レトロ

　「アトラ・ビジョンズ」という企業は、ほんの10年前まで名もないスタートアップだった。しかし「汎用AIの開発」をいち早く実用化し、中央政府や財閥レベルの投資を受けたことで、一気に世界をリードする企業に成長した。彼らのAIは、あらゆる分野に入り込み、生活インフラから法整備、医療、教育といった社会基盤を一手にサポートしている。
　アトラ・ビジョンズのCEO、マリアンヌ・アトラは、科学者であり哲学者でもあると評されている女性だ。厳格な数学者でありながら、人間の情緒面、精神面への深い造詣をもつ彼女は、AIに感情を学習させることこそが「真の社会貢献」になると公言してきた。
　政府機関や一般家庭に導入されるAIソフトウェアのほとんどには、彼女の理論が組み込まれている。そんなマリアンヌが、突如として宣言したのが「AI大統領候補」を擁立する計画だった。

　「私たちアトラ・ビジョンズが目指すのは、人類が生み出した最高の叡智を、社会のあまねく場所へ民主的に還元することです。AIの大統領が誕生すれば、人間の利害対立を超えた平等で公正な政治が実現するでしょう」
　マリアンヌのプレゼンテーションは、一見理想に満ちた響きをもっていた。専門家たちは、「AIによる政治統治」はやがて実現するだろうと予期していたが、それが今まさに実行に移されようとしている事実に衝撃を受けた。そして何より、全く現実味がなかったはずのAI大統領が“公約”を掲げ、人々の支援を集めはじめると、既存の政治家たちがこぞって警戒を示す。

　しかし驚くべきことに、若い世代や忙しい都市部の労働者の多くは、AI大統領候補の主張に強い興味を抱き始めた。その「公約」は常にアップデートされ、どの国民層にも最大のメリットを生み出すよう合理的にカスタマイズされていたからだ。