先日、ある葬儀の際、司会の方から「真言宗の場合の浄土は『密厳国土』でよろしいですか?」と確認してこられました。ナレーションを入れるにあたり、宗派ごとにちゃんと考えて、変えておられるのは、さすがプロだなと感心いたしました。
密厳国土とは、真言宗の本尊である大日如来のいらっしゃる浄土のことです。では、その密厳国土とはどこにあるのでしょうか。
ひとつは、どこか遠くに大日如来さんを中心とした素晴らしい浄土があるという考え方です。西方に阿弥陀浄土、東方に薬師瑠璃光浄土があるようなイメージです。
次に、これから私たちが住んでいる世界を「密厳国土」に変えていきましょう、という意味で用いる場合です。この場合、密厳国土という理想の世界は、どんどん広げていかなければならないのであり、私たちはその建設のためにフロンティアで開拓しているようなイメージでしょうか。
最後は、私たちがいるこの世界は既にれっきとした密厳国土である、という考え方です。どうですか。納得できますか。こんな苦労ばっかり多い娑婆の世界が浄土であるわけがないじゃないか。むしろ鬼のような悪人もいっぱいいるし、地獄と言われた方がしっくりくるわ、と思われるかもしれません。
そこで、こんなお話をさせていただきます。
以前、自分は先達をしておりました。先達とは、四国八十八か所や西国観音霊場などで、巡礼の方々を案内する仕事です。最近は、旅行会社が色々なツアーを組んでくれていますが、多くの場合、参加される方の負担が無い様に、毎月一回ずつ、一年くらいかけて結願するようなものが多いようです。一年がかりとなりますと、毎回ご一緒するわけではないですが、巡礼の方々と何回かご一緒するうちに、なじみになり、最後の結願のときには、まるで卒業式のような感じで、一緒に感動をさせていただきました。
これは、奈良出発の四国巡礼の方の話です。大窪寺さんで結願を迎えました。最後の勤行をご一緒した後は、皆さん笑顔で記念写真をとったりされていました。すると一人の女性が自分のところへいらっしゃいました。何度もご一緒した方です。私が「結願おめでとうございます。」と申しますと、その方は笑顔でこうおっしゃいました。「ありがとうございます。おかげさまで無事に結願出来ました。実は私、病気なんです。もう手術することもできないんです。でも、お遍路に来ているおかげで状態が落ち着いていて、今度結婚する娘の花嫁姿を見ることができるんです。本当にありがとうございました。」自分は、何も言えませんでした。娘さんも何度かツアーに参加されていて、存じ上げているだけに、自分も感極まり、ただただ一緒に涙するしかできませんでした。これがドラマや映画のフィクションの世界ならば、「おかげで病気が治りました」となるのでしょうが、現実はそうとばかりではありません。人によっては「せっかくお遍路をしたのに、無病気が治らなかったじゃないか。」と不満を持つかもしれません。でも、この方は違ったのです。心から感謝をされていたのです。同じ出来事に遭遇しても、とらえ方、感じ方は本当に人それぞれです。
本当に「先達」と言いましても、今振り返ると、人生の先達の方々に教えられてばかりの日々でした。
次にお話する方もそんな方です。こちらは埼玉出発で、坂東の観音霊場を回るツアーでのことです。ある札所で、ある方がどうしても叶えてもらいたいので、お経を唱えた後の祈願だけでは物足りないとおっしゃいました。そこで「特別な願い事がある方は、納め札、巡礼の際にご本尊様に名刺代わりに名前や住所を書くもの、のうしろに書いてくださいね。」などと申し上げました。すると、そのやりとりを聞いていたであろう別の女性、よくご一緒する50代くらいの女性が話しかけてこられました。
「私はね、もう仏さまにお願いなんか無いのよ。ただただ感謝の気持ちを伝えて回っているだけなのよ。」そして、つづけてこんなお話をしてくださいました。その方は若いころに四国を歩いて回っておられたそうです。詳しくはおっしゃいませんでしたが、色々と悩みを抱えておられて、どこかで命を絶とうという思いで回っておられたそうです。どこのお寺かわかりませんが、その雰囲気を感じ取ったご住職が、その方に声をかけて、お寺にあげて、お接待をしたそうです。そして、最後にいくらかのお金を渡して「もう少しだけ頑張ってみなさい。」といって送り出してくれたそうです。その後、また歩き出して山中を歩いていると道端にあるいくつかのお墓が目にはいったそうです。これらはお遍路の途中で亡くなった方のものだったそうです。「この人たちは、生きたいのに生きることができなかったんだな。自分はそうでないのに、死のうとしていた。この方たちのためにも頑張らないと。」と思い、踏みとどまったそうです。その方は看護師さんで、被災地のボランティアなんかにも積極的に参加されており、そのときも「明日から〇〇へ行くのよ」と仰っていました。自分も歩き遍路の経験がありますが、山中の峠道なんかには、およそお墓とはいえないような小さな石の、お遍路さんのものらしい墓標がたくさんあります。その方も、そのときまでにそんなところを歩いてきたはずです。でも気づかなかった。目には入っていたのかもしれませんが、「この人たちの分までも生きよう。」なんて気持ちにはならなかったわけです。なぜ同じような景色を見たのに、見え方、感じ方が変わったかと言えば、親身になって自分のことを考えてくれたご住職への感謝の気持ちのおかげだったのではないでしょうか。
お大師様の言葉にこうあります。「自心の天獄たること知らず 豈に悟らんや唯心の禍災をのぞくことを」 この世を地獄とするのも浄土とするのも私たちの心次第だとおっしゃるのです。そういう意味では、この私たちの世界も、密厳国土に違いないのです。
「人身受け難し いますでに受く」 私たちがこの世に人としての生を受けたのは、奇跡に近いことです。生きているのではなく、生かされている。そのことに感謝して、がむしゃらに生きるべきなのに、「人生は苦なり」と澄まし顔したり、人生なんてこんなものさ、と適当に過ごしているだけではもったいないと思います。
中には、「そんなの奇麗ごとよ。私の周りには鬼のような人しかいないのよ」という過酷な状況の方もおられるかもしれません。大丈夫です。たとえ、世界中が敵に思えたとしても、最後まで味方でいてくれる方がいらっしゃいます。それが、仏様であり、お大師様です。心が折れそうになった時にはどうぞすがってください。「南無大師遍照金剛」と声に出してすがってください。そして、心が軽くなったなぁ、救われたなぁ、この世も案外悪くないなぁ、と思えるようになったら、今度は、是非とも恩返しに、お大師様のお手伝いをしてください。それは、みなさんが誰かの味方になってあげることです。一人でも多くの方が、この世は「密厳国土だな」と実感できるように、そして、いつの日か、誰しもが素晴らしい密厳国土とおもえるような世界にしていこうではありませんか。