瞑想法はたくさんある。OSHOのところでもいろいろある。なんでもシバ神は100くらいの瞑想法を残したらしい。それについてはOSHOの本が出ている。巷で流行っているマインドフルネスもいい。禅と同じだ。
お釈迦さんの時代にはただ座るだけの瞑想、座禅とかヴィパサナとかいわれるものがシンプルにあっただけらしい。それから今大いに流行っているヨガも、究極的には悟りを目的にしたものらしい。ヨーガスートラというのを読めばわかる。
さて僕のお勧めはというと、座る瞑想はいいとして、動きのある、歩く瞑想とか、ドライブする瞑想とかがある。僕にとって、悟りの直前だが、ドライブがいい瞑想になっていた。音楽も聴いた。ニューエイジのものもあったが、日本のポップスもあった。はっきりいって、ヘビメタとかハードロックは瞑想には不向きだと思う。しかしそれ以外の音楽は何でもいいのではないかと思う。僕の場合オペラも聴いていた。
悟りに至るには、いくつかの道があるそうだ。瞑想の道、愛の道、戦士の道とかだ。僕の場合それは瞑想の道であったと思う。孤独な瞑想的に在る時間が多かった。愛の道にもいろいろあるけれど、パートナーを見つけるのが最も一般的なものだろう。
戦士の道ということでいえば、現代スポーツの多くをこの範疇に入れてもいいのではないかと思う。昔は今ほどスポーツのようなものがなかった。今はスポーツマンがサムライと呼ばれる時代。やってることも、まあ戦士と言えるようなものだ。僕は運動神経はいいほうだが、スポーツは大学を卒業してからはやっていない。武道などが戦士の道に近いように思われるが、これは現代逆に戦士の道から遠くなっているような気がする。総合格闘技などは戦士のものだろう。ボクシングなどもだ。野球などもだ。
さて、何の目的で瞑想をするかだ。人によっては社会的成功や現世利益のためであったりするだろう。そういうことを否定はしないが、僕独特の理解がある。悟りは一部の人のものだ。全人類の魂が悟るとは到底思えない。多くの人は生まれ変わりの世界、輪廻の世界にある。そういう生まれ変わりの人々にとっては社会的成功や現世利益が目的になっても構わないと思える。何度も成功や失敗を繰り返して輪廻の中に在る。それがむなしいと思う少数の人だけが悟りのために瞑想する。悟れば永遠に輪廻の世界からは抜け出て、魂として存在する。不老不死の体だ、魂だ。僕はどちらかを勧めるものではない。どちらでもいいと思える。しかし自分の得意分野は悟りを目的とした瞑想だ。
座る瞑想をするのなら、なにも床に結跏趺坐する必要はない。椅子を使えばいい。しかし背筋は伸ばしておいたほうがいいだろう。目は閉じるのと閉じないのがあるが、僕は閉じるのしか経験がない。思考やイメージ、感情や気分を見守る。観照する。ただそれらに気づいている。反応しない。距離を保つ。無関心でいる。すると思考などが減少してくる。そこで成功のイメージなどを入れるのが現世利益型の瞑想だろう。自分でマインドを操作する。悟りのための瞑想ではいつまでもそれを見守る。自分でイメージや思考などを起こさない。その違いは大きい。前者は無心の境地には至らない。後者は何生かかるかはわからないが、悟りに至る可能性がある。何生かかるかわからないというのがポイントだ。私は探究者時代、今世で悟れそうな探究者にはほとんど出会わなかったからだ。彼らには長い道のりが待っている。
さて少々長くなった。
今日はこれくらいで。