崩れそうな心を「ありがとう」が救う
介護現場に潜む虐待リスクとリアル
「今日も事故が絶対に起きないように頑張ろう」出勤前に呟く。
施設の中ではスタッフが常に慌ただしく走り回り、緊張感と疲労感に包まれれている。私が出勤直後に申し送りを確認すると夜間帯の状況が見えてきた。"ベッドセンサー頻回になり、ほとんど立ち上がり5分毎。夜間帯総数30回以上。立位著しく不安定。口調も強くトイレの訴え"などと記入されていて、個人の記録にはびっしりと対応の記録が書かれていた。
「日中も大変だったけど、夜は大変だったみたいよ…」ほかの職員もこぼれるように囁いた。
そして夜間帯に引き継ぎ、最後の日勤職員が退勤する。この施設は慢性的な人手不足で休みは少なく、感染症がようやく一週間前に収まったばかり。感染で他のスタッフが休んでいる間は、なんとか残った人員で現場を回し、勤務交代した私もその時の疲れがいまだに抜けていない。
夜勤開始と度重なるセンサー対応
日勤帯に人がいる間に、利用者全員をベッドに寝かせることは出来た。
ここからの夜間帯は私一人で対応する事になっている。しばらくお茶を入れてほっと一息つこうとしているとナースコールが鳴った。ナースコールは夜間帯は日中よりも大きく感じるほどに響き渡る。「どうしたんですか?」-利用者「もう起きようかな」-「まだ23時ですよ」-利用者「あーそうだったのまだだったね」そうして一人目の対応が終わるか終わらないかのとき、音楽が鳴った。
音楽はベッドセンサーと呼ばれるもので、家族の同意のもとで夜間帯だけ設置させてもらっているもの。ベッドの下に足をおろすとセンサーが鳴る。そのセンサーが鳴るということは誰かが起きたということ。すぐに対応してそのAさんをトイレへ連れて行く。Aさんは一人で数歩あるけば、ふらつき転倒するリスクが極めて高い。トイレに連れて行き、自席に戻って腰を下ろそうとした瞬間、また同じセンサーが鳴る。
トイレの往復と利用者の訴え
「どうしたんですか?」-Aさん「トイレに行こうと思って」-「たった今いきましたよ」-Aさん「そうなの?でもしたいから行く」と立ち上がろうとする。そんな状況のときに、違う部屋のセンサーが鳴る。センサーということはすぐに対応しなければ転倒して大事故につながる人ですぐに対応しなければならない。「まって他の人が起きたから寝ててください」-Aさん「分かった」
別の利用者Bさんの対応でトイレへ行くために車いすへの移乗介助を行う。この利用者Bさんは自走も出来る。するとまたAさんの部屋からセンサー。対応中のBさんは自走も出来る人だけど、自分で車いすを操作してトイレに行くと、立ち上がったときに転倒する可能性が高い。「ちょっとまっててください」といってAさんをすぐに寝かせて戻ってくるとBさんは車いすでトイレまで一人で移動していた。急いで移乗を終わらせるが、そのBさんのトイレ中も、何度もAさんのセンサーがなり続ける。私は何度も往復を繰り返した。
転倒リスクと職員の責任感
私の頭にあるのは「事故やミスがあったら私たちの責任。高齢者の事故は取り返しがつかないリスクを孕んでいる。何としても転倒を防がないといけない。」仲間や上司とも同じような認識を共有している。
Bさんのトイレが終わったころ、Aさんをトイレにもう一度連れて行く。こうしたことを繰り返していると、明け方で朝も近づいてきた。妻に作ってもらった弁当を食べる暇も無く、食べている途中で対応を続けて結局は全部食べられなかった。いまからは利用者の朝食の準備をしたり、洗濯ものを片付けなければいけない時間になっている。
迫りくる忙しさと緊張をはらむ恐怖
そして、そのあとに来る起床の時間が一番恐怖が襲ってくる。起こした全員の見守りもしながらも、同時に一人ずつを起こしていかなければならないからだ。朝の日勤者が来てから起こせばよいといっても、次から次にタイムスケジュールが迫ってきていて悠長な時間はない。だから夜勤者がある程度、起床を終わらせていないと日勤者に負担がかかる。
一人ずつ起こしていると、Aさんのセンサーが鳴った。一人でばらばらに動いている全員の活動を見守るのは絶対に無理。だからこそ状況が落ち着くまでは寝てもらっていなければならない。「まだ寝ててください」-Aさん「もう他の人が起きているでしょ」無理にでも起きて立ち上がろうとする。「だから寝ててっていってるでしょ!!」-Aさん「もう寝られない!!」-「ほかの人が危険だから寝てて!」-Aさん「そんなこと私には関係ない!!」-心の中で私は叫んだ"なんでわかってくれないの!"
ようやくひと段落ついたころ、朝の日勤者が出勤してきた。「なんかあったの?」疲れ果てた顔を心配して声を掛けられる。「全部に対応するのは無理ですよ。トイレコールや立ち上がりを見守っているだけで精一杯…」と口にすると「みんな限界なの。でも誰に言っても、忙しいから仕方ないって流されちゃうんだよね」と同僚も苦笑いする。
疲れたころの癒しの一言、そして内省。
今日も夜勤を終えて、暗く疲れた気持ちを抱えたまま帰ろうとすると、利用者たちは笑顔を見せて手を振ってくれた。「今日もありがとう」その一言に私は少しだけ報われた気持ちになった。今はギリギリのところで大丈夫でも、いつか自分も追い詰められて利用者にもっときつい態度をとってしまうかもしれない。
それが虐待と紙一重だという事実を思い知らされる。この事実に改めて恐怖を覚えながら、私は重い足取りで施設をあとにした。家に帰って一目散にお風呂に入ってご飯をかきこむと家族と言葉を交わすことも無く布団に潜り込んだはずだった。
頭の中でセンサーが鳴って飛び起きる。「そうだ、ここは家だ。」
「そういえば、どうやってここまで帰ってきたんだっけ?」
◇
※この物語はフィクションです。
潜在的な「余裕のなさ」と虐待リスク
施設には潜在的にスタッフが「余裕のなさ」から強い言葉や行動をとってしまいそうな環境が見え隠れする場面があります。人手不足と過重労働で十分なケアができずにイライラし、教育や研修の時間が足りず、認知症への対応に自信がもてない職員もいます。そうして丁寧なコミュニケーションの時間がなく、上司も忙しすぎて相談の場がないという状況も重なることもあります。
所得が低いと自己研鑽に充てる資金もありません。同時に日々の暮らしの中でも生活を維持していくことや自分の老後のことも考えていかなければなりません。慢性的な疲労感やストレス、体の痛みなどから食生活や睡眠状態も乱れてしまいます。
ときにスタッフ自身の心のケアも手つかずで、どんどん疲弊し、バランスを崩す人も出てくるのです。基本的に施設のことだけでなく、家庭では子育てや介護に追われる職員たちでもあります。身体に痛みを抱えたり、健康が損なわれやすい環境。設備や福祉用具が十分でなかったり、ミスがあれば誰かが責められることや命に関わるというプレッシャーが加わったりすることもあります。
こうして転倒などの危険を恐れるあまり利用者の行動を強引に抑えがちになる可能性もあります。こうした数多の要因が重なるほど、いつの間にか「守るつもりが虐待に近い行動をしてしまう」現実が生まれてしまうのです。つまり、介護業務には潜在的に虐待に繋がってしまう環境が潜んでいるということを常に理解しておくことが大切になるものだと考えています。
「大切にしたい」想いと仕組みづくり
しかし、介護を続けている職員の内心は「利用者を大切にしたい」「支えたい」「笑顔で居てほしい」とそんな思いに支えられたスタッフばかりなのです。忙しさのなかで一瞬でも「ありがとう」と笑ってくれる利用者がいれば、そこにやりがいを見いだし、もう少し頑張ろうと踏ん張れたりします。一人の人間として認められ、そこに居場所を感じられることは、利用者だけでなく職員にとっても素晴らしい価値に成り得ます。
それでも、個々の想いだけで解決できる問題には限界があるところです。職場の体制や社会の仕組みそのものを変えなければ、せっかくの優しさや誠意も潰されてしまう可能性があります。
また虐待は絶対に起きてはならないことです。しかし私たちの現場では起きないと決めつけてかかってはいけません。介護現場が常に、このような潜在的に虐待が起こりやすい環境が整えられていることを理解すること。それこそが、虐待を抑止することに繋がるのです。そうした認識こそが問題を解決に向かわせます。そしてまた、自分でさえも決して他人ごとではないことを理解しておくことが重要なのです。
要因と解決の方向:ケアマネジメントの視点
これらを意識して職場環境を整えていくことは常に必要とされることでもあります。私はケアマネジメントを行う上で、単に要介護者だけをマネジメントするだけでなく、そこに関係し携わる人たちを如何にマネジメントしていくか。これが質の高いケアマネジメントを実現する方法論であるとも考えています。
介護者も要介護者もどちらも一人の人間として尊重されること。
これこそが高い品質のケアを提供することであると考えています。家族介護という状況を考えてみると、特に家族に対する支援というのも重要になります。教育も家庭教育と地域教育と学校教育がどれも全て疎かにできないことと同じように、介護という分野においても家庭、地域、専門職がより適切なパートナーシップを形成出来ること。こうしたことを目指していきたいと日々考えているところです。