
私たちが見ているのは、この人はこういう人だ、という自分が相手について固定したイッメージであって、刻々と変化する多様な側面のある相手そのものではない。
自分自身がそうであるように、相手もまた実際にはその内側に実に多様で自由な感情や思いが渦巻いている。
しかし私たちは相手の多様な感情や思いのほとんどを無視し、自分にとって都合の良い相手のイッメージを作り上げ、固定化し、そのイッメージを相手だと誤認してしまう。
そして、そのイッメージにそぐわないような言動を相手がすると、「なんでそんなことするんだ」「見損なったぜ、ベイビー」と喚き立て、勝手にショックを受ける。
ひどいときには自分のイッメージに相手を合わさせようとする。
自分が相手について抱いている固定的なイッメージが崩れないように相手を縛りつけようとする。
多様な自分を単純化され固定化され、それ以外の部分を切り捨てられ、無視されているため、相手はそこに「人格を持った「私」はいない」と感じるし、ある種の寂しさや悲しさを感じてしまう。
「友人ならば〇〇するのが当然だ」「家族ならば〇〇するのが普通だ」「夫婦ならば〇〇するのが当然だ」
〇〇するのが当然、〇〇であるのが普通というのは、基本的に自分にとって都合の良い固定的な思い込みでしかないのだけれど、その個人的な常識が世界の常識であるかのようにしか思えないのが私たちだ。
自分は相手を自分の都合の良いようにしか見ていない。
そして、現実の相手は多様であり諸行無常の理によって刻々と変化する。
同様に、相手も私のことを自分の都合の良いようにしか見ていない。
そして、現実の私は多様であり諸行無常の理によって刻々と変化する。
自分の内面の多様性や相手の内面の多様性に気がついておらず、また善悪や美醜や貴賤の全てを含む多様な内面の状態を受容できていない両者間では、ミスコミュニケーションや衝突は絶対に避けられないと思われる。
実際の相手は変化しているのに、自分は相手を固定的に捉えているため、実際の相手とイッメージの相手に間には必ずギャップが生じてしまうからな。
なんであの人は私のことをこんなにもわかってくれないんだ、と嘆きたくなる時があるかもしれないが、んじゃあ、逆に自分は果たして相手のことがきちんと見えて、相手のことをきちんとわかっているのかしらん。
その自問に、見えているぽよ、と自信満々に答えられたとしても、その相手というのは自分によって自分にとって都合の良いように加工された固定的なイッメージではないかしらん。
相手をきちんと見てあげられるようになるには、まずは自分のことを見てあげる必要がある。
そして自分を見る時も、自分が認識しているその自分というのは、自分にとって都合の良いように加工されたイッメージ(往々にしてそれは「きれいな自分」「善良な自分」「有能な自分」「正しい自分」「清廉潔白な自分」「かっこいい自分」などの善人の自分というイッメージ)であり、それだけしか見ようとしてしていないのではないかしらん、自分にとって不都合な自分の側面を無視しようとしていないかしらん、と注意を払う必要がある。
自分を全面的に見てあげて、多様な自分との良好な関係を築けなければ、多様な他人のことが見えず、他人との関係もまたうまく築けなくなる。
仮に築けているような気がしても、それは固定的で排他的なイッメージ間の関係であり、互いに相手が思い込んでいる自分のイッメージを演じる必要性を感じてしまい、縛られているような感じがして疲れることになる。
声出して切り替えていこうと思う。