続・北近江、小谷城~大嶽城攻城記。 前編 <登山口~出丸~番所跡>
前稿まで令和元年(2019年)8月11日の小谷城攻めのシリーズを起稿してきましたが、本稿から翌年の令和2年(2020年)5月30日に再び攻めた続編を起稿します。
上の写真は南麓の武家屋敷跡から見た小谷城清水谷です。
昨年の夏にも見た同じ景色ですが、前回は真夏の酷暑のなかの景色で、今回は5月末の春(初夏?)の景色。
向こうに見える中央のいちばん高い山が、小谷城の支城の大嶽城跡のある標高495mの小谷山(伊部山)で、右側に見える山が、小谷城の本城のある東側尾根筋です。
昨夏の城攻めでは、暑さのあまり大嶽城跡まで攻略できなかったので、今回はあそこまで攻め込みます。
東側尾根筋の最南端には、「史跡小谷城跡」と書かれた大きな看板が見えます。
小谷城絵図です。
小谷城は山全体が城という、とてつもなくでかい城ということがわかります。
1年越しの城攻めとなりましたが、あの織田信長でも落とすのに3年もかかった堅城。
それを、私は1年で落とそうというのですから、大したもんでしょう!
ただ、前回は麓から歩いて登ったのですが、今回は中腹の番所跡手前まで車で登ることにします。
車での登山口は、尾根筋の東側にあります。
登山口には、説明板や漢詩の石碑などが複数設置されています。
いざ、出陣。
車道はご覧のとおりの細い道で、対向車が来ると厄介なことになります。
少し登ると、出丸跡に通じる道が現れます。
ここは、前回の小谷城攻めのときは寄らなかった場所なので、ちょっと車を停めて立ち寄ってみます。
出丸への登り口です。
説明書きの駒札。
小谷城を守る最前線の砦とあります。
行ってみましょう。
駒札から2~3分で着きました。
ここが出丸跡です。
石碑と復元図があります。
復元図では2段構造の曲輪となっています。
説明書きには「朝倉氏の来援によって築造された可能性が高い」とあります。
小谷城に越前の朝倉氏が来援したという歴史は何度もあるのですが、ここでいう朝倉氏の来援は、おそらく大永5年(1525年)7月、江南の六角定頼が浅井亮政を討つべく小谷城を攻めたとき、朝倉氏の軍奉行・朝倉宗滴(教景)が援軍として駆けつけたという出来事を指すのでしょう。
この少し北に前シリーズの「その1」で紹介した「金吾丸」があるのですが、その金吾丸が、そのとき宗滴(教景)が陣を布いた場所です。
出丸から城下が見下ろせます。
遠くに伊吹山、そして小谷城の支城の横山城跡が見えます。
北を見ると、いまから登る大嶽城跡のある小谷山(伊部山)が見えます。
先へ進みましょう。
ヘアピンカーブも何のその。
中腹の駐車スペースに着きました。
見てのとおり、駐車できるのはせいぜい5~6台です。
この日は令和2年(2020年)5月30日で、関西は新型コロナウイルス感染症による1回目の緊急事態宣言が解かれて10日後だったのですが、有名な城跡だけに、登山客はけっこういました。
私もそうですが、みんな外出に飢えていたんでしょうね。
番所跡近くにやってきました。
昨夏のデジャブです。
看板には、頂上の大嶽城跡まで1.7kmとあります。
中腹からでもガッツリ登山ですね。
「中編」につづきます。
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by sakanoueno-kumo | 2021-07-14 23:55 | 滋賀の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)
今度、連れて行ってください。
おんぶして(笑)。
体重75kg(公称)しかありませんので。
わたしは、5年ほど前に78kgから62kgまで、たった3か月で16kg減量しましたよ。
糖質制限で。
今は少しリバウンドして68kgまで戻っちゃいましたが、それでも、マックス時よりは10kg減ってます。
貴兄もいかがですか?