私立岩手病院
本学の創立者・三田俊次郎先生は明治30(1897)年、盛岡市内丸に私立岩手病院を発足させた。同時に同病院敷地内に『医学講習所』と『産婆看護婦養成所』を併設。岩手病院長には、東京帝国大学から杉立義郎を招聘した。
明治34年には医学講習所の組織を改め、名称を『岩手医学校』とし、文部省より正式に認可を受けた。しかし明治45年には医育制度の改革により、同校は廃止の止むなきに至った。
医学校は廃止されたが、岩手病院は存続して隆盛を窮め、当時の集計を見ると連日患者で溢れていたことが分かる。この岩手病院を舞台に医学校が甦るが、これこそが昭和3年2月文部省より再度の認可を受けた岩手医学専門学校(現岩手医科大学)であった。
[岩手病院と新渡戸稲造]
新渡戸稲造は、昭和3年8月16日、下北半島の川内を訪ねた。川内は稲造の曾祖父・新渡戸維民が、盛岡藩から追放された土地である。翌17日、恐山を訪ね、旅館に宿泊したが、夜中に下痢症状を起こした。翌日も収まらなかったので、東北本線列車に乗って18日午後遅く、盛岡に着き、岩手病院に入院した。3 日後に退院。21日午後1時、盛岡駅発列車に乗り、翌日長野県軽井沢の別荘に着いた。掲載した写真は、この時の入院中のものである。盛岡から軽井沢まで は、東京女子医専学生・下斗米ミツさんが付き添った。
岩手医大の前身・岩手医専が開学したのは、昭和3年6月18日である。ちょうど2ヵ月後、岩手医専の前途を確かめるかのように、やがて附属病院となる岩手病院に新渡戸稲造が入院する。
年を経て、新渡戸稲造が留学した世界的医学部を持つ米国ジョンズ・ホプキンズ大学と岩手医大とが、友好大学として結ばれた。若手医師を中心に研究交流を重ねることになったのは、奇しき因縁というべきであろう。
(財)新渡戸基金発行 新渡戸稲造研究第5号より
[岩手病院と宮沢賢治]
宮沢賢治の初恋
岩手県花巻市出身の童話作家で詩人である宮沢賢治のことは、皆様もよくご存じのことと思います。その賢治の作品のなかに「岩手病院」という詩があります。
1914年(大正3年)年4月、18歳の賢治は、肥厚性鼻炎手術のために岩手病院、すなわち、現在の岩手医科大学附属病院に入院しました。詩は晩年、入院当時のことを回想して書かれたものですが、実はこの岩手病院には、賢治にとって忘れられない思い出がありました。
入院した賢治は、岩手病院の看護婦高橋ミネさんに恋をしてしまいました。賢治の初恋でした。このことは、賢治研究者の間でも知られていますが、恋の相手のミネさんの人となりについては、わずかな情報しかありません。
賢治が岩手病院と縁があったことから、父兄会報の編集委員では、入院中に生まれた賢治の初恋を追って、父兄会報で皆様にお知らせすることにしました。過 去の職員録の探索に始まって、盛岡在住の賢治研究者への問い合わせなど、様々な方向から賢治の初恋を探りました。ミネさんの写真でも見つかればいいのだ が…。そんな思いで調べましたが、結局新しいことは分かりませんでした。
賢治の初恋について、賢治研究家で「宮澤賢治愛の宇宙」の著書がある牧野立雄さんは「賢治が一方的に思っていただけでしょう。でも両親には、ミネさんと 結婚したいとまで言っている。賢治という人はなかなかの自信家ですから、自分一人で結婚するのだと決めていたんですよ」と話しています。同じく研究家の吉 見正信さんは「ミネさんは北海道にお嫁に行って、その息子さんが札幌に住んでいます。息子さんに尋ねたところ、賢治については何も聞いていないそうです。 恋心はあったのでしょうが、ただ詩のなかで謳っただけではないでしょうか」と分析しています。賢治の初恋やその相手について、もっと詳しく知りたいと思う 方も少なくないと思います。しかし、その反対に、せっかくの初恋だからそっとしておきたいという気持ちも抱かせます。
岩手医科大学父兄会報ー「啐啄」25より
※岩手病院は、2019(令和元年)年10月現在、岩手医科大学1号館となっております。
続・賢治の初恋
<岩手病院の看護婦高橋ミネさんの 写真が見つかった>
父兄会報前号で特集した賢治の初恋。その相手が岩手病院の看護婦をしていた高橋ミネさんという女性であったことは紹介した通りですが、その写真を発見するには至っていませんでした。しかし先の会報発行後、偶然にも文芸春秋社の雑誌「くりま」第3号(昭和56年1月1日発行)の宮沢賢治特集の中に、高橋ミネさんの写真が掲載されていることが分かりました。
さて、その写真には「儀府成一氏所蔵」というクレジットがつけられていました。そこで、儀府成一とはどの様な人かを調査したところ、1910年岩手県出身で賢治の友人、「宮沢賢治−その愛と性」(芸術生活社、昭和47年、岩手県立図書館蔵)という本を出版している人でした。著書の中で儀府氏は賢治の「岩手病院」という詩について、「この詩はいくつのときに創られたにせよ、賢治の初恋のかたみであることにかわりはあるまい」と書いています。また高橋ミネさんの写真は、地元紙「岩手日報」の記者が3年がかりで捜し当て、紙面に掲載したものを手に入れたと思われます。またその写真は岩手大学農学部の前身で、賢治が学んだ岩手高等農林学校創立70周年を記念して企画された「宮沢賢治とその周辺」という本にも収められたと記されていました。
写真の高橋ミネさんは、ふっくらとした顔立ちに生真面目な表情を見せているといった印象。おそらく入院中の賢治の目に、優しく、愛らしい女性として映り、気持ちが高まっていったのでしょう。結婚まで考えた18歳の賢治の一途さがしのばれます。
賢治の初恋の相手は一体どの様な人だったのか、写真が見つかったことで、ベールが一枚はがされた様なかたちになりました。それが良かったのか、感想はそれぞれ分かれるところではないでしょうか。
岩手医科大学父兄会報ー「啐啄」26より
[宮沢賢治の詩「岩手病院」]
大正3年3月、19歳の宮沢賢治は岩手病院で鼻の手術をした。手術後発疹チフスの疑いでさらに2ヶ月入院した。賢治は入院中ひとりの看護婦に片思の初恋をして、多くの恋歌を作った。
文語詩「岩手病院」は晩年の病床で作られた。
(岩手医科大学40年史126頁参照)