伊豆の土肥温泉に向かう前に「MOR美術館」に寄りました。木版画の吉田博は知りませんでした。ただ時間があるので美術館に寄ってみよう程度のことでした。
しかし、それが大きな幸いとなりました。
美術館の概要を引用します。
<<近代風景画家の第一人者、吉田博(1876-1950)は、風景を描く際の心得として「風景にやどる真の美を見ひらき、風景のもつ美しき姿の深い理解がなくては、真の風景画を描き得るものではない。」とし、自ら体感した風景を作品にしました。特に、後半生に傾倒した私家版木版画では、油彩画のタッチと水彩画の色彩表現を用いた洋画技法を取り入れ、未開拓の新しい芸術を創造しました。
本展では、合計7年間を超える外遊から生まれた「米国シリーズ」、「欧州シリーズ」や、刻一刻と変化する海を捉えた「瀬戸内海集」シリーズなど、木版画の代表作約70点を展観します。また、博が描いた風景の現在の姿を撮影し、独創的な技術で表現された作品の魅力をオリジナル映像で比較展示します。
「今と昔の風景」とありますように博の描いた作品の現在の風景を撮影し(館のスタッフ)比較しているコーナーもあります。
また、一枚の版画の一日(朝・昼・夕方・夜)を摺り分けた作品もありました。版画だから可能なことですね。展示作品全てに魅せられましたが、図録や絵葉書は販売していないので美術館のPHに掲載されている作品より選びました。(ついでながらどういうわけか絵葉書は日本で印刷販売できないらしく海外版の絵葉書集を入手しました。)
左「欧州シリーズ ヴェニスの運河」 1926 年
右「東京拾二題 亀井戸」 1927年 88度摺を重ねたとのこと
「米国シリーズ レニヤ山」 1925年
「印度と東南アジア タジマハルの朝霧 第五」 1932年
「欧州シリーズ スフィンクス」 1925年
美術館の紹介によります吉田博史プロフィールは
「吉田博(1876–1950)は、久留米藩士・上田束の次男として、 久留米市に生まれました。18 歳で上京して小山正太郎 (1857-1916)の主催する画塾・不同舎に入門し、本格的な画業を開始しています。明治 32 年(1899)、23 歳の時、描き溜めた水彩画を携え、 1か月分の生活費のみを持って、後輩・中川八郎とともに決死の渡米を行いました。この時、デトロイト美術館等での展示即売会の大成功によって資金を得て、ヨーロッパも巡って 2 年後に帰国しています。さらに 2 年半後には、のちに夫人となる義妹ふじをと共に再び渡米し、3年以上をアメリカ、 ヨーロッパで過ごしました。これらの外遊によって古今の西洋美術に触れると共に大いに画技を磨き、日本最初の洋画団体である太平洋画会の中心人物として活躍しました。大正 9 年(1920)、44 歳の時、版元渡邊庄三郎との出会いにより、初めての木版画「明治神宮の神苑」を出版しました。 当初は版画の下絵を制作する程度でしたが、関東大震災後、 被災した太平洋画会会員の作品販売を目的に渡米した際、米国で日本の版画が大変な評判であることを知り、自ら習得した西洋の写実的な表現と日本の伝統を生かした新しい木版画創造の必要性を実感するに至りました。帰国した大正 14 年 (1925)、49 歳の時、初めて自ら監修した木版画の作品を発表し、その後の後半生は油彩画と並行し木版画の制作に情熱を傾けました。」