貞宗寺(神奈川県鎌倉市)を訪問しました
玉縄山 珠光院 貞宗寺(ていそうじ→神奈川県鎌倉市植木)は、徳川家康の側室西郷局(さいごうのつぼね→2代将軍徳川秀忠生母)の母親である貞宗院(ていそういん)が晩年を過ごした屋敷跡に建てられた浄土宗寺院です。1609(慶長14)年に死去した貞宗院の遺言により、亀鏡山 護国院 大長寺(→神奈川県鎌倉市岩瀬)の住職暁誉源栄を開山に迎えて創建されました。暁誉源栄は、1590(天正18)年の小田原合戦の際、玉縄城主北条氏勝を説得して開城につなげた僧侶として知られています。
創建の頃は大長寺の末寺でしたが、1672(寛文12)年に4代将軍徳川家綱から寺領10石の寄進を受け、将軍家の菩提寺の1つである三縁山 広度院 増上寺(→東京都港区芝公園4丁目)の末寺となり幕藩体制の一翼を担いました。貞宗院の御霊屋のほか、本堂には歴代徳川将軍の位牌と貞宗院木像が安置されています。
貞宗寺は、江戸時代後期の1841(天保12)年に編纂された『新編相模風土記稿』鎌倉郡城廻村の条に次のように記されています。
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城廻村
貞宗寺
玉縄山珠光院と号す、浄土宗、芝増上寺末、肇(はじめ)は岩瀬村大長寺の末なりしが、寛文十二年(→1672年)更に今の末となりしと云(いう)べし、寺域旧(ふるく)は貞宗院尼隠棲の地なり、寺伝を按ずるに、貞宗院尼は君(→徳川家康)寵厚かりし宝台院御方(→家康側室お愛の方=西郷局)の母公たるが故、晩年営中に召(めさ)れ、御年寄役を勤む、後(のち)当所に隠栖せしが、慶長八年(→1603年)請ひ申す旨ありて、大長寺に寄附せられしと云(い)ひ、其時の文書と云(い)ふを蔵せり、其文に曰(いわく)、「玉縄御年寄の御屋敷、幷四壁共仁被下候旨、依仰執達如件、慶長八年七月七日、龍寿、右兵衛大夫華押、常陸介華押」
按ずるに龍寿は源栄の弟子にて、此頃大長寺の役僧なりと云(い)ひ、右兵衛大夫は酒井忠世、常陸介は青山忠成なりと云(い)ふ、此文書に信用し難し全く後人の贋書と覚ゆ。
当寺大長寺中興源栄道徳の聞へありしかば尼帰依ありて授戒あり、死去の後も遺言に任せ源栄導師を勤め屍を爰(ここ)に葬す、因(より)て慶長十六年(→1611年)更に当寺を起立し、寺伝に十三年(→1608年)とすれども今は大長寺由緒に據(よ)る、即(すなわち)栄(→源栄)開山始祖となり、大長寺より兼任す。
寛文十二年(→1672年)八月寺領十石を郡中高谷村にて寄附せられ、此時御勘定方より御代官成瀬五左衛門へ渡せし証状今に蔵す、貞享二年(→1685年)六月更に御朱印を賜へり、本尊弥陀又尼の木像を置く、俗体なり源栄の作と云(い)ふ。
……(寺宝、貞宗院尼墓碑は省略)……
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【貞宗寺の参道】
【貞宗寺の本堂】
【貞宗寺の内陣】
【貞宗寺の貞宗院御霊屋】
【貞宗寺の境内】
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↓↓本山の三縁山 広度院 増上寺
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