龍馬伝 第18話「海軍を作ろう!」
土佐勤王党からも、望月亀弥太、高松太郎、千屋寅之助の3名が入塾する。ドラマでの彼らはこの入塾は藩命によるもので本意ではなかったようだったが、事実はどうだったかはわからないが、この入塾によって彼らの運命は大きく変わることになる。望月亀弥太は土佐勤王党の弾圧が始まったこの翌年、脱藩して長州藩に亡命。そしてその後、池田屋事件にて新撰組の凶刃に斃れる。享年27歳。高松太郎は同じく土佐勤王党の弾圧が始まると脱藩し、龍馬の甥という関係もあて海援隊に参加。龍馬の死後、坂本直と改め龍馬の家督を継ぐことになる。千屋寅之助は同じく海援隊に参加。のちに龍馬の妻・おりょうの妹を妻に娶り、龍馬とは義兄弟の関係になる。維新後、菅野覚兵衛と名を改め、新政府の海軍少佐にまでなった彼は、義姉にあたるおりょうの面倒をよく見たといわれる。こののち土佐勤王党弾圧によって武市半平太たちと運命を共にしたかもしれないことを思えば、池田屋に散った望月はともかく、高松と千屋にとってはまさに命拾いの入塾だった。
岡田以蔵が龍馬に頼まれて麟太郎の護衛をしたという話は、明治中期になって刊行された勝海舟の自伝「氷川清話」に詳しい。「人斬り以蔵」として悪名高い彼だが、後世の私たちに何故か愛すべき人物として伝わるのは、この護衛のエピソードから来るものが大きいだろう。こののち以蔵は麟太郎に頼まれて、ジョン万次郎の護衛もしたというエピソードもある。そのまま龍馬や麟太郎のもとにいれば、後の哀れな運命も避けられたかもしれないと誰もが思うところだが、そう出来なかった彼の律義さが、彼を人斬りにしてしまった要因でもあり、そこが切ない。
「酔えば勤王、覚めれば佐幕」と揶揄された山内容堂。彼は尊王主義ではあり、井伊大老の政策に反対したことで安政大獄に連座して隠居謹慎を命ぜられたものであるが、「尊王」ではあっても「勤王」ではなかった。そこに武市半平太の誤算があった。容堂はあくまで外交問題では開港論で、朝廷と幕府の調停を念願した。いわゆる公武合体策である。したがって公武の対立をよろこばず、その対立を激化し討幕の機会を得ようとする勤王党の態度を不快視した。しかし、一貫して土佐勤王党の主張を寄せ付けなかった吉田東洋とは違い、容堂は時勢を見ながら半平太たちを泳がせた。つまり利用していたのだ。そこに、この山内容堂という人物の強かさがうかがえる。半平太たちにとって東洋暗殺は誤りだった。吉田東洋という存在は、実は山内容堂という大波を遮る防波堤の存在だった。その堤を自ら取り除いてしまった半平太たちは、容堂というとてつもない津波にのまれることとなる。
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by sakanoueno-kumo | 2010-05-03 01:33 | 龍馬伝 | Trackback(7) | Comments(4)
色んな意味で半平太が気の毒になってきました(´・ω・`)【今回の流れ】・勝塾の訓練生を集める為、龍馬と長次郎は大坂に 運良く沢村と再開し、言葉巧みに丸めこんで入塾させる・半...... more
五月皐月、ゴールデンウィークの今日、ニッポン全国ほぼ晴れでした。 五月晴れの空にに泳ぐ鯉のぼりは気持ちよさそうでした。 「龍馬伝~第18話、海軍を作ろう!」 文久3年。 武市半平太:「わたくしに妙案がございます」 勝 麟太郎:「ほっとかれんなら、ほっとい... more
【第18話の視聴率は5/6(木)夕方迄に追加予定】岡田以蔵(佐藤健)が、武市に命じられて勝麟太郎(武田鉄矢)を斬りに行きました。でも、勝の元に龍馬がいて、2人に宥められ、...... more
いよいよ前藩主・山内容堂による武市ら土佐勤皇党の粛清 が始まりましたね{/kaeru_shock1/} 元々容堂は公武合体の中心人物、佐幕派の代表なのですか ら攘夷一辺倒の武市とは相いれる筈がありません{/cat_6/} 数百年の間抑圧されてきた下士や郷氏達のエネルギーが尊 王攘夷思想と結びつき勤皇党を結成、藩の実権を握ったか に見えたのもほんの一瞬。 隠居したとはいえ実際に藩政を動かしていた容堂との考え 方の隙間を埋める事は出来なかったのです{/kuri_5/} 容堂暗殺{/ee_2/}を実行出来...... more
昨日に引き続き実家更新~ながら観だったので手短一言感想です。ネタバレ記事を含みますが個人的感想のみですのでご了承ください。海軍を作ろう・・・・・・って随分と明るいという...... more
大河ドラマを観ながら、山内容堂という人物、何を考えているか判らない・・・そんな存在に見えました。
容堂役の俳優さんの演技力も底知れぬ恐ろしさが出ていて、凄いと思いました。
自らを名君だと思っていた観の強い山内容堂。
実はこの人は分家の出で、本来藩主には無縁の生まれだったのですが、本家の継嗣が次々に早世したため、繰り上がり当選で土佐藩主になった人物です。
そんな出自であったからかどうかはわかりませんが、上士とはいえそう身分の高くなかった吉田東洋を参政に抜擢するといった柔軟な考え方の持ち主でもあったのです。
しかし、上士・下士の差別にはやかましかったようで、武市ら下士の政治活動はよろこばなかったんですね。
一方で暗殺された吉田東洋という人は、幕末土佐の物語などでは権力主義の権化のように描かれることが多いのですが、実は、身分にとらわれず有能な者を登用するといった藩政改革を進ていた人物なんですね。
土佐勤王党は消す相手を間違えた・・・としか言いようがありません。
まあ、それゆえに、敢えて彼らとの差別化を図らなければならなかったのかも知れませんし、それにかてて加えて、分家の出ということもそれに拍車をかけたのかもしれませんが。
そうですね。
おっしゃるように、郷士の妾の子であるという出自が、彼の心の根底にあったのかもしれませんね。
それで興味深いのは、吉田東洋の家系も元をたどれば長宗我部の家臣で、長宗我部が敗れた後も反乱に加わらず、山内家の馬廻役として仕えていたお家で、いわゆる郷士と同じ家柄なんですね。
身分差別が激しかったという土佐藩ですが、特にこの容堂と東洋の時代に一層激しくなったとも言われており、それがもし容堂のコンプレックスからくるものだったとしたら、幕末の動乱の時期にそのような出自の殿様が現れるに至った歴史のいたずらですね。
武市ら土佐勤王党の面々にとっては・・・ですけどね。