野の花あったか話 思い残し一つ 約束の漬物作り

野の花診療所院長
写真・図版
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徳永進・野の花診療所院長

 「やることはやった、思い残すことは何一つない」と言い切ったがんの86歳の女性。翌日の夕暮れの回診で「先生、私、一つだけやり残したことありました」と言う。えっ、何一つない、って言ってたのに。人は誰もいつでも言い切ったあと、後悔し、発言を変え進む。海原を行く小さな舟のようなもの。「何ですか?」と聞いた。

 「つけものです」。「えっ、つけもの?」「やたら漬けです。泣いてくれた独り暮らしの友だちから、あんたのがおいしい、今年も食べたいって言われとって」。女性は生き生きしてきた。「死ぬ覚悟に一生懸命で、漬物の約束忘れてしまってたんです。あれを作らにゃ死ぬに死ねん」と一転うれしそうな顔。「どうやって作るんですか、ヌカ漬け? べったら漬け?」「違います違います。やたら漬けはー」とレシピの解説が始まった。

 なすにきゅうりに大根、しその葉と実に生姜(しょうが)、まだある。ずいき(サトイモの葉柄)に菊芋、ししとう、それに柚子(ゆず)に昆布。それらを細く刻んで塩を振り樽(たる)に入れ重しを乗せる。夏野菜が中心で10日もすると食べられる。野菜の種類がやたら多いのが名の由来。漢方薬も顔負け。「材料をそろえるのが一苦労です。量も多いので息子に手伝ってもらわにゃ。明日、外出させてもらえますでしょか」。もちろんOK。やたら漬けの話を聞くだけで、こちらもやたらうれしくなる。患者さん、「思い残すこと何一つない」って言ったけど、そんなことないんだあ。

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