三島由紀夫さん◆私が「大した役者ね、若造のくせに。『潮騒』読んで、彼、ムリしちゃったな、と思った」とすべりをやらかしたのが、又何かの新聞に出てしまって、<中略>試写会で顔をみかけた時私がイヒヒと首をすくめてみせたら、彼は、遠くの方からゲンコツを頭の上で、二三度ふりまわしてみせた。
とにかく全然お金くれないんですよ。東宝が分裂して新東宝になったら、今苦しいからもうちょっと待って、もうちょっと待ってとお金くれないので、暮していけなくなったんです。<中略>働けど働けど、一銭もお金くれない。だから、小津安二
郎さんの「宗方姉妹」なんていうのは、あれ只ですよ。
私は中国のことわざにある「昼のために夜がある」という言葉が好きだ。苦労は苦労のためにするのではなく、明日という光明に向かっての下塗りだと思わなければ、とてもじゃないが無数の「恥」をブラブラぶら下げて生きてゆけるものではない。
「浮雲」でやめようと思ったんですよ。結婚することになったから。だから、少し一生懸命やってるわけ、あの映画は。(笑)最後だと思ったから。ところがどういたしまして、やめられませんでした。
私は北海道の函館で生まれた。大正十年の函館の大火事に続いて、生母の死など、もろもろの家庭の事情の末に、首からゴム製の乳首をブラ下げた幼女の私は養母に手を引かれて上京した。生母の顔もウロおぼえ、函館の印象もほとんどないままに、東京は自然に私の「故郷」になった。
昭和四十七年八月に刊行された「小津安二郎・人と仕事」という本は、本の売れゆきなど度外視した、とてつもなく立派な本である。<中略>百人の余にわたる文章が連なっているが、いずれも小津安二郎に対する切々たる追慕の言葉ばかりである。
私は、学校の教科書や先生からは、何一つ教わりませんでした。でも、撮影所という実社会で働くたくさんの人たちから、礼儀作法をはじめとして人付き合い、気働き、そして人生の甘さ、苦さ、そういうものまで教わりました。
身辺整理にメドがついたころから、私たちは、今後の(老後の、というべきか)生きかたについて話し合った。「生活を簡略にして、年相応に謙虚に生きよう」。それが二人の結論だった。