武蔵と相模の史蹟探訪記

東京・神奈川・埼玉の史蹟や神社仏閣の訪問記を豊富な写真で紹介しています。

足利公方邸舊蹟(神奈川県鎌倉市浄明寺)探訪記

2024.10.27 (Sun)
足利公方邸旧跡
↑神奈川県鎌倉市浄明寺の金沢街道(神奈川県道204号金沢鎌倉線)沿い、閑静な住宅地に所在する、足利公方邸舊蹟(旧跡)を探訪しました。と言っても、民家の前に写真の石碑が1基建っているだけなんですけどね(汗)


碑文を意訳すると、以下の感じでしょうか・・・
源頼朝が幕府を開いた際、足利義兼がこの地に住居を構え、以来200数十年間、子孫がこの地に住んだ。
 
足利尊氏が覇権を握って京都へ移ると、尊氏の子義詮(よしあきら)が室町幕府2代将軍となり、京都の邸宅を継いだ。
 
義詮の弟の基氏(もとうじ)は関東管領(鎌倉公方)となって、この邸宅から軍の指揮を執った。
 
こうして足利家は子孫に引き継がれ、子孫は京都にならって公方(くぼう)と名乗った。
 
享徳4年(1455)に公方 足利成氏(しげうじ)は、執事上杉憲忠(のりただ)と争い、下総(茨城)の古河に移ったため、ついに足利公方邸は廃墟となった。
※足利一族で「公方」と言えば、鎌倉公方(関東公方)、堀越公方、古河公方、小弓公方などが知られていますが、足利公方(あしかがくぼう)でググっても何もヒットしませんでした・・・




室町幕府の「公方」について、Wikipedia情報を以下に整理させて頂きました。
■室町幕府を開いた足利尊氏が、朝廷より「公方号」を許されたことが、室町幕府政所執事伊勢氏の末裔で江戸幕府旗本の伊勢貞丈の『貞丈雑記』に記されている。
 
■しかし、尊氏は「朝廷や公家の称」としての意味合いが強かった「公方号」を喜ばなかった。
 
■尊氏は『公方の号を賜ると、甲冑をまとうことができない』と辞退するが、朝廷も一旦授けたものを撤回できず、尊氏が預かる形となった。
 
■以降、2代将軍となった義詮の時代になっても「公方」号は用いられなかった。
 
■しかし3代将軍義満以降、将軍の敬称として公方号が積極的に称された。
 
■当初「関東管領」として鎌倉府に在った足利基氏も、将軍家が公方を称すると鎌倉公方と称した。
 
■以降、幕府の主宰者たる将軍や、鎌倉公方を称した関東足利氏一族により、公方号が世襲されることとなる。
 
■鎌倉公方はさらに古河公方、堀越公方両家に分裂し、古河公方はさらに小弓公方と分裂する。
※「足利公方」とは、堀越公方、小弓公方を含めた公方全体を指すと考えれば良いのでしょうか・・・




足利公方邸旧蹟の所在地は「神奈川県鎌倉市浄明寺4丁目2−25」で、アクセスは以下の通り。

鎌倉駅東口から京急(京浜急行)バスを御利用の場合は[鎌23]鎌倉霊園正面前太刀洗行き・[鎌24]金沢八景駅行き・[鎌36]ハイランド循環のいずれかに乗車し、青砥橋(あおとばし)バス停で下車して、金沢街道を東(朝比奈方面)へ200mほど歩くことになります。

自分は金沢街道(神奈川県道204号金沢鎌倉線)を歩きつつ、史跡や寺社を探訪したのですが・・・




浄明寺バス停
↑「浄明寺」バス停の周辺では・・・




寺号標
↑鎌倉における足利氏菩提寺で、足利邸を築いた足利義兼が開基となる、浄妙寺(探訪記は、このリンクから)で・・・




正面からの写真
足利貞氏(尊氏の父)の墓所と・・・




直義墓単独
足利直義(尊氏の弟)の墓所などを見学しました。足利公方邸を訪問されるなら、足利氏と所縁が深い浄妙寺も併せて訪問されると良いかもですね。




青砥橋バス停
↑浄明寺バス停の1つ先、青砥橋(あおとばし)バス停の近くでは・・・




青砥藤綱邸
↑北条時頼と北条時宗の二代に仕え、引付衆(訴訟管理の役人)をしていた鎌倉幕府御家人、青砥藤綱(あおと ふじつな)の邸宅跡、⾭砥藤綱邸舊蹟(探訪記は、このリンクから)を探訪し、さらに東へ歩いて足利公方邸旧蹟へ向かいました。




↑ちなみに青砥藤綱邸舊蹟碑の所在地は「神奈川県鎌倉市浄明寺5丁目2−1」です。




金沢街道
↑青砥橋バス停を後にして、金沢街道を東(朝比奈方面)へ向かって200mほど歩いて・・・




駐車場
↑道の左側、コイン・パーキング(ダイレクトパーク PLUS)の前から左(北)側を見ると・・・




公方邸周辺
↑民家前に石碑が建っていました。青砥橋バス停からここまで、徒歩3分かからない感じでした。丘陵を背にした周辺一帯が、足利氏の邸宅だったんでしょうね・・・




石碑遠景
↑石碑は立派な御宅の玄関先に建っており、しかも、かなり傾いていました。




石碑に接近
↑石碑が真っ直ぐに見えるように・・・




石碑右側から
↑写真をかなり回転してあります。




石碑正面
↑正面。




碑文拡大
↑碑文は、以下に転記させて頂きました。

足利公方邸舊蹟
 
頼朝開府ノ初足利義兼居ヲ此ノ地ニトシテ以来二百数十年間子孫相嗣イデ此ニ住ス尊氏覇ヲ握リテ京都ニ遷ルノ後其ノ子義詮二代将軍トナリテ京都ノ邸ヲ嗣ギ義詮ノ弟基氏関東管領トナリテ兵馬ノ権ヲ此ノ邸ニ執ル而シテ之ヲ子孫ニ伝フ子孫京都ニ比擬シテ公方ト僭称ス享徳四年公方成氏執事上杉憲忠トノ不和ノ事ヨリ下総古河ニ遷ルニ及ビテ遂ニ永ク廃虚トナル
 
大正九年三月建之 鎌倉町青年會
※碑文最後に『廃墟トナル』とありますが、Wikipediaの鎌倉公方のページには『享徳の乱(享徳3年(1455)12月27日〜文明14年(1483)11月27日)で焼失した』と記載があります。




源氏と足利氏
↑まず、足利氏について。第56代清和天皇(嘉祥3年/850年〜 元慶4年/881年)の血を引く清和源氏の略系図で、足利氏の祖となる足利義康と、この地に居館を構えた足利義兼を示しました。

※ちなみに義康の兄「義重」は、新田氏の祖です。

皇族を賄う予算は限られており、皇位継承の可能性の無い皇子を臣下の籍へ下ろす、臣籍降下(しんせき こうか)が行われ、清和天皇の第六皇子、貞純親王息子の経基王(つねもとおう)が源経基と源姓を名乗ったようです。

その源経基の孫、源頼信は河内国石川郡壺井(大阪府羽曳野市)を本拠地としたため、河内源氏の祖と呼ばれるようです。

ということで、足利氏は八幡太郎 源義家の息子、源義国の子義康が祖となる河内源氏義国流足利氏」と、ちなみに源頼朝の場合は「清和源氏頼信流河内源氏」となるようです。




足利尊氏
↑足利氏の起源について、林青梧著「足利尊氏」から以下に整理・引用させて頂きました。
■八幡太郎義家の子、義国には義重と義康の二人の子がおり、義重は早く母(藤原敦基の娘)を亡くし、不憫に思った藤原敦基が義重を上野(こうずけ)新田庄の領主としたのが新田氏の興りである。
 
■義国は京都から下野(しもつけ)に下向し、晩年は義重と共に新田庄に住み、足利の家督は次男の義康に受け継がれた。
 
義康は、保元の乱(保元元年:1156)で後白河天皇に加担して勝者となった。
 
義康の子義兼は、頼朝の挙兵に従って功を挙げ、頼朝の妻 北条政子妹の時子を娶り、奥州藤原姓足利氏が領していた足利の地を頼朝から与えられ、源姓足利氏が確立された。
 
■だが、その孫の泰氏以来、足利氏は世の流れに乗れず、高氏の父 貞氏は病弱でふるわなかったが、義兼、義氏、家時の三代は鎌倉幕府執権北条氏と婚姻関係を固め、一族が浮沈の危機にさらされることはなかった。
 
■一方、新田義重は頼朝挙兵の折り、大勢観望と出て共に戦わなかったため、以来頼朝に嫌われて、足利氏との間に大きな隔たりを幕府に付けられてしまった・・・




足利公方邸
↑碑文に名のある5人、足利義兼尊氏義詮基氏古河公方 成氏(しげうじ)を足利氏略系図で示し、以下にそれぞれを整理しました。ちなみにピンクの数字は歴代室町幕府将軍、ブルーの数字は歴代鎌倉公方です。




↓まず、足利義兼について。




足利義兼Wikipedia情報の一部を、以下に整理・引用させて頂きました。
足利義兼は、足利宗家2代当主。室町幕府初代将軍足利尊氏は、昆孫に当たる。 
 
■父は源義家の孫・義国の子で、足利氏祖の義康。母は熱田大宮司 藤原範忠の娘で、祖父藤原季範の養女となった。
 
■藤原季範は、頼朝の母「由良御前の父」のため、義兼は父方でも母方でも、頼朝と近い血縁関係にあった。
 
生涯
■保元2年(1157)幼少期の義兼は父 義康を亡くし、伯父・新田義重の軍事的庇護を受けていた。
 
■治承4年(1180)8月、源頼朝挙兵。義兼は早い時期から頼朝に従軍し、同年12月、頼朝が大蔵御所に移徒した際には義兼も供奉しており、これが史料上の初見となる。
 
■治承5年(1181)2月、源頼朝の命により頼朝の正室北条政子の妹・時子と結婚。これにより、義兼は頼朝と義兄弟の関係になり、両者の結び付きはさらに強固になった。
 
■義兼は、元暦元年(1184)5月、木曽義仲の遺児・義高残党の討伐で戦功を挙げた。
 
■その後、頼朝の弟・範頼に属して平氏を追討した功績により、頼朝の知行国であった上総国の国司(上総介)に推挙された。
 
■文治5年(1189)の奥州合戦に従軍。建久元年(1190)に出羽国で奥州藤原氏の残党が挙兵すると(大河兼任の乱)これを平定した。
 
■義兼は、文治元年(1185)に任ぜられた上総介を4年後の頼朝の知行国返上まで務めるなど、頼朝の門葉として幕府において高い席次を与えられていた。
 
■しかし頼朝の地位が高まっていくと、御家人として幕下に組み込まれた。
 
■建久6年(1195)3月に東大寺で出家し、義称(ぎしょう)と称した。頼朝近親の源氏一族が相次いで粛清されたための処世術だったと言われている。
 
■出家後は、足利荘の樺崎寺(栃木県足利市)に隠棲。正治元年(1199)3月8日に同寺で死去し、同地に葬られた。
 
■義兼の死後も、岳父・北条時政の他の娘婿らが畠山重忠の乱に関与した疑いなどで次々と滅ぼされたが、足利氏は幕府内の地位を低下させながらも生き残った。




↓次に、足利尊氏について。




足利尊氏のWikipedia情報より、以下に引用・整理させて頂きました。
■嘉元3年(1305)7月27日、足利氏当主貞氏の次男として誕生。母は上杉頼重の娘、清子。
 
生誕地は下野国足利荘(栃木県足利市)・上杉氏本貫の丹波国何鹿郡八田郷上杉荘(京都府綾部市上杉)・相模国鎌倉(神奈川県鎌倉市)など諸説ある。
 
■13歳の時に兄の高義が21歳で死去し、父貞氏の後継者になる。元応元年(1319)15歳の時、従五位下に叙し治部大輔に任ぜられて元服し、得宗・北条高時の偏諱を賜り高氏(通称は又太郎)と名乗ったとされる。
 
元弘3年(1333)5月
■高氏は鎌倉幕府に反旗を翻し、反幕府勢力を糾合して入洛し、5月7日に六波羅探題を滅亡させた。
 
鎌倉幕府滅亡後、高氏は後醍醐天皇から勲功第一とされ、鎮守府将軍となり30箇所の所領を与えられた。6月、従四位下、左兵衛督となる。
 
また、後醍醐天皇の諱(いみな)尊治(たかはる)の偏諱を受け、高氏の名を尊氏(たかうじ)に改めた。
 
建武2年(1335)
■北条高時の遺児、北条時行を奉じた北条残党軍が鎌倉を占領した(中先代の乱)。足利直義(尊氏の弟)と千寿王(後の義詮)は鎌倉を放棄。
 
■尊氏は、反乱鎮圧の出陣と征夷大将軍の官職を後醍醐に望んだが許されず、無断で出陣して鎌倉に向かい、後醍醐はやむなく尊氏に征東将軍の号を与えた。尊氏は北条残党軍を駆逐し、鎌倉を奪還した。
 
■尊氏は、中先代の乱の戦後処理と関東の防御を固めるため、鎌倉に留まった。
 
■後醍醐は尊氏に上洛を命じたが尊氏は応じず、新田義貞に尊氏討伐を命じたが、尊氏は新田軍を箱根・竹ノ下の戦いで破った。
 
建武3年(延元元年/1336)
■正月、尊氏は入京を果たし後醍醐は比叡山へ退いたが、北畠顕家・楠木正成・新田義貞の攻勢に敗れ、尊氏は京都を放棄して九州に下った。
 
■3月初旬、九州で後醍醐方の勢力を圧倒した尊氏は、京に向かう途中で持明院統(じみょういんとう)の光厳上皇の院宣を獲得し、正統性を得た。
 
■尊氏は湊川の戦いで新田義貞・楠木正成の軍を破り、京都を再び制圧した(延元の乱)。
 
■11月7日、尊氏は『建武式目』を定め武家政権の成立を宣言した。この『建武式目』をもって室町幕府の発足とする。尊氏は源頼朝と同じ権大納言に任じられ、自らを鎌倉殿と称した。
 
■12月、後醍醐天皇は京を脱出して吉野(奈良県)へ逃れ、独自の朝廷(南朝)を樹立した。
 
暦応元年(1338)
■尊氏は光明天皇から征夷大将軍に任じられ、室町幕府が名実ともに成立。幕府の実務は尊氏の弟 直義(ただよし)が担った。翌年、後醍醐天皇が吉野で崩御。
  
貞和5年(1349)
■足利家執事で武断派の高師直(こうの もろなお)と、尊氏の弟で文治派の直義(ただよし)が対立し、直義は政務から退いて出家に追い込まれた。
 
■尊氏は、直義に代わって政務を担当させるため、嫡男・義詮を鎌倉から呼び戻し、代わりに次男・基氏を鎌倉に下して関東管領(鎌倉公方)とし、東国統治のための鎌倉府を設置した。 
 
観応元年(1350)
■直義の引退後、直義の養子直冬(尊氏の落胤)が勢力を拡大。尊氏は直冬(ただふゆ)討伐のため、自ら中国地方へ遠征した。 
 
■すると直義は、南朝に降伏して尊氏に対抗し(観応の擾乱:かんのうの じょうらん)義詮は京都を脱出。それを知った尊氏と高師直は遠征先から京都へ戻る途中、光明寺と打出浜の戦いで直義に敗れた。
 
観応2年(正平6年/1351年)
■尊氏は「高師直・師泰兄弟の出家・配流」を条件に直義と和睦し、直義は義詮の補佐として政務に復帰した。
 
■尊氏は南朝と和睦交渉を行うと、直義は京を脱出して鎌倉へ逃亡した。
 
■10月、尊氏は南朝から直義追討の綸旨を得たが、尊氏が擁立した北朝の崇光天皇は廃された(正平一統)。
 
■尊氏は直義を破り、直義を鎌倉の浄妙寺塔頭(たっちゅう)の延福寺に幽閉した。
 
観応3年(正平7年/1352年)
■2月26日、直義は延福寺で急死。病死、自殺、毒殺など死因は諸説あり。
 
■尊氏が京を不在にしている間に南朝方との和睦は破られ、尊氏は、新田義興・義宗・北条時行などの南朝方から襲撃されて武蔵国へ退却するが、反撃して鎌倉を奪還した(武蔵野合戦)。
 
■畿内では南朝勢力が義詮を破って京を占拠、北朝の光厳・光明・崇光の三上皇と皇太子直仁親王を拉致し、更に尊氏は後村上天皇により将軍を解任され、足利政権の正当性が失なわれる危機が発生。
 
■しかし、近江へ逃れた義詮は京を奪還し(八幡の戦い)8月には佐々木道誉が後光厳天皇を擁立して北朝が復活、尊氏は征夷大将軍に復帰し、足利政権も正当性を取り戻した。
 
文和3年(1354年)
■直冬を奉じた旧直義派による京への大攻勢を受けるが、尊氏と義詮はこれを撃退。直冬討伐のため九州下向を企てるが、義詮に制止された。
 
延文3年(1358年)
■4月30日、尊氏は京都で薨去。墓所は京都の等持院と鎌倉の長寿寺。これを反映して死後の尊氏は、京都では「等持院」、関東では「長寿院」と称されてた。 
※尊氏さん、若い頃に正室以外に生ませた自分の子、直冬と戦うはめになるとは思わなかったでしょうね・・・




↑上記に「鎌倉府」とあります。以下にWikipedia情報を整理・引用させて頂きました。
鎌倉府(かまくらふ)は、京都に成立した室町幕府が、前代鎌倉幕府の本拠地鎌倉及びその地盤の関東10か国を掌握するために設置した機関。
 
■貞和5年(1349)から室町時代中期の享徳4年(1455)まで、約100年間存続した。
 
■初代将軍足利尊氏の次子、基氏とその子孫が世襲し、鎌倉公方と呼ばれる。
 
■鎌倉公方を補佐する関東管領は、上杉氏が世襲した。その他に評定衆・引付衆・侍所・政所等、幕府に準じた機構を有していた。
 
概要
■後醍醐天皇が関東統治を目的に、皇子・成良親王を鎌倉へ下向させて創設した鎌倉将軍府が起源。実権は幼い親王を奉じた足利直義にあった。
 
■観応の擾乱(かんのうのじょうらん)が発生すると、足利尊氏足利基氏を鎌倉へ派遣し、以来、長官の鎌倉公方は基氏とその子孫、これを補佐する関東管領は上杉氏が世襲する鎌倉府となった。
 
■管国は関八州8か国(相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野)と伊豆・甲斐で、1392年に陸奥・出羽が追加された(1400年に奥州探題の設置により、陸奥・出羽両国に対する鎌倉府の権限が削減された)。
 
■やがて鎌倉公方・足利氏と関東管領・上杉氏は対立し、1439年の永享の乱では、関東管領・上杉憲実、幕府・足利義教と戦った第4代鎌倉公方・足利持氏が敗死し、鎌倉府は長官が一時不在となった。
 
■その後、持氏の遺児・足利成氏が鎌倉公方となるが、享徳の乱で室町幕府・上杉氏と再び対立。
 
■上杉氏援軍の今川範忠勢に鎌倉を占領されると、成氏は本拠を下総・古河城にあらため、鎌倉府は古河公方・成氏の古河府へ継承された。
 
■幕府は新たな鎌倉公方として足利政知(義教の子)を派遣したが、上杉氏との確執から伊豆の堀越御所に根拠を定め(堀越公方)鎌倉には入れなかった。




↑上記Wikipedia情報にある、尊氏さんの墓がある長寿寺の所在地は「鎌倉市山ノ内1503」で、北鎌倉駅から徒歩約12分です。

拝観可能な「季節・曜日限定特別拝観日」は、4・5・6月と10・11月の「金土日及び祝日」で、12月は1〜6日まで。

拝観時間は午前10時〜午後3時で「雨天中止」になっており、自分はタイミングが合わず未だ訪問できていません(汗)

長寿寺は、尊氏が邸宅跡に建武3年(1336)に創建。尊氏の没後、父の菩提を弔うため足利基氏が七堂伽藍を備えた堂宇を建立。境内奥には、尊氏の遺髪を埋葬した墓塔があるようです。




仏殿
↑鎌倉の尊氏さん所縁の史跡と言えば、扇ガ谷(おうぎがやつ)に所在する浄光明寺(探訪記は、こちらから)でしょうか。

後醍醐天皇に反抗して朝敵・賊軍となった尊氏さんが、官軍と戦う決意を固めるため一時期籠ったのが浄光明寺(じょうこうみょうじ)です。




参道
↑冒頭でも紹介した浄妙寺(探訪記は、このリンクから)も、尊氏さんに所縁あり。

尊氏さんは、捕えた直義を浄妙寺塔頭の延福寺(廃絶)に幽閉。その後、直義は延福寺で急死していますが、病死、自殺、毒殺など死因には諸説あるようです(観応の擾乱)。
 
ちなみに吉川英治『私本太平記』では、尊氏さんが部下に直義の殺害を指示。

殺害を実行した部下から連絡を受けた足利邸にいた尊氏さんは、浄妙寺へ馬を飛ばして駆けつけ、直義の死骸を目にして「勘弁してくれ!」と直義を白い布団の上から抱きしめ、声を上げて慟哭した様子が描かれています。

小説なので、実際に尊氏さんが延福寺を訪れたのか?は判りませんけどね・・・




本堂近景
↑こちらは鶴岡八幡宮の近く、小町3丁目に所在する、宝戒寺(探訪記は、このリンクから)です。

宝戒寺(ほうかいじ)は、元弘3年(1333)の鎌倉幕府滅亡後、北条氏一族の霊を弔うために後醍醐天皇の命を受けた尊氏さんが、北条執権邸跡に建武2年(1335)に建立した寺院です。




次は足利義詮(室町幕府二代将軍)について。




足利義詮のWikipedia情報より、以下に整理・引用させて頂きました。
■元徳2年6月18日(1330年7月4日)誕生。初代将軍足利尊氏の三男。母は鎌倉幕府最後の執権・北条守時の妹で正室・赤橋登子(登子の子としては長男)。幼名は、千寿王。
 
■元弘3年(1333)挙兵した後醍醐上皇討伐のため、父・高氏(尊氏)が鎌倉幕府軍の総大将として上洛した際、母・登子とともに北条家の人質として鎌倉へ留め置かれた。
 
■尊氏が京都の六波羅探題を攻略すると、幼い千寿王(義詮)は足利家家臣に連れ出され、鎌倉を脱出して新田義貞の軍勢に合流し、鎌倉攻めに参加した。
 
■この時千寿王は、父の名代として鎌倉攻め参加の武士に軍忠状を発付し、後に足利氏が武家の棟梁として認知される端緒を作った。
 
■後醍醐の建武の新政では、叔父の直義(尊氏の弟)に支えられて鎌倉に置かれ、尊氏が建武政権から離反すると、父とともに南朝と戦い、主に鎌倉において関東を統治した。
 
■尊氏による幕府開府後、足利家執事の高師直と尊氏弟の直義の対立が激化して観応の擾乱が起こり、直義が失脚すると義詮は京都へ呼び戻され、直義に代わって政務を任された
 
※これ以降、尊氏と重複するので、中略。
 
延文3年(1358年)
■4月に尊氏が没し、12月に義詮は征夷大将軍に任命される。この頃、九州では懐良親王などの南朝勢力は健在であった。
  
■義詮は河内や紀伊に出兵し、南朝軍と交戦して赤坂城などを落とすが、一方幕府内では権力抗争が絶えず、その隙を突いて南朝方が一時京都を奪還するなど、政権は流動的であった。
 
貞治2年(1363年)
■政権は安定化しはじめ、南朝との講和も進んだ。
 
貞治4年(1365年)
■義詮は訴訟制度の整備に着手し、評定衆・引付衆を縮小して将軍の親裁権の拡大を図った(御前沙汰)。
 
貞治6年(1367年)
■4月26日、弟の基氏が死去。
 
■11月、側室の紀良子との間に生まれた幼少の嫡男・義満を細川頼之に託し、12月7日に病により死去。享年38。
※義詮さん、物心ついた時から合戦ばっかりで可哀想。大変な人生ですね・・・




永福寺トップ画像
↑鎌倉における足利義詮に纏わる史跡と言えば、二階堂に所在する永福寺跡(探訪記は、このリンクから)でしょう。

元弘3年(1333)5月、新田義貞と合流して鎌倉幕府を滅亡させた後、当時5歳の足利千寿王(義詮)は、永福寺(ようふくじ)の別当坊に本陣を敷いたようです。




杉本寺トップ画像
↑鎌倉市二階堂に所在する杉本寺(探訪記は、このリンクから)も、足利義詮(千寿王)と所縁があります。

この杉本寺は、延元2年/建武4年(1337)12月に北畠顕家率いる南朝軍と足利軍(北朝方)が激突した「杉本城の戦い」の古戦場跡でもあります。
 
足利軍の総大将は、当時8歳の千寿王。家臣達は「多勢に無勢、ここは一次撤退を!」と千寿王に進言するも、千寿王は決戦を主張して譲らなかったんだとか。




↓次は足利基氏について。




石碑の碑文に『基氏関東管領となって』とありますが、基氏は「初代鎌倉公方」として知られています。この件について、Wikipedia情報の一部を以下に整理・引用させて頂きました。
鎌倉公方(かまくらくぼう)は、室町時代に京都に住む室町幕府の将軍が、関東10か国を統治するために設置した鎌倉府の長官。足利基氏の子孫が世襲した。
 
また、鎌倉公方の補佐役として関東管領が設置された。関東公方とも称する。この場合、鎌倉公方の後身である古河公方も含まれる。
 
関東10か国とは、相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野・伊豆・甲斐である。
 
鎌倉公方は、将軍から任命される正式な幕府の役職ではなく、鎌倉を留守にしている将軍の代理に過ぎない。
 
鎌倉殿(公方)の当初の正式な役職名は関東管領であり、上杉氏は「執事」であったが、やがて執事家が関東管領となり、本来の「関東管領家」が「鎌倉(関東)公方」となった。
 
なお「鎌倉公方」は鎌倉公方の自称、あるいは歴史学用語で、当時は「鎌倉御所」ないし「鎌倉殿」と呼ばれていた。
  
歴史
■足利尊氏と弟の直義が対立した際、直義に代わって上京した義詮の後を継いで鎌倉に下向した弟の足利基氏を初代とする。
 
■関東管領を補佐役として関東10か国を支配したが、代を重ねるに従って京都の幕府と対立するようになった。
 
■永享の乱の際には関東管領上杉憲実とも対立し、第4代鎌倉公方持氏(もちうじ)が敗れ、永享11年(1439)に自害させられたことで一旦断絶した。
 
■文安4年(1447)に持氏の遺児 成氏が、幕府から鎌倉公方就任を許されて復活する。
 
■後に幕府と対立した成氏が、享徳4年(1455)に下総国古河を本拠として「古河公方」と名乗るようになった(享徳の乱)。
 
この乱で鎌倉府は消滅し、古河公方は規模を縮小させたものの、享徳の乱終結後は関東管領とともに関東地方を支配する形態を1570年代まで継続させ、後北条氏(小田原北条氏)が関東管領の権限を掌握したあとも、関東地方の支配者としての権威を保ち続けていた。
 
その末裔は豊臣秀吉により喜連川に所領を与えられ、江戸時代には喜連川氏と称し、徳川将軍家の客分という特別な立場の大名家として存続した。明治時代に足利姓に復して子爵に叙せられた。
※鎌倉公方を当初は「関東管領」と呼んでいたわけですね。




足利基氏Wikipedia情報より、以下に整理・引用させて頂きました。
足利 基氏(あしかが もとうじ)は初代鎌倉公方(在職:正平4年/貞和5年9月9日〜正平22年/貞治6年4月26日)。
 
室町幕府初代将軍足利尊氏の四男で、母は正室の赤橋登子(登子の子としては次男)。
 
■観応の擾乱が起こると、尊氏は鎌倉にいた基氏の兄義詮に次期将軍として政務を担当させるため京都へ呼び戻し、正平4年/貞和5年(1349)に基氏を鎌倉公方として下向させ、鎌倉府として足利氏政権の出張所として機能させた。
 
この折、幼い基氏を補佐した執事(後の関東管領)の1人に上杉憲顕がいた。
 
■正平7年(1352)に尊氏は、弟の直義を鎌倉に追い詰めて降伏させると、延福寺に幽閉した。
 
2月25日に基氏は鎌倉にて元服するが、翌日の26日に直義は死亡している。
 
■『鎌倉九代後記』によれば、基氏は約9年間もの間、南朝方との戦闘のため鎌倉を離れて入間川沿いに在陣したことから「入間川殿」と呼ばれ、その居館は入間川御陣と称された。
 
■正平13年(1358)10月10日、勢力を増す南朝方の新田義興を多摩川の「矢口の渡し」に謀略で誘い出して滅ぼした(矢口渡・津の戦)。
  
■正平22年/貞治6年(1367)に死去、享年28。死因は「はしか」と伝わる。『難太平記』は自殺の可能性をほのめかすが、真相は分からないとしている。
 
同年12月7日には、兄義詮も亡くなっている。




瑞泉寺トップ画像
↑鎌倉における足利基氏に纏わる史跡と言えば、基氏が中興開基となる瑞泉寺(探訪記は、このリンクから)でしょう。瑞泉寺は、鎌倉公方足利家の菩提寺です。

基氏さんの法号は「瑞泉寺玉巌道昕」で本堂裏山に廟がありますが、見学することは出来ませんでした。




総門
↑こちらは、瑞泉寺の総門です。第四代鎌倉公方の足利持氏は、瑞泉寺塔頭の永安寺(ようあんじ)で自害しています。その永安寺は廃絶していますが、この総門の辺りに建っていたそうです。




楼門近景
↑基氏さんのWikipedia情報に「基氏は入間川殿と呼ばれ、その居館は入間川御陣と称された」とありますが、埼玉県狭山市の徳林寺(探訪記は、このリンクから)は、その入間川御陣(入間川御所とも)の候補地とされています。




↓次は、古河公方 足利成氏について。




足利成氏のWikipedia情報より、以下に整理・引用させて頂きました。
足利成氏(あしかが しげうじ)は、第5代鎌倉公方(1449〜1455年)、初代古河公方(1455〜1497年)。
 
■成氏は、第4代鎌倉公方足利持氏の男子として永享6年頃に生まれた。
 
■永享11年(1439)に、父 持氏は関東管領上杉憲実・6代将軍足利義教と対立した結果、兄の義久と共に敗死(永享の乱)し鎌倉公方は廃止された。成氏は信濃佐久郡の大井持光の元で養われた。
 
■成氏は文安4年3月に鎌倉公方となり、8月に信濃から鎌倉に帰還した。
 
■宝徳元年に元服、6月頃に8代将軍足利義成(後の義政)の偏諱(「成」の一字)を与えられて「成氏」という名が決まり、8月27日に左馬頭に任じられ、同時に従五位下に叙された。
 
鎌倉府再興(第5代鎌倉公方)
■永享の乱の際に鎌倉府は滅亡したが、鎌倉府再興の運動が開始され、文安6年(または宝徳元年)に鎌倉府再興が承認され、成氏は新たな鎌倉公方として鎌倉に帰還した。
 
■新しい鎌倉府では、鎌倉公方に成氏、補佐役の関東管領に山内上杉家の上杉憲忠が就任した。
 
■宝徳2年(1450)山内上杉家 家宰の長尾景仲と扇谷上杉家 家宰の太田資清(道灌の父)が成氏を襲撃。成氏は江の島に避難し、長尾・太田連合軍を退けた(江の島合戦)。
 
享徳の乱勃発(成氏の攻勢)
■享徳3年12月27日、成氏は鎌倉府内部の対立により、関東管領上杉憲忠を謀殺した。これをきっかけに、以後約30年間に及ぶ享徳の乱が勃発する。
 
■享徳4年正月、成氏は上杉勢の長尾景仲・太田資清を追って鎌倉を進発し、武蔵分倍河原の戦いで上杉憲秋・扇谷上杉顕房を討ち取った。
  
上杉勢反攻と古河移座(初代古河公方)
■山内上杉家は体制の立て直しを図り、上杉氏が後花園天皇から成氏追討の綸旨を得たため、成氏は朝敵となる。
 
■成氏は鎌倉を放棄し下総古河を本拠地としたので、古河公方と呼ぶ。長禄元年(1457)10月には古河城に移った。
 
成氏が古河を本拠とした理由は、広大な鎌倉公方御料所の拠点で経済的基盤となっていたこと、水上交通の要衝であったこと、古河公方を支持した武家・豪族の拠点に近かったことなどが挙げられている。
 
上杉勢との対峙
■上杉勢は、長禄3年(1459)頃に河越城(川越城)・岩付城(岩槻城)・江戸城などの攻守網を完成させた。
 
■成氏も古河城を中心として、関宿城、栗橋城、幸手城、菖蒲城など攻守網を形成し、両者は拮抗した。
 
■長禄元年(1457)室町幕府は成氏に対抗するため、将軍義政の異母兄・政知を新たな鎌倉公方として東下させた。
 
■しかし政知は鎌倉に入れず、伊豆堀越に留まり御所をおいたので、堀越公方と呼ばれる。
 
■以後、主に下野・常陸・下総・上総・安房を勢力範囲とした古河公方・伝統的豪族勢力と、主に上野・武蔵・相模・伊豆を勢力範囲とした幕府・堀越公方・関東管領山内上杉家・扇谷上杉家勢力とが、関東を東西に二分して戦い続けた。
 
■やがて京都では、諸大名が二派に分かれて戦った応仁の乱が勃発。幕府は、関東に軍勢を送れなくなってしまった。
  
享徳の乱終結
■文明3年(1471)成氏は伊豆の堀越公方を攻めたが、敗れて古河城に撤退。この遠征失敗の影響は大きかった。
 
■文明8年(1476)山内上杉家で家宰の後継争いにより、長尾景春の乱が勃発。これを扇谷上杉家 家宰の太田道灌が鎮圧するが、古河公方勢との戦いだけではなく、上杉家内部の対立や山内・扇谷両上杉氏間の対立で混乱した。
 
■文明10年(1478)成氏と上杉氏との和睦が成立すると、文明14年(1483)に古河公方と幕府の和睦が成立した。これを都鄙和睦(または都鄙合体)と呼ぶ。
 
■この結果、堀越公方の足利政知は伊豆一国のみを支配することとなり、成氏の鎌倉公方の地位が改めて幕府に承認されたと考えられる。
 
■その一方で、成氏が鎌倉を放棄することも正式に決定した。
 
晩年
■都鄙和睦により、成氏は朝敵の汚名から解放されたが、古河公方と堀越公方の並立、山内・扇谷両上杉氏間の抗争(長享の乱)など不安定な状態が続き、成氏が鎌倉に戻ることはなかった。
 
■明応5年(1496)上杉顕定の要請を受けて扇谷上杉家の河越城を攻撃中、体調を崩して翌年には古河に引き上げた。
 
■明応6年(1497)9月30日、成氏死去。享年64。臨終の際、成氏は嫡子の政氏を呼び「再び鎌倉に環住し、関八州を取り戻すことが孝行である。」と言い残したとされる。※『鎌倉公方九代記』より




↓碑文には登場しない古河公方 足利晴氏について。




川越城石碑
足利晴氏と言えば、川越城(探訪記は、このリンクから)を巡る「河越夜戦」で北条氏康(小田原北条氏)に敗れたことで知られていますね。

天文15年(1546)に行われた河越夜戦は、厳島の戦い(天文24年:1555/陶晴賢 対 毛利元就)、桶狭間の戦い(永禄3年:1560)と共に、日本三大夜戦(日本三大奇襲とも)と呼ばれるようです。

古河公方・山内上杉家・扇谷上杉家の連合軍は北条氏康に敗れ、扇谷上杉家は滅亡、山内上杉家の上杉憲政は越後に逃れて長尾政虎(後の上杉謙信)を養子とし、上杉家の家督と関東管領職を譲っていますね。

この戦いで勝利した小田原北条氏は、関東から足利・上杉の勢力を駆逐したわけです。




足利晴氏(最新)
↑足利氏略系図で古河公方 足利晴氏を示し、足利晴氏のWikipedia情報の一部を以下に引用・整理させて頂きました。
足利晴氏(あしかが・はるうじ)は、第4代古河公方(在職:1535〜1552年)。室町幕府が正式に認めた古河公方としては、最後である。
 
生涯
■永正5年(1508)足利高基(初名は高氏)の嫡男として生まれる。将軍足利義晴から偏諱を受け、晴氏を名乗る。
 
■享禄4年(1531)関東享禄の内乱を経て、古河公方の地位を確立する。
 
■天文7年(1538)の第一次国府台合戦で北条氏綱と同盟し、父の高基の代から敵対していた叔父で小弓公方を自称する足利義明を滅ぼしたが、氏綱の死後、跡を継いだ氏康と対立した。
 
■晴氏は、上杉憲政や上杉朝定と共に天文15年(1546)に北条領へ侵攻するが、河越夜戦で大敗し古河公方としての力を失った。
 
■晴氏は、天文21年(1552)に公方の座を子の義氏に譲り、天文23年(1554)には古河城を攻められ、北条氏康によって相模国波多野(神奈川県秦野市)に幽閉された。
 
■永禄3年(1560)5月27日、晴氏は元栗橋(茨城県五霞町)で死去。享年53




↓この後、足利公方邸舊蹟を後にして・・・





池に接近
↑足利公方邸舊蹟の近くに所在する、御馬冷馬(探訪記は、このリンクから)を探訪しました。

中世歴史めぐり yoritomo-japan.com 様のサイトには、史跡について以下の記載があります。
源頼朝の愛馬、生唼(いけずき)と磨墨(するすみ)の足洗い場との伝承があって、江戸時代から明治にかけては名所の一つになっていたという。
※生唼と磨墨と言えば、梶原源太景季(梶原平三景時の長男)と佐々木高綱との「宇治川の先陣争い」の伝説で有名ですね。





↓最後に、浄明寺周辺の足利氏関連史跡を御紹介。




本堂
↑冒頭で紹介した「浄明寺」バス停から金沢街道を鎌倉駅方面へ200m進み、滑川(なめりがわ)に架かる「華の橋」を渡って100mほど南へ進んだ所には、尊氏の祖父、足利家時開基の報国寺(探訪記は、このリンクから)があります。

報国寺は鎌倉公方終焉の地で、第四代鎌倉公方足利持氏の嫡子、足利義久が自刃した場所でもあり・・・




足利一族のやぐら
↑本堂裏の庭園では、足利一族の窟(やぐら:横穴墳墓)が見れます。※見学には拝観料(400円)が必要です。



 お城・史跡ランキング    日本史ランキング    関東ランキング


     


       にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ     にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ     にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログへ

関連記事
  翻译: