僕の考えは古くになりつつある 「もの」を作らないデザイナーを求めて
今週は沖縄に来ています。こちらはコロナにみんなが気を配りながらも、飲食店は通常営業。どこか観光客がいない沖縄は、沖縄の人たちが本来の自分たちの沖縄を楽しんでゆったりしているようにも見えます。そう言えば京都でもそんな声を聞きました。
さて、今回も3話書きました。1話目は三重県の伝統産業「日永うちわ」の話です。このうちわだけのことではない、現代生活の中の需要について、思ったことを書きました。
2話目はニューヨークのデザインスクールからの授業を頼まれたことをきっかけに、これからの「脱成長」時代にデザインってどうすればいいのか、ということを書きました。
最後は、僕が沖縄に来た最大の理由である「共同売店」について。共同売店という形態から、未来の路面店のあり方を探ります。
それではしばし、お付き合いくださいね。
大切な物語がある伝統品 とはいえ、需要は……
「d 三重店」の準備が始まっています。建物の設計は予算オーバーのため、修正に入り、その店舗の上にあるホテルの内装についても最終的な「dらしさ」という壁にぶち当たりながら、楽しく進行中。先週末に三重県に二泊して、取り扱う商品を探しに、これまでお付き合いのあったメーカーや問屋さん、作家さんを訪ねました。
日頃「d47」というショップで47都道府県をテーマとする活動や商品を取り扱い、「d design travel」という自社出版のトラベル本の巻末情報などで三重県には接し続けてはいますが、やはり、直接お会いできるのは、本当にうれしく、そして、可能性が広がります。僕らは「商売」の観点よりも前に「三重県のためになる方」と付き合っていきたいので、やはりメールや電話、商品だけでは判断がつきません。なので継続的に何か少しでもこちらの「活動」を見てもらうということが、とても大切だと思っています。
さて、今回多くの方との再会や出会いがあり、その方々の作り出すものについて、なぜか、というか、時代のせいなのか、「よりリアル」に見ることができました。その一つに「うちわ」があります。「日永うちわ」を製造する稲藤(いなとう)さんを訪ねました。
昔は原料である「女竹(めだけ)」が豊富に取れる土地で、だからこそそれが大きな個性となり、奈良時代には貴族の間でとても流行したそうです。やがて町の開発や自然環境の変化により女竹が取れなくなり、今では外国から輸入してその伝統を続けているとか。もちろん、女竹が育つ環境を昔のように再現するなどの意識、活動もされている。僕はここで二つのことを思いました。
一つは「すでにこの土地で材料が取れない」ということ。もちろん「再び、昔のような環境に戻し、女竹を栽培する」という考えはあると思いますが、一方で、そこにある「無理」について、どう考えたらいいか、正直、これは今も宿題です。
そしてもう一つ、「うちわ」の需要です。昔はエアコンがありませんので、とにかく暑い時はうちわや扇子で扇ぎました。「昔は子供を寝かすときに横で親が優しく扇いであげていました。だから、うちわは、大切なものを扇ぐというシンボルなのです」とは稲藤の稲垣和美常務の言葉。ジーンときました。
昔は風や光を防いだり、顔を隠したり、うちわは装飾品として生活道具として欠かせないものでした。やがてお伊勢参りの人気のお土産となり、今もその流れで続いている。ここで思ったのです。「今、うちわって使うのか?」
すると、同席していたうちの商品部の辻岡が「私、夏は小さなうちわをカバンの中に入れて使っています」と。そういう需要はまだあるんだ、とホッとしたと同時に、とはいえそういう風情のある現代人はどんどん少なくなっていくはず。いくら奈良時代からの、お伊勢参りの人気土産だと言っても、使われなければ自分たちとしても取り扱えない。風情や土産というだけでは、やはり売り続けるのは難しいと感じたのでした。
うちわに限りませんが、こういう「現代には使われなくなってしまったが、大切な物語は受け継いでいる」という生活品ってあると思うのです。それを今回、思いました。僕はネガティブなモードにはなりたくはないと思いながら、現実は無視できないと思ったのでした。
自分たちの店「d三重店」に限らず、地元に長く続くものを紹介する店の立場としては、「今」にどうつなげるか。そこをより頑張らなくてはならないと感じたのです。そして、それを頑張ることで、例えば「大切な人を扇いであげる」という、いつの時代にも通じる素晴らしい用途に再会できる。そんな三重の商品の旅でした。
世界基準は完全に脱成長!?
最近気になって手に取る本に共通しているのが「成長しない」「脱資本主義」など、経済優先の世の中を変えないと、地球環境はもう危険ゾーンに入っているよ、というもの。僕はそこに対する意識が足りてなかったように思います。
先日、ニューヨークのパーソンズという学校からの依頼で、リモート授業を行いました。そのとき僕が用意したスライドは、「修理しながら長く使えるものを作ろう、買おう!!」という内容で、授業をしながら、自分の考えが今の社会の流れから後れを取っていることに気づかされました。なんというか、僕の発想はいまだに日本基準で、世界基準で見ると非常に「呑気」な考え方をしていると思ったのです。今回の授業の依頼は、物事を地球規模で考える良い機会となりました。
今や温暖化を引き起こす人類による営みに世界中の国々が警鐘を鳴らし、期限を設けて規制が始まっている。けれどもそのスピードでは、温暖化を食い止めることはできず、地球のどこかで想定外の台風など異常気象が起こり甚大な被害が出るかもしれない。つまり、いちデザイナーレベルで考えれば、「デザインとかして、新しいものを作っている場合じゃないんだよ」という状況のようです。
デザイナーとは、超簡単に言えば「経済社会の中で、人の欲しいものをデザインする」仕事と言えます。「新しさ」という欲求に向かって、あの手この手で魅力的なものを作り、あるものは一生モノとして大切にされ、あるものは、使い捨てられて、ゴミ箱にも捨てられなかったものは、自然の中で動物が食べてしまったりする。
極端な話、デザイナーが仕事をしなければ、その分、地球にゴミは出ないとも言えて、僕がデザインの授業で用意したスライドは、とてつもなく時代遅れと感じたのでした。日本のデザインの世界で語られている「ロングライフデザイン」とは、まだまだ「作り出したものと、どう向き合うか」という話であって、「ものを大切にする」「直して使う」など、どこまでも「もの」の存在に固執している。そもそも「ものを作らない」とか「作っている場合じゃない」という発想が欠けていると感じてしまったのです。
「使い捨て」から「直して使い続ける」という考え方が尊ばれるようになったり、「外国のもの」よりも「自分の土地で作られたもの」が重視されるようになったりするなど、「大量生産、大量消費」の時代を経て、今は「もの」について、じっくりと考えられる時代にたどり着いています。これからは「経済優先ではない時代」ということで、「作る」ことに加担している我々デザイナーは、いよいよ新しい仕事のやり方、思考の仕方を求められているのです。
「作らない」「買わない」では、やはり経済が回らず生活がおかしくなってしまう。しかし、そのスピードを緩めながら、新しい「幸せ」や「成長」をも作り出さないといけない。どうやってスピードを落とし、どうやって経済成長ではない成長の手応えを見出すか……。しかも、悲鳴を上げ始めている地球の様子から、そんなにのんびりもしてはいられない。今こそ、デザイナーの腕の見せ所です。
共同売店に学ぶ
今年から3月、7月、11月の計3カ月間を沖縄で過ごすことにしています。これは僕なりの現代生活で、誰がなんと言おうと、やり抜いて、そこで生まれる思考性を、会社にフィードバックできたらと思って実行しています。なぜ、沖縄かというと、みんなが思い描く「リゾート」感覚ではなく、戦争の傷跡とともに国外を意識し、自然を存分に感じ、都会の、もっと言えば「日本(=本土)」スピード感が伝わってこない、僕にとって「考えごとができる」場所だからです。
もちろん沖縄にも経済発展に向かうベクトルはありますが、沖縄にはどことなく昔の琉球王国の気配が残り、地元の人はそれを大切にしている。その「ゆったりとした」状況に身を置くことで考えたり、思いついたり、考え直したりすることができます。そして今回は、「これからの路面店のあり方」という大きなテーマについて、ずっと考えていたことがあり、沖縄に昔からある「共同売店」の考え方からヒントをもらえないかと思って来ました。
共同売店とは、簡単に言えばみんなで成り立たせるコンビニのようなもの。コンビニのような生活用品を販売する店がない集落などで、みんなでお金を出し合い、「経営」というかしこまったものではなく共同で営む商店のようなもので、順番に店番をするなど、無理のないかたちで運営していく。そして、ある時は高齢者の健康を見守ったり、ある時は、そこに集まり会話を楽しんだりする「商品の販売」以外の要素が多分にある。そんな場所です。
24時間営業のコンビニの便利さはわかった上で、24時間開いている必要がないのではという意識が芽生え始めた私たちにとって、必要なものはアマゾンや生協で買うとして、それ以外を提供する「店のような場所」が、これからは必要になってくると感じるのです。最近注目され、どんどんその輪が広がっている私設図書館なんかも、そうした思考が求め出したものだと感じます。
必要なものを買うのは、もう、ネットや電話注文でいいと思います。これからは「必要ではないもの」をどう「生活」の中で「健やかに」手に入れるか。共同売店は誰かの家のようでもあり、雨宿りをする軒先でもあり、銭湯のように年齢に関係なく立ち寄れる場所でもある。何か頼んだらそれを実現してくれる店主のような人がいて、寂しくなったときに、そこにいけば誰かがいてくれる場所。「家」というものへの考え方も進化して変化していきますが、「店」というものも、変わっていくのでしょう。