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草加市歴史民俗資料館2025年01月04日 00:15

草加市歴史民俗資料館(そうかしれきしみんぞくしりょうかん)は埼玉県草加市都北区にある歴史系資料館である。

概要

1983年(昭和58年)11月1日、草加市の文化財を保護するための施設として開館した。建物は大正15年(1926)に草加小学校西校舎として建てられた埼玉県初の鉄筋コンクリート造りの校舎であったが、1979年に校舎は利用を終えた。

常設展示

  • 第一展示室
    • 原始から近代までの草加の歴史に関する資料等を展示
    • 丸木舟(縄文前期)
    • 鉢(土師器)大型
    • S字状口縁台付甕(土師器)縁のみ
    • 台付甕(土師器)
    • 高坏(土師器)
    • 坏(土師器)
  • 第二展示室
    • 草加の民俗文化、産業の歴史に関する資料を展示
    • 鍬、
    • 唐箕
    • 地場産業の草加せんべいの製造工程を伝える道具

企画展

指定

  • 2008年(平成20年) 国の登録有形文化財(建造物)

アクセス等

  • 名称:草加市歴史民俗資料館
  • 所在地:〒340-0014  埼玉県草加市住吉1-11-29
  • 休館日: 月曜日(祝日の場合は翌平日)、年末年始(12月29日から1月3日)
  • 開館時間:9:00~16:30
  • 入館料: 無料(特別展を除く)
  • 交通:東武スカイツリーライン草加駅 徒歩 8分 0.6km

参考文献

前橋市総社歴史資料館2025年01月03日 00:38

前橋市総社歴史資料館(まえばししそうじゃれきしみんぞくしりょうかん)は群馬県前橋市にある歴史系資料館である。

概要

2016年(平成28年)10月に開館した。常設展示は、総社地区の文化財、総社古墳群、山王廃寺、秋元氏及び天狗岩用水などがある。古代史の展示では模型や複製品が多く、一次資料はあまりない。前身の資料館が酒蔵を利用した建物のため、蔵倉をイメージした木造建築としてリニューアルした。

常設展示

  • 総社古墳群
    • 総社二子山古墳出土 頭椎の大刀復元品
    • 宝塔山古墳石室ジオラマ
    • 蛇穴山古墳墳丘模型・石室模型
  • 山王廃寺
    • 石製鴟尾・根巻石(複製品)
    • 緑釉陶器一括資料(複製品)
      • 緑釉陶器の水注椀、
      • 皿、
      • 銅椀
    • 山王廃寺出土塑像群

企画展

  • 第9回ミニ企画展「総社古墳群発掘調査速報」
    • 展示期間 令和3年4月30日~令和3年8月29日
  • 第8回ミニ企画展『遠見山古墳の調査』
    • 遠見山古墳出土埴輪・土器
    • 舞台1号墳出土高坏・石製模造品(想像復元品)
  • 第7回ミニ企画展「火の用心!」
    • 期間:平成31年4月27日(土)~令和元年7月19日(金)

指定

アクセス等

  • 名称:前橋市総社歴史資料館
  • 所在地: 〒371-0852 群馬県前橋市総社町総社1584番地1
  • 休館日: 毎週月曜日(祝祭日の場合は、祝祭日後の休日ではない日)、年末年始
  • 開館時間:午前9時~午後4時(最終入館は午後3時30分)
  • 入館料: 入館無料
  • 交通:JR群馬総社駅より徒歩17分。

参考文献

横穴式石室2025年01月03日 00:30

横穴式石室(よこあなしきせきしつ)は、古墳の墳丘に横穴をあけ、羨道と玄室を石を積んで築造した墓である。

概要

横穴式石室は朝鮮半島北部で発達し、古墳時代の後半に日本列島でも行われた。完成後も石室の開閉が可能であるため、追葬、合葬ができる埋葬施設である。古墳時代の前期・中期は竪穴式石室が主流であったが、古墳時代後期からは横穴式石室が主流となった。

事例

鋤崎古墳(福岡県福岡市)は北部九州型の横穴式石室の祖型で、 4世紀末から5世紀初頭の前方後円墳であり、日本最古の横穴式石室とされる。 宮山塚古墳の横穴式石室は近畿で最古級のもので5世紀後半~末頃に築造された。新沢千塚221号墳(新沢千塚古墳群)は5世紀後半頃で近畿地方における初期の横穴式石室の例である。

構造

遺体を安置する玄室と玄室への通路となる羨道がある。玄室の入口部では玄室の幅が狭くなり、羨道との接続部を袖石という。

九州型と畿内型

横穴式石室は「九州型」と「畿内型」に大別される。「九州型」は初期横穴式石室と呼ばれ、4世紀末頃から福岡・佐賀県沿岸部を中心に前方後円墳の埋葬施設として築造され、その後5世紀に九州各地へ拡がる。玄室の閉塞には板石を用いる。当初のものは前庭部、羨道、玄室の境界に段差があり、徐々に降下する。 普及する過程で「肥後型(熊本県)」や「地下式横穴(宮崎県)」などに変化し、地域色がみられる。「畿内型」は5世紀終わり頃に出現するが、6世紀はじめに前方後円墳に採用された。畿内型の特徴は(1)玄室平面は矩形であり、平天状である、(2)立柱石を立てるが壁体に組み込まれて、せり出すことはない、(3)鴨居石を置かず、両袖式または片袖式に羨道を接続させる、(4)閉塞石に板石を使わない、(5)極端に狭い羨道はない、(6)石材は大型化の傾向がある。(7)玄室の隅角は丈夫まで保たれる。

両袖型は玄室との境界の両側に袖があるものをいう。片袖型は片側だけに袖があるものをいう。玄室と羨道との間に袖がないものを無袖型という。

百濟

百済の最初の王都の漢城(現ソウル市)周辺に位置する、ソウル市可楽洞・芳イ洞古墳群でみつかった横穴式石室は、百済の初期横穴式石室とされる。

参考文献

柳本天神山古墳2025年01月02日 23:57

柳本天神山古墳(やなぎもとてんじんやまこふん)は奈良県天理市にある4世紀後半の前方後円墳である。別名は「大和天神山古墳」「奈良天神山古」である。

概要

行燈山古墳の西側である。東側の半分は国道169号線の建設時に破壊され、西側のみが残存する。周濠の有無は判明していない。埴輪は出土しない。葺石はない。段築や周濠は不明瞭である。 山麓に立地し、前方部が南向きである。人物の埋葬は無く、遺物のみを葬った古墳としては最大規模である。大和盆地東辺に立地する柳本古墳群の中の1つ。天神山古墳は遺体を埋納した形跡がなく、すぐ東に行燈山古墳(崇神天皇陵)があり、同陵の遺物のみを埋納した陪塚とも考えられている。天神山古墳の築造年代は4世紀後半頃とされる。

調査

1960年に国道の敷設に伴い、奈良県立橿原考古学研究所により竪穴式石室の調査が行われた。竪穴式石室は全長6.1mで、石室内部には合掌式石室である。棺台は粘土を用いており、棺はコウヤマキ製の「木櫃」(木製の上蓋つきの棺)が安置されている。銅鏡23面や鉄製品の副葬品が多量に出土した。木棺中央に41kgに及ぶ朱が置かれており、周囲に銅鏡が置かれていた。銅鏡は、後円部中央の竪穴式石室の中の木櫃の内から20面がみつかり、棺外から3面が発見された。鏡は木櫃の周縁に沿って北から右廻りに20面を一周させ、櫃外の北側に2面、南側に1面が配されていた。剣は木製の柄装具に直弧文が描かれる。遺体を埋葬した形跡がないため、「木櫃」には遺体がなかった可能性が指摘されている。銅鏡には典型的な三角縁神獣鏡が含まれず、方格規矩鏡や内行花文鏡など中国・後漢時代の鏡(三角縁神獣鏡よりもやや古い)が主体であった。

規模

  • 形状 前方後円墳
  • 築成 前方部:なし、後円部:なし
  • 墳長 113m
  • 後円部 径55m 高7m
  • 前方部 幅50m 長43m 高さ4m
  • 主体部
    • 室・槨 竪穴式石槨

遺構

後円部のほぼ中央に長さ6.1mの竪穴式石室を検出。

出土遺物

  • 内行花文鏡4
  • 方格規矩鏡6
  • ボウ製:人物鳥獣文鏡1
  • 変形神獣鏡2、
  • 画文帯神獣鏡4
  • 獣形鏡3
  • 画像鏡2・
  • 獣帯鏡1
  • 鉄剣:4
  • 鉄刀:1
  • 鉄鏃
  • 刀子。
  • 板状鉄斧。
  • 水銀朱(41kg)。

展示

  • 奈良国立博物館
    • 流雲文縁方格規矩鏡(奈良県天神山古墳出土)727-1
    • 画文帯神獣鏡(奈良県天神山古墳出土)
    • 内行花文鏡(奈良県天神山古墳出土)
    • 内行花文鏡(奈良県天神山古墳出土)
    • 三角縁変形神獣鏡(奈良県天神山古墳出土)
    • 画文帯神獣鏡(奈良県天神山古墳出土)
    • 獣形鏡(奈良県天神山古墳出土)
    • 流雲文縁方格規矩鏡(奈良県天神山古墳出土)727-8
    • 流雲文縁方格規矩鏡(奈良県天神山古墳出土)727-9
    • 画像鏡(奈良県天神山古墳出土)727-10
    • 画像鏡(奈良県天神山古墳出土)727-11
    • 画文帯神獣鏡(奈良県天神山古墳出土) 727-12
    • 獣形鏡(奈良県天神山古墳出土) 727-13
    • 画文帯神獣鏡(奈良県天神山古墳出土)727-14
    • 三角縁変形神獣鏡(奈良県天神山古墳出土) 727-15
    • 波文縁方格規矩鏡(奈良県天神山古墳出土)727-16
    • 内行花文鏡(奈良県天神山古墳出土) 727-17
    • 獣形鏡(奈良県天神山古墳出土) 727-18
    • 波文縁方格規矩鏡(奈良県天神山古墳出土) 727-19
    • 内行花文鏡(奈良県天神山古墳出土) 727-20
    • 流雲文縁方格規矩鏡(奈良県天神山古墳出土)727-21
    • 半三角縁人物鳥獣文鏡(奈良県天神山古墳出土)727-22
    • 獣帯鏡(奈良県天神山古墳出土) 727-23
    • 朱(天神山古墳出土) 727-29

指定

  • 2002年(平成14年)6月26日 重要文化財(考古資料)出土品 一括(考古資料)
  • 2008年(平成20年) 木棺は県の有形文化財に指定
  • 2009年(平成21年)奈良県指定史跡

アクセス

  • 名称:柳本天神山古墳
  • 所在地: 〒632-0052 奈良県天理市柳本町
  • 交通:JR柳本駅徒歩14分/940m

参考文献

  1. 大塚初重(1996)『古墳事典』東京堂出版
  2. 伊達宗泰・森浩一(1963)『大和天神山古墳』奈良県教育委員会

前二子古墳2025年01月02日 00:37

前二子古墳(まえふたごこふん)は群馬県前橋市にある6世紀の前方後円墳である。 日本百名墳に選出される。

概要

前二子古墳は大室古墳群のひとつである。大室古墳群は国道50号線東大室十字路から北へ2km、県道前橋・今井線と県道伊勢崎・深津線の交差点から北東1kmに位置する。標高は、122~137mである。5世紀後半から6世紀代に入って、この地域に強大な支配者が存在したと思われ、今井神社古墳、伊勢山古墳、前二子古墳、中二子古墳、後二子古墳、荒砥村120号墳、小二子古墳の前方後円墳が築造された。前二子古墳は地域の中で、初期的な構造の横穴式石室を持つことが最大の特徴とされる。 副葬品の多くは朝鮮半島とのつながりが想定されている。鉤状金具(百済・武寧王陵)、装飾器台(須恵器小像付筒形器台)は朝鮮半島の南部のものと共通した小像(亀、鳥、蛇、蛙など)で、新羅からも出土する。石見型埴輪(光州月桂洞古墳群)は百済系であるが、奈良県からも出土する。

調査

1878年(明治11年)に石室が調査され、3月24日前二子古墳の石室を開口し、3月25日~4月1日綿密な発掘調査が行われる。石室から土器、装身具、鏡、金メッキされた馬の飾り金具などの副葬品が出土した。明治13年に英国外交官アーネスト・サトウが調査に訪れた前橋市教育委員会(2021)。 横穴式両袖型石室で羨門・羨道・扉石・玄門・梱石・楯石・玄室・床面(敷石)・天井で 構成され、内面には全面的に赤色顔料を塗彩する。全長は西壁で最大13.89m、高さは 玄室で1.8mを超える。石材は粗粒安山岩と凝灰岩の2種類を使う。床面の敷石はすべて凝灰岩製であった。形象埴輪として、蓋・盾・靱・人物・馬・家・大刀・盾持人・鉾?の9種類があった。ラス製青色丸玉130・ガラス製緑色小玉17・ガラス製黄色小玉28・水晶製丸玉14・碧玉製管玉2・滑石製管玉1・滑石製臼玉1・銀製空玉3・金製耳環1が今回出土した装身具総数であった。

現状の力学的安定性

現状での静的力学条件下では直ちに崩壊する可能性は低いと判断されている。しかしながら、潜在的に不安定な状況に至っている部分があることから、地震や人為等による外力が加わった場合、石材の脱落に伴って一部が崩壊する可能性が指摘されている(前橋市教育委員会(2005))。 墳丘にはアカマツを主体とする高木が密生し、墳丘形状が展望できない状況である。さらに、樹木の倒壊に伴う墳丘の破損や、石室への根茎の侵入など、保存上の悪影響が指摘されている(同前)。

規模

  • 形状 前方後円墳
  • 築成 前方部:2段、後円部:2段
  • 墳長 93m
  • 後円部径 径72m 高13m
  • 前方部 幅62m 長33m 高12m
  • 室・槨 横穴式石室 13.8メートル

遺物

  • 円筒埴輪 円筒Ⅴ式
  • 葺石 あり 上段墳丘下半分
  • 鏡1
  • 耳環1
  • 青色小玉300
  • 鉄鉾2
  • 鉄鏃多数あり
  • f字形鏡板2
  • 剣菱形杏葉4
  • 輪鐙1
  • 鉸具
  • 留金具
  • 素環状鏡板付轡1
  • 土師器 高杯4
  • 台付壺1
  • 杯2
  • 須恵器 装飾器台1
  • 高杯形器台2
  • 提瓶2
  • 直口壺1
  • 高杯3
  • はそう(TK47~MT15)

築造時期

  • 6世紀前半~後半

被葬者

  • 東国の大豪族

展示

  • 大室はにわ館

指定

  • 1927年(昭和2年)4月8日 国史跡指定

アクセス等

  • 名称:前二子古墳
  • 所在地:〒379-2104 群馬県前橋市西大室町2545番地
  • 石室見学時間 9:00~16:00
  • 交通:前橋駅 バス 50分

参考文献

  1. 前橋市教育委員会(1993)「前二子古墳」前橋市教育委員会
  2. 前原豊(2009)『東国大豪族の威勢・大室古墳群』新泉社
  3. 前橋市教育委員会(2021)「前橋市大室古墳群-前二子古墳・中二子古墳・後二子古墳・小二子古墳-」
  4. 前橋市教育委員会(2005)「史跡前二子古墳・中二子古墳・後二子古墳ならびに小古墳 保存整備事業報告書」前橋市教育委員会

宝塔山古墳2025年01月01日 10:45

宝塔山古墳(ほうとうやまこふん)は群馬県前橋市にある7 世紀中葉の方墳である。 日本百名墳に選出されている。

概要

榛名山から東南方向に伸びる丘陵裾野の末端、東南方向に傾斜する台地上に位置する総社古墳群の一つである。墳丘は三段築成で、斜面には葺石が葺かれていたと考えられている。愛宕山古墳までの自然石を積み上げる石室の築造法から、宝塔山古墳では加工された切石を巧みに積み上げる「截石切組積」手法が採用された。その上に漆喰を厚く塗って石室全体を白く平らに仕上げる。宝塔山古墳は周濠を含めると一辺102mに及ぶ。7世紀中葉に築造された終末期古墳である。畿内の有力者層の古墳に用いる技術が使われていることから大和政権との関係がうかがえる。

総社古墳群の意義

前橋市西部の総社町総社を中心に5世紀後半から7世紀後半にかけて6基の大型の古墳から構成される古墳群である。現在の利根川の西岸に南北約4km に分布する古墳群である。 地域の首長の墳墓が、約200年という長期間にわたって古墳をつくり続けた意義は大きいとされる(前橋市教育委員会(2023))。総社古墳群は上毛野地域の中で突出した存在となっている。それまでの前方後円墳から大型方墳に形状を変えながら造営を継続した。これは畿内と連動した変化であり、ヤマト王権とのかかわりや、政治形態の変化があったとみてよいとされる。

総社古墳群の編年

  • (5 世紀後半、480年頃)遠見山古墳 (前方後円墳)
  • →(6 世紀初頭、510年頃)王山古墳 (前方後円墳)
  • →(6 世紀後半、570年頃)総社二子山古墳 (前方後円墳)
  • →(7 世紀前半、620年頃)総社愛宕山古墳 (方墳)
  • →(7 世紀中葉、660年頃)宝塔山古墳 (方墳)
  • →(7 世紀後半、690年頃)蛇穴山古墳  (方墳)

調査

宝塔山古墳の埋葬施設は中腹部に南面する両袖式の横穴式石室で、南西方向に開口し、複室構造である。玄室の中央に蓋と身の二部構成で、輝石安山岩製の刳抜式家形石棺が置かれる。 石棺の蓋部は長辺230㎝、短辺132.6㎝で、長辺に各2個、短辺に各1個の縄掛突起を造り出す。石室の全長は12.04mである。他の古墳と比較して極めて大規模な前庭が敷設されている。石天井石は落下していた。遺物は盗掘されているため残らない。1920年(大正9年)に福島武雄により、1958年(昭和31年)には群馬大学史学研究室により石室の測量調査が行われている。1979年(昭和54年)には、下水道工事に伴って本古墳南東の墳丘裾部が確認された。平成元年には墳丘及び石室の現況測量調査が行われ、墳丘長は56m以上、高さ約12mの3段築成の大型方墳であることが確認された(白石,1990)。令和4年度には、早稲田大学東アジア都城・シルクロード考古学研究所との共同調査として、本古墳石室の3次元計測調査を実施した。

格狭間

下底部に精巧な「格狭間」という台の脚のようなくりぬきがある。棺の脚部に彫り込まれた格狭間は、大阪府南河内郡太子町叡福寺古墳(現聖徳太子墓 7世紀前半から中ごろ)、 御嶺山古墳(7世紀後半)、奈良県高市郡明日香村野口王墓古墳(現天武・持統合葬陵 7世紀後半)の漆塗棺をおいた棺台に格狭間がみられるが、類例は少ない。

前面に開けられた八角系の穴の蓋石があり、当初からの造作と判断された。 「格狭間」は古墳群近くに存在する山王廃寺とのかかわりが指摘されている。

規模

  • 形状 方墳
  • サイズ 南北54m×東西49m、高さ12m

遺構

  • 石室全長12.04m、羨道長3.56m、前室長3.9m、玄室長3.32m
  • 室・槨 両袖型横穴式石室。複室構造
  • 棺 家形石棺
  • 羨道長 3.56m、幅1.8m
  • 玄室長 3.32m、幅2.9m、高さ2m

遺物

  • 土師器
  • 須恵器、
  • 瓦、
  • 陶磁器類

築造時期

  • 7世紀中葉

被葬者

  • 牛池川・染谷川の流域一帯を支配した豪族

展示

  • 前橋市総社歴史資料館

指定

  • 1944年(昭和19年) 国指定史跡 宝塔山古墳
  • 2023年2月21日 総社古墳群(遠見山古墳・二子山古墳・愛宕山古墳・宝塔山古墳・蛇穴山古墳)

アクセス等

  • 名称:宝塔山古墳
  • 所在地:〒371-0852  群馬県前橋市総社町総社1606
  • 交通:群馬総社駅 徒歩 15分

参考文献

  1. 前橋市埋蔵文化財発掘調査団(2010) 「蛇穴山古墳・宝塔山古墳 総社町屋敷南遺跡』前橋市埋蔵文化財発掘調査団
  2. 前橋市教育委員会(1968)「宝塔山古墳石室調査概報」
  3. 前橋市教育委員会事務局文化財保護課(2022)「東国の雄総社古墳群」
  4. 前橋市教育委員会(2023)「総社古墳群総括報告書」
  5. 白石太一郎編(1990)『関東地方における終末期古墳の研究』国立歴史民俗博物館考古研究部
  6. 白石太一郎(1992)「関東の後期大型前方後円墳」『国立歴史民俗博物館研究報告』44,国立歴史民俗博物館

邪馬台国2024年12月31日 00:45

邪馬台国

邪馬台国 (やまたいこく、やまとのくに)は、『魏志倭人伝』に記載された倭国の国のひとつである。

概要
『魏志倭人伝』によれば、邪馬台国が当時の倭国の盟主であったとする。邪馬台国に倭の女王である卑弥呼の宮室があったとされる。二世紀後半から三世紀半ばまで女王卑弥呼が統治していた。約30の国からなる倭国連合の女王として邪馬台国に卑弥呼は居住していた。卑弥呼の没後はその宗女で十三歳の壱与(台与)が王になった。

邪馬台国の政治力
魏志倭人伝には対馬国、一支国(壱岐国)、伊都国、末盧国はすべて女王国に従うとされている(「皆統屬女王國」)。邪馬台国は統治のための官僚を現地に派遣している。邪馬台国には7万余戸の人口があり、国の以北(方位は不正確の可能性あり)にある諸国を検察するため伊都国に常駐していた一大率という官を特置し諸国はこれを畏憚していた。対馬国には官として卑狗(ヒコ)、副官として卑奴母離(ヒナモリ、夷守)を派遣していた。不弥国にも長官として多摸、副官としては卑奴母離を派遣していた。投馬国にも長官の弥弥、副官弥弥那利(ミミナリ)を派遣していた。邪馬台国には長官の伊支馬、副官の彌馬升、さらに彌馬獲支、奴佳鞮を置いた。官僚機構が各所に整備されている。
卑弥呼は専制君主ではないものの、相当な政治力を持っていたようにみえる。

邪馬台国の統治機構

国名 大官 副官 戸数
対馬国 卑狗 卑奴母離 1000余戸
一支国 卑狗 卑奴母離 3000家
末盧国 不明 不明 4000余戸
伊都国 爾支 泄謨觚・柄渠觚 1000余戸
奴国 兕馬觚 卑奴母離 20000余戸
不彌国 多模 卑奴母離 1000余戸
投馬国 彌彌 彌彌那利 50000余戸
邪馬台国 伊支馬 彌馬升 7万余戸

邪馬台国の所在地論争
邪馬台国の所在地論争は明治以来、今日まで続いている。主な説に九州説と畿内説とがあり、それぞれ邪馬台国の比定場所が異なる。

邪馬台国に至る行程は次の通りである。 -帯方郡から女王国まで一万二千里。帯方郡から韓国(馬韓)を経て狗邪韓国に至る。海を渡り対馬国につく、さらに海を渡り、一大国(一支国・壱岐)につく。そこから海を渡り末廬国につく。末廬国から東南に陸行して五百里で伊都国につく。東南の奴国までは百里。東行して不弥国まで百里。南へ水行二十日で投馬国に至る。南へ水行十日・陸行一月。邪馬台国(邪馬壹国)に至る。
「魏志倭人伝」の行程の距離と方角をそのまま読むと、日本の南方に海の中になってしまう。したがって、方角または距離が正しくないことは明白である。 邪馬台国の所在地に関しては古くから論争がある。日本古代国家の起源や大和政権の起源を考えるうえで、その位置は重要である。そこで所在地候補には多数が挙げられているが、両説の得失を比較してみる。
比較項目 畿内説 九州説 備考
距離 × 放射式説あり
方位 × 伊都国の南とされる
遺跡 × 九州に3世紀の有力な遺跡はない
古墳 × 九州に3世紀の有力な古墳はない
規模7万戸 × 九州に邪馬台国7万余戸相当の遺跡はない
近畿説の課題
坂靖(2021、p.44)は近畿説の課題として、(1)纏向遺跡の規模が北部九州、大阪湾岸の規模と比較して小さいこと、(2)楽浪系土器が纏向遺跡から出土していないこと、の2つを挙げた。
しかし、1点目について寺澤薫(2024)は出現期の纏向遺跡の規模は東西約2km、南北1.5kmと同時期の池上曽根遺跡(大阪湾岸)、板付遺跡(北部九州、環濠は東西約80m、南北約110m)に比べて大きいと主張している(寺澤薫(2024、p.67))。
2点目は楽浪系土器の出土の有無が邪馬台国の判定要因ではないと指摘できる。なぜなら、魏から邪馬台国の使者が来たのは、全部合わせても3回であり、楽浪系土器は魏の使者の経路ではない遺跡からも出土しているので、楽浪系土器の出土は判定要因にはならないと考える。また楽浪郡は314年まで存続したが、卑弥呼が献使したのは帯方郡であり、楽浪郡ではない。238年に魏が公孫氏を滅ぼしたその翌年に卑弥呼が献使したのである。すなわち公孫氏が支配してる間は献使していないのだから、公孫氏とは良好な関係を築いていなかったと考えられる。
邪馬台国の方角
邪馬台国近畿説の唯一の欠点は「方角」である、この原因は当時の中国の地理感が影響しているとみられる。渡邊義浩(2012、)は「陳壽が観念する邪馬台国は会稽郡東冶県の東方海上に位置付けられる」としている。その原因を2つ挙げている。室賀信夫(1956)を引用して、裴秀は当時としては精巧な地図である『禹貢地域図』とそれを縮小した『地形方丈図』を作ったとされる。そこに倭国が描かれていたと推測されている。『地形方丈図』は唐代まで伝えられていた。そこには倭国は会稽郡東冶県の東方海上に描かれていたと推測されている。
次になぜ陳壽が倭国を会稽郡東冶県の東方海上としたかは、政治的な理由が考えられている。当時の中国は魏・呉・蜀の3国鼎立時代であった。陳壽は魏の後継政権である斉の役人であったから、呉の背後にある倭国は戦略的な価値が大きいと認識していた。従って陳壽が『三国志』を執筆するときの種本とした『魏略』より倭国に南方的な要素を追加している。呉に対抗できる南の国として倭国を描いているから、倭国の国の人口、距離、方角は操作されているとみなければならない。したがって『魏志倭人伝』から邪馬台国の位置を定めることは不可能とみなければならない。
邪馬台国に致る距離
『魏志倭人伝』には帯方郡から邪馬台国までの距離を帯方郡から1万二千余里と書く。これは直接的には『魏略』の数字を用いたが、これは大月氏国(クシャーナ朝ヴァースデーヴァー王)との釣り合いで等距離に観念的に位置付けられたものである(渡邊義浩(2012、p.133))。大月氏国は「親魏大月氏王」と卑弥呼の「親魏倭王」と同等に対置されている。 当時は、遠くの国から使者が来訪することは、天子の徳を慕って来ることという理念があった。つまり遠ければ遠いほど皇帝の徳が高くなり、政治的な威信が高まる。それゆえ、一万二千余里は実際の距離ではなく、当時の世界観による観念的な数字である(渡邊義浩(2012、p.124))。当時の中国では『礼記』王政編の王政九州から『周礼』の方一万里の世界が観念されていた。中心に王畿があり、次に(1)侯服、(2)甸服、(3)男服、(4)采服、(5)衛服(ここまで中国)、その外側に夷狄があり、(6)蛮服、(7)夷服、(8)鎭服、(9)藩服の九服が定められていた。(6)以下が夷狄の居住地域である。その外側に荒域がある。帯方郡から狗邪韓国までの七千里は(5)衛服の範囲である。対馬国から一支国まで千里、伊都国から奴国まで百里、奴国から不弥国まで百里、不弥国から投馬国を「水行二十日」、投馬国から邪馬台国を「水行二十日、陸行一月」として合計一万二千余里とした。つまり、不弥国以降の距離を書かないのは、合計一万二千余里に収めるためであった。
纏向遺跡の土器の集積
纏向遺跡には列島の各地から人とモノが集まっている。九州の土器はほとんどない。土器の集中と移動は邪馬台国と関係があるとみてよい。邪馬台国の時代は九州より畿内が中心となっている。纏向で発見された宮殿と思われる遺構が庄内3式期のものとすれば、卑弥呼の時代と一致する。方位を一致させている建物の計画性や柵に注目される(大塚初重(2021),p.173-176)。纏向に土器の移動と集中がみられることは邪馬台国の条件を備えている。北部九州で列島の各地から土器が集中する遺跡は見当たらない。
鉄器の出土
九州説に有利な考古学的根拠は鉄器の出土数が大和を圧倒しているということを安本美典等が主張する。これについて大塚初重は3点の検討課題を挙げる。第一に九州では緊急の墳墓調査が日本海沿岸で行われているが、大和では墳丘墓の発掘があまり行われていないこと、第二に土壌の性質の違いである。シルト状の粘土質の土壌と、北部九州のような花崗岩地質の土壌とでは鉄器の遺物の保存が全く異なる(大塚初重(2021),p.94-96)。第三に大阪湾湾岸の遺跡からは鉄の遺物の出土がかなり多い。鉄が残りにくいという土壌を考慮すると、鉄器の出土数で邪馬台国近畿説は成り立たないという主張は慎重にする必要があると述べる。
しかし、3世紀中頃の前方後円墳である奈良県桜井市のホケノ山古墳からは素環頭大刀、鉄剣、鉄鏃、鉄製農工具類が出土している。また黒塚古墳からも鉄刀、鉄剣、刀子、U字形鉄器、小札革綴冑、鉄鏃が出土している。埋葬条件が良い場合(埋葬方法が適切で、盗掘被害などがない場合)は鉄器が出土しているので、鉄器が全くないわけではない。結果的に出土した数量だけでいうのは、問題である。
九州説の課題
大塚初重は「邪馬台国九州説の一番の弱点は、これといった卑弥呼の墓の候補は九州内で見当たらないことであろう」と述べる(大塚初重(2021),p.103)。かっては卑弥呼の墓の候補として平原王墓(平原遺跡)を考える研究者がいたが、現在はいないようである。渡邊義浩(2012)は、「2世紀の北部九州の弥生遺跡の優位性が、3世紀に入ると失われる」と書いている。
国制(刺吏と司隷校慰部)
当時の中国の国制では、中央に司隷校慰部を設置し、地方に刺吏を置く。伊都国には一大率が置かれ、刺吏がいたと書かれる(自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史)。刺吏がいたということは、すなわち中央(首都圏)ではないことになる(渡邊義浩(2012、p.156))。渡邊義浩は文意解釈から邪馬台国は九州にはないことが証明できるとする。
放射説と短里説
九州説の距離の克服解消法として、放射説と短里説とがある。
放射説
放射説は白鳥庫吉の弟子の榎一雄が提唱した説である。行程のうち伊都国以後は伊都国を起点としてそれ以後の国々への行路が書かれているとする説である。邪馬台国が九州にあったという結論ありきで、読み替える説である。末蘆国から一大率という女王国の入口である伊都国に入り、その先は奴国、不弥国、投馬国、邪馬台国へと順次移動する記述になっているのが、これを、伊都国を中心として放射状に記述しているとする。>
榎は「新唐書」「地理志」に引かれている「賈耽」の記述を参考にしている。しかし、倭人伝の原文を素直に読めば、伊都国以後だけを放射状に読むのは、無理な解釈にみえる。なぜなら、放射状に読むためには起点の伊都国まで戻る行程となるから、なぜ、毎回伊都国まで戻るのかを明快に説明することができない。
また榎一雄の邪馬台国比定地は、筑紫平野の御井である。現在は、福岡県久留米市に属する地域である。それまでの九州説論者が比定した福岡県山門郡では、人口扶養力がないと判断した結果である。伊都国を福岡県糸島市に比定し、邪馬台国まで南へ水行10日、陸行1月となる地点であるはずが、糸島から御井までの距離は100km足らずであるから条件に合わない。
短里説
次に短里説である。当時の中国の一里は414mであったが、古田武彦は魏志倭人伝の里程記事は「短里」で書かれていると主張し、1里が約 76~77mの「短離説」を唱える。しかし、これは成り立たない。詳しくは「短里説」の項を参照されたい。

女王国と邪馬台国は同一か
魏志倭人伝に対馬国、一支国(壱岐国)、伊都国、末盧国]はすべて女王国に従うとされる(統屬女王國」)。この表現では投馬国や不弥国は女王国に従っていないとも読める。しかし翰苑が引用する『魏略』逸文では伊都国の後に、「其の国王は皆女王に属する(其国王皆属女王也)」と記載する(石原道博編訳(1985))。すなわちオリジナルの『三国志』は対馬国、一支国(壱岐国)、伊都国、末盧国、伊都国の全部が女王に従うと書かれていたと推察される。これらの文脈からすれば邪馬台国は女王に統治されているので、女王国と邪馬台国は同一であると解釈できる。

邪馬台国か邪馬一国か
古田武彦は邪馬台国ではなく「邪馬一(壹)国」が正しいと主張する(古田武彦(1977))。確かに魏志倭人伝に「南至邪馬壹國 女王之所都」と書かれている。理由を次の様にまとめている(古田武彦(1992)。
1.現在残る『三国志』の版本はすべて「邪馬一(壹)国」である。
2.三世紀の魏晋朝で「臺」は魏朝の王宮またはそれに準ずる王宮にしか使われない「至高の文字」である。
3.「臺」(台)と「壹」(一)の字形は似ていない。
4.「邪馬壹国」表記に裴松之は何も注釈を残していない。
これに対して山尾幸久は「邪馬臺国(邪馬台国)」の表記が正しいとする(山尾幸久(1986))。その理由は次の通りである。>
1.「邪馬壹国」は11世紀初頭の北宋版で誤刻された表記である。
2.4世紀初頭から10世紀末までに執筆された諸本がすべて邪馬臺国となっている。
4.983年に成立した『太平御覧』が引用する『魏志』でも臺となっている。
5.『三国志』の最古の版本は紹興年間(1131-1162)のもので、これが現存する(南宋本)。宮内庁に現存する版本は巻4以降が残されている。しかしこれより古い写本は存在しない。 残されている刊行本は南宋本を踏襲したものである。
4世紀初頭から10世紀末までに執筆された諸本には、5世紀前半に書かれた『後漢書』、636年に完成した『梁書』諸夷伝などがある(石原道博編訳(1985))。石原道博編訳(1985)は『後漢書』の影印を掲載する。
すなわち『三国志』の南宋本より古い版本がすべて「臺」(台)になっているから、南宋本が印刷時に間違ったと考える方が合理的である。>
したがって結論として「邪馬一(壹)国」が正しいとする説は成り立たないと考える。>

里程と距離、遺跡の検討
帯方郡から邪馬台国への行程記事では帯方郡から狗邪韓国を経て1000余里を渡海して対馬国に至り、また南へ千余里渡海して一大国に至る。さらに千余里渡海して末盧国に至る。そこから東南へ五百里陸行して伊都国に至り、また東南の奴国へ百里、東行して不弥国に百里、南の投馬国へは水行二十日、南の邪馬台国へ水行十日、陸行一月で到達すると書かれる。各国を否定するにはそれぞれ3世紀代の遺跡と対応させる必要がある。以下に各国を遺跡・王墓と対応させる。

比定集落遺跡と王墓                                                 
国名 集落遺跡 王墓 現在の地名
狗邪韓国 金海貝塚 大成洞古墳 慶尚南道・金海市
対馬国 三根遺跡 下ガヤノキ遺跡 長崎県対馬市|
一支国 原の辻遺跡 原の辻遺跡 長崎県壱岐市
末盧国 菜畑遺跡、宇木汲田遺跡 桜馬場遺跡、中原遺跡 佐賀県唐津市
伊都国 三雲・井原遺跡 平原遺跡 福岡県糸島市
奴国 那珂遺跡群 須玖岡本遺跡福岡県春日市
不弥国 江辻遺跡 馬渡・束ヶ浦遺跡福岡県古賀市
投馬国 上東遺跡 楯築遺跡岡山県倉敷市
邪馬台国 纏向遺跡 箸墓古墳奈良県桜井市
狗奴国 一宮八王子遺跡 象鼻山古墳愛知県一宮市


参考文献
1.鳥越慶三郎(2020)『倭人倭国伝全釈』KADOKAWAM
2.石原道博編訳(1951)『新訂魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝』岩波書店
3.西谷正(2009)『魏志倭人伝の考古学』学生社
4.古田武彦(2014)「筑後国の風土記にみえる荒ぶる神をおさめた女王か?」歴史読本、KADOKAWA
5.古田武彦・谷本茂(1994)は『古代史のゆがみを正す』新泉社
6.古田武彦(1992)『「邪馬台国」はなかった』朝日新聞
7.古田武彦(1977)「邪馬台国九州説10の知識」『歴史読本』新人物往来社
8.山尾幸久(1986)『魏志倭人伝』講談社
9.藪田嘉一郎 編訳注(1969)『中国古尺集説』綜芸舎
10.石原道博編訳(1985)『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝: 中国正史日本伝 1』岩波書店
11.大塚初重(2021)『邪馬台国をとらえなおす』講談社
12.坂靖(2021)『倭国の古代学』新泉社
13.寺澤薫(2024)『卑弥呼とヤマト王権』中央公論新社>
14.渡邊義浩(2012)『魏志倭人伝の謎を解く』中央公論新社>

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