この数年価値観、感覚や意識の移り変わりが激しく目に見えるようです。
私の幼い頃もしかしたら今でも「アイドルになれるのは憧れ」という価値観がありそこに導かれるのは幸運でありアイドルにしてあげるのは「感謝されるべきこと」だったのではないでしょうか。
私自身は何故かはわからないのですが子供時代から「アイドル」という存在に大きな疑問があり映画や歌は大好きですが歌手や俳優をアイドル化してしまう風潮には乗れないでいたのですが本作品を観てその意識で間違ってはいなかったのだと今になって納得できました。
もちろん私と同じような人も多くいるはずなのですがアイドルが必要な人もまた多く存在するのもまた事実です。
といえば自らアイドルになりたいと思う人がいるではないか、という反論もあるでしょう。
つまりそれが成人してからならいいのですが未成年の時期にアイドルになってしまうとその人生が大きく狂ってしまう可能性は高くなる、年齢が低いほどそうなってしまうのです。
しかし特に日本という国は幼いアイドルを求める価値感があります。最近まで「アイドルは10代でなければ意味がない。20代はもう価値がない」という言葉がよく聞かれました。20代であっても10代に見えるような幼さが求められているのです。
本作の中で『ベニスに死す』に出演したビョルンに届いたファンレターのほとんどが日本からのものだったと語られます。
そして本作に出演した当時関係者だった日本人たちは声をそろえて「君は美しかった。素晴らしいアイドルの素質を持っていた」といわば「賛辞」を送ります。
特に音楽プロデューサー酒井氏の賛辞はぞっとするものでした。「眩しかった。でも影を持っている。大監督に認められたという運命。アイドルのきっかけ」
しかしその後のビョルンを見れば彼はアイドルの素質など微塵もなかったのです。
あったのは人が勝手に夢を抱いてしまう美しい顔と姿形でした。
「時代のせい」「そういう時代だった」
確かにそうだったのかもしれません。
そして「そういう時代」に疑問を投げかけたドキュメンタリー作品が作られるのは半世紀も経ってからなのでした。
とはいえこのドキュメンタリーがもう少し早く作られていたら日本での公開はなかったのかもしれません。
今現在、この日本でも10代のアイドルが少なくなってきたように思えます。
私の子供時代には考えられなかったことです。
あの頃は10代の少年少女が本当に商品のようにアイドル化され続けていました。それは素晴らしいことであり皆の憧れであり羨望すべきことだったのです。
しかもそれはごく最近まで当然のように続けられていました。
日本ではアイドルのためのアイドルという不気味な商品が長い間作られ続けてきました。しかも10代のごく早い時期に製品化してしまうのです。
日本人はこのドキュメンタリーを観てどう思い考えるのか。
しかしその答えはあまりはかばかしいものにはならないのでしょう。
ビョルンの幼少期を見るとさらに胸は痛みます。
アイドルに必要なものは「不幸で不安定な幼少期」です。
子どもは守ってもらえなければ生きていけない。
「アイドル」になってしまった子どもたち「アイドル」にさせられた子どもたちはそうした守ってくれる保護者がいない場合が圧倒的に多いのではないでしょうか。
『世界で一番美しい少年』とヴィスコンティ監督はビョルンを称しましたが本作の映像を観る分には監督のビョルンへのリスペクトはまったく感じられません。
監督にとってビョルンはまったく美しい容姿の物でしかなかったのでしょう。
そして多くのアイドルがそうでしかないはずです。
しかしそれを理解するにはビョルンはまだ幼すぎました。
その記憶が彼のその後の人生にどう影響したかは想像するしかありません。
ある意味ではそこまでひどくはないのは彼がかなりしっかりした人だったからではとも思えます。
同時にひどく悲しいとも感じます。
『ベニスに死す』はこれからも名作でありヴィスコンティ監督は優れた名監督として名を連ねることは確かでしょう。
しかし幼いアイドルがこのように無秩序に作られてしまうことはあってはならないし無くなってしまうのではないでしょうか。
私はそう願っています。