真福寺(神奈川県横浜市港北区)を訪問しました
下田山 真福寺(→神奈川県横浜市港北区下田町3丁目)は、杉窟悦という僧が開山、欄室関牛という僧が開基したと伝わる曹洞宗寺院です。かつては駒橋山という山号だったようです。江戸時代のは本山・末寺の制により雲松山 泉龍寺(→東京島狛江市元和泉1丁目)の末寺として幕藩体制の一翼を担いました。江戸時代後期には、「相州一の沢弾誓上人の守仏」であった約18cmの子安延命地蔵が霊験ありとして広まり、毎年4月から7月にかけて江戸近郷を廻り、各一夜づつ宿したのち寺に戻されたため「一夜地蔵」と呼ばれていたと伝わります。
真福寺は、江戸時代後期の1830(文政13)年に編纂された『新編武蔵風土記稿』橘樹郡駒ヶ橋村の条に次のように記されています。
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駒ヶ橋村
真福寺
村の中央の辺にて下分に属す、曹洞宗多磨郡和泉村泉龍寺末、駒橋山と号す、開山杉窟悦慶長十七年(→1612年)寂す、開基欄室関牛明暦三年(→1657年)化すと云(いう)、本堂六堂巽(たつみ→東南)に向へり、願王山の三字を扁す、本尊如意輪観音長八寸(→約24cm)木の坐像なり、慈覚大師(→円仁)の作なりと云伝(いいつた)ふ、又子安延命地蔵を安ず坐像にして長六寸(→約18cm)作知らず、惣体墨塗にして玉眼の像、この像は相州一の沢弾哲上人の守仏にして霊像なり、久しく爰(ここ)に安置せしが寛延三年(→1750年)の頃より遠近の人大に崇信して屡(しばしば)霊験の聞えありければ、農民等子孫の繁栄を祈らんがため一夜づつ宿して祈念しけり、このこと遠近にきこへて近き頃は四月より七月までの間は江戸の中及び近郷を廻り、各一夜づつを宿して後は寺にかへり本堂に安ず、故に俗に一夜地蔵と呼(よべ)り。
白山弁財天 第六天 天神 稲荷 秋葉合社
本堂に向て左にあり二間に一間半。
古碑
本堂の後なる丘上にあり、青石の碑にして上に三尊の弥陀を彫り下に天文三年(→1534年)と刻す、其余(そのほか)は剥落して読(よむ)べからず。
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【真福寺の山門・参道】
【真福寺の本堂】
【真福寺の境内】
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↓↓江戸時代に本山だった雲松山 泉龍寺
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