「おおきくなったらしょうぎのめいじんになりたい」。6歳の誕生日、そう書いた幼稚園児は、14歳で棋士になった。それから7年、ついに「名人」を獲得した。これから、どのような歴史を作るのか。
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名人――。江戸時代、最高位の者に幕府が与えた称号は、今も棋士にとって特別な響きを持つ。その理由は、名人が「順位戦」という制度の頂点に位置するからだ。すべての棋士は一部のケースを除き、順位戦に参加し、主に前期の成績に応じて序列がつけられる。A級を最上位にB級1組、B級2組、C級1組、C級2組と5クラスあり、在籍人数もピラミッド型になっている。
各クラスとも1年間かけて互いに戦い、成績上位者が上のクラスに昇級し、下位者は下のクラスに降級する。A級の優勝者は名人挑戦権を得て、名人に七番勝負を挑む。
各クラスでの昇級チャンスは1年に1回。ノンストップで昇級したとしても名人になるには最低でも5年かかる。最短1年で挑戦できる他のタイトルに比べ、棋士の生涯をかけて目指すという重みがある。
順位戦はすべてリーグ戦形式。A級とB級1組は総当たりだが、その他のクラスは抽選で決まった相手10人とそれぞれ対戦する。成績上位者は上のクラスに昇級するが、人数の多いC級は競争率が高い。たとえば、56人いるC級2組の昇級枠は3人だけ。ここで、順位が重要になる。順位といっても途中経過の成績ではなく、新しい期が始まる時点で決められた順位だ。勝ち星が同じ者が多数いた場合、このエントリー順位によって、上位の者が優先される「頭ハネ」が発生する。「順位1枚が1勝分」と言われるゆえんだ。
ベテランから若手まで様々な棋士が所属する最下位のクラス。奨励会を抜けてプロになったばかりの新人はこのクラスの末席からスタートする。
第81期は56人が所属。1年かけて各自10戦(対戦相手は抽選)し、成績上位の3人がC級1組へ昇級する。順位が低いと9勝でも上がれない場合があり、昇級枠は狭き門となっている。また下位の9分の2(12人)に降級点がつき、降級点を3回取るとフリークラスに降級。引退が視野に入ってくる棋士も。
高勝率を誇る若手棋士たちがひしめき合う。B級2組への昇級枠は以前の2から3に増えたが、それでも今期は33人が参加し、昇級争いは激しい。第77期は藤井聡太七段(当時)が9勝1敗ながら昇級を逃した。C級2組からすぐに上がった棋士でも苦労することが多い。
第81期は26人が参加。A級やタイトル経験者が多く、今期は谷川浩司十七世名人や木村一基九段ら九段が9人と三分の一を占める。昇級枠は以前の2から3に増えたものの、降級点が下位6人につくようになり、残留争いも厳しい。
十数年前、このクラスに在籍した田中寅彦九段は「三途(さんず)の川。現地に戻るか、霊界に進むか」と表現した。下から上がってきた者にとっては通過して階段を駆け上がれるか、上から落ちた者にとってはここで踏ん張れるか。それぞれの立場と思いが交錯する。
鬼才が多く巣くっているという意味で「鬼のすみか」と呼ばれる。順位戦を長く観戦してきた故河口俊彦八段はこんな話をしたことがある。「昔はひと癖もふた癖もある強者(つわもの)がそろっていた。個性派はつぼにはまれば誰でも負かすが、ムラもある。そんな棋士がごろごろしていた」
第81期は、30期ぶりにこのクラスで戦う羽生善治九段を始め、タイトル経験者が7人在籍するなど、そうそうたる顔ぶれがそろった。総当たり制で、上位2人がA級に昇級する一方、下位3人がB級2組に降級する。昇級を狙う以前に、降級を避けるためにも、リーグ序盤から星一つも落とすことはできない。そんな覚悟が必要だ。
総当たりで成績トップの者に名人挑戦権が与えられる一方、“一流棋士”の座を守る残留争いも熾烈(しれつ)だ。タイトル保持者といえども厳しい戦いを強いられることが珍しくない。
最終戦は一斉に行われる。名人に挑戦するのは誰か、陥落するのは誰か。深夜に及ぶ対局のゆくえを多くのファンが見守ることから「将棋界の一番長い日」とも呼ばれている。
第81期A級棋士=斎藤慎太郎八段、糸谷哲郎八段、佐藤天彦九段、豊島将之九段、広瀬章人八段、永瀬拓矢王座、佐藤康光九段、菅井竜也八段、藤井聡太竜王、稲葉陽八段(順位順)
これまでプロデビューから最も早く名人になったのは、中原誠十六世名人と谷川浩司十七世名人。両者とも6期で名人挑戦権を獲得し、初挑戦で奪取した。
羽生善治九段はA級に上がるまでに7期を要した。C級2組と同1組でいずれも1期目に8勝2敗の成績を挙げながら、順位の差で涙をのんだ。前名人の渡辺明九段は名人獲得までに20期を要した。いかに順位戦で昇級することが難しいかが分かる。
競い合う強敵の層の厚さ、強さの度合いも大きな要素だ。森内俊之九段は8期で挑戦権をつかんだものの、当時七冠の羽生九段に敗れ、初の名人獲得まで14期かかった。加藤一二三九段も中原十六世名人と同様、A級までノンストップで上り詰め、計6期で故大山康晴十五世名人に挑んだが、敗れた。
藤井四段加藤一二三九段
2016年12月24日。将棋会館の最上位の対局室で、学生服姿の中学2年生と76歳の大ベテランが向かい合っていた。
プロ入りの史上最年少記録を作った藤井聡太四段が迎えたデビュー戦。相手は、元名人の加藤一二三九段だ。現役最年長で「将棋界のレジェンド」。藤井四段が更新するまでは最年少記録を保持していた。多くのカメラレンズが「62歳差対決」に向けられた。
加藤の戦法は、十八番の「矢倉」。受けて立った藤井は、加藤の強烈な攻めをうまくかわした後、反撃に転じ、プロ初戦を白星で飾った。
加藤は早口で「大局観が素晴らしいと思った。攻めが強く、寄せが速かった」とたたえた。一方の藤井は「もっともっと強くなりたい」。長い棋士人生の先を見据えるかのように、落ち着いた口調でそう語った。
藤井四段羽生善治竜王
加藤からの勝利後も、藤井は白星を積み重ねた。2017年4月4日。この日の勝利で11連勝を挙げ、デビュー戦からの将棋界の連勝記録を樹立。注目新人の活躍は各メディアで大きく報じられた。
そんな中、「藤井フィーバー」にさらに火がつく出来事が起きた。同じ月にインターネットで配信された、藤井と羽生善治三冠(当時)の特別対局だ。インターネットテレビ局「AbemaTV」が企画した夢の対決は、藤井の勝利に終わった。羽生は「新人とは思えないくらいの落ち着きを持っている。どんな棋士になるか、とても楽しみ」と語った。
将棋界のトップランナーからの金星は、連勝記録以上に大きく取り上げられた。テレビの情報番組で、藤井の人柄や対局結果が取り上げられた。昼食の出前メニューなど「勝負メシ」にも注目が集まった。クリアファイルやTシャツなどの「藤井グッズ」も日本将棋連盟から発売され、行列もできた。その存在は、将棋ファン以外にも広く知られるようになった。
藤井四段佐々木勇気六段
15、20、25……。
藤井の連勝はどんどん伸びていった。「敗戦まであと一歩」にまで追い込まれた対局を土壇場で制す運もあった。そしてついに、公式戦での連勝の新記録「29」を達成。藤井フィーバーは頂点に達した。
その熱狂にストップがかかる時が来た。立ちはだかったのは、22歳の佐々木勇気五段(当時)。7月2日の竜王戦決勝トーナメントという大一番で、積極的に主導権を取りにいく将棋で、藤井に快勝した。
藤井の印象を問われた佐々木は、「どの形でも指しこなせる強さがある」。そして、こう語った。「私たちの世代の意地を見せたいなと思っていたので、壁になれたのは良かった」。報道陣に取り囲まれながら、この一局にかける思いの強さをそう表現した。
実はこの対局より前、藤井が戦う対局室に佐々木の姿があった。報道陣が集まる異様な熱気を体感するなど、「下見」をして入念に準備していた。「対策はかなりしてきた。努力が実って良かった」
藤井四段杉本昌隆七段
連勝は止まったが、藤井はハイペースで勝ち続けている。9月には、「永世名人」の資格を持つ森内俊之九段に勝利。12月には、名人挑戦権を争うA級順位戦に所属する屋敷伸之九段らを破り、朝日杯将棋オープン戦の本戦に史上最年少で進出した。
その勢いは将棋界の今年度の記録(12月17日現在)にも表れている。全棋士のなかで、対局数、勝数、勝率(10月プロ入りの棋士を除く)、連勝の4部門で1位を誇る。
デビュー当初は、持ち前の切れ味鋭い終盤力で勝つイメージが強かった。だが、最近は将棋の幅が広がっている。師匠の杉本昌隆七段は「危なげない勝ち方ができるようになった。将棋が大人になってきた」。
14歳でプロ入りを果たした藤井聡太は、20歳でついに名人になった。「史上最年少」の栄誉を次々と手にしてもなお、少年の頃から抱き続けている志は変わらない。「強くなりたい」
「藤井物語」の第2章が始まる。
公開:2017年12月25日
最終更新:2023年6月1日