日本人にはびっくりだけど……これが今風? 背景を説明しない抹茶ブランド
気がつけばお正月気分はとっくに遠くへ消え去り、通常営業の日々。皆さん、様々に自粛と向き合う毎日、いかがおすごしでしょうか。コロナに気をつけて、僕も頑張っています。
さて、今回も3話書いてみました。今、読み返してみると、なんとなく気難しい視点の話になってしまっています。そんな時もありますね。
最初は年老いた母に思うこと。僕のような年齢になったら、みんなが思うことなのかもしれないことを書きました。
2話目は海外のお抹茶ブランドの話です。伝統とか格式を重んじるのではなく、単に体と心にいい飲み物として打ち出されていて、日本人としてはびっくりですが、そういう時代でもありますね、というお話。
最後は「時間と想い」について書きました。これからますますこの二つについての考察に注目が集まるような気配がして書いてみました。それではしばし、お付き合いください。
母について
父の法事もあり、年に一度、北海道の妹家族と、東京の私たち夫婦、そして静岡で一人暮らす母と京都で落ち合い、お寺で予定を終え、温泉にでも入ってという一泊旅に行ってきました。
気がつけば81歳になっていた母は、75歳くらいの頃に比べて、疲れやすいらしく、「もう、こういう長旅は疲れるわね」と、来年は行かないと宣言。お寺のお坊さんから「今は亡きお父様によって、こうしてみんなが集まることができているんですよ」という内容のご法話を頂き、本当にそうだよなぁと思った矢先のことだったので、みんなで「そんなこと言わないで、来年も集まろうよ」となだめるように言い聞かせました。ただ、ひざが痛んで車から降りるのがつらそうな母の老化も気になり、昔のように減らず口をたたく母に「そうやって人を悪く言うのは良くないよ」と言い聞かせつつも、一種の元気さがだんだんなくなっている様子に、今更ながら、母がいとおしく思えてならないのです。
目立った趣味はなさそうですが、植物が好きで、見ただけで名前はもちろん、育て方までよく知っています。それを思い、静岡の山の中に土地を買い、二世帯住宅を建て、たまに様子を見にいくように会社のある東京から通う僕。もしかしたら、今が一番、母に対し「親」を感じられる年齢なのかもしれないと思うような、そんな気持ちなのです。
たまにはこんな個人的なことも、こういう場所に書いてもいいかなと思いました。親と自分って、年齢によっていろんな距離感があって、気づいた頃にはいないとか、旅行にも行けない、なんてこともたまに聞きますし、なんとなく、この連載を読んでくださっている皆さんと、共有したくなったのでした。
いつかいなくなってしまう人。誰もがそうだと思います。そんな気持ちになった時、もしかしたら「自分」も知らない「自分」に出会えるのかもしれませんね。
新しい視点
ある日本のお抹茶をブランドとして展開する海外の会社のWebサイトを見て感心しました。「お茶へのこだわり」「お茶の効能」「(これを飲むことで)あなたになって欲しい姿」に重点が置かれていて、日本人なら当たり前にこだわるであろう「歴史」や「土地の物語」「茶道の話」などはバッサリ切り捨てるように、その商品解説の文章には書かれてないのです。日本の会社ではないからこそのアプローチでしょうけれど、なんだか僕には、それがとてもこれからの時代に合っているように感じました。
私たちは日本のものなら、作っている人や産地、技術や伝統などに自然に関心が向きます。一方のこの海外ブランドは、あくまで「自分たちのお抹茶へのこだわり」と「これを買って飲むその人に起こる効能」に絞っている。これを見ていて思うのは、「情報よりも効能」という点。歴史や産地の情報よりも、いかに購入した「あなた」自身に何が具体的にもたらされるか、ということ。情報が知りたければ、ネットでも何でも駆使して検索すればいい。それよりも、「私たちのこだわり」で「あなたを具体的に素敵にしたい」というとてもダイレクトなアプローチです。それを見て、これまで私たちは商品の裏にある「情報」の方をどちらかというと重要視していたように感じました。
昨年から茶道を習っていますが、このブランドの「視点」に出会うまでは、お抹茶は「茶道」の中のものと思っていました。もちろん市販で買えて、紅茶やコーヒーを楽しむように自宅でも楽しめることはわかっていますが、「抹茶はおいしいただの飲み物」という視点はないに等しかったのでした。
私たちの身の回りには、こういうことってたくさんあると思います。あくまで「習い事の一部」とか「しきたり」などが先行して、そこにある一部分、例えば茶道の中のお抹茶だけを楽しむ発想にはなかなかたどり着かない。今年はそんな「日本の中にある日本人視点では見えにくくなっていること」を抜き出して、楽しむ新しい視点を持ちたいと思いました。
時間と想い
自分のふるさとである愛知県に自分の店「D&DEPARTMENT」を作ることを考えたり、小さなアパートを借りて通う“沖縄”に早く行きたいと無性に思ったり、母と暮らすために二世帯住居を建てた静岡の居心地を日に日にいとおしく思ったり、民藝の聖地と言われる“富山”へなんとなく通うようになっていたり、東東京に新しく事務所を構えたりしていますが、そこに潜む何かが、今、とても個人的にも、社会的にも大切なんじゃないかと思えています。それを一言で言うと「時間と想い」なんじゃないかと思っています。
現代のデザイン教育に関して、大学などで教えていた経験から感じるのは、その二つを教えてこなかったことだと思います。デザインは「消費」「量産」が志向のベースに置かれ、デザイナーは自分の生活でも使わないようなものを大量に作り、メーカーや量販店によって、まるでばらまくように消費させている。最近の僕の「民藝」への興味は、そうしたことの反発のように起こりました。
みんなが田舎に避難するように都会を離れる理由も、この二つだと僕は思います。都会のスピードの中では、一つ一つのことへ「想い」を込めることがとても難しい。そもそもの前提に「お金」があって、例えば家賃一つとっても高い。そんな場所代を心配するあまり、仕事を詰め込み、こなす。そこには「想い」など、込める余地はないと思うのです。
先日、百貨店から出店のオファーを頂いたのですが、もう、立地のいい場所に出店することへの考えが、自分の中で激変しています。若いフットワークのいい人たちは、量産やお金への考え方、感覚が変わってきています。だから、いい立地の高い家賃をそのまま払うなんてことは、もはや考えない。それなのに商業ビル開発関係者は、いまだに「家賃」をもらおうとしている。
いいつながりを持っている小さな作り手、発信者は、とてもいい立地とは言えないとんでもない奥地にいても、関係なく成功しています。「立地がいい」というのは、ある意味、「想い」という手間のかかるものを省き、すぐに迷わずたどり着けるという「時間」の有効さをお金で解決していると言えますが、今は「想いがあるところに、わざわざいく」ことが、楽しく、心地よいのではないでしょうか。
私たちが日常に使う「パソコン」って、考えてみると「時間短縮マシン」でもありますね。仕事や打ち合わせなど、あらゆることを整理、短縮する機械。現代人は常にそこに縛られるようにずっと画面を見ている。遠隔地でもそれがなされる。そして「仕事をした」という実感もなく、次から次へと「こなして」いく……。これからますます「時間と想い」は、重要になっていくと思うのです。