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明智光秀も枯死を惜しんだ「唐崎の松」。

坂本城跡公園から1.5kmほど南下したとこにある唐崎神社に、「唐崎の松」と呼ばれる老松があります。


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唐崎は古くから景勝の地として数々の古歌などに取り上げられ、また、日吉大社西本宮にかかわる信仰や祭礼の場としても知られてきました。

加えて「近江八景」のひとつ「唐崎の夜雨」の老松との景観は、天下の名勝としてしばしば安藤広重らの浮世絵などにも取り上げられてきました。


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この日はあいにくの曇り空で、その美しい景観を望むことはできませんでした。


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こちらが、その「唐崎の松」です。

この老松は三代目の松で、大正10年(1921年)に枯死した二代目の松に代わって、その実生木を近くの駒繋ぎ場から移植したもので、樹齢は150年から200年と推定されているそうです。


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ただ、このような貼り紙が・・・。


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三代目もそろそろ終焉を向かえつつあるようです。


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伝承によると、初代の松は舒明天皇7年(635年)といわれます。

そのころ、このあたりに住んでいた琴御館宇志丸宿禰「からさき」と名付けたとされ、ここ唐崎神社の祭神で琴御館宇志丸宿禰の妻、女別當命初代「唐崎の松」を植えたとされます。

これが事実かどうかはわかりませんが、万葉集には、

「ささなみの しがのからさき さきくあれど おおみやひとの ふねまちかねつ」

という柿本人麿の歌があり、また、古今集には、

「唐崎の 松は扇の要にて 漕ぎゆく船は 墨絵なりけり」

という紀貫之の歌があることを思えば、8世紀から9世紀には、すでに初代の松が存在したことは確かなようですね。


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その初代「唐崎の松」は、天正9年(1581年)に大風によって枯れてしまったといいます。

その頃、坂本城を居城としていた明智光秀は、老松の枯死を惜しんだ歌を詠んだとされます。


「われならで誰かは植ゑむ、一つ松、心して吹け、志賀のうら風」


司馬遼太郎の小説『国盗り物語』では、坂本城を築いたときすでに唐崎の松は枯死してしまっていて、それを惜しんだ光秀は、もう一度この地に松を植えてやろうと思い立ち、琵琶湖畔中で相応の松を探索し、敵陣の浅井領から一本の松の木を持ってきて植えたというエピソードが描かれています。

以下、引用。


(植えるべきだ)とこの復古趣味の豊かすぎる男は、この松を継植することに激しい情熱を感じた。が、植える、といっても往年のそれほどの松がどこにあるだろう。

光秀はこの点、奇人といってよかった。この松さがしのために、この多忙のなかで人数を割き、湖畔や山林のなかを踏みあるかせ、遠くは比良の山頂にのぼらせたり、まだ敵地である北近江の湖岸にまで遠出させた。

ついに彼等は北方の余呉の湖の近くで姿のいい松をみつけ、近在の農夫に化けて根を掘りはじめたまではよかったが、作業中、小谷城の浅井軍に発見され、襲撃を受けてしまった。

松掘り連中は鍬をすてて船に乗り、湖心に逃げたが、三人が銃弾のために負傷した。

が、光秀はあきらめず、付近の横山城の陣地司令官である木下藤吉郎に使いをやり、松掘り作業の援護を乞うた。現場へ兵を出してくれ、というのである。

「・・・なんだと?」

藤吉郎は事情をきいてあきれた。いま織田軍は西に東に蜂起した敵のために各地で悪戦苦闘をしているというのに、松堀りのために兵を出してくれとはどういう神経であろう。

 が、藤吉郎は本来、気軽な男だ。

 同僚の頼みにはいつも軽々と引き受けてきた男だし、それに洒落っ気もある。

 「百人ばかり、出してやろう」

 と約束し、日をうちあわせた。

(中略)

このことが、岐阜の信長に聞こえぬはずはない。前線におけるもっとも有能な二人の司令官が、松一本を敵地から盗む競技にあそび呆けているように思った。

「馬鹿めっ」

と叫び、その叱咤の声を伝えさせるために、それぞれの城へ使者を急派した。

が、その程度にしか信長は怒らなかったのは、この男の奇人好みのせいであろう。

(光秀とは妙な男だ)

と、一面では変に感心したのである。


どこまでが伝承で、どこからが司馬氏の創作かはわかりませんが、光秀が坂本城内に唐崎の松に代わる老松を植えたという伝承はあるようです。

生真面目な印象の光秀ですが、こんなお茶目な一面もあったのかもしれません。

もっとも、唐崎神社の記録によると、初代の松が枯死したのは天正9年(1581年)とありますから、本能寺の変の1年前で、北近江の浅井氏ももう滅んでいます。

社伝が正しければ、司馬氏の話は時系列的に辻褄があいませんね。

いずれにせよ、もし坂本城内に松を植えた話が本当だとしても、坂本城の落城とともに戦火に消えたでしょうが。


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二代目の松は、この地が豊臣家の直轄地となり、代官としてやってきた新庄直忠が天正19年(1591年)に植えたといわれています。

そのとき直忠は、

「おのづから 千代も経ぬべし辛崎の まつにひかる るみそぎなりせば」

と、自分の手で植えた松の長寿を願う歌を詠んだそうです。


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こちらには、松尾芭蕉の歌碑があります。

「唐崎の 松は花より朧(おぼろ)にて」


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芭蕉の歌も、二代目の松を見てですね。


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「唐崎の松」の向かいには、「名勝 近江八景 唐崎の夜雨」と刻まれた石碑があります。

が、あいにく小雨がぱらつく曇天で、美しい景観とはいえませんでした。

残念。


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三代目「唐崎の松」も、その樹勢に翳りが見えはじめているようですが、1400年近くこの地に受け継がれてきた松ですから、やがて四代目、五代目に引き継がれながら、未来永劫この地にあり続けることでしょう。




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by sakanoueno-kumo | 2020-03-05 00:10 | 滋賀の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

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