早世の天才デザイナー、ピオ・マンズーが遺(のこ)したもの
プロダクト・デザインに関心がある方なら、文字盤の角度を自在に変えられるカラフルなイタリア製置き時計をご記憶だろう。それを考案したデザイナーの名前は、ピオ・マンズーという。わずか30歳で天国に旅立った彼の生涯と作品を回顧する企画展が、イタリア・トリノで開かれた。
文人墨客に囲まれた少年時代
トリノ自動車博物館によるこの展示は、マンズーの代表作のひとつである小型乗用車「フィアット127」の発表50周年に合わせた企画である。
ピオ・マンズー(Pio Manzu 本名 : ピオ・マンゾーニ)は1939年ミラノに生まれた。父は20世紀イタリアを代表する彫刻家のひとり、ジャコモ・マンズー(1908-91)であった。少年期は、父親を訪ねてくるG.ウンガレッティ、E.モンターレといった一流の文学者や文化人たちの謦咳(けいがい)に接しながら育った。写真が趣味だったピオ少年は、彼らのポートレートを撮影しては楽しんでいたという。また父は、同郷であったことから58年にローマ教皇就任を果たすヨハネ23世とも親しかった。そのため、親子で教皇の別荘にも出入りできた。やがて地元ミラノの高校を卒業したマンズーは、バウハウスの流れをくむドイツのウルム造形大学に進学する。
彼の才能は、学生時代から発揮された。62年、マンズーと同様のちにデザイナーとなるマイケル・コンラッドらとともに自動車デザイン・コンテストに参加。英国車「オースティン・ヒーレー3000」をベースにした彼らのデザインは、21の国・地域から応募された280作品の中から見事優勝に輝いた。そして、トリノの名門カロッツェリア「ピニンファリーナ」によって実車が製作された。64年には、ドイツ工業デザイン協会からも賞を獲得するが、残念ながらこの一品製作車は、のちに焼失している。
一方、卒業制作にマンズーが選んだのは農業用トラクターだった。彼は、当時トラクターを使い始めたばかりの農家によって引き起こされる傾斜地での横転事故に着目した。そこで故郷イタリアのフィアット社技術センターに協力を仰ぎながら、斬新なロールバー付きトラクターを提案した。
64年にはウルムの仲間たちと、今日でいうところのコンセプトカーである「アウトノーヴァFAM」を製作。不要な装飾・装備を徹底的に排除した多目的車だった。機構部分を最小限にする一方で、居室部分をひたすら広く確保した。83年「ホンダ・シビックシャトル」や84年「ルノー・エスパス」に始まるモノスペース車と同様のパッケージング思想を、マンズーは20年近く先駆けて提唱していたことになる。