ふぉんとくーん、と、当時TVで流れていた「ニューススステーション」でお馴染みの、ふぉんとの「ぉ」にアクセントがある独特の北関東訛りで私が勤めている丸の内のメーカーに電話が架かってきたのは昼休み過ぎのことだと思う。どうして私の電話番号を知ったのか知らないが、相手は作家の立松和平氏だった。面識もなかったはずだ。
ファクシミリの番号を教えてくれないか… と、立松和平氏は言った。私は暗唱している自分の部署のファクシミリ番号を伝えた。私が勤めていた2000年前後というのは、文章を遣り取りするのにEメールだけでなくファクシミリも使われていた。今になって思うとファクシミリで許されたのは立松和平クラスの作家だったからなのかもしれない。
やがて送られてきたのが冒頭の写真の原稿で、私が勤めている会社の広報誌のタイトルが記されていた。はたして会社にファクシミリが1台しかないと思われたのか、なぜ、私の部署に送られてきたのか、しばらくは謎だった。考えてみれば私の勤務先の電話番号を知っているのも謎だった。
私は専門学校を卒業後、赤坂にある海運会社に勤めた。これが今でいうブラック企業で、新入社員は安く使える労働力と見做され、月の残業時間は200時間を超えた。それでも私は実家を勘当同様に追い出されており、自分の食い扶持は自分で何とかしなければならなかった。私は退職金が出るまでの1年間、歯を食いしばって、その海運会社に、しがみついた。
過労で持病の精神病が再発し、仕事も上手くは回っていなかった。精神病に加えて徹夜仕事が何日も続き、自分で何をしているのか判らない状態だった。本当に退職するまでの1年間は死ぬ思いだった。私は卒業した専門学校の経営する人材派遣会社に状況を報告し、早急に転職先を探してくれるように頼んだ。
そうしたら、退職して暫くしてから、丸の内の商社で専門学校の卒業生が退職して空きができたので、そこに転籍できるという。私は一も二もなく、それに飛びついた。私は大卒ではなく、いわゆる総合職ではない事務系の専門職だったから、仕事は、かなり楽だったはずだと思う。思うというのは、精神状態が悪くて当時のことを覚えていないのだ。
私は再び仕事が回らなくなり、精神科の医師からドクターストップが掛かった。そして、精神科医が、私とは絶対に口を聞かない親に交渉してくれ、障害基礎年金を受けて足りない分は両親が仕送りをするようにしてくれた。両親は、死ぬまで、その精神科医を地上最低の藪医者と言っていた。
さて、それでも流石に働かなければいけないだろう… と、私は、色々とアルバイトを探し始めた。正社員で勤めることは親が許さなかった。そして私は、当時、青山から初台に移ったばかりの大手コンピューター雑誌社の翻訳書部門に自由勤務で勤めることになった。今では他の会社に取られてしまったが、マイクロソフト・プレスの日本総代理店で、ちょうどOffice 97などが出る直前の時期、そのオフィシャルマニュアルの出版にテンヤワンヤになっていた。
私は、相変わらず何をしているのか判らない部分があったが、いくつかの本の翻訳・編集を任され、何冊かの本の奥付には名前が載っている。マイクロソフトの本なのに、まだWindows上で動くDTPソフトがなく、図版はWindows NTサーバーでMacに転送し、Mac上で編集をしていた。
しかし、出版というのは本が出るまでは地獄の日々である。どういう精神状態だったのか記憶がないが、自宅で大量服薬をして自殺未遂をして、1ヶ月、誰にも発見されないという事態に陥った。雑誌社は無断欠勤でクビになり、また、大学に通いながら、その大学の系列の出版社が出す雑誌に物を書いていたりしたのだが、「大学を出なくても立派にやっている人は沢山いる」という親の理論で大学も辞めさせられた。
当時は人が死ねる程度の薬は平気で処方されていた。自殺未遂の結果、私は全身麻酔の大手術となり、その傷は、今でも残っていて疼く。母親は、五体満足で生んでやったのにカタワになりやがってと言った。当時の外科の主治医曰く、私が服用した量は致死量の4倍であり、おそらく無意識のうちに水を飲んで輩出していたのだろうとのことだった。トイレからは異臭がした。
そんなことがあって、今度はきちんと精神が回復するまで待った。そして、再び丸の内にある、以前、勤めていた商社系列の光学機器メーカーに就職した。昼休みに商社時代の上司と頻繁に顔を合わせてバツが悪かったが、仕事は、それなりに熟せるようになった。立松和平氏からファクシミリが来たのは、そんなときのことだった。
それでも私の精神病は生い立ちに由来するものだから、2年ほど勤めて精神病を再発した。最初の1回は会社は休職を認めてくれたのだが、毎日、会社中から嫌われている先輩から、明日は出て来いと電話があって、今、正常な頭で考えると、立派なパワハラである。それでも何とか復職したものの、また2年後に再発した。
私は無理をして勤めていたが、倉庫に配置転換になった人望の厚い昔の上司が私の部署に遊びに来たとき、ポンッと私の肩を叩いて、無理すんなよ、と言ったら気が抜けてしまった。私は無理をしているんだ… と思い、ちょうど会社には次は迷惑を掛けないでくれと言われたので会社を辞めた。
それ以来、独学で文学を学んでは判らないところがあると筆者や学者に訊くというようなことをしていた。ある作家に、ポロッと立松和平氏からファクシミリが来たことを話したのは、そんなことをしていた時期だった。あれ? と、その作家は不思議そうな声を上げた。ふぉんと君が勤めていたのって、広報部ではないの? と言われた。
私は専門学校を出てから、海外貿易一筋だった。よって、商社にいたときは貿易部、メーカーでは国際部というところにいた。そう話すと、その作家は、だって、雑誌に物を発表していたり本に名前が載っていたりしたら、会社でも、そういうことをしていると思うぜ、と、まるで立松氏の肩を持つように言った。
まぁ、最初から物を書いて口に糊するのが妥当だったのかな… そんなことを思いながら、今も、こうしてPCや、出先で原稿用紙に向かっている。
Special Thanks (for Overview Checking & Editing) to ほし氏さん (id:star-watch0705)
今回の寄稿者:ふぉんと (𝒇𝒐𝒏𝒕)
精神病闘病ブロガー
ブログ・「遺書。」
私小説・「私の話 2019」