体調崩して一日寝てた。頭痛。もう〈定期的に起こるもの〉になっちゃってる。やだなあ。というか平日から皺寄せを重ねている自覚はあったんだけど、どうしても「人間がこの程度で体調を崩すわけがない」という信念というか希望的観測というかがうっすらと意識を覆っていて、適切な行動をとることができなかった。「人間」に対する認識が不正確であるか、自己像を平均的な人間に寄せすぎている。
タイピングは、軽快に打とうというよりも正確に(可能ならノーミスで)打とうという心構えで臨んだほうが快適に過ごせる。間違えることの心理的負担が大きい性格ゆえか、たくさんタイプミスすると自己効力感がすぐに地に落ちる。
頭痛が主な症状だけど、ほかにも息苦しさがある。いまもそうだ。手元のパルスオキシメーターで測定してみたら、 97 [SpO2] だった。こないだの健康診断で軽く相談してくればよかったな……。その場になると忘れてしまうのだ。あと、水分摂取量が減る。わたしの頭痛は軽い脱水の症状であることがあるため、水を飲んだほうがいいんだけど、なんとなく体が受け付けなくてコップの中が減っていかなかった。
平日、仕事で頑張ったりすると風邪みたいな症状が出て、体の節々が痛くなったりするんだけど、そのときは水は飲むけどトイレの頻度も増えて、それ以上のペースで排出されていくような感じがする。私の健康には、体内の水分量の管理が鍵を握っているのだろうか。
(ここまで約600文字/25分)
他人の書いた川柳を読むとき、「わからない」川柳ってけっこうたくさんあるんだけど、今日ある人の note を読んでいて、その理由の主要なところをつかめた気がする。ちなみにここで言う「わからない」とは、ざっくり次のいずれでもないものを指す。
- 文意は分からないが面白い。
- 文意は分かるが何が面白いかわからない。
- 文意が分かるか、もしくは面白ポイントがわかるが、面白いと思わない。
つまり、カテゴリで言うと「文意が分からないし、何が面白いのかもわからない」あたりに相当するってことか……。身も蓋もない。ただ、ここまで挙げた中ではもっとも「わからなさ」が深い種別だと言っていいだろう。面白がるとは一種の分かり方なので、面白がれている時点ですでに一定の仕方で対象のことを「わかって」いる。
わたしは日本語について保守的だという趣旨のことをたびたび言っているんだけど、結局それが読むときの障壁になっているらしい。すなわち、
- 文法的に壊れている文(ないしは文の断片——文節など)、あるいは一般的なコロケーションに従っていない語の運用がある場合、そもそも有意味な文(の断片)として私の意識に現れてこない。
また、
- テキストに書き込まれていない内容を読者が読み取ることに対して抑制的である。
という事情もありそうだ。後者は日本語というよりも、言語の運用に関する厳格さみたいなまとめ方になるだろう。
前者は例を出すなら、「ヘルメットをかぶる」はOKだけど「ヘルメットをもぐる」は意味が立ち上がらない、みたいな*1。後者のポイントは、「ヘルメットをかぶる」とだけ書かれているときに、これは主体(主人公)が大事にしているヘルメットなのだろうといきなり想定しない、みたいなこと。一方で、「仏壇の前でヘルメットをかぶる」だったらそうした想像にたどり着いてもよい(変な言い方だ)、と思う。
こうしたリミッターを外すとより多くの句が楽しめるようになりそうだけど、これらは言葉を扱う上で自分が培ってきたインフラでもあるので、簡単に手放すべきではないという意識もある。読むものに応じてモードを切り替えるみたいな器用なことができればいいんだけども。
(ここまで約900文字、45分)
*1:「ヘルメットにもぐる」だと許容寄りになるけど、「もぐる」主体の体が相応に小さいといった前提を導入することにはなり、読み手としての一定の負担はある