拡大する池畑慎之介「ピーター・イズ・ピーター」
デビューして50年余り。去年、70歳になりました。ピーターも古希です。
3月に大好きなゴルフをしていたら、斜面で足を滑らせて、左足首を骨折してしまいました。今もチタンのプレートと8本のビスが入っています。と言っても、1カ月後にはもうゴルフを再開したんですけどね。
夏には新型コロナにも感染して色々と大変な年でしたが、誕生日の8月に、東京・丸の内のコットンクラブでスペシャルライブをしました。ありがたいことに満席で。ソロライブは4年ぶり。本当に久しぶりで、2時間たっぷり歌いました。楽しかったなあ。
俳優で歌手の池畑慎之介さんが半生を振り返る連載「ピーター・イズ・ピーター」の全4回の初回です。
《ユーチューブで「奇跡の70歳!?『OZIBAチャンネル』」を開設し、動画の投稿を始めた》
1回目は、キャンピングカーで九州を旅する動画。運転も、スマートフォンを使っての撮影も自分でしました。だって一人旅なんだからしょうがないじゃない! でもこれがすごく好評で。60万回も再生されているんですよ。
他には、買ってきた洋服やアクセサリーの紹介をしたり、出演するテレビ番組の裏側を見せたり。チャンネル登録者数は4万人を超えました。スマホの画面の向こうにはたくさんの人がいると思ってしゃべっています。私のことを全然調べもしないで依頼してくるテレビの番組に出るより全然楽しいですよ。
《ユーチューブだけではなく、2007年に始めたブログやフェイスブック、インスタグラムといったSNSでも日常を発信する》
外国では自分で売り込んで、自分で仕事を取ってくるのは当たり前。私もずっとそうやってきました。コロナもあって最近は日本でもその流れが出てきたかな。
そうやって、何十年もずっと自分で忙しくしてきました。私の人生、ドラマにしてほしいぐらいに波瀾(はらん)万丈なんだから。しっかりじっくり、語り尽くしますよ。
《1952年、大阪有数の繁華街、宗右衛門町で生まれた》
今は「大阪市中央区」ですけど、昔は「大阪市南区」。まさに大阪・ミナミのど真ん中でした。
父は、日本舞踊の上方舞吉村流で後に家元、さらに人間国宝になる吉村雄輝(ゆうき)。母の(池畑)清子(きよこ)は、祖父母が宗右衛門町で営んでいた料亭「浜作(はまさく)」の娘でした。姉が1人いて、鹿児島テレビや大阪の毎日放送でアナウンサーをして、今は大阪芸術大学の放送学科で学科長の石川豊子です。
宗右衛門町は当時、まだ色街でにぎわっていましたね。芸妓(げいこ)さんや、道頓堀川の向こうに立ち並ぶ劇場に通う歌舞伎役者が出入りしていて。記憶はほとんどないけれど、ばあやさんにおぶってもらい、近くの堺筋に車を見に行ったみたい。ばあやさんの着物の匂いは、かげばすぐに思い出します。
《吉村雄輝の長男として、3歳で初舞台を踏む》
おしろいを塗って、着物を着て切禿(きりかむろ)の格好をして。煙管(きせる)を持って、コンコンってやって後ろに反った時にひっくり返ったんです。だけど、それですごい拍手が来た。子どものやることだからね。
拡大する3歳の頃。初舞台「黒髪」の衣装で=本人提供
稽古は厳しかったですね。お扇子や竹の棒でパーンと手をたたかれていたことをよく覚えています。父はいつも怒鳴っていた。母は病気がちでずっと寝込んでいました。
《小学生の時に大きな転機が訪れた》
両親が離婚することになったんです。どちらにつくかと聞かれたので、母と暮らすと言いました。ぜんそく持ちで体の弱い母を守りたい一心だったんだと思います。
浜作の経営も厳しく、(兵庫県の)尼崎や(大阪府の)八尾を転々として、祖父の出身地の鹿児島へ移ることになりました。大阪のど真ん中の繁華街から、錦江湾が目の前にあって、桜島の見える鹿児島市に。すごい変わりようですよね。
祖父は指宿市の観光ホテルの料理長に、母も料亭を始めたんです。母は大阪にいた時がうそみたいに元気になって。大阪の空気の影響以外にも、精神的なストレスから解き放たれたんでしょうね。
《両親の離婚を機に、鹿児島の小学校へ通うことに。それから猛烈に勉強に打ち込んだ》
母の喜ぶ顔を見たいという気持ちが大きかった。授業参観でも父親はいない。そんな時に一番初めに手を挙げて、褒められたら母の鼻も高いだろうと思って。学年でもトップクラスの成績だったから、先生に「ラ・サール中学がある」と教えられたんです。そんなところがあるんだと知って、受験したら合格しました。
拡大するラ・サール中学に通っていた頃。あだ名は「尼さん」だった=本人提供
入学したての頃は丸刈りでした。みんなに「尼さん」なんて呼ばれて(笑)。同級生に、文部科学省の元官僚で映画評論家の寺脇研がいました。彼とは小説を書いて見せ合ったりしていました。
挫折も味わいました。各地のト…