11年目のSONNET
スピンオフ
空白の時 最終話
★★★
劇場に、キャンディが来ていたかどうかは分からない。
分からなくて良かったのかもしれないとテリュースは思った。
その方が、希望がつながるから――
結局、その日は病院に泊まった。
ホテルには帰らないで、とスザナに懇願されたからだ。
――キャンディと逢い引きするとでも思っているのか。
(・・・信用されてないんだろうな・・)
イライザをキャンディと勘違いしたことは棚に上げ、テリュースの胸中はいささか複雑だった。
今のテリュースにとって、キャンディがいない環境が当たり前。
芝居を観て欲しいという淡い期待が叶わなかったからといって、軽くため息をつくだけ。
落胆することなど、甚だお門違いだ。
心の奥底で誰を愛していようと、それはもう関係ないことだ。
翌朝、二人の劇団員を引き連れ、見舞いに訪れたロバート先生は、慰めるようにテリュースに声を掛けた。
「昨夜の公演の事は気にするな。家族が病気じゃ仕方がないさ。私などワイフが出産した時は三ケ月も劇場を留守にしたものだ」
「・・・家族?」
奇妙な響きだった。
「君たち、決まったんだろ?」
「――ええ」
既に教会は予約していた。
スザナを不安な気持ちにさせることは、体調や薬の量と直結している。
スザナの心の負担を軽くすることが、婚約者の務め。
「まだ睡眠薬が効いているみたいで、・・せっかく来ていただいたのに、申し訳ありません」
スザナといると、嘘が上手くなっていく。
病院の玄関先でお預けをくらったにもかかわらず、ロバート先生は笑顔だった。
「朝から押しかけて悪かったね。ニューヨークへ戻ったら春の公演の慰労会をやるから、その時にスザナもどうだね」
ロバート先生は常にスザナの味方だった。あの事故で責任を感じていたのは、自分だけではないことも重々承知している。
「伝えておきます」
「おい、アルフレッド!慰労会に向けて面白い企画を考えてくれないか?」
「そうですね~。ブラックパーティとか如何ですか?ハムレットの舞台衣装にちなんで 全員が真っ黒な衣装で参加するんです」
同期のアルフレッドが得意げに鼻の下をかいている。
「あら~、縁起でもない。お葬式じゃないのよ。派手に、パァーと!レッドパーティにするべきね」
丁度五周したのよ、というミセス・ターナーの言葉の意味は、テリュースにはよく分からない。
「え~嫌ですよ。それならレインボーパーティはどうです?七色全て身に着ける。団長、いいアイデアでしょ?」
アルフレッドらしいユニークな発想に、ああ、それがいい、とロバート先生も乗り気だ。
「そんなの恥ずかしいわよ。いっそゴールドパーティがいいわ」
どちらも恥ずかしいな、と思いながら、避けたようにホワイトが出ないことに、テリュースは苦笑していた。
「お待たせしたわね」
マーロウ夫人が二つのトランクケースを持ちながら、スザナの病室から出てきた。
劇団員とマーロウ夫人は一足先に特急列車で帰路につくことになっている。
スザナの入院の関係で、テリュースとスザナだけが乗り遅れる、と言った方がいいだろう。
「ちょっと、そこの若い子。こっちを持ってくださる?」
マーロウ夫人は鼻先で命令するようにアルフレッドに言うと、「もちろんですよ」とスザナの赤いトランクを手にとった。
目下の者はみんな下僕とでも思っているのか。アルフレッドがイギリス出身の紳士であることに、マーロウ夫人は感謝するべきだな、とテリュースは思った。
そんな劇団員の一行が病院から引き揚げていく様子を窓から見ていたスザナは、ホッと胸をなでおろした。
レースのひざ掛けでグルグルに包み、トランクの一番下に隠した大きな封筒は、ギャングが麻薬でも密輸するかのように念を入れた。
爆弾が投下されてもトランクが開かないようしっかりと鍵をかけ、命と呼べるほどの金属を化粧ポーチの中にしまい込んだ。
『新婚旅行の予行演習をしたいの。ママはロバート先生たちと先に帰って』
我ながら上手い言い訳だったと思っている。
あの忌まわしい封筒は、一刻も早くテリュースから遠ざけたかった。
(・・・いつかキャンディに返します、必ず。神様、赦してくださるでしょ?だって私には返す術がないのです)
これは不可抗力なのだ。
「キャンディが劇場に来てくれれば、私は心から謝罪ができたんです――」
独り言のようにつぶやきながら、スザナは『約束した日』のことを思い出していた。
――テリィを、離しちゃだめよ・・・
信じられない言葉が、そばかすの少女の口からもれた。
『それはつまり、あなたは・・・テリィとは、もう会わない・・・ということ・・?』
『―・・ええ。だから、安心して治療に専念して』
『――それは、お芝居も一切観ないと思っていいの?』
少しの沈黙の後、キャンディはコクリと頷き、病室から出て行った。
しばらくして病室に戻って来たテリュースの顔を見れば、先刻の言葉は実行されたのだと直ぐに分かった。
窓からぼんやり雪景色を見ているテリュースの心が誰を追っているのかは分かっていた。
『――追ってらしてもいいのよ、私のわがままで、あなたを苦しめたくない』
悪者になりたくなかった。私はきちんと、テリュースに選択権を与えた。
二人に別れて欲しいなんて、一言だってお願いしていない。
『ぼくはずっときみのそばにいる・・・これからも』
私は選ばれたのだ。キャンディではなく私が。
たとえ私がこの世で二番の愛の相手だったとしても、一番の存在が永遠に目の前に出現しなければ、とどのつまり一番は私だ。
「この世であの人の愛を享受できるのは、私だけよ」
あの約束をした日から、テリュースの言葉とこの思いにすがってきたのだ。
いずれ名実ともに一番になることを信じて。
のどかな各駅停車で次の都市まで向かい、次の都市で特急に乗り変える。
少し面倒だが、早く家に帰りたい、というスザナの希望を汲み取る形で 帰路のルートが決まった。
向かい席には赤ん坊を抱いた若い夫婦が座っていた。
目の中に入れても痛くない、自分の命より愛しい、そんな楽し気な会話が自然に耳に入ってくる。
聖書の言葉よりも知られた言葉だったが、スザナの中でビビっと何かがひらめいたように、別の選択肢が降りてきた。
(・・もしかしたら、手紙を返すのは今じゃないという、神のお導きだったのかも――)
テリュースとの間に子供が生まれ、子供にメロメロになった頃に返すべきだと。
子供という絶対的な愛情の前では、子供の母親の昔の罪など、薄まるのかもしれない。
(・・そうよ。その頃にテリュースに打ち明けるのも悪くないわ)
――子供は一人でも多い方がいい。
母親の腕の中ですやすや眠る赤ん坊を見ながら、スザナは近い将来の自分に想いを馳せた。
「・・・ね、ダーリン?」
同意を求めるように、テリュースの肩にもたれかかる。
「何がだい?」
「ふふ・・なんでもないわ」
スザナのご機嫌な理由が分からないテリュースは、読んでいた本に直ぐに目を戻した。
スザナが甘い未来を夢見た直後、その赤ん坊が火のついたように泣き始めた。
若い母親は席を立ち、通路を行ったり来たりしながらあやしている。途中で父親に変わったが、泣き声は激しさを増している。
ちっ、うるせーな、という乗客の誰かの声がテリュースとスザナにも聞こえた。
「・・・デッキに移動してくれないかしら」
テリュースは、スザナのリクエストが誰に向けて発せられたのか、一瞬分からなかった。
「みんなが迷惑しているわ」
という次の言葉を聞くまで。
「・・デッキは寒い。あんな小さな子供に、それはかわいそうだよ」
「それなら、もっと乗客の少ない車両に移るべきだわ」
テリュースは何も言わなかったが、スザナは我慢できなくなったように「私たちが移りましょう」と
テリュースに車椅子を持ってくるように言った。
「動いている列車で移動するのは、賛成できないな」
テリュースは軽く返した。
「それなら、次の駅まで我慢するわ」
そう言った直後、駅でもないところで列車が急に止まったのは、偶然だったのか。
前方を見ると、行く手に牛の長い列が続き、線路を塞いでいた。
牛飼いの青年が拝むようなしぐさをし、列車を降りた車掌が、さじを投げたように両手を腰に当てている。
「一時間ほど停車します。乗客の皆さんは降りて体をのばしてください」
車掌が一両一両回り、状況を説明している。
「・・・降りるか?スザナ」
「ええ。赤ん坊の泣き声には疲れたわ」
テリュースはまだ気づいていなかった。
この村がどこか。
道端には色とりどりの春の花が咲き始めていた。
そよ風に揺れる花をいたずらするように蝶が陽気に舞い、さえずる小鳥たちは小枝の間を追いかけっこしている。
大自然の空気を胸いっぱいに吸い込むと、セントポール学院の森の香りがした。
―・・コロコロ変わる表情。
お節介で、鼻ぺちゃで、笑顔が眩しいそばかすの少女。
――もう、テリィったら!
一瞬髪を揺らした風の中に、キャンディの声が聞こえた気がした。
(・・・?何だ?)
キャンディが近くにいるような錯覚。
花と緑の香りは何故か懐かしさを伴って、テリュースの全身を包み込む。
「・・・診療所?」
その時、古ぼけた看板が目に入った。
民家のようなたたずまいではあったが、屋根の上に大きな手作り風の看板が乗っている。
あまりに田舎の景色に溶け込んだ風情ある看板に、テリュースの心は一瞬で和んだ。
「あそこで少し休ませてもらうか、スザナ」
幻想痛の発作が昨日の今日という事もあり、テリュースはスザナの体調を気遣った。
「そうね」
テリュースの目には『ハッピー・マーチン』という文字は映っていなかった。
映っていたところで、反応などできない。
テリュースが知っているキャンディは、シカゴの聖ヨアンナ病院に勤務し、今もそこにいるのだから。
「・・・誰もいないのか?」
ノックする前に、ドアにひっかけてあるプレートに気が付いた。
下の川で釣りをしています。御用のある方は川へ
「呑気なお医者様ね」
スザナはクスクスと笑った。
今日が日曜日だという事に、その時ようやくテリュースもスザナも気が付いた。
「下の川、とやらに行ってみる?」
「でも・・これじゃ」
車椅子でどこまで川に近づけるのか、下見をしなければ分からない。
スザナをがっかりさせることも考えると、その冒険は却下した方が良さそうだ。
「よそう、上流はでっかい石がゴロゴロしている場所が多いからね」
テリュースは車椅子を列車の方に向けた。
ポッポー
出発を知らせる汽笛が、短く鳴った。
どうやら牛たちの大移動が終ったようだ。
「さようなら」
乗客たちは、つかの間の自然を満喫し、列車に乗り込んだ。
列車が走り出して間もなく、テリュースはハッとして思わず立ち上がった。
――見たことがある駅舎、キャンディの故郷!!
「どうなさったの?テリュース・・?」
スザナの声など聞こえない。
テリュースは無我夢中でデッキに向かって走っていた。
「・・・君の村だったのか・・・?」
デッキから大きく身を乗り出しながら、テリュースの目から、何故か涙がにじんでいた。
――だから何だと言うのだ。
――だから、何だと言うのだ・・・。
自分で繰り返す。
飛び降りても危険じゃないほど、その列車は遅かった。
飛び降りることも出来た。
飛び降りたかった。
しかし、今のテリュースには、飛び降りる理由など無かった。
「・・・キャンディ・・・君はいま――」
流れていく空気に乗ったか細い声は、一瞬で消えていく。
この六年後、かの地に向けて短い手紙を出すことも知らず。
一年半も掛けて、たった七行の手紙を書くことも知らず。
「やぁ、キャンディ!また先生と釣りかい?」
小麦色の肌の牛飼いの青年は言った。
「子供たちの今晩のおかずにするの。それよりトム、また汽車を止めたでしょ~!見えたわよ」
キャンディはいつものように大自然の中で笑っていた。
空白の時
(完)
。。。。。。。。。。。。。。。
キャンディ
変わりはないか?
・・・あれから一年たった。
一年たったら君に連絡しようと心に決めていたが、迷いながら、さらに半年がすぎてしまった。
思い切って投函する。
――ぼくは何も変わっていない。
この手紙が届くかどうかわからないが、どうしてもそれだけは伝えておきたかった。
T.G
lllustration by Rmijuri
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プロローグへ続く
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ワンポイントアドバイス
トムが汽車を止めるシーンは、アニメ版第102話「ポニーの丘の十字架」で実際にありました。
テリィがキャンディの故郷の駅舎を見てデッキに出るシーンは、78話「テリュースのメロディ」からの引用です。アニメ版の情報はこちらで。
テリィと会わない約束した時のキャンディ側の心情は、4章㉑「ワルツ」に描かれています。
「空白の時」は、本編8章④「ホワイトパーティ」に繋がっています。