高橋源一郎(文・写真)
大阪・豊中にあった父の実家に、光が差しこまぬ薄暗い部屋があった。そこには大きな仏壇があり、軍服姿の昭和天皇の写真と、2枚の、軍人らしい青年の肖像写真がかかっていた。それが、わたしが生まれる前に亡くなった、ふたりの伯父さんの写真だと知ったのは、いつ頃だったろうか。
小学生の頃、岩手から、会ったことのない遠い親戚が訪ねて来て、父と話した。その人は、満州に住み、敗戦時の混乱の中で家族をすべて失(な)くした。日本軍(関東軍)は、侵入したソ連軍の追撃を免れるため、橋を落として逃げた。その結果、多くの民間の日本人が立ち往生し、殺されることになった。満州から逃れることができたのは、情報を知っていた軍人とその家族ばかりで、民間人はほとんどが取り残されたことは、歴史上の事実として知られている。もちろん、小学生のわたしは知らなかったが。覚えていたのは、その人が、「軍隊は最後には国民を裏切るものだ」といったこと。そして「長生きして、この国が滅びるところを見たいね」とも。
ずっと後になって、でもいまから30年ほど前、父に、そのときのことを訊(たず)ねた。自分の記憶が正しいか確かめたかったのだ。父は、おまえの記憶の通りだ、と答えた。
「宗彦伯父さんがしゃべったことばのことも、あの親戚の人に、父さんは話していたよね」とわたしは訊ねた。
少し黙ってから、父は、「そうだった」と答えた。
高橋源一郎さんの亡父が残していたノート。輝彦さんは29歳で、宗彦さんは27歳で亡くなる
今年の5月4日、弟夫婦と、大阪・谷町にある高橋家の菩提(ぼだい)寺を訪ねた。ふたりの伯父の亡くなった場所と日時を調べるためだったが、結局はわからなかった。翌日、弟からメールがあった。
上の伯父「輝彦」は「昭和21(1946)年3月」に旧ソ連「カザフ共和国」(現カザフスタン)の収容所で「戦病死」しており、下の伯父「宗彦」は「昭和20(1945)年5月4日」にフィリピン「ルソン島」の「バレテ峠」で「戦死」していることがわかった、とのことだった。弟はその記述を、改めて詳しく調べてみた父のノートから見つけ出した。
わたしは、伯父たちの記録を求めて戸籍を取り寄せ、さらに、彼らが祀(まつ)られている靖国神社を訪ねた。そこでわかった、ふたりの亡くなった場所と日時は、父のノートのそれとは異なっていた。
ルソン島
いつの間にか、伯父たちが亡くなった場所を訪ねたいと思うようになっていた。それは、祖母や父や伯母たちが繰り返し「弔いに行きたい」といっていたからかもしれない。長い間、わたしは無関心だったのだが。けれど、親族がほとんど亡くなった頃から、その思いがつのるようになった。とりわけ、わたしと誕生日が同じで、顔つきも性格も似ている、といわれていた下の伯父「宗彦」の亡くなったフィリピン・ルソン島に。
ルソン島に向かうことが決まってから、フィリピン戦について調べた。
伯父が戦死したとされる場所と日付は二つあった。靖国の記録や戸籍によれば「昭和20年1月27日 ルソン島・サンマヌエル」、父のノートでは「昭和20年5月4日 ルソン島・バレテ峠」である。
サンマヌエル
戦争末期、大本営は「千島―本土―比島の線において背水的決戦を行なう」「捷(しょう)号作戦」を発令した。このうち比島(フィリピン)は「捷一号」作戦の舞台となった。レイテ沖での敗北により海軍が壊滅したまま、大本営はルソン島での決戦の道を選んだ。昭和20年1月9日、ルソン島リンガエン湾に米軍が上陸する。「ルソン決戦」の始まりだ。だが、装備で決定的に劣っていた日本軍は後退をつづけた。その「全滅」の最初期の現場がサンマヌエルだった。
ルソン島の風景
先月末、わたしは、サンマヌエルの小さな川のほとりにいた。緑の畑と背の低い木々が視界に広がっていた。案内してくれた住民は「このあたりでシゲミ旅団が壊滅した」と教えてくれた。「わたしたちはずっとここで暮らしていた。戦争があって、わたしたちは逃げた。そして、戦争が終わって、また戻った。あのころを知っている人間はもういない」