第1回「へび女」と手塚治虫に魅せられて 楳図かずおを育んだ故郷

有料記事

聞き手・黒田健朗
[PR]

 グワシ! ギョエー!

 《カメラを向けると、おなじみの赤と白のしましまの服で、元気にポーズを決めてくれた。ホラー漫画の第一人者は9月、86歳になった》

 最近はラジオ講座で外国語の勉強ばかりしています。英語、イタリア語、スペイン語、ドイツ語、フランス語などなど……。だから、絵を描いている余裕がありません(笑)。腱鞘(けんしょう)炎もひどくて、手をいじめることはあまりしたくない。無理してきた人生だけど、最近はむちゃしないようにしています。体には気をつけていて、栄養に偏りがないように毎日同じ物は食べないようにしているし、1日1時間は歩いていますよ。

 《漫画「14歳」の週刊誌連載を終えた1995年に休筆。その後はテレビ出演などに力を入れてきたが、今年1月、東京で開かれた自身の美術展で、27年ぶりの新作となる101点の連作絵画を発表し、話題を呼んだ》

 テーマは「マンガノテッペンカラアートノテッペンヘトビウツレ」。漫画から一段上に飛び移って、芸術っていうところを目指さないと面白くないな、と思って始めたのが今回の美術展です。新作は80年代に連載した「わたしは真悟」の続編ですが、直接結びつけようとか、続きを描こうとか思ったわけではなく、未来がどうなるかを描いてみよう、と。

 思えば僕は、自分がそれまでやってきたことをひっくり返すように新しいことに挑んできた。漫画もそうだけど、それだけではなくて、歌を歌ったり、テレビに出たり、映画のメガホンをとったり。そんな「人間・楳図かずお」ができるまでについて、お話ししましょう。

漫画家・芸術家の楳図かずおさんが半生を振り返る連載「グワシ!に未来へ」。全5回の初回です。

怒らぬ両親、不思議さを感じた

 《1936年、和歌山県高野町で生まれた》

 父は奈良県のへき地で勤務する小学校の先生で、当時は母の実家のあった奈良県の野迫川(のせがわ)村に住んでいました。山奥での出産は大変だということで、その近くで便利がよい高野山に民家を借り、そこで僕が生まれました。父方の祖父はなぜか「この子は外交官か落語家になるね」と言ったそうです。

 母親いわく、生後3カ月で歯が生え、おんぶをすると背中をかじったとか。そして、なんと7カ月で絵を描いたらしい。母が「こんな子どもに紙と鉛筆を持たせたら描くかな」と思って、「丸はこういう風に描くんだよ」なんて教えたら、その通り描いたと。それから、「丸に丸足したら花だよ」なんて教えていたそうなんですが、そうこうするうちに僕の方からあれ描け、これ描けと要求が増えてきて、母は絵が全然ダメなので困ってしまったそうです。

 《父の転勤で奈良県内の山間部を転々とし、3歳の時に同県曽爾(そに)村で暮らし始めた》

 曽爾村での記憶ははっきりあります。食卓を出して、朝ご飯を食べていると、父も母も「さあ、そろそろ始まるぞ」と言う。すると、僕は食べ終わったお皿を持って行って、土間に投げちゃう。そんな変な子だったけど、怒られたこともぶたれたこともなかった。

 こんな出来事もありました…

この記事は有料記事です。残り1967文字有料会員になると続きをお読みいただけます。

※無料期間中に解約した場合、料金はかかりません

この記事を書いた人
黒田健朗
経済部|総務省担当
専門・関心分野
漫画、アニメ、放送