真常法彦
兵庫県西宮市学文殿(がくぶんでん)町の水路にかかる小さな橋には、終戦直前の空襲で受けた爆弾痕が残る。橋は道路拡幅のため撤去される計画だったが、地元住民の要望を受けて市が保存を決めた。
1945年8月5日深夜から6日未明にかけて、旧鳴尾村と旧西宮市に大規模な空襲があり、あわせて610人が亡くなった。
市などによると、橋はコンクリート製で1936年に供用開始。欄干に残る傷は、この空襲で投下された集束爆弾などによるものとみられるという。
2015年8月13日付朝日新聞阪神版の連載記事「戦跡をたずねて」では、この橋の上で母と妹を亡くした能楽師(笛方)の故・帆足正規さん(当時84)の話を軸に、西宮空襲について伝えた。
「翌朝、中学から100メートルほど東の橋の上で、7、8人が折り重なって死んでいた。中に、見慣れた紺と白の矢がすりの防空頭巾が見えた。母だった。すぐ下に妹が横たわっていた」
記事を読んだ、当時橋の近くに住んでいた元中学校教諭の原田孝一さん(74)はすぐに橋を見に行ったという。「毎日の散歩道にある橋なのに気にも留めていなかった」と振り返る。
以降、地元の中学校が校区内の「戦跡遺構」として地域学習の教材にしてきた。
ところが昨年3月、道路中央を…