明智光秀首塚 その1 <粟田口の首塚>
本能寺の変で主君・織田信長を討ったあと、山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れ、自身の居城である坂本城小栗栖の藪に落ち延びる途中、小栗栖の藪で土民の竹槍に刺されて落命した明智光秀。
その胴塚は、光秀が落命した小栗栖の近くにありますが(参照:明智藪~明智光秀胴塚~小栗栖八幡宮)、光秀の首塚と伝わる五輪塔が、京都の東山の粟田口にあります。
白川沿いにある古い石碑をよく見ると、「東梅宮」と刻まれたその下に「明智光秀墳」と刻まれています。
この細い路地を入っていったところに、光秀の首塚があります。
この日、わたしは別の目的でこの道を歩いていたところ、ふと、この石碑が目に止まりました。
でも、ほとんどの人は気づかずに通り過ぎてしまうような目立たない場所です。
石碑は「餅寅」という和菓子屋さんの角にあり、誘導板も設置されていました。
お店には、「光秀まんじゅう」の文字が。
実はここを訪れたのは平成29年(2017年)8月のことで、まだ大河ドラマ『麒麟がくる』の制作発表前のことです。
だから、大河ドラマに便乗したというわけではなく、以前から光秀まんじゅうを販売されていたのでしょう。
そして、路地を少し入ると、密集した民家の一角に玉垣で囲われた場所があります。
ここに光秀の首塚があるようです。
こちらが光秀の首塚の五輪塔。
ここの光秀の首が埋葬されていると伝わります。
五輪塔の前の水鉢には、明智家の家紋である桔梗紋が刻まれています。
光秀の首は、家臣の溝尾茂朝によって近くの竹藪の溝に隠されたといいますが、すぐに近くの百姓に見つけられ、織田信孝の元に届けられました。
信孝はその首をまずは本能寺で晒し、その後、別の場所で捕まった光秀の重臣・斎藤利三の首と共に粟田口に首と胴をつないで磔にしたあと、光秀のマブダチだった吉田兼見の日記『兼見卿記』によると、一段落した天正10年6月24日(1582年7月13日)、秀吉によって粟田口に光秀らの首塚が築かれたといいます。
それが、この場所だったということでしょうか?
でも、じゃあ、斎藤利三の首塚はどこへいっちゃったんでしょう?
説明板には、「家来が光秀の首を落とし、知恩院の近くまできたが、夜が明けたため、この地に首を埋めたと伝えられている」とあります。
ぜんぜん話が違いますね。
横にある石碑には、「長存寺殿明窓玄智大禅定門」と刻まれています。
「明」と「智」が入っていますから、おそらく光秀の戒名でしょうね。
その横には、小さな祠があります。
祠の上部には「光秀公」という額が掲げられ、厨子の奥には明智光秀の木像が鎮座しています。
厨子は鍵がかかっていますが、格子越しに覗くことは可能です。
写真撮影は控えました。
歴史上極めて有名な人物の墓所であるにも関わらず、なんとも質素で目立たない場所にひっそりとある光秀の首塚。
これも、謀反人のさだめでしょうか?
ただ、よくあることですが、光秀の首塚と伝わる場所は他にも存在します。
「その2」では、京都府亀岡市の谷性寺に伝わる光秀の首塚を訪ねます。
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by sakanoueno-kumo | 2021-02-17 00:04 | 京都の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)