春の海 ひねもすのたり…椿の海
2025年が始まりました。平穏無事な一年になることを願いたいものです。我家の初日の出を写真に収めました。この陽が明るい未来を照らし続けてくれることを希望します。
「春の海 ひねもすのたり のたりかな」与謝蕪村の俳句ですが、急かず慌てずゆったりとした時(人生)を日々過ごしていきたいと考えています。
今回のブログは“春の海“ではなく、「椿の海」の話です。
江戸時代まで銚子市の西側、旭市の北の北総地域に大きな湖が(潟湖)ありました。「椿の海」と呼ばれていて、この湖は東西に12km南北に6km、面積は東京ドームの一千倍、諏訪湖の3倍ほどの5100haの広さがありました。しかし水深が2mほどで水量が少なくて広範囲の稲作には十分ではありませんでした。西側にある丘陵地からの川は、この潟湖には流れずに北西部に流れているために、太平洋側の地域は稲作に充分な水量がありませんでした。
江戸時代に入り、徳川家康による利根川開発が始まり、下総地域の治水と水路の改善策で江戸の暮らしはよくなってきましたが、人口の増加による食糧(米)の増産は喫緊の課題でした。全国各地で新田の開発が進んでいきます。
「椿の海」は水源地でしたが、低地にあったことと保有水量も少ないことで、狭い地域のみだけに恩恵がありました。この海(湖)の開発願いを1620年ごろに江戸の杉山三右衛門が幕府に出したのが最初といわれています。不許可となりますが、1670年ごろにも江戸の米問屋である「白井治郎右衛門」が干拓の計画を願い出ました。彼は「椿の海」から水を抜いて干拓すれば、田畑ができて沢山米が取れると考えました。
幕府による現地調査が行われましが“水源の消滅は周辺の村々が渇水被害をうける”ため許可できないと判断しました。そこで白井治郎右衛門は幕府の大工頭であった「辻内刑部左衛門」を仲間に加えて申請しました。幕府の事業で実績のあった辻内が発起人に加わったことで、幕府は周辺の水田が「水不足に陥らないこと」を条件に許可します。
干拓の途中で「椿の海」の水を太平洋側に流す新川(刑部川)を掘りますが、堰を切った時に下流域の水田や家が洪水で被害を受けました。後に水不足で干ばつの被害を受けたりしました。およそ二年後に干拓事業が終わり、稲作が始まりました。当初は二万石程度の水田でしたが、このあとも「椿の海」の干拓地の整備が進められ、25年後の元禄8年(1695年)に、ようやく検地が行われて18ヵ村の新田村が誕生しました。そののちにその大きさから干潟八万石とも呼ばれました。
ただ、自然の営みを人工的に変えた功罪は干ばつを始め、人が増えて水田が多くなったことで水争いなど、後世に禍いが長く続くことになりました。〜〜この開発以来300年を越える水争いの苦しみから、この地域の人々がようやく解放されたのは、昭和26年、利根川から揚水する「大利根用水」の完成でした。グーグルマップからの写真です。JR笹川駅の北側にある国営の揚水場です。ここから旭市の穀倉地帯に流れる用水路を経て、太平洋に流れでます。受益面積9200ha の農業用水となっています。
〜グーグルマップから引用
これで安泰となったわけではありません。更なる禍いは、昭和30年以降、利根川の逆流で塩害が発生し始めたのです。塩害の直接的な原因は、工業用水などの利用が増加し水量が減ったことによる渇水、更に下流域を浚渫したことで海水が遡上する様になったのです。
昭和36年に根本的解決策として「河口堰」設置が計画されました。昭和40年11月から総工費130億円で工事が着工され6年の歳月をかけて昭和46年4月に完成しました。これでようやく塩害問題が無くなりました。グーグル写真の右の方にあります。
江戸時代の新田開発から何代にもわたり人間の知恵と努力と辛苦を経験、そして350年以上の時を過ぎて現在の平穏が訪れました。旭市にある「大原幽学」記念館に資料があるそうです。「椿の海」は恐らく穏やかな湖で、ここで釣り糸をたれる人、投網で魚を獲る人、この風景を観ながらゆったりとした時間を過ごしていた人々がいたことと思います。
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