徒然草を読んで 兼好の印象

先日、放送大学のテレビ番組を見ていたところ、「徒然草」に関する講義をしていた。「大欲は、無欲に似たり」との一節が紹介されており、興味が湧いた。正月休みに読もうと思っていた。

Amazonで探していたら現代語訳が何冊か出ていた。カスタマーレビューで「放送大学の教授」と書かれていたので、島内裕子校訂/訳「徒然草」を購入した。丁寧で分かりやすい訳で読みやすかった。読んでいて、迷子になって立ち止まることはなく、転ぶことなく戻っては進む感じで、実際に「通読できる徒然草」として楽しめた。

率直な感想は、「通読することで兼好に対する印象が変わった」である。

漢文を読み、和歌を詠み、随想を記すのは、生活を約束されていた知識人だからであろう。隠居した法師として世間を批評している印象が強かったが、一流の知識人として批評をしているのだと思う。

当時の知識人はどのように生活の糧を得ていたのだろうか?第二百十七段で、大福長者が「貧しくては、生ける甲斐無し。富めるのみを、人とす。」と述べているのを読むと、貧しい者がいかに過酷な環境にあったかが分かる。大福長者も自分の経験則を「究竟は、理即に等しい」と言われれば、パトロンとしてお金をはずみたくなると思うが、どうであろうか。

褒め上手だと思った。

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