過去記事にて古代における日本とペルシャ(イラン)との関連をいくつか示した。
今回は「アビコ」という地名が大阪、千葉にみられる。このアビコからイランとの関係を追う。次の流れで示していく。
・難読の市名、我孫子
・依網男垂見(よさみのおたるみ)
・大依羅神社(おおよさみじんじゃ)
・あびこ観音(あびこ山大聖観音寺)
・イラツメとイラツコ
・千葉の我孫子
・水神山古墳
・千葉に残る蘇我と我孫子
■難読の市名、我孫子
常磐線沿線の駅名、難読の市名として知られる「千葉県我孫子市」。
我孫子とは何か。
以下に記していく。
■依網男垂見(よさみのおたるみ)
日本書紀において「依網吾彦男垂見(よさみのあびこおたるみ)」という人物がいる。
「アビコ」の名前が入っている。
このアビコの当て字は「吾彦」である。
日本書紀、神功皇后摂政前紀仲哀天皇9年9月10日条。
神功皇后が新羅に遠征する際のこと。
和魂(にぎみたま)は王身(みついで)に従いて、寿命(みいのち)を守らむ。
荒魂(あらたま)は先鋒(さき)として師船(みいくさのふね)を導かむ。
と、神から教えを受けた。
これによって皇后により、依網吾彦男垂見は神主に選ばれたという。
「住吉大社神代記」においても、同様の伝承が記されているという。
この依網は依羅とも称される。
■大依羅神社(おおよさみじんじゃ)
主祭神は
・建豊波豆羅和気王(たけとよはずらわけのきみ)。
第9代・開化天皇の皇子であるという。
・底筒之男命(そこつつのおのみこと)
・中筒之男命(なかつつのおのみこと)
・上筒之男命(うわつつのおのみこと)
依羅(よさみ)はイラとも読める。
大依羅神社の社名・神名の「依羅」は地名を指すという。
依網地域では、古代氏族として依羅氏(よさみうじ)が居住したことが知られるという。
住吉の神の底、中、上のこの3点の位置関係について。
過去記事にて取り上げ、結論として、住吉の神はイスラエルの神であると考察した。
↓は記紀における上中下、底中表の位置関係を取り上げた回
↓はwikipedia、大依羅神社
あびこはやがて仏教を信仰するようになった。
■あびこ観音(あびこ山大聖観音寺)
所在は大阪市住吉区我孫子。
日本で一番古い観世音菩薩の仏閣であるという。
この我孫子の地名はこの地の豪族である依網吾彦(よさみのあびこ)に由来するという。
百済と交易をしていた依網吾彦の一族が百済の聖明王から観音像を贈られた。
そして546年(欽明天皇7年)、この地の人々がその像を祀る堂を建てた。
607年(推古天皇14年)には、聖徳太子がその観音像を祀る観音寺を建立したという。
ここまでより、推古天皇を支えた聖徳太子の時代、依網(よさみ)、依羅(イラ)に関連する人物がいたと推定される。
↓は、あびこ観音寺
■イラツメとイラツコ
古代の5人の男性にイラツコの名前がつく人物がいる。
・菟道稚郎子
・大郎子(おおいらつこ、稚渟毛二派皇子の子)
・波多毗能大郎子(はたびのおおいらつこ)
・嶋郎(しまのいらつこ、仁賢天皇)
・朝日朗(あさけのいらつこ)
がいる。
朝日朗以外は、応神に起源をもつことがわかっている。
↓はイラツコについて取り上げた回
また、女性のイラツメを取り上げた。
イラツメの数はイラツコの数より多い。
イラツコ、そして関連してトジコなどはイランやトルコ、十字などを示す人物たちと関りが深いものと推定される。
↓はイラツメについて取り上げた回
千葉県我孫子市は千葉県の北西部。
北に利根川、南と西に手賀沼を隔てて柏市のある土地である。
鎌倉時代末、1313年(正和2年)の「尼しんねん譲状」(相続をめぐる遺言書)に
「しもつさのくにあひこのむら」(下総国我孫子村)がみられるという。
少なくとも鎌倉時代には我孫子市域が「アビコ」として呼ばれていたという。
それ以前ではどうか。
奈良・平安時代の公式な文書においては我孫子市周辺は「下総国相馬郡」と呼ばれていた。
このため、我孫子という地名は確認されていないという。
大阪や奈良をはじめ全国各地に
・我孫子
・安孫子
・吾孫子
などの地名や人名が認められるという。
これは、ヤマト王権の発達などとともに、各地の豪族との関係の中で、「我孫子」という名前がつけられたのではないか、というのが我孫子市の見解である。
↓は我孫子市、地勢・市名の由来
千葉県我孫子市には、千葉県北西部地区最大の古墳、「水神山古墳」がある。
この古墳も大王や大和政権との深い結びつきからやがて「我孫子」の地名が付けられたと考えられている。
■水神山古墳
所在は千葉県我孫子市高野山。
形式は前方後円墳。
大きさは墳丘長69m。
築造は4世紀末。
刀子、ガラス製の管玉、小玉が発掘されている。
↓は我孫子市、水神山古墳
■千葉に残る蘇我と我孫子
九州・ヤマトタケルの東征時、千葉にはその勢力が来たものと推定される。
弟橘姫は実在の人物、ヤマトタケルの妻とされる。
千葉沖に差しかかった際、風雨にて船が進まず、沈没の危険にあう。
その際、弟橘姫がこれを静めようと五人の姫達とともに海中に身を投じたという。
その中に蘇我大臣の娘がいた。
蘇我大臣の娘は助かり、海岸に打ち上げられた。
つまり、
・弟橘姫は一人で入水したわけではない
・ヤマトタケルの東征の従者たちにのちの蘇我氏と関係の人びとがいた。
と考えられる。
↓は我蘇我比咩神社について取り上げた回
蘇我(そが)の我(ワレ)は吾でもある。
また、蘇我は我、蘇るとキリスト教的なネーミングである。
元は依網吾彦男垂見であり、依羅氏(よさみうじ)の依羅ことイラが関係していると思われる。
ヤマト国の女王の1人、トヨの剣術の指導者は、おそらく西方由来の人物であったと推定される。
もしかするとイラン方面からの渡来者、あるいはその子孫であろうと推測される。
ゆえに歴史としてはどう展開したか。
それは、九州のヤマト国(おそらく阿蘇・有明海付近)、ヤマトタケルが東征。
出雲国でオオクニヌシに会い、国譲りを促し、それらの人びとを従えながら大阪へ向かう。
さらには千葉などから北上。
その北限が福島であると考えられる。
千葉に蘇我、我孫子(依羅、イラ)由来の人物に関連する事象が残るのはこのためと考えられる。
古墳時代以前は豪族はいるものの、その一族の支配どまりであった。ヤマト国は西方由来の渡来民族を参考に王朝文化を目刺し、やがてヤマト王権が確立していったものと見る。
↓でトヨの剣術の指導者を紹介した回
<参考>
・依網男垂見 - Wikipedia
・住吉大社神代記 - Wikipedia
・地勢・市名の由来:我孫子市公式ウェブサイト