本当は認めたくないけれど
私には人を思いやる心、気持ちが欠けている
そのことに罪悪感がある
自分はなんてひどい人間なんだろう、と思う
還暦すぎて、60年以上生きてきたのに、これだ
そしたら、こんな言葉に出会った
「本来、思いやりなどは幼い時から主として母の態度を摂取して身につくものなので、大声でいいきかせてみてもできるものではないでしょう」
ー人間ごと来談簿 247p 木田恵子著
そうか・・・そうなのか・・・
私は、母が私を思いやってくれた、とか母と心を通わせた、という記憶がない
もともと母との思い出がほとんどない、というかほとんど憶えていないのだが
だから、私には人を思いやる、ことができないんだ
どうやって人を思いやればいいのか、考えると、頭が真っ白になる
どうしたらいいかわからないので、頭も心も、ほぼパニックに陥る
それは、私が悪いから、ではなく
してもらったことがないから(してもらったと感じられなかったから)
わからないだけ・・・?
見たことも、食べたこともない料理の味がわからないのと同じ・・・?
だったら、人を思いやる気持ちがわからない自分を責めなくてもよい、はず
思いやりの心が持てない自分を自覚するのは、痛すぎるし、辛い
でも、母から思いやってもらえたと感じることができなかった子供時代の私は、どんなに心細く、寂しかったか
内心は寂しくて、心細くて、怖くて、不安でたまらなかったのに、それでも平気なフリをして、突っ張ってきた子供時代の私をなぐさめて、労わってあげる必要がある
でも、私には今、その平気なフリをして心のうちを見せないよう頑張っている小さな自分を、どうやってなぐさめたらいいのか、わからない
自分に優しく、どうやったらこれができるのか
私の中には、まだまだ批判的な親、子供をどう扱ったらいいのかわからず当惑する親が住んでいて、小さな私を厳しい目で見つめたり、突き放したりしている
長いことひとりでがんばってきた小さな私に寄り添い、深い心の傷をいやしてあげることが、私の大切な仕事
それは頭でわかっているのに、どうしたらいいのかわからないのが、今の私
そんな自分をまた責めてしまうんだけど
責めてしまう自分さえも、「あなたが悪いんじゃない」と弁護して「それでいいよ」と受容してあげる
これが練習
私の理解と歩みは、カメの歩みのように遅いのかもしれない
私は、自分がカメのようにのろい、ってことを、受け入れないといけないんだ