聞き手・佐藤啓介
分野の境界を超えた論考で読み手の知的好奇心を刺激する哲学者・内田樹(たつる)さん(71)。「とにかく勉強することが好き」といい、その本質を「自己解体」であると語ります。そんな生き方を自覚させた兄・徹さんの言葉とともに、学校教育のあり方への考えも聞きました。
拡大する道場や寺子屋も兼ねる「凱風館」の本棚の前で著書を手に取る内田樹さん=神戸市東灘区、滝沢美穂子撮影
1950年東京都生まれ。神戸女学院大学名誉教授。幅広い分野への言論で知られるほか、学塾・道場の「凱風館(がいふうかん)」の館長など多彩な顔を持つ。『ためらいの倫理学』『日本辺境論』など著書多数。
――文章を書く際、「想定読者」と位置づける存在がいるそうですね。
想定読者というのは「この人がOKと言ってくれるか」と思い浮かべる相手のことですが、私の場合2人いて、1人は小学生の頃からの友人である文筆家の平川克美君(71)。もう1人が2歳上の兄・徹です。兄は6年前に亡くなりましたが、とても仲良い兄弟でしたね。今でも、兄が読んで納得してくれるものを書くということを心がけています。
――お兄さんとはどんな関係だったのですか。
小さい頃はやたら構ってくるので、「うっとうしい兄だな」と思っていましたけれど、僕が中学生になるくらいからだんだん仲良くなりだしました。特に、兄がギターを始めて、ロックに熱中してからですね。兄がシングル盤を買ってきて、僕を部屋に招き入れて、「とにかくこれを聞け」とうるさく勧めるのです。キャロル・キングも、エルビスも、ビートルズも、ジョン・コルトレーンやマイルス・デイビスも。
さらに親密になったのは20代の終わりころです。兄は大学の水にあまり合わなかったようで半年ほどで行かなくなりました。そのあと父が経営していた建設機械の会社で数年間働き、30歳ごろに一人で起業しました。
横浜に小さなオフィスを構え、大学院生だった僕は電話番を頼まれました。博士課程に進学したころで時間の自由がきいたので、週3回ほど通いました。電話番といっても、起業したばかりで電話はほとんどかかってきません。これ幸いと、無人の静かなオフィスでひたすら本を読み、翻訳をし、論文を書いていました。昼になると兄が外回りから戻ってきて一緒に昼食に出かけ、話が盛り上がると、そのまま夕方まで話し込んでいたこともあります。
兄は、僕の話を実に愉快がって聞いてくれる人でした。僕はその頃すごくマイナーなフランスの政治思想や哲学を研究していたんだけど、自分に全く関係のない話でも熱心に聞いてくれました。「なかなかおまえの言うことはうがっているな」と。だからついこっちも図に乗ってどんどん話してしまう。何を言っても受けてくれるという「甘い客」だったんですね。だから後に本を書くようになったときにも、自然と兄を想定読者にするようになりました。
――お兄さんから言われた、印象的な言葉があるそうですね。
「おまえは『弟子上手』だよな」と言われました。十数年前のことだと思います。20年ほど前から兄や平川君ら仲良い友人たちと、年に2回くらい箱根温泉の宿で集まって、温泉に入って、おいしいものを食べて、飲んで、マージャンをしてという催しを始めました。そのおしゃべりの間に何かのはずみで兄が口にした言葉でした。「おれとおまえで一番違うところは、おまえには先生がいたけれど、おれにはいなかったということだ」と。
――その言葉が心にとまった理由は?
「なるほどな」と思いました。それまでそんなこと一度も意識したことがなかったのですが、言われてみるとその通りで、腑(ふ)に落ちた言葉でした。
私はちょうどその頃に「先生はえらい」(ちくまプリマー新書、2005年)という本を書いているのですが、兄の言葉の影響もあったかもしれません。その本に書いたのは、「師」というのは弟子の側が自分で作り出すある種の教育的な幻想だということです。「この先生は自分が一生かけて努力しても足元にも及ばないほどの叡智(えいち)と技芸を会得している人だ」と信じて学ぶ人間と、「この先生ははたして全幅の信頼を寄せるに足るだけの器量の人物なのだろうか」と疑いのまなざしを向けながら学ぶ人間とでは、同じ時間だけ努力した場合に身につくものが決定的に違ってくる。「偉大な師に仕える弟子」という位置取りは、自分の成長のためにきわめて有効だと僕は自然に理解をしていたのですけれど、兄に言わせると、「そんなことを思うやつはめったにいない」ということでした。
世の中は僕が知らないこと、僕がそれを知らないということさえ知らないことに満たされているわけです。ですから、ある意味で、「人生至るところに師あり」ということになる。
――相手を選ばず教えてもらう姿勢が重要だということですか?
「相手を選ばず」じゃありませんよ、もちろん。「この人は師とするに値する人だ」と直感を抱いた場合だけです。ただ、「師とするに値する」かどうかを判定する基準を僕の側であらかじめ用意しているわけではないということです。
学び続ける姿勢をやめない理由、そして天職との出会い方。さらに話は深まります。
師に就くというのは、ある意味…