支え合ってます。どうも春眠ねむむです。
今回はタイトルの通り、マジでしょーもないジョーク回。ポテチ片手に見ていっていただけるとありがたいです。
「人という字は人と人が支え合ってできている」。元ネタは金八先生だったかな?なるほど、素晴らしい言葉です。
これ、個人的には別に間違っていないと思うんですよね。その辺を遊び半分に語っていこうというのが今回の趣旨です。
まあ新春の悪ふざけということで(?)、生暖かい目で見守ってやっていただけるとありがたいです。
ぶっちゃけただ人を横から見……いや、なんでもないです
強制された支え合い
というわけで、早速。
人という字の支え合いは強制のもとに成り立っています。なぜなら、どちらかが支えるのをやめた瞬間に人という字が崩壊。片方が怪我してしまうからです。
まあ、ぶっちゃけ怪我したところでその人が痛い&関係者が困るだけで、支えるのをやめた側に何かデメリットがあるわけではないのですがね。あるとしても、共感性次第で暗い気持ちになってしまったりする程度です。
正直、法律で「どれだけ苦しくても他者を助けなければならない」と定められたわけでもなし。助ける理由なんてどこにもないのですが……一体どこが強制なのでしょうか?
A.叩かれる
人間という生き物は、バッシング大好きな存在です。誰かを否定し叩くことでなんだか悪を懲らしめた気持ちになれますし、嗜虐欲求も満たせますし、実にいいことづくめです。
で、これと「支えること」がどう結びつくのかというと、要はこういうことです。
支えるのをやめれば、世間から大々的に叩かれてしまう。
支えるのを一方的にやめるということは、いい人=世間にとって恥ずかしくない人をやめるのと同義。人は人を叩く理由をいつも探している生き物なので、善でなくなればその人は悪です。
人間の大好物は善じゃなくて悪の方なんですよ。
だって叩けば叩くほどおいしいんだもん。人を褒めるよりよっぽどアドレナリン出ますよ
隙あらば上に行く
立場や状況といった様々な要因により、どうしてもお互いの支払うコストは不平等になりがちです。これは支える力にも同じことが言えます。
自らが謙り、下にポジションを構えることによって、相手を支える負担は激増します。
人という時で表すと一画目の「ノ」の字に人はなりたがるわけです。で、うまく行けば、人を二画目の「\」に押し込んで、支えとして散々酷使すると。
人という字は、こういう人と人の醜い利権争いや決して平等とは言えない力関係をも表した、大変深い漢字なのです。
上でも下でも支え合い
結局のところ、世間から見れば一画目であろうが二画目であろうが関係ありません。それが「人」という形をなしている限り支え合いです。
そしてその支え合いが崩れるということは、世間からすれば怠慢という格好の叩き台となってしまうことを意味します。
そしてその非難は、支えるのをやめた側・支えることができなくなった側に向けられていくことになります。
もしかしたら、みんなそのことを本能的にわかっているのかもしれません。だから「我こそは」と一画目になろうとする人が後を絶たず、同時に弱っちそうな人間を笑顔で二画目に追いやって酷使しようとするという感じですね。漢字だけに
まとめ
なんだかブラックというか若干陰湿そうな内容になってしまいましたが、ちょっとした悪ふざけ回でした。
人という字を見てたまたま思ったことを適当に掘り下げたら、こんな内容になってしまいました。別に何か嫌なことがあったわけでも人類に絶望したわけでもないので、そこのところはご理解いただければと。
ともあれ、人という字は人の醜い争いや性質も諸々含めた漢字である……というのが、今回思いついたネタです。……これで笑える人っているんだろうか?
さて、後書きで色々言いすぎてもあれでしょう。今回はこの辺りで筆を置かせていただきます。あと逃げる
他にも色々と好き勝手書き散らしていますので、もし興味がおありでしたら色々と見てやってください、それでは!
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