あのひとはどっちか?『あのひと考察』の本丸です♪
ファイナルを未読の人でも分かるように書きました。一緒に考えましょう
物語を自分の想像力で楽しみたい人は、お控えください🙇♀️
アルバートファンの方は、前ページを必ずお読みください。
※公平を期すため、アルバートさんの敬称を省略させて頂きます。
二人が別れてからの10年間
まず、ファイナルに書かれている流れを確認します。
テリィ側
ハムレット役で返り咲き、スザナと婚約したらしいが、結婚しないままスザナが亡くなった。
「ぼくは何も変わっていない」とキャンディに手紙を書いた。これだけです。
スザナとの生活は全く見えませんが、キャンディと別れた後も『変わらなかった』のは分かります。
テリィが手紙を書いたのは、キャンディが25才以降です。
不信感がある方は、先にこちらをお読みください。
アルバート側
キャンディとは苦楽を共にし、絶大な信頼関係を築いています。
キャンディへの恋心を匂わせる描写がありながらも、告白したシーンや、関係が進んだ形跡はありません。
「きみの幸せがどこにあるのか見極めたい」「会いたい」下巻311~
「仕事が面白くてたまらない」
と精力的にあちこちを飛び回っています。
全てキャンディが10代の頃に向けられたセリフだと推測できます。
※アルバートの気持ちの検証は、こちらで詳しく扱っています。
キャンディ側
アルバートに愛なのか家族愛なのか、どちらとも受け取れるような表現が目立ちます。
「ちっちゃなバート」という愛称を手紙で書いていることから、親密ぶりが感じられます。
テリィに対しては、昔の恋心の名残のようなものが垣間見える程度で諦めています。
「(テリィで埋められている日記帳を)またアルバートさんに託すつもりです」下巻321
「アルバートさんと出会うことができたんですもの!感謝し尽くせないのはわたしのほうです。そう、アルバートさん、今がわたしの幸せです」下巻322
「哀しいこと、うれしいこと、すべての思い出を糧として、わたしはわたしらしく生きていきますね。真っ白な明日には何が待っているのでしょう。どんなことでもなぜか、楽しみです」下巻328
20代前半のキャンディの心情として最後に紹介されているのは、このような発言です。
その数年後、テリィがキャンディに手紙を書くのですが、キャンディが受け取ったとも、返事を書いたともこの時点では分かりません。
※キャンディの気持ちの検証は、こちらで詳しく扱っています。
テリィとキャンディが別れてからの数年は、いくらでも我田引水に解釈できます。
テリィファンは『キャンディはテリィを忘れてない』と読めます。
アルバートファンは『アルバートとキャンディの恋に進展があった』と想像できます。
キャンディファンは『キャンディはテリィを封印したが、アルバートとは現状維持』と読みます。
なので、この部分は各々お好きなように想像すればいいのかな、と思います。私はC派
原作者は「(あのひとのことは)曖昧にしようと決めていました」下巻336と、物語の詳細を書かず、余白をたくさん設けているので、そこをどう想像しようと自由です。
私からすると、「男二人はキャンディが好き」「キャンディはどっちも好き」――とさえ見えます
もしかしたら、アルバートと恋人になった後、テリィが奪いに来た、というシナリオだってアリなのかもしれません
・・なので、この20代の部分で異存を唱えることに意味はありません。
自由に想像の翼を広げてください。
この時点で唯一ハッキリしているのは『テリィはキャンディを思い続けている』ことです。
そして、その後の10年余りは全くの空白です。キャンディの言葉通り真っ白です。
原作者は「物語として完全ではありません」と語り、本来書くはずの「長い物語」を割愛し、読者の想像力に委ねました。
その為読者には、長い物語を想像するのに必要な新エピソードが幾つか与えられました。
新エピソード
テリィ側
テリィは学院の森で水仙の香りをかいでいた
キャンディの手紙は殆どスザナに隠された
テリィとは二度と会わないとスザナと約束した
ハムレットのイギリス公演が決定した
スザナが亡くなった
テリィが「ぼくは何も変わっていない」という手紙を書いた
アルバート側
キャンディの10代の頃の誕生日に、本宅に部屋をプレゼントした
スカンクのプッペをアフリカに残してきた
キツネ狩りを指示したことに、苦しみを抱いていた
預かっていたキャンディの日記を返した
意味がないものを新しく出すわけはありません。
これらは名木田先生が脳内で作ったシナリオに必要なアイテムだったと思われます。
その物語を私たちは知る由もありませんが、ファンはこれらを使って長い物語を紡ぎ出すわけです。
傾向としては、アルバート側の方がテリィより早く、キャンディが20歳前後に済んでいるようです。
テリィ側のエピソードには統一感がある為、これを活かしてエイボン川の町へつなげるのは、容易だと感じます。
この空白の部分も、アルバートがキャンディとカップルになろうと、テリィが横取りしようとして流血バトルになろうと、何でもありだと思います。書かれていないので、妄想は自由です。
ですが、長い物語の結末はハッキリ記されています。
30代のキャンディが「あのひと」と住んでいる環境は、具体的に描かれているからです。
「曖昧に―」と言っておきながら、抽象的ではなく具体的に描いてしまう。
作家の性だと思います
結局はココが全ての鍵を握っているわけですね。それが次のエピソードです。
7つのエピソード
本棚に革表紙のシェークスピア全集、イギリスやフランスの文学書がある
壊れたステアの幸せになり器(オルゴール)をいともかんたんに修理した
キャンディの冒険談を聞いて爆笑し、不意に真剣な表情になり抱きしめた
エイボン川が見え、庭にラッパ水仙が咲いている家に住んでいる
家に代々伝わる象嵌(ぞうがん)細工の大きな宝石箱を渡した
ロンドンの蚤の市で昔のポニーの家が描かれた絵を買ってきた
キャンディに近くにいて欲しいと望むあまり、ポニー先生が病気でも国に帰さない
※正確な文章はこちら
この部分は、自由に想像するのではなく、「あてはめて考える」必要があります。
5つあてはまったから自分はそれでいい と納得するのは構いませんが、「考察」でそれをやってしまうと、都合の良い部分を切り取っただけに見えてしまいます。
シビアな考察の世界では、殺人現場の犯人特定と同じように、全て符合しないとダメなのです。
ですが、ファイナルは推理小説ではないので、単に当てはまればいいというものでもありません。
これらのエピソードは、物語上伝えたいことがあって描かれているはずです。
ファイナルの上下巻の帯は「真実の愛の物語」「キャンディが回想する切なくも愛おしい日々」です。
言うなれば、愛のエピソードですよね。
7つ全てが当てはまり、なおかつ物語として意味があることが求められます。
もしTにもAにも当てはまらないものが一つでもあるなら、「あのひと」は第三者でしょう
では順番に見ていきます。
本棚にあるシェークスピア全集
シェークスピ全集はスコットランドのテリィの別荘にありました。下巻91
それが(同じ物かはさておき)今は30代のキャンディの家にもあるわけです。
テリィはシェークスピア俳優なので、こんな直球なヒントはありません。
しかし、全集はアードレー家にも当然あるでしょう。スコットランドにルーツがある家柄なので逆に無い方がおかしい。
注目すべきは、テリィの別荘に言った時の10代のキャンディのセリフです。
旧小説では「まあ、テリィ、演劇の本ばかりね!」復刻版357
ファイナルでは「わあ、テリィ、演劇の本ばかりね!シェークスピア全集もあるわ!」下巻91
わざわざ言葉を追加しているので、伏線を貼ったのだと考えられます。
ちなみに同じ本棚には「医学書」もあります。
キャンディはフランク先生から看護婦試験に合格したお祝いに「医学書入門」を貰ったというエピがファイナルで足されたので、下巻194 この本の可能性が高いです。
ただ、アルバートもアフリカで動物病院に勤めていた記述があるので、アルバートの可能性もあります。下巻311
更に、本棚にはイギリス・フランスの文学書があります。
「あのひと」は文学好きだと文脈から読み取れるので、仮にアルバートなら、本棚には「アメリカの文学書」が欲しいですし、最低でもアメリカを匂わせる書籍が欲しいところです。
下巻298には、アルバートは幼少期から帝王学を学び、何人もの家庭教師から経営学から法律まで習っていたとあります。
アルバートの本棚で真っ先に頭に浮かぶのは、動物の図鑑・動物の写真集、旅行記、偉人の伝記、法律の本、経営学の本ではないでしょうか。
テリィファンを釣る為に、英・仏の文学書を出したのなら、あのひとがアルバートの場合、キャラの設定がブレまくっています。
もはやプロの仕事ではありません
幸せになり器を直した
幸せになり器は、キャンディとテリィの幸せを願ってステアが造った物です。
ニューヨークのテリィのところへ旅立つ朝を選んで渡している事から、そのように解釈できます。
それが『ある時』壊れて、あのひとが直し、元の音色を奏でるわけですから、願いの「成就」であり、壊れた物(=関係)が修復されたことを暗示している、と読みとれます。
情緒的に言うなら、いとも簡単に直せるのはテリィだけです。
単に「修理」ならアルバートでも出来ますね。
その場合、「親戚想い・手先が器用」という、あのひとの特徴を表した一文になります。
アルバートにとっても、ステアは大切な親戚であり、友人だったはずです。
壊れた時期ですが、アニメでは直ぐに壊れています。漫画では壊れていません。
ステアの発明品はへっぽこなので、直ぐに(10代後半~20代前半に)壊れたのでは?とイメージする人が多い気がしますが、「壊れた」と語ったのは30代のキャンディの振り返りなので、30代で壊れた可能性もあるわけです。
ファイナルに登場する、たくさんの人との手紙のやり取りでは「壊れた」という言葉は登場しないので、少なくともキャンディが21才位までは壊れていないようです。
ブログ主は次の文章に注目しました。
その後(テリィとの別れの後)もつらいことがあるたびに繰り返し、この幸せになり器を鳴らしつづけたので、ある日、とうとう壊れてしまった。下巻238
「つらいことがある度」と書かれています。
しかし、テリィと別れた後キャンディの身に起きた『辛い事』は、ステアの死以外は紹介されておらず、アルバートとの往復書簡や他の手紙でも幸せそうです。
しかしファイナルのキャンディには辛いことが度々あり、鳴らし過ぎて壊してしまったのです。
つまり、20代~30代にも辛いことが目白押しだったということでしょう。
あのひとがアルバートなら、養父と養女の間で結婚が出来ない、という壁に阻まれ、一族から反対された、などの苦悩が想像できます。
あのひとがテリィなら、テリィの婚約やスザナの死(キャンディには悲しい出来事)、スザナ亡きあとに現れたキャンディが、メディアからバッシングを受けるなどの試練が想像できます。
以上の事から、あのひとと暮し始める(付き合い始める)頃に壊れ、「後日」あのひとが直した、と考えるのが自然の流れかな、と思います。
文脈から、あのひとはキャンディの直ぐ近くにいるように感じるからです。
機械を直すというスキルについては、壊れたスワンボートを直した描写が漫画にあったアルバートの方がイメージとしては強いですが、このシーンはファイナルには登場しません。
旧小説においても、スワンボートは物置に保管されており、アルバートが直したという記述はありません。そもそも男性はたいてい機械はいじれると思います。
このエピソードは「修理できるかどうか」を読者に考えて欲しいのではなく、「幸せになり器が直った」という部分がポイントだと思います。
冒険談をきいて爆笑し、キャンディを抱きしめた
20歳前後にキャンディが書いたテリィへの手紙の中に、次の言葉がでてきます。
冒険談、いつかゆっくり話したいと思っている内に結局話せませんでした。下巻275
これは旧小説には無く、ファイナルで足された言葉です。
「話したいと思っていた」と明確に書かれています。
つまり、このキャンディのささやかな望みが後々成就した、と読むのが自然だと思います。
大爆笑したのち、不意に真剣な表情になり「よく無事だった・・」とキュッとキャンディを抱きしめる。
この一連の動作はテリィ以外の何者でもないとテリィファンなら感じるでしょう。
この冒険談はキャンディが無一文でテリィを追ってアメリカに帰る道中の話です。
仮にテリィなら、自分の為にそんな無茶を、と胸が熱くなって当然です。
しかし笑って抱きしめることはアルバートもできますし、ふいに真顔になる描写もあります。下巻241
ただアルバートがこの話を聞いたとしたら、15歳のキャンディとシカゴで同居していた頃が濃厚です。
テリィと出会った時の話でさえ何十回もアルバートに聞かせていたキャンディが、冒険談のような面白い話を黙っていられるわけがありません。実際、30代のキャンディもこんな事を言っています。
わたしは、なんでもアルバートさんには話せた。~アニーにも言えなかったことも全部 下巻240
あの頃のアルバートが、そこまでエモーショナルな反応をするのは過剰表現だと感じますし、逆に、恋人関係になるまでキャンディが話さないのも不自然だと感じます。
エイボン川が見え、水仙が咲く家
エイボン川はどこ?
どうやら研究家(誰?)によると、エイボン川は世界にいくつかあるらしいのですが、アメリカにはありません。
「ポニーの家は遠い。遥か海を隔てていることをこんなに恨めしく思ったことはない」
「わたしは今、その香りさえかぐことができない遠くにいるのだ」上巻4・230~
この2文から、スウィートキャンディの香りがかげない、海を隔てた所に住んでいると判ります。
キャンディの世界から推測するとイギリスのエイボン川と考えるのが自然です。
ニュージーランドにもあるようですが・・・唐突すぎて、苦しいです
あのひとがアルバートならスコットランドのスペイ川の支流のエイボン川、テリィならストラスフォードのエイボン川でしょう。
ただテリィの場合、あまりにストレートすぎるので、ファンの中には「裏読み」してしまう人がいます。
確かに推理小説なら、大どんでん返しを狙ったミスリードの可能性もありますが、それは最後に真実が明かされる場合に限ります。
ファイナルは読者に結末を委ねるリドルストーリーなので、むしろ正確な情報提供こそが肝となります。
※赤ポイントがスコットランドのエイボン川
ストラスフォードのエイボン川は、バーミンガムの下(南)
黄色いラッパ水仙
ファイナルで突然出てくるこの花はイギリス・ウェールズ地方の国花です。
日本人の春の花が梅や桜なら、イギリス人はラッパ水仙だそうです。
名木田先生は海外ファンとの交流の場で次のような発言をしています。
「イングランドの花と言えば水仙。シェークスピアの故郷ストラスフォード・アポン・エイボンへ行った時水仙が咲いていた。私はウィリアム・ワーズワース(イギリスの詩人)の水仙という詩が好きで、その詩とイメージがピッタリだったので登場させた」
また、同じ場で海外ファンが抱えていたラッパ水仙の花束を見て、名木田先生は「テリィ!」と叫んだそうです。詳しくはこちらの記事★
ファイナルでは、学院の草原でテリィが寝転んで水仙のつぼみの香りをかいでいるシーンがあります。上巻317
アンソニーのばらに対比するように、テリィ(又はイギリス)を象徴する花として設定しているように感じます。
キャンディの庭には、今水仙が満開になっている(上巻231)のですから、居住しているのはテリィだと連想する方が無理がありません。
二人の恋が成就する前の学院時代はわざわざ「つぼみ」と書いていて、30代は「満開」なのですね。
「恋が開花した」という比喩、プロの技だと感じます。
更にテリィファンには嬉しい偶然があります。
キャンディの花はスウィートキャンディですね。バラ香る季節、5月7日が誕生日。
テリィの誕生日は1月28日。水仙の季節なのです。
実際に、テリィ系のブログなどでは、1月2月は水仙の画像だらけになっていました。
あのひとの家=水仙 とファイナルには書いてあるので、皆さんは水仙の画像をアップしたのでしょうが、自ずとテリィと結びつくようになっている。これはもう、自然現象です。
冬の寒さにじっと耐え、芽を出す・・と形容すれば、テリィファンなら何かを感じるでしょう。
少なくとも【水仙とアルバート】を結び付ける要素は、ファイナルには登場していません。
更に更に言うと、ラッパ水仙は白もありますが、庭に植えられているのは「黄金の光を放っている」上巻231という言葉から、黄色だと分かります。
黄色いラッパ水仙の花言葉は「もう一度愛して。私の元へ戻って」です。
・・・鳥肌級の隠れた伏線です。
テリィ(キャンディ)の気持ちが込められている、と感じます。
キリスト教においても「復活」を意味するイースター(復活祭)の花だそうです。
エイボン川の流れる町、英国ストラスフォード・アポン・エイボンはシェークスピア生誕の地なので、テリィには十分ゆかりのある町だと言えます。
「イギリス公演」というワードも加筆されているので、「大人になったテリィはイギリスに行った」ということでしょう。帰国へ繋がる伏線とも読めます。
実際にロイヤルシェークスピア劇場(劇団)が在り、二次小説には頻繁に出てくる設定ですが、そこは分けて考え、シェークスピア劇が盛んな土地柄、という認識で良いかと思います。
逆にアルバートなら、ここに定住している意味がさっぱり分かりません😵
シカゴに立派な本宅を構えるアードレー家の主な事業はアメリカで展開されており、いかにイギリスへ進出しているとはいえ、ロンドンならまだしも、エイボン川の町で事業の陣頭指揮をとるのはかなり不自然です。
直系の男子「ウィリアム」しか総長になれない厳しい血の掟があるアードレー家。下巻297
現在その資格があるのはアルバートだけですから、その立場を放棄したとは考えにくい。
「僕はアードレー家を捨てるわけにはいかないんだ。僕は、僕の家や先祖を、やっぱり愛している」
復刻版556
金融恐慌の煽りでやむにやまれぬ事情でシカゴの本宅から引っ越したにしても、ロンドンではなくエイボン川の町である理由が見えません。
仮にアメリカ人の別荘地として人気があったのなら、それを匂わす文を入れる必要があるでしょう。
しかもこの家には動物の気配がありません。シカゴの本宅でさえ、馬や鹿が放し飼いになっているのに。
そもそもキャンディと一緒に住むには世界一危険な町です。
ファイナルでは「イギリス公演」のエピソードが足されたので、テリィがシェークスピアの町に移住する可能性は高くなりました。
テリィは10年のご無沙汰があっても、「ぼくは変わってない」と平気で言ってしまう肉食系男子です。浮気が心配で、常識的な夫ならこの町だけは避けるでしょう。
キャンディのばら園
ばらに関する二つの文を紹介します。
①(スウィート・キャンディの)香りさえかぐことができない遠くにいるのだ。上巻230
②ばらの手入れだけは、わたしは庭師には任せない。上巻231
①の文からは、スウィート・キャンディが近くにないことが分かります。
この文だけだと、庭が無いのかもしれない、庭造りに関わっていないのかもしれない、と読めてしまうわけですが、②の文の登場で、キャンディは積極的に自分の庭にばら園を造っている事が垣間見えてきます。
その庭にスウィート・キャンディが無いという事は、『敢えて植えていない』と読むことが出来ます。
というのも、ファイナルのキャンディはポニーの家でスウィート・キャンディを育てていました。
20代前半にホイットマンさんに宛てたキャンディの手紙には、以下のような文があります。
レイクウッドに行った時にスウィート・キャンディの株を分けてもらいました。これからポニーの家で大切に育て、増やしていきたいと思っています。下巻207
このエピソードはファイナルでわざわざ追加された文章で、旧小説にはありません。
亡きアンソニーを大切に想っているエピソードだとは思いますが、深読みするなら『新居に敢えて植えない』ことを強調する為に一石二鳥と足したのかな、とブログ主には思えます。
だってね。
アメリカでは育てていたのに、今は自分が手入れをしているばら園に植えない、ってよほどの事ですよ。他のばらは植えているのに、スウィート・キャンディだけは植えてない。
自分の名前が付いた品種のばらですよ?植えますよね、普通は。
でも、テリィだと植えられない 奴はキレる
漫画やファイナルで描かれているように、嫉妬深いテリィはアンソニーにとても敏感でした。
大人になったテリィが寛大だとしても、『亡くなった彼氏の思い出の品は、実家に置いていくのが礼儀』だと思います。それがパートナーに対する配慮です。
逆に言うと、今でもキャンディはアンソニーを想っている、という現れかもしれません。
ポジティブに考えるなら、今のキャンディにはあのひとがいるので、アンソニーの形見でもあるスウィート・キャンディを傍らに置く必要はない、今を大事にしたい、という解釈も出来そうです。
仮にアルバートなら、その常識は適用されない気がします。
そもそも自分の別邸であるレイクウッドの屋敷にも、アルバートが増改築したポニーの家にも植わっています。新居にだけ植えない理由が見えてきません。
アルバートとキャンディは、アンソニーの死に責任を感じ慰め合っています。下巻320
ばらを見るとアンソニーを思い出して辛い、という描写もありません。
アンソニーはかわいい甥っこですから、追悼の意味でもむしろ積極的に植えるのではないでしょうか。
外来種の輸入禁止に引っ掛かり、苗を持ち込めなかったのでは、と考える人もいるかもしれませんが、漫画でもファイナルでも、キャンディはメキシコへ行く際もばらの苗を持参していたので、キャンディの世界においては、無視して大丈夫そうです。
※考察③ー3へ続きます