第1回大連に残るか日本に渡るか 1944年、中西準子の母は決断した
《元祖リケジョ(理系女子)。水問題や環境リスクをめぐる提案は国の政策転換を促した。社会問題に対する発言も続けてきた》
「ご専門は」と問われ「環境工学」と答えると「最先端ですね。先見の明があったのですね」と言われます。大学の専攻を選ぶ18歳前後、1957年ごろに環境工学という専門分野はたぶん世界中どこにも存在していなかったと思います。好きでこの道を選んだのではなく、日本社会に流され踏みつけられながら、ようやく到達したのが私の環境工学です。
環境工学者・中西準子さんが半生を振り返る連載「環境リスク論への道」。全4回の初回です。(2023年5~6月に「語る 人生の贈りもの」として掲載した記事を再構成して配信しました)
理系で、主に工業化学を学びました。大学や大学院を出る時に就職先が見つからず、専門ではない土木工学でごみや下水の処理を扱う助手のポストを得ました。就職先は不人気ゆえやっと得られたもので、専門は何だっていいという気持ちでしがみついて仕事に励みました。時代の変化の中で環境問題を扱い、結果として環境工学の専門家になっていったのです。
でも、私は、社会と時代に流されて到達した環境工学が大好きです。この分野でなければ、私はこれほどは頑張れなかったと思います。天が与えてくれた学問です。
《現実に即したリスク評価と環境対策の費用対効果を軸とする環境リスク論を展開してきた》
2年前、私はある学者の集まりで「分野横断型研究の中西さん」と紹介されました。大変驚きましたが、大変うれしく思いました。
私は個々の技術の妥当性を考えるときに、常に経済性や人々の生活への影響を視野に入れてきました。理系の研究者として、言論を通した活動や社会運動にも関心を寄せてきました。
自然現象に「なぜ」、数にも興味
《中国・大連で生まれた》
父・功(こう)は満鉄(南満…