穴太衆の郷、坂本石積みの郷公園。
先日の稿で紹介した西教寺から1.5kmほど南西に山を下ったJR湖西線の比叡山坂本駅の駅前に、坂本石積みの郷公園があります。
このあたりは、かつて織豊時代に活躍した石垣職人・穴太衆が住んでいた郷と伝わります。
現在の住所に残る「穴太」は、ここより2駅南の滋賀県大津市坂本穴太ですが、この辺一体に穴太衆が住んでいたということで、ここに公園があるのでしょう。
よく、「この城の石垣は穴太積みである」といった説明がなされているものがありますが、「穴太積み」は技法ではなく、穴太衆が築いた石垣を「穴太積み」といいます。
なので、「穴太積み」は基本的には「野面積み」が多いですが、実際には、穴太衆は「打込接」も「切込接」も「玉石積み」や「切石積み」もできました。
野面積みのことを穴太積みと誤解される場合がありますが(そういう説明をしているパンフレットなども見かけます)、間違いです。
野面積みの中でも穴太衆が手掛けた穴太積みは特に堅牢だったそうで、説明板によると、その秘密は、積み石の比重のかけ方にあって、表面から1/3奥のところに重力がかかるように設計されており、さらに土の水ぶくれによる崩壊を防ぐため、石垣の奥に栗石層、その奥に小石をつめていくなどして排水を良くする工夫が施されているのだとか。
その技が、何百年の風雪に耐え得る堅牢さを生み出しているんですね。
もともと穴太衆は比叡山の寺院の石工を任されていた職人でしたが、安土城の石垣を施工したことで織田信長や豊臣秀吉にその技術を認められ、それ以降は江戸時代初頭に至るまで、多くの城の石垣が穴太衆の指揮のもとで作られたといいます。
いい仕事をすると、次の仕事につながる。
これ、技術職の基本ですね。
公園内には、なぜか若き日の最澄の像がありました。
穴太衆とは何の関係もありません。
おそらく比叡山坂本駅の駅前だからでしょうね。
最澄が開祖となった比叡山延暦寺の石垣を施工したのが穴太衆とすれば、まったく関係ないこともないか。
400年以上の時を経て、わたしのような城マニアが、穴太衆の施工した石垣をめぐって写真を撮りあさっていようとは、彼らは思いもしなかったでしょうね。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
↓↓↓
by sakanoueno-kumo | 2020-03-04 00:44 | 滋賀の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)
なぜか、穴太の石工と斎藤道三の忍者が年は親子ほどにも違うのにそっくりで、本人たちが道でばったり会って驚くという展開。
その老忍者のほうが、「信長も秀吉も年をとったら、残忍になった・・・」と言っていたのが印象に残っています。
毛沢東にしてもスターリンにしても、若い頃から、あんなに残酷ではなかったんじゃないかなと。
気をつけましょう、ご同輩。