「本能寺の変」記念日に再考する歴史のターニングポイント。 <前編>
本日6月2日といえば、日本史上最大のターニングポイントといっていい「本能寺の変」の起きた日です(現代の暦でいえば、6月21日にあたりますが)。
そこで、以前訪れた本能寺跡の写真を紹介しながら、本能寺の変をふりかえります。
天正10年(1582年)6月2日、天下統一を目前にした戦国の覇王、織田信長が、家臣の明智光秀の謀反によって殺害されました。
現在、その跡地には京都市立堀川高等学校、特別養護老人ホーム、本能寺会館などが建てられています。
それ以前は、京都市立本能小学校がありましたが、平成4年(1992年)に廃校となり、その際に行われた発掘調査で、当時の遺構が発見されて話題を呼びました。
それまでは、地名からたぶんこのあたりだったのだろうといった推定でしかなかったんですね。
また、平成19年(2007年)のマンション建設に伴う発掘調査では、本能寺の変において焼けたと思われる瓦や、「能」の旁が「去」となる異体字がデザインされた丸瓦が、堀跡の屁泥の中から見つかっています。
現在は、石碑や説明板が数か所に設置されています。
備中高松城を攻めていた羽柴秀吉から援軍要請を受けた信長は、堀秀政、細川忠興、池田恒興、高山右近、中川清秀らに援軍を命じ、安土城で徳川家康の饗応役を務めていた明智光秀にも出陣を命じます。
光秀は5月17日に坂本城、26日に亀山城に移り、27日には愛宕山に参詣、28日には連歌師・里村紹巴らと連歌会を催しました。
このときの連歌を「愛宕百韻」といい、光秀が詠んだ
「時は今 雨が下しる 五月哉」
という発句が、彼の謀反の決意を表したものだといわれています。
「時」を「土岐」、「雨が下しる」を「天が下知る」と意味し、「土岐氏の一族の出身であるこの光秀が、天下に号令する」という意味合いを込めた句であるといいます。
そう言われればそうも思えますし、こじつけと言われればそうとも言えます。
実際、いつ、どのタイミングで光秀が謀反を決意したのかは、想像するしかありません。
6月1日夜半、亀山城を進発した光秀軍は老ノ坂を東へ向かい、沓掛で全軍を小休止。
そこで、斎藤利三ら重臣に本能寺襲撃計画を打ち明けたといいます。
重臣の中には反対意見もあったといいますが、結局は全軍に「信長公が京で閲兵を望んでいる」と伝え、進路を京都に向かって東に取りました。
そして桂川を渡る頃、全軍に本能寺襲撃を下知します。
「敵は本能寺にあり!」と、言ったかどうかはわかりませんが。
6月2日早暁、明智軍1万3千は本能寺を襲撃。
信長は弓と槍で奮戦しますが、森蘭丸をはじめ、わずかな供廻りの小姓たちの殆どが討死。
信長も肘に槍傷を受けて退き、観念した信長は女達を退出させたあと、殿舎に火を放たせ、炎の中で自刃しました。
嫡子・織田信忠は妙覚寺に投宿しており、変を知って討って出ようとしたが村井貞勝らがこれを止め、信忠は隣接する二条御所に立て籠りますが、光秀軍は御所に隣接する近衛前久邸の屋上から矢・鉄砲を撃ち掛け、信忠も抗戦敵わず自刃します。
日本の歴史が大きく変わった瞬間です。
明智光秀の謀反に至る動機については野望説や黒幕説、朝廷守護説、謀略説など様々な説が乱立していますが、どれも決定的なものはありません。
おそらく、永遠に歴史の謎でしょうね。
小説やドラマなどでは、もっともわかりやすい怨恨説で描かれることが多いかと思いますが、今年の新春時代劇『信長燃ゆ』では、朝廷黒幕説で描かれていましたね(参照:新春時代劇『信長燃ゆ』鑑賞記)。
これも、考えられなくもありません。
ただ、変後の光秀の行動などを見ると、彼ほどの人物にしてはあまりにも無計画すぎる気がして、やはり、わたしは怨恨による衝動的な行動だったように思えてなりません。
光秀は、現代で言うところのうつ病状態だったんじゃないかと・・・。
まあ、これも想像の域を出ませんけどね。
長くなっちゃったので、明日に続きます。
「本能寺の変」記念日に再考する歴史のターニングポイント。 <後編>
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by sakanoueno-kumo | 2016-06-02 00:21 | 京都の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)
やっぱ縁があったということですね(笑)。