第2回譲り受けた暗室道具一式 作業がしたくて石内都は写真を撮り始める
写真家・石内都さんに半生を振り返ったもらったインタビュー連載「横須賀・ひろしま 記憶に向き合う写真」。全4回の2回目です。(2022年1月~2月に「語る 人生の贈りもの」として掲載した記事を再構成して配信しました)
《1966年、一浪して多摩美術大のデザイン科に入学した》
手に職を付けたかったのでデザイン科を選んだんですが、入ってみると全然向いていない。烏口(からすぐち)でうまく線が引けないし、ポスターカラーは平たく塗れないし。2年から「織」を専攻しました。
映画研究会にも2年から。そこに美術家の彦坂(尚嘉〈なおよし〉)君と写真家の宮本(隆司)君がいました。美術家の堀(浩哉〈こうさい〉)君は演劇研究会。彼らとは90年代後半に、グループ展をやることになるんですね。
2年生の終わりごろから学生運動の雰囲気になってきて、バリケードで封鎖されるんです。中に入るかどうか悩みましたが、入ったほうが面白そうだと思って。家は家族で横浜に移っていたので、そこから通いました。大学の授業はなく、自分たちでカリキュラムを組んで自主授業をしたことも。
私は「染」を専攻する女学生と「革命的職人同盟」を結成。「美術家共闘会議」もできました。多摩美の私たちは、政治的というより「美術や表現とは何か」などと問うタイプ。そこにベトナム戦争反対とかを唱える、併設の多摩芸術学園の学生が加わったんです。
《芸術学園の映画科の学生に、パートナーとなる男性がいた》
彼とはその後、婚姻届を出そうと思ったこともあって、書類をもらってきた。でもそこに「証人」の欄があって、証人なんて変だと思って、それっきりです。
バリケードの中では食事も作りましたが、男女の権力構造があって命令されたというより、好きなことをやった感じです。
私自身は作家性がどうの、という考えはあまりなく、現実の問題としては自分の女性性を考えなくちゃって、ウーマンリブ運動も最初期は少しやりました。思春期のころかな、子供を産めない女性を「石女(うまずめ)」と呼ぶと知り、その言葉にショックを受けて、よし、私は石女になろうと決めていました。
バリケードが撤去され、私は…