なるべく毎日日記を書こうとしている。会社に生活のリズムをとってもらう日々はもうじき終わる(すでに半分終わっている)ので、自分でとる必要がある。量的な時間管理のことだけではなくて、質的に、時間にひとまとまりの意味を付与すること。
でも今日は特段書きたいことがない。文フリで入手した同人誌『外出』第11号が手元にある。週3更新のPodcast「短歌・川柳耳学問」で、内山晶太さんの短歌が「非の打ち所がない」「100点どころか200点」ぐらいのベタ褒めを超えるほどの手放しの褒め方をされてたので(鉤括弧部分は引用ではなく私による意訳)、そういえば『外出』に載っているなと思い出して見開き左側の6首に目を通した。読んでみたらその評判に納得した。わたしは短歌については語る言葉を持たないんだけども、平易なのに誰にもできない言葉遣いをしている。そしてまぎれもない「うた」のことばになっていると感じる。この日記を書きながら残りの8首も読んだ。
ところで、短歌は自分にとっては優れた作品や自分に合う作品を選り好みして摂取すればいいかなー、そういう付き合い方になるだろうという予感が濃くなっている。そうしようとさりげなく方向付けをしている。小説や、音楽や、映画に対して多くの人がそのように接しているように(わたしは小説と映画にはほとんど触れないけれど、適切な例が他に思いつかなかった)。短歌というジャンルまるごとと付き合うつもりはないのだから、「短歌は〇〇だ」みたいな主語の語りは(したくなるけど)私はしないでおこうと思う。私が短歌の気に入らないところと思っているのは、単に社会的な多数派の気に入らないところである可能性が高い。
一方で、川柳は、まだ、川柳ならなんでも読むよという気持ちでいる。実が伴っているかはともかく、心構えとしては。